長崎の風景・史跡 (市東南)」カテゴリーアーカイブ

東長崎の散策 (1) 田中の風景・史跡  長崎市田中町

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東長崎の散策 (1) 田中の風景・史跡  長崎市田中町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(1)は、まず田中町の風景・史跡。中尾ダム上の山間部は次へ続く。東望の浜の古写真(大正初期)は、川徳旅館駐車場の現地説明板と東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊の巻頭写真から。

マルキョウ先国道右手白山権現祠にあるクロガネモチの大木、東望山砲台跡(長崎市指定史跡)、東望の浜海水浴場跡の桟敷(川徳旅館)と古写真、埋立地にできた長崎花市場と長崎市中央卸売市場、長崎街道沿い浜の大王神社、宿町との高台にある長崎卸センター、中尾ダムと中尾大橋、ダムに沈むため解体されたアーチ式石橋「鮎帰橋」の残柱と新しい橋、中尾大橋近くにあった旧川道の明治34年8月建「西山・矢上」道標(集落で保管)、橋近くの高台から中尾ダムを望む

長崎さるくコースマップ「矢上界隈」62〜63頁による説明は次のとおり。

写真  2〜     3 砲台跡(市指定史跡)
文化元年(1804)のロシア船来航、文化5年(1808)のフェートン号事件により、幕府は沿岸警備の強化を諸藩に命じた。諫早家は、文久3年(1863)領内の東部、東望・牧島・蛎道の3箇所に砲台を置き、慶応2年(1866)完成。東望山砲台跡の直径3.6mの円形台座は珍しい。明治2年(1869)に廃止となり、同8年に取り除かれた。

写真  4〜     2 東望の浜跡
遠浅の砂浜は、大正の初期頃から長崎近郊の海水浴場として賑わった。時代と共に海水の汚染や砂の流失のため、昭和40年(1965)に廃止された。その後、埋立て造成され、長崎市中央卸売市場等に利用されている。

写真  8〜     1 中央卸売市場
長崎市中央卸売市場は、昭和50年(1975)に、長崎市尾上町での取扱量の増加等に伴い、東望の浜埋立の地に移転し、業務を開始した。

日見の散策 (10) 潮見の風景・史跡  長崎市潮見町

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日見の散策 (10) 潮見の風景・史跡  長崎市潮見町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(10)は、潮見の風景・史跡。大山神社は県道下の潮見川沿いに大クスノキが見える。

網場金比羅岳から潮見集落を眼下に見る、潮見川改修記念碑、県営バス潮見町終点、大山神社、クスノキとスギの連理樹?、潮見海岸の岩場、社会福祉法人橘会知的障害者更生施設潮見が丘学園の遠景、潮見橋脇の主要地方道野母崎宿線太田尾〜潮見開通記念碑(1991年10月28日建立)

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年3月刊の91頁による説明は次のとおり。

写真  4〜     91 大山神社
大山祇命。天保2年(1831)5月建立。社殿の奥にいらっしゃる。
大山神社。昭和2年(1927)11月9日建立。記録は残っていない。

日見の散策 (9) 春日の風景・史跡  長崎市春日町

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日見の散策 (9) 春日の風景・史跡  長崎市春日町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(9)は、春日の風景・史跡。大戦時の網場砲台跡と立岩(ルイ14世岩)は、老人ホーム橘の家下の尾根と海岸にあるが、難路で危険。
網場砲台跡は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/7

網場から春日への県道、あば湾海づり公園だった沖に浮かぶ消波堤、社会福祉法人日春会特別養護老人ホーム橘の家、大戦時の網場砲台跡と天井鉄環・外の換気穴、立岩海岸から矢上団地を望む、立岩(ルイ14世岩)と立岩水神祠、若松家墓地、春日の地蔵堂、春日の集落、大石の入口、竹林内の大石と白竹神社祠

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年3月刊の77〜85頁による説明は次のとおり。

写真  7〜     81 立岩水神様
立岩・ルイ14世岩。岩を側から見ると祠(水神様)が見える。日見地区のペーロン大会で優勝したチームはお礼と海上祈願にお参りする。

写真 10〜     66−1 地蔵堂
昔は、潮見町に春日町の者も行って一緒に地蔵祭りをしていたが、何か事情があっのか、春日町で分かれて祭りをすることになり、…昭和11年(1936)に寄付を募って地蔵堂を現在地に建立した。…地蔵堂内には地蔵菩薩、子安観音、弘法大師様を合祀している。…平成14年(2002)…堂の大規模修理を行った。

