深堀の散策 (4) 長崎市深堀町1〜6丁目
長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。
写真 1〜 2 (28)俵石山城石碑(菩提寺石門の中右側)
第二十一代主鍋島志摩守茂春の命に依り、六世賢外普門大和尚の撰文に依り、建長7年3月此の地をもらって来る時の扈従の人名等を記している。
写真 3〜 9 (29)菩 提 寺(5丁目417)
金谷山菩提寺は三浦大介義明八代の後胤三浦五郎左衛門尉平能仲公の創設で、寛喜元年(1229年)であると伝えられている。始め真言宗であったが天台宗に改宗再び真言宗に復し、天正年中に禅宗となる。其の頃兵乱蜂起し寺も無住荒廃し、遂に兵火に遇い伽藍悉く焼失、寛永年間(1624−1643年)寺の宝蔵焼け、三浦先祖以来の系図、及家中の記録悉く焼却すとの記録が残っている。従って前300年の本寺の状況は不明に近い。
開山の朝山芳暾禅師は享禄4年(1531年)当寺を開山し、現在住職は第33世で、寺格は高く皓台寺に次ぎ、九州でも有名な寺である。本尊は茲覚大師作と伝えられる薬師如来像で、木額に隠元木庵禅師即非の書等がある。寺内に十人義士、藩主、峰如松、樋口千万太、深浦安一郎等の墓がある。
写真 10〜 12 (30)十人義士の墓(5丁目417)
此の墓は21基あり之を十人義士と言う。昭和17年10月松藤隆乗大和尚時代に創設開眼された。
事の発端は元禄13年12月19日(1700年)、喜多佐左衛門の結婚式の買物に出掛けた深堀三右衛門、柴原武右衛門の両名と、当時唐、紅毛と会通し莫大な利益を得、長崎奉行にとり入り遂に幕府に追従して長崎奉行の町年寄の筆頭にまでのし上った高木彦右衛門との争いである。
近因は天満坂で、諏訪明神に誕生日の神詣に行った彦右衛門主従一行と前記2名の武士のはね土が彦右衛門仲間惣内の合羽にかかった事が発端であるが、遠因は外国貿易により巨大な利を蔵し幕府の御用も承わり長崎の町年寄の凡長と言ふ権勢と、深堀が貿易船の通行税的取立等による対立があったものと思料せられる。
斯うした遠因、近因により事は意外に発展、深堀勢2名は高木、鉄橋上で切腹、10名は翌14年3月21日幕命に依り五島町深堀屋敷に於いて切腹、9名は五島への遠島の処分を受けた。一方高木方は高木彦右衛門は打果され、剣客井上猶之進、関弥五兵衛、加藤半三郎、西太兵衛、仲間多数も打ち果された。伜彦八は逃亡打果し洩らしたが、高木彦右衛門闕所、彦八大小召上げ長崎七里四方追放、江戸大阪立入禁止、同人召使8人生害を仰せつけられて其の決着を見た事件である。
此の事件は赤穂義士の事件の丁度1年前で、大石良雄は家来を遣わし討入の様子を探らせ、大石の討入りの手本になったと伝えられている。尚五島へ遠島になった9人の中7人は五島公から現地妻を娶され、子をもうけ、宝永6年(1708年)許されるまで実に9年の歳月であった。
詳しくは次の「長崎喧嘩騒動」を参照。 https://misakimichi.com/archives/391
写真 13〜 16 (31)藩 主 の 墓
柳川の陣の七左衛門茂賢、長崎騒動の官左衛門茂久の墓等歴代藩主の墓が移り行く時の流れに尚昔の光りを留めている。
尚、此の附近には鎌倉時代以降の古い五輪の塔が随所に見られる。
写真 17〜 18 (32)三 官 の 墓(5丁目465)
林五官の兄林権三郎の墓で戒名は慧林芳賀。天和五年己未孟冬となっている。林五官が建てた。三官、五官は支那の官職名ではなく日本で言う三郎、五郎の類と思われる。
(菩提寺墓地の左方、赤屋根の今田宅裏手まで路地を行くと、左草むらの中にある小さな墓)