長崎の風景・史跡 (市東南)」カテゴリーアーカイブ

東長崎の散策 (11) 船石の風景・史跡  長崎市船石町

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東長崎の散策 (11) 船石の風景・史跡  長崎市船石町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(11)は、船石の風景・史跡。

長崎街道からの船石入口と船石岳、船石入口の石垣バス停、船石町案内図、途中の石桁橋、千束野の石橋「下大野橋」、木場橋に残る旧親柱、木場公民館の大権現の碑、田嶋邸と並松翠鯉の苑、移設されている木場橋の欄干、田嶋邸先に残る石橋「千歳橋」、県営バス古賀木場終点、二双舟本田邸のタブの木

HP「長崎県の石橋を訪ねて」によると、船石町及び近辺で昭和57年長崎大水害により流失したアーチ式石橋は次のとおり。木場橋・すすき橋・山下橋・二双橋・千束野橋・角橋・鎧橋

東長崎の散策 (10) 中里の風景・史跡  長崎市中里町

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東長崎の散策 (10) 中里の風景・史跡  長崎市中里町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(10)は、中里の風景・史跡。古賀人形の屏風絵は、東長崎連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊の巻頭写真から。
旧本田家住宅(国指定重要文化財)は、中野公民館から右手の道へ入る。

大村庄屋跡、長崎街道地蔵橋の地蔵、古賀の藤棚、古賀人形(長崎県伝統工芸品)、栗原玉葉筆・古賀街道図屏風(左隻)、旧本田家住宅(国指定重要文化財)、フルーツの株式会社たらみ本社、長崎自動車道長崎多良見インター、古賀・諫早境井樋尾の御境石、多良見ライオンズクラブの長崎街道の碑

長崎学さるく織田先生作成資料による説明は次のとおり。

写真  1〜    大村庄屋跡
安政5年(1858)大村の戸町と幕府領の古賀(上古賀)を交換した。上古賀と下古賀の境石標。①従是南大村領 ②従是東北大村領

東長崎の散策 (9) 古賀の風景・史跡  長崎市古賀町

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東長崎の散策 (9) 古賀の風景・史跡  長崎市古賀町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(9)は、古賀の風景・史跡。

矢上・古賀境の大楠跡付近、水害・キリシタン殉教者の供養塔、八郎川沿い長崎街道に移設されているキリシタン墓石、明治道の旧家と石桁橋、長崎街道古賀説明板(福端寺下)、福端寺と庭のキリシタン墓石、医療法人和仁会・和仁会病院、古賀八幡神社、長崎市古賀地区事務所・長崎市古賀地区市民センター、長崎県立西陵高校東長崎分校跡の碑、長崎県立諫早農業高校東長崎分校跡の碑、学校法人金丸学園・天童幼稚園、正念公民館近くの石橋「善八橋」、長崎バイパス上の津屋岳、三角点(標高302.7m)、山城跡の遺跡?

長崎学さるく織田先生作成資料による説明は次のとおり。

写真  3〜    水害・キリシタン殉教者の供養塔
日本切支丹宗門史より寛永7年(1792)8月3日、古賀で元同地方の出であるが、死刑のため江戸から送り返された日本人の一武家が、首を鋸でひかれた。

写真  なし    寺の下川橋、慶正庵橋
寛政4年(1792)架設、後流失。

写真  8〜    福 端 寺
江戸時代キリシタン撲滅のため、時の島原藩主の命により建立された。

東長崎の散策 (8) 松原の風景・史跡  長崎市松原町

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東長崎の散策 (8) 松原の風景・史跡  長崎市松原町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(8)は、松原の風景・史跡。

長崎市植木センター、土塀の庭園、親和銀行保養所「迎仙閣」正門、庭の「松原乃たきみち」標石、玄関、屋敷、庭園の高浜虚子文学碑、子安観音、大正6年1月架「松隺橋」の残柱、赤瀬邸のラカンマキ、茂樹園の十三重の塔とクロマツ、JR肥前古賀駅、恵比須神社、南荘園のマキ、松花園のヒイラギ、長崎市立古賀小学校

長崎学さるく織田先生作成資料による説明は次のとおり。なお、「迎仙閣」の吉井勇の文学碑は、昭和29年建立。「うつし世に やはらぎあれと 今日もまた 行仙嶽を 見つゝ祈りぬ」