写真 13〜     63 大石さん(白竹神社)
県道大石バス停から西側山手20m程。此処にある大石がどこから現れたか不明である。大きな石の側に祀ってある。いわれについては山形県に関係しているようで、地元には直接関係ないようである。しかし、地域に雷が落ちないように雷の神として祀ったと言う話はある。
周囲は竹林であるが、昔は竹林は下の方に僅かに在るだけだった。周囲には、楠の大木が何本もあったそうで、この大石の麓からも大きな楠が伸びていたそうである。今は竹に駆逐されて、周辺に僅か数本残っているだけである。
白竹神社 安永4年(1775)建立(初代)。大正8年(1919)4月吉日建立。

バス停大石の設立ばなし
『春日町から垂水までの途中にバス停が欲しいと要望が出て、当時の自治会長(若杉氏)が運動して通学する子どもの為にバス停を設置してもらった。その時停留所名を大石神社の側だから「大石」でいいだろうと提案した。少々異論はあったが最終的に「大石」に決定した』(寄稿 若杉恒雄氏)

日見の散策 (8) 網場の風景・史跡  長崎市網場町

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日見の散策 (8) 網場の風景・史跡  長崎市網場町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(8)は、網場の風景・史跡。網場町の続き。日見金比羅の森は春日町の県道から車道が上がる。駐車場から金比羅岳山頂(標高278m)へは徒歩15分。

網場漁港、船津の崎方弁天、船津中組の恵比寿神社、網場天満神社と社叢(長崎市指定天然記念物)、旧茂木村であった小崎(春日)・古賀浦(潮見)日見村編入記念碑、集霊碑、日見金比羅の森案内図、金比羅神社、金比羅岳山頂にある陸軍省「長崎要塞区域標」「第二十八号」、金比羅岳山頂からの展望

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年3月刊の51〜74頁による説明は次のとおり。

写真  3〜     52 崎方弁天
船津の中央通り・小峰氏宅前。七福神の弁才天。当地は昭和時代まで番所浜といわれ、弁天(弁財天、福徳、知恵の神)の祠があり、宝暦9年(1769)の石塔が残されている。この地に浦見番が住んでいたと伝えられている。

写真  4〜     54 恵比寿神社
船津地区の中央部・権現神社の前。船津中組の恵比寿様。寛延4年(1751)2月吉日建立。恵比寿様は、船津の3地区(崎組・中組・浦組)にそれぞれ一体ずつを祀っている。お祭は同じ期日に行っている。

写真  5〜     56 網場天満神社
日見天満神社は、網場町1番地の橘湾、雲仙の勇姿を見渡す波静かな入江の丘に位置する。平安時代一流の文人政治家であった菅原道真公を祭神とする。天満神社は京都の北野大神、大宰府天満宮を筆頭に全国一万数社を超えるといわれている。
社地は旧日見村社として(約6700㎡)正殿、拝殿の木造建築、江戸時代以降の常夜燈、鳥居、神牛の石造美術がある。
境内には社殿を囲んで椎の大木を主として、楠、アラカシ、カヤ、ヤマモモ、タブノキ、ヤマツバキ等の温交林がうっそうと繁り立ち、太古の面影を守り伝えている。しかし、平成3年(1991)の台風9号、12号により、倒木多数に至ったが、平成4年(1992)氏子総代により、楠、桜、モミジ、梅等を2百数十本補植、現在に至っている。(寄稿 松尾次助氏)

写真 12      56 網場天満神社の説明の中
小崎・古賀浦日見村編入記念碑。明治31年(1898)。天満神社一之鳥居脇。

写真 13      58 集霊碑
天満神社南東側県道脇・船津地蔵となり。長崎地方は台風通過で、暴風雨と高波に襲われ網場海岸も大被害をこうむった。遺骨等を弔い、以後の安全を祈願して集霊碑を建てた。海岸に漂着した遺体や水害の時流れたりした墓等の骨を集めて祀ってある。
大正3年(1914)8月建立。平成3年(1991)9月現在地に移転。浦組の有志の人がお参りしている。

