深堀の散策 (3)  長崎市深堀町1〜6丁目

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深堀の散策 (3)  長崎市深堀町1〜6丁目

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  4   深堀武家屋敷跡

写真  5〜  8  (24)御 屋 敷(5丁目272,292)
正式には深堀陣屋、通称は御屋敷。深堀藩主の居城である。今幼稚園の処が囲馬場の有った処。現在書院の一部が残っているが大部が修築されているが其の俤を偲ぶに足るものがある。書院より一段高い所に御座(おざ)があった。これは明治40年頃迄建っていたが自然損耗して当時の礎石のみが残っている。御座は二階建てで庭には川原の黒石が敷きつめられていた。

写真  9〜 11   長崎市指定天然記念物 深堀陣屋跡のアコウ

写真 12〜 13  (25)御 蔵 内
旧藩時代の船つき場で、此処では主として上納米の収支其の他御蔵に関係ある船が、此の築港に入ったもので、浜船は御船手につながれていた。

写真 14〜 16  (26)馬場崎、経塚(5丁目139)
昔は此の附近を馬場崎と呼び、言い伝えによれば此の附近に船を繫いでいたとの事で、小学校の校庭を掘るときれいな砂が出て来る処から、此の言い伝えも強ち根拠のないものではない。
お屋敷からお東附近までは洲であったらしく、現在の様になったのは、お西が明治の中期、中屋敷は昭和25,6年頃改修された。
此の経塚は当地方に5ヶ所に建てられている。経塚とは径2,3糎位の平たい赤色の石に、一石に一字を漆で写経したものを葬ってある処である。亀王塚にも経塚があるが、大正の中期時に埋立工事の際、前記の石が相当出たので、各戸はこの石をもち帰って神棚に祀ったところが、当時コレラが流行し数人が犠牲となる事件があったので、これは石の祟りであるとの風評が立ち、又元へ納めた様な事もあった。

写真 17〜 19  (27)五 官 の 墓(5丁目401)
呉公五官は南支の節川県の出身で商人である。今から約350年位前(1600年)、当時三代一翁芳純大和尚は高徳の師で、崎陽渡来の商人の帰依するものが多く、林呉公五官も其の一人であった。当時此の附近は唐人町と言っていた処を見ても、相当数の唐人が帰依していたものと想像される。五官は熹宗皇帝自ら織ったと言ふ十六羅漢縫出した九条の袈裟を寄進し、菩提寺の寺宝となっている。
「菩提寺の危急の際は吾が墓を発け」との言い伝えがある。近く県の文化財の指定に申請する様な意向もある。尚五官の兄三官の墓も現存している。