写真  3〜    迎 仙 閣
昭和29年歌人吉井勇が本邸を訪れ、「迎仙閣」と名づけた。昭和21年、井上米一郎氏が、先代より継いだ紙業隆盛の頃、この地を選び、静寂の住家として建築した。庭園は、庭師西田治氏。井上氏没の後、親和銀行が譲り受けた。

写真  7〜    高浜虚子の文学碑
昭和30年建立。「芒塚 程遠からじ 守るべし」
※高浜虚子 本名 清(明治7年〜昭和33年)歌人・小説家。文化勲章受賞。

写真  9     子安観音
民間の安産や育児を祈願する子安から造られた。江戸時代初期、古賀地方にはキリスト教信仰だったが、その後禁制となり、仏教徒となったが、自分の信仰を捨て切れず、キリスト教を守ろうとした。それが子安観音ー聖母マリア様ーであったという。
又自然石に、鉄の十字架を彫り、聖母マリアとして信仰したという。最初は、サントピア学園の辺りにあったが、その後水害で下流に流されたという。松原町松確橋のたもとにある。

写真 12〜    赤瀬邸の羅漢槇(らかんまき)
元禄2年(1689)中国の浙江省から移植された樹齢600年といわれ、日本でも一番古いといわれる槇の木で、高さ9.6m・枝巾12m・幹周り3.8mである。

東長崎の散策 (7) 平間の風景・史跡  長崎市平間町

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東長崎の散策 (7) 平間の風景・史跡  長崎市平間町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(7)は、平間の風景・史跡。滝の観音と同奥の院。

滝の観音(長崎県指定名勝)の説明板、イチイガシの伏樹門、紅葉時の山門の景色、山門の仁王像、観音堂と秘仏の魚藍観音像、長崎大水害で壊された梵鐘、再建された羅漢橋と普済橋、観音の滝、磨崖の羅漢像、上部林道沿いにある原爆犠牲者を弔う石碑、同墓から入る滝の観音奥の院「玄津院」、玄津院の石造物、滝の観音歴代住職の墓、カイヅカとバショウの大木

長崎学さるく織田先生作成資料による「滝の観音」などの説明は次のとおり。

写真  1〜    滝の観音〜長瀧山霊源院 黄檗宗
弘法大師が、唐の留学を終えて帰朝のついでに、この地に寄り、滝水をご覧になり、水観音の梵字を滝の中に記した。万治2年(1659)黄檗木庵の法子鐵巌道廊、この地にきて、次年禅堂を建てる。この年、中国の商人、許登授は、滝の観音に参拝する。寛文7年(1667)許登授、本堂を寄進。

写真  9〜    石 橋
羅漢橋と普済橋は、元禄13年か又は以前の架設。「三庚辰年八月吉日 茂弥市郎同清六」かのえ〜たつ(コウシン)。普済橋は、県道改修の折り昭和11年の復元。
昭和57年の長崎大水害で流失したので、羅漢橋は、昭和61年、普済橋は62年に復元。設計及び監督指導は、石橋研究者の山口祐造氏。

写真 14〜    梵住山玄津院(滝の観音の奥の院)
石造物  右側 龍女 聖観音菩薩座像の脇侍 龍宮にいる龍王のむすめ、おとひめ
龍王 仏法を守護する 雨を祈る本尊龍神 水の神 海の神
中央 聖観音菩薩座像
左側 善財童子 仏道を修行するもの 文殊菩薩の従者
・平川与四右衛門  砥川村、現在は佐賀県小城郡牛津町砥川。木彫の持ち味を石彫で再現した彫技は見事である。
・石造物は、長崎の岡六郎兵衛が、3名の菩提を弔うために、元禄13年(1700)建立。

東長崎の散策 (6) 平間の風景・史跡  長崎市平間町

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東長崎の散策 (6) 平間の風景・史跡  長崎市平間町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(6)は、平間の風景・史跡。滝の観音と同奥の院は次へ。

国道34号線矢上側の滝の観音入口「瀧山観音道」標石(右側)、石窯パン・ピザの明夢工房、観音水の水場、長崎バイパス上から間の瀬を望む、新田頭の薬師院跡遺跡、同跡のケンポナシ、間の瀬中山の虚空蔵山、同地から矢上方面を望む、前岳トンネル上虚空蔵山の入口鳥居、大山尾根の藩境塚、標高424.2m地点(畦別当町)の大村郷村記に記す三方境塚

東長崎の散策 (5) 高城台と現川の風景・史跡  長崎市高城台・現川町

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東長崎の散策 (5) 高城台と現川の風景・史跡  長崎市高城台・現川町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(5)は、高城台と現川の風景・史跡。