写真 16      40 金比羅神社
日見金比羅山の山頂脇。文明12年(1480)有馬の領主(泉岩)と深堀の領主(修理進)の立会いで、茂木、深堀、有馬領の境が決まった(崎陽旧事)。これから後この山は、茂木、日見の境界の一部と決められた。その後網場地区の漁業者、渡海船業者の人たちが海上安全と大漁を祈願、信仰して祀られたと考えられる。
明治31年(1898)10月1日に、小崎名(春日)、古賀浦名(潮見)が茂木から分離して、日見村に併合し、周辺が運動場として利用され、祭等で賑わい日見村民に親しまれた。祭の前には魚は取れなくても、4月10日の祭をさかいに魚がよく取れるようになるといわれていた。

日見の散策 (7) 網場の風景・史跡  長崎市網場町

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日見の散策 (7) 網場の風景・史跡  長崎市網場町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(7)は、網場の風景・史跡。網場町は続く。

長崎総合科学大学、住吉神社、いけす旅館肥前屋、田能村竹田先生船出し地の碑、力士塚、樫の大木(松尾宅)、養国寺の観音像、地蔵堂中のリアルな小観音菩薩、養国寺の梵鐘(長崎市指定有形文化財)、養国寺上の墓地から望む

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年3月刊の47〜51頁による説明は次のとおり。

写真  2〜     38 住吉神社
長崎総合科学大学正門の右奥の谷にある。神功皇后を本尊として国家の守護神、航海の守護神、和歌の神として信仰された。本社は大阪住吉区の住吉大社とされる。
当社は、寛政7年(1795)7月19日に長崎地方に大雨があり、川の氾濫で大洪水が起こった。人家は軒下まで浸水し、死者や橋の流失18橋等大きな被害となった。さらに翌8年(1796)5月にも洪水があり、家屋流失29戸、橋流失11橋、破損した家屋309戸にのぼったという。当日見地区にも洪水の被害があったことから網場地区の安泰と繁栄を念じて、惣村中により再興を奉じたとあるが、詳細は不明。

天正8年(1580)には長崎勢の攻撃に、網場湾から来た深堀、西郷勢との戦が日見高城山であり、戦で亡くなった武士を葬ったとの伝説がある。現在の界2丁目あたりには、相当に古い「五輪塔」が数基祀られていたが、昭和37年(1962)以降の区画整理事業や宅地造成により、神社周辺に移転され、雑木林の中にひっそり佇んでいる。
本殿南東側斜面には、十体以上の石仏(不動尊・地蔵菩薩等)が点々と祀ってある。行き倒れの人や戦の戦死者かは分からないが地域の人がお参りしている姿を見かける。北斜面には五輪塔がひっそりとたたずんでいる。

写真 12〜     42−3 樫の大木
養国寺右の車道へ上がる。網場町474番地松尾正義宅の表入口石垣。同家の庭には、先祖が屋敷造成した時、生えていた木を切り倒さないで、庭先にそのままにしておいたという樫の大木がある。樹齢は不明であるが、かなり古い樹で根元が空洞になり、2本の木のように分かれ更にそれぞれの根元から出た芽が、かなり大きな幹となっている古い樹である。(寄稿 松尾静雄氏)

写真 14〜     44−1 浄土宗 養国寺
網場バス停から山側に進んだところ。本尊 阿弥陀如来。領主松倉豊後守重政の要請でキリシタン対策として寛永8年(1631)に開創された。初代住職 頂譽。
昭和57年(1982)本堂改築。
養国寺上り階段途中の横内に44−2地蔵堂がある。養国寺の上の墓地に45地蔵尊があり、小道がある。この小道は昔、茂木へ通じる唯一の交通路であった。

日見の散策 (6) 界の風景・史跡  長崎市界2丁目

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日見の散策 (6) 界の風景・史跡  長崎市界2丁目

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(6)は、界の風景・史跡。界1丁目に続き、界2丁目。

網場道バス停から高城山を望む、日見霊園の白衣観音、高城山の登り途中から日見・東長崎方面を、高城山中腹の山道にある陸軍省「長崎要塞区域標」「第二十九号」、高城山山頂付近(日見城跡?)、長崎市日見合同庁舎、同駐車場にある長崎大水害碑、市民網場プール、JA長崎せいひふれあい市、長崎市立日見小学校、長崎市立日見中学校