高城台団地から矢上方面を望む、高城神社、長崎市立高城台小学校(2008年4月開校)、JR現川駅、駅横の現川物産館、長崎大水害で流失した樫ノ木渡瀬橋、長崎市立高城台小学校現川分校と名桜二世、加勢首にあった剣道場「錬武館」跡と樋口家墓・顕彰碑、現川峠中腹の弁天様と連理樹だった大スギ、山の神神社のアラカシ、現川焼陶窯跡(長崎県指定史跡)、創始者窯観音と田中家墓地の喜山宗悦居士墓、現川バス停から現川虚空蔵山を望む、現川虚空蔵山の山頂祠、帆場岳(三ツ山)山頂近くの陸軍省「長崎要塞区域標」「第三十六号」

長崎学さるく織田先生作成資料による「現川焼」の説明は次のとおり。

写真  14〜       現川焼〜陶器
・元禄4年(1691)田中刑部左衛門が、有田より移り住み焼きはじめた。延享(1744〜47)の頃より、山方不景気になり、寛延2年(1749)頃にはすでになくなっていた。
・現川の特徴は、チョコレート色の膚に、筆さばきもあざやかな白化粧土による刷毛目の文様は、変化に富んだうつわの形と、描かれたしゃれた絵模様と一体となり、優雅な雰囲気を持っている。
・県指定史跡 現川焼陶窯跡  陶窯跡〜観音窯跡〜窯尻
窯観音〜元禄17年(1704)歳次甲申3月吉日。台座に本願主 田中宗悦内、同甚内内、重富茂兵衛内、施主ほか、当村観音講中拝立
・田中墓地  寶永八年(1711)辛卯正月二十日 同會喜山宗悦居士。享保八(1723)葵卯大三月ニ十八日 同會昌福壽大姉
・鬼木上(尾似木)窯跡  昭和57年長崎大水害の折、窯跡が見られた。 

東長崎の散策 (4) 矢上の風景・史跡  長崎市矢上町

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東長崎の散策 (4) 矢上の風景・史跡  長崎市矢上町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(4)は、矢上の風景・史跡。長崎街道に沿って、矢上神社の続きから。

矢上神社の本殿と天井絵、池の地蔵、神社横の観音堂の馬頭観音などと「札馬持中」の銘、教宗寺と本堂、大イチョウ2本と八房の梅、日見腹切坂の慰霊碑を教宗寺が保管していた頃の説明板、矢上村字宿に建っていた明治33年9月建県道標石「←喜々津 諌早 長崎→」「←有喜 愛野」、馬場の街道沿い旧家と現在の長龍寺橋へ続く道、長崎市立東長崎中学校、長崎市東長崎支所・東公民館合同庁舎、昭和57.7.23長崎大水害最高水位を示す支所前銘板と横断歩道橋の青線、馬場の八郎川沿いにある同大水害碑、矢上浄水場の取水堰、正覚寺のモミの木 

長崎さるくコースマップ「矢上界隈」62〜63頁による説明は次のとおり。

写真  1〜     五 矢上神社
弘化4年(1281)9月「平原」という所で夜毎に不思議な光があった。土地の人が見に行ったところ、それはなんと宝剣であった。この剣は「天国の剣」で神様が外敵を追い払う時にこの剣を箭として使ったに違いないと考え、「箭の神」と称して祀った。「箭神」の「箭」を「矢」、「神」を「上」としたのが地名の由来。
江戸時代には、大王社・大王権現と称し、明治5年(1872)正式に矢上神社となる。神社の天井絵は、幕末からの書画が見られる。神社横の観音堂には、馬頭観音や石燈籠には「札馬持中」の銘が見られる。例祭は10月17日で、矢上くんちと呼ばれ、シャギリや間の瀬狂言、中尾の獅子舞等が奉納される。

写真  6〜     六 教宗寺
文政9年(1826)2月15日、オランダ商館長の江戸参府のおり、シーボルトもこの寺で昼食をとっている。また、佐賀藩が長崎警備の時、家臣団の宿泊所でもあった。

東長崎の散策 (3) 矢上の風景・史跡  長崎市矢上町

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東長崎の散策 (3) 矢上の風景・史跡  長崎市矢上町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(3)は、矢上の風景・史跡。長崎街道に沿って番所橋から進む。矢上神社は次に続く。番所橋の古写真(大正初期)は、東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊の巻頭写真から。