「長崎要塞区域標」は、日見霊園左からびわ畑の中を真直ぐな坂段を300段ほど長崎市水道配水タンク場まで上がる。タンク場の裏へ回りNHKほかテレビ中継放送所へ行く山道を5分ほど登ると左道脇にある。
長崎市南公民館どじょう会「城郭他遺構調査書」平成3年5月によると、高城山は「日見城跡」として記され、タンク場は出丸跡となっている。
日見の散策(5)で載せた「18−1 高城大権現」の説明も参照。

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年3月刊の45頁による説明は次のとおり。

写真 10〜     36 長崎大水害碑
日見支所駐車場。日見地区連合自治会 昭和58年(1983)7月建立
(碑 文)
午後5時頃より降り始めた雨は1日降雨量448ミリ、時間あたり187ミリ、わが国観測史上驚異的な降雨量を記録した。午後8時過ぎ各地で大規模な山くずれが発生、河川ははんらんし、死亡者36人、り災所帯1,044を始め農林水産等、甚大な被害を被りかつてない大惨事となった。長崎市役所日見支所に災害対策本部を設置、各自治会長が中心となり地区内の諸団体、機関県内外からの不眠不休の献身的な死傷者の救出救援復旧活動が約2ヶ月続いた。

日見の散策 (5) 界の風景・史跡  長崎市界1丁目

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日見の散策 (5) 界の風景・史跡  長崎市界1丁目

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(5)は、界の風景・史跡。まず界1丁目。2丁目は次へ。

高城神社入口を示す石塔、神社へ登る途中から、NTTドコモ日見中継所と神社、高城大権現の境内と祠、新兵大菩薩・徳嶌太郎社、高城大権現の上部竹林のある石塚(8基が確認できた)、岩這薬師堂、阿弥陀堂、日見継ぎ場跡、同地から三国屋橋を望む

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年8月刊の21〜39頁による説明は次のとおり。

写真  1〜    18−1 高城大権現の説明中、高城神社入口を示す石塔
慶応4年(1868) 高城大権現 辰2月建立 世話人12名 石工 仙三郎。
馬川と高城川の交わる川沿いにある。(旧長崎街道沿いの橋脇) 土台部はそのままだが、上部は昭和57年7月23日の長崎大水害で流されてしまった。

写真  4〜    18−1 高城大権現(たかしろさん)
馬川から分かれて高城川の砂防ダムから登ったところで高城山中腹・NTTドコモ日見中継所アンテナ上。建立 慶応4年2月 山口地区には河内神社があったので、坂下、岩這地区が中心になり、川内中で建立したということである。昔は社殿があったが、老朽化して危険になったので取り払った。 
日見峠にある地震石神神社にも同じ高城大権現が祀っている。…高城山周辺には、多くの塚があった。…昔の方が無念の内に亡くなった方の霊を慰める為に塚を建てられた…
『いくさの神様であり、日清、日露戦争から太平洋戦争まで、地元のみならず、長崎市内からお参りが多かった。…
深堀軍が網場に上陸し諫早領に攻め込んだのに対し、諫早藩に龍造寺軍が援軍しての戦いが行われた。旧長崎街道周辺にはその戦いの戦死者の塚が点々と在ったが、ほとんど見られなくなった。深堀軍は後退して中腹からきれいな湧き水があった…高城山に砦を築いた。竜造寺軍は城山(今の日見やすらぎ荘の上の森田屋前あたり)に布陣…してにらみ合った。
高城山中腹や山頂には、その戦の時に作られたと思われる砦跡に石垣が残っているがいまでは埋もれてしまってほとんど見ることはできない。近頃はないが山芋掘りに山に入って脇差しや鐙(あぶみ)などを掘り出す人もいた。昭和初期までは、高城山から十郎を経て深堀に通じる連絡道路として利用していたと思われる立派な山道があったが、今ではほとんど判らなくなってしまっているとのことである。』 寄稿 松尾 勝氏

写真  6     18−2 新兵大菩薩・徳嶌太郎社
高城大権現の祠の横。石の祠(菊の紋)。正面 新兵大菩薩 嶌太郎社…。由緒沿革 不明。

写真  7〜    18−3 石塚
高城大権現の祠が在るところの上部。石組みの祠が数箇所ある。馬の鐙、兜や刀などが出土したところに、石を積んで祠をつくり供養している。

写真  9〜    20 岩這(いわばい)薬師堂(はつつき観音)
旧長崎街道と明治車道の交点。如意輪観音菩薩。長崎西国第6番札所。観音様が片手を頬に当て、ちょうど歯が痛いのをおさえているように見えるところから歯痛観音(はつつきかんのん)の名がついた。葉が痛む時には、おまいりに行っていた。

写真 13〜    30 阿弥陀堂
旧長崎街道脇・三国屋橋から長崎側に進み突き当たって直角に曲がるところ。阿弥陀如来。いつの頃からかは、不明だが、旧宿名、向組の有志でお祭をしてきたといわれている。堂がこの場所にあるのは、墓地全体をお守りしているものであろう。社殿前にある石の蓮台は、葬儀のとき、お棺(丸棺)を載せて読経をし、埋葬(土葬)するときに、使われたものであると言うことであるが、今は使われていない。平成6年(1994)12月再建改築。

写真 15〜    31 継場跡(つぎばあと)
旧長崎街道三国屋橋を経て長崎側に1分・現田川歯科医院。地方より長崎へ搬入する荷、又長崎より地方へ搬出する荷の中継ぎをする場所で、駕籠(かご)かきや運搬する人夫たちが常に待機していた。また旅人が休憩するところでもあった。

日見の散策 (4) 宿町の風景・史跡  長崎市宿町

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日見の散策 (4) 宿町の風景・史跡  長崎市宿町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(4)は、宿町の風景・史跡。宿町の続き。三国屋橋は、古写真に残る石橋風景の項を参照。 https://misakimichi.com/archives/1217

長崎街道日見宿跡、アーチ式石橋だった三国屋橋、橋名になった三国屋の跡地、田の地蔵様、八坂神社、観音堂、西川橋角の旧家、社会福祉法人平成会養護老人ホーム・日見やすらぎ荘(改装工事中)

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年8月刊の40〜44頁による説明は次のとおり。

写真  7〜    32 田の地蔵様
三国屋橋の下流にある。大昔より田んぼの中に社があり乳が出る地蔵尊として多くの方々の願をかけ今日に至っている。…子安地蔵菩薩さまの石仏はお乳が立体的であり、乳飲み子を抱いた姿であるが顔は潰されてしまっている。地蔵菩薩、観音菩薩ともう一体何の変哲も無いと思われる石があるが言われは不明。猿田彦の石像もある。

写真  9〜    34 八坂神社(祇園神社・祇園社)
八坂神社バス停近く、観音堂の後ろ。明治以前は「祇園社」と称していたが、明治の神仏分離により、八坂神社となった。昭和37年(1962)の区画整理事業以前は、敷地は今の1.5倍はあった。昔は、三段に分かれ、川から石段を登って鳥居をくぐっていた。鳥居の奥に広場があった。一段上がって拝殿があり、今より奥にあった。現在、観音堂となっているところが一段高くなっていて本殿があった。

写真 11〜    35−1 観音堂
…このお堂に祀られている千手観音像は「行基ゆかりの7観音」といわれている。…建設省が行なう一般国道34号日見バイパス工事に伴い、汐見岳の千手観音堂(宿町163番地1)の移転と土地の売却を行なう必要が生じた。…平成14年(2002)2月現在地に移転竣工した。…

写真 12〜    35−2 地蔵堂
馬頭観音は、当初は弁財天のところにあり、近くの農家の人たちを中心に祀っていた。その後、千手観音堂の脇に移った。地蔵菩薩は、長崎大水害後新たに製作された。…バイパス工事に伴い観音堂と一緒に現在地へ移転した。

日見の散策 (3) 宿町の風景・史跡  長崎市宿町

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日見の散策 (3) 宿町の風景・史跡  長崎市宿町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(3)は、宿町の風景・史跡。宿町は次の長崎街道日見宿跡などへ続く。

市営大曲住宅団地の遠望、大曲住宅外壁の龍、大曲交差点近くにある水準点、宿町第3アパート脇にある天領・佐賀藩領境界石標、日見腹切坂の由来説明板と慰霊碑、長崎河川国道工事事務所設置の説明板「日見峠道浪漫」、網場道入口にある県道34号野母・宿線道路元標、日見の中心通り、長崎総合科学大学シーサイドキャンパス、長崎ペンギン水族館と海浜公園、南氷洋調査捕鯨船のスクリューと錨