現在の番所橋とアーチ式石橋だった古写真(大正初期)、矢上番所跡、諫早領屋敷跡と正門の石桁橋、矢上宿の本陣と脇本陣の説明板、長崎市立矢上小学校、国道沿いの長崎自動車学校、同校内の古い石垣とクロガネモチの大木、矢上八幡神社の大クス(長崎市指定天然記念物)、矢上神社、同境内の珍しいケンポナシの木、新日見トンネルの貫通石による安産跨ぎ石、滝の観音の石橋模型

長崎さるくコースマップ「矢上界隈」62〜63頁による説明は次のとおり。

写真  1〜     壹 番所橋(矢上番所脇の橋)
番所橋は天保9年(1838)に架設されたが、慶応3年(1867)に洪水にて流失し、この石材を用いて明治初期再架設。大正12年(1923)鉄筋コンクリートで架設。現在の橋は、昭和61年(1986)10月の架設で由緒ある如く、擬宝珠の親柱となっている。
〔矢上番所〕
旧矢上村は、佐賀鍋島領の家老諌早氏の知行地で長崎代官支配地と境界を接していた。矢上番所は、長崎街道の要所で、平屋葺きの建物と門があり、長刀、弓矢、槍、鉄砲等を置くなど、役人が往来者の取り締まりや警備にあたった。長崎に向かう武士、留学生等の旅人は通行手形を示し、質問に答えた。山手側に番所、海手側に高札場があった。

写真  6〜     弐 諫早領役屋敷跡
役屋敷は長崎開港に伴い、佐賀藩主、諫早領主、肥後藩主との報告、連絡、紛争、願書の処理等が多かったため、往時には3名が執務した。周辺の民事・刑事等の案件その他を専決処理した。裏には武道場や稽古場等があったという。明治になり、民間に払い下げ、一部は改修されているが、面影は残している。特に石垣は「亀の子くずし」という積み方で、諫早石工の技術が見られる。

写真  9〜     参 本陣跡
国道を隔てた長崎自動車学校の所にあった。佐賀藩内では御茶屋とか上使屋という。長崎警備のため往来する大名や幕府関係者の宿泊や休憩所である。広大な敷地に豪壮な建物があって、便所も床付き漆塗りが施されていた。明治4年(1871)民間に払下げ、解体された。矢上小学校付近には、脇本陣があり、人馬継ぎ所等の宿の施設があった。

写真 13〜     四 矢上八幡神社の大楠
江戸時代は、八幡様と滝の観音の末寺(放生山)であった。鳥居の柱には、肥前の石工・武富戸左衛門の銘がある。笠木の残欠は肥前鳥居である。大楠には、鎮西八郎為朝伝説がある。このクスノキは、八幡神社の境内、石段の上にある2本。南側は胸高幹囲5.3m、北側は同10.15mと県下有数の巨木である。(市指定天然記念物)

写真 17〜     五 矢上神社
弘化4年(1281)9月「平原」という所で夜毎に不思議な光があった。土地の人が見に行ったところ、それはなんと宝剣であった。この剣は「天国の剣」で神様が外敵を追い払う時にこの剣を箭として使ったに違いないと考え、「箭の神」と称して祀った。「箭神」の「箭」を「矢」、「神」を「上」としたのが地名の由来。
江戸時代には、大王社・大王権現と称し、明治5年(1872)正式に矢上神社となる。神社の天井絵は、幕末からの書画が見られる。神社横の観音堂には、馬頭観音や石燈籠には「札馬持中」の銘が見られる。例祭は10月17日で、矢上くんちと呼ばれ、シャギリや間の瀬狂言、中尾の獅子舞等が奉納される。

東長崎の散策 (2) 田中の風景・史跡  長崎市田中町

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東長崎の散策 (2) 田中の風景・史跡  長崎市田中町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(2)は、田中町の風景・史跡。中尾ダム上の集落と山間部。

中尾集落の高台から中尾ダムを望む、中尾集落と上は木場峠へ上がる市道、宿町との九電鉄塔尾根にある陸軍省「長崎要塞区域標」「第三十二号」、田の川内奥の谷の妙蓮の滝、木場峠近くにできた長崎カトリック中央霊園、木場峠、グランド上から矢上方面と中尾峠方面を望む、グランド先にある普賢菩薩の祠、中尾峠と虚空蔵菩薩の祠、中尾峠にある徳永又吉の胸像(峠越えの野菜売り行商から新大工町に八百屋を開いた。昭和28年建)、中尾峠下りから本河内方面を望む