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年8月刊の29〜32頁による説明は次のとおり。

写真  4〜    23 境界石柱
宿町第3アパート脇の路上(田中町と宿町の境)。碑文「(矢上側)従是北佐嘉領」 「(日見側)彼杵郡之内日見境」。天領と佐賀藩領との境界石柱である。高さ120m、巾25cm。
周辺地域は宅地造成のため様相や位置は少々変わったが国境を示す貴重な証である。

写真  7〜    24 腹切坂慰霊碑
…平成14年(2002)3月29日日見バイパス工事完了に伴い、日見腹切坂史跡保存会(会長松尾利之氏)の尽力で、当初の位置より下った別の場所になったが、国道脇の現在地に道路公園の一部として移転整備された。
骨は、火葬され西本願寺に納骨された。(骨の主は、骨格のしっかりした方であったそうです)

写真を追加。最後が本来の腹切坂とされる場所と山道にかかった薮の中に残る慰霊碑の基盤石。

日見の散策 (2) 芒塚の風景・史跡  長崎市芒塚町

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日見の散策 (2) 芒塚の風景・史跡  長崎市芒塚町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(2)は、芒塚町の風景・史跡。日見峠など前の芒塚町の続き。

日見隧道(日見トンネル)の西口銘板、日見隧道建設記念碑(昭和32年再建)、人用と牛馬用の飲み場跡、日見隧道の東口、日見隧道説明板(国指定登録有形文化財)、長崎自動車道長崎芒塚インター、ゆするぎ公園そば日見川上流の大砂防ダム、石動山様(ゆするぎさん)、石動山菩薩石、松露(路)渕水神宮と滝、東口の下りから日見を望む、日見バイパス新日見トンネル、日見山口バス停、長崎自動車道日見夢大橋、日見中央病院、坂下地蔵菩薩、河内神社(権現さん)の鳥居とムクノキ

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年8月刊の7〜21頁による説明は次のとおり。

写真  1〜     7 日見隧道(日見トンネル)
明治新道は、蛇行がひどく車両が通行するには大変だったので、トンネル掘削の計画が明治45年頃から起こった。しかし、声が大になったのは大正5・6年頃、県で計画の腹案がなったのは大正8年だが、大正8年道路法の実施によって、国庫の補助を得て具体化し、本工事の実施は大正10年からである。
大正13年(1924)3月23日 トンネル工事着手。大正15年(1926)3月31日 開通。竣工費 42万4千円。全長642m、幅員7.4mの当時としては日本最大規模のトンネルである。
西口から50m余り入ったところに、人用と牛馬用の水のみ場が設けられていた。
平成13年(2001)11月16日に国の登録有形文化財に指定された。

写真  9〜    10−1 石動山様(ゆするぎさん)
日見トンネル東口から芒塚ICの背後へ行く。天文4年(1535)8月5日建立。吉備大神 「笠」という人が信仰し祀ったのが始まりで、「カサ(瘡)地蔵」と呼ぶのが一般的であったそうである。
年代は不明であるが芒塚町の松尾健太郎氏の祖父に当たる松尾力三郎氏によって、氏の所有地にあった大岩に菩薩像を奉納して毎年9月18日(今はその前の休日)に坂下の住民たちが供物や御馳走を持ち寄り参拝者に振舞う習わしがあった。…
長崎自動車道の建設に伴う移転(平成12年(2000)4月2日落成)により現在地に礼拝所を建立した。…

写真 11〜     9 松露(路)渕水神宮(まつろぶち)
石動山様の奥の谷、林道終点にある。文化7年(1810)建立。施主 村中。寛永19年(1642)の大干ばつの時、雨乞いのため、日見川の上流に松露神社という水神社をつくった。その後、干ばつの時は、滝下の渕側に集まり雨乞いの儀式を行なうのが習わしであったということである。芒塚町民唯一の郷土芸能とも云うべき獅子舞を奉納して町民総出で一日を楽しむ。
昔は通称、松渕(まつぶち)様と云っていた。水量は多くはないが、清流が滝となり落下し夏は涼を取るに充分である。今も現場は鬱そうとして深山に入り込んだような趣がある。

写真 19〜    14 坂下地蔵菩薩
日見峠下、旧長崎街道の入り口付近に位置し街道を往来する人々や住民の安全や無事を見守った。顔の部分が違う仏像は、顔の部分が川の中で見つかったので像として完成された。…

写真 20〜    17 河内神社(権現さん)
祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 河内大神 猿田彦命。天正年間日見峠の戦いの時の戦死者を合祀。