長崎の風景・史跡 (市東南)」カテゴリーアーカイブ

日見の散策 (1) 日見峠など芒塚の風景・史跡  長崎市芒塚町

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日見の散策 (1) 日見峠など芒塚の風景・史跡  長崎市芒塚町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(1)は、まずこの日見峠など芒塚町の風景・史跡。芒塚町は続く。

往時の長崎街道日見峠最高部付近、日見峠関番所跡、日見新道(明治新道)の切り通し、下りの道から日見方面を望む、日見新道の九十九折、向井去来句碑(長崎県指定有形文化財)がある芒塚、長崎街道の説明板と道標、日見隧道東口、梨子の木茶屋跡

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年8月刊の1〜9頁による説明は次のとおり。

写真  2〜    1 日見関所跡
文久3年(1863)日見峠の8合目(俗に八部と呼ばれるところ)に関所が作られた。ほんのわずかな区間(約4年間)であったが、長崎に出入りする人々を監視した。跡は、明治新道を掘削するときに切り通しの部分にかかり敷地の半分が削られた。現在は、跡に木柱が建っているだけである。

写真  4〜    2 切り通し
明治15年(1882)に1年3ヶ月余の工期で車が通ることができる明治新道ができた。その時、峠を33m切り下げて造られたのがこの切り通しである。この道が我が国最初の有料道路で、日見側の料金徴収所が梨子の木茶屋である。

写真  8〜    6 芒塚(すすきづか)
天明4年(1784)3月吉日 日見峠の一本松のところに長崎の俳人達が去来の碑を建てた。安政3年(1856) 日見在住の俳人達が移転(場所不明)修復した。大正15年(1926) 日見トンネルの完成の時、荒れていた塚を長崎あざみ会が修復した。昭和28年(1953) 去来250年忌を機に芒塚町78番地に移転改修した。
昭和29年(1954)県指定史跡となった(日見村河内名梨木の木坂)。平成13年(2001) 長崎自動車道建設に伴い国土交通省の手で移設。公園として整備された。平成13年(2001)2月26日 「芒塚」が県指定有形文化財(芒塚句碑3基)になった。
地元の人は、句碑のことを「獅子駒さん」と呼んでいた。

(写真13が、中央の去来の句碑「君が手もまじるなるべし花薄 去来」天明4年(1784)建立。写真14が、右側の去来を顕彰した献句の碑「水鳥のうき声からす山嵐かな 米年、虫の声もなごり寂しや後の月 くま米」安政3年(1856)建立か。左側は漢詩の碑で去来の紹介や漢詩が刻まれている)       

写真 17     8 梨子の木茶屋跡
日見峠に登る中腹にあった茶屋で、江戸時代に日見地区の踏み絵は此処と養国寺で行われた。明治新道の通行料は、日見側ではこの茶屋で徴収した。長崎自動車道工事と芒塚インター工事に伴い、敷地はすべて道路に取られてしまった。昔は跡を示す木柱があったが、それもなくなってしまっている。 

茂木の散策 (14) 太田尾の風景・史跡  長崎市太田尾町

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茂木の散策 (14) 太田尾の風景・史跡  長崎市太田尾町

長崎市の茂木地区は、「長崎の奥座敷」ともいわれ、海上交通の要所だった茂木の港を中心に、南北に自然豊かな町が広がる。いずれも天草灘に面し、豊富な漁獲と茂木びわの大産地となっている。
茂木の散策(14)は、太田尾の風景・史跡。
枇杷崎射堡基地跡は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/6

太田尾集落の全景、丸尾神社の2つの石門と地蔵、太田尾港、太田尾海岸通りのアコウ大木、大戦中の枇杷崎射堡基地跡(太田尾海岸側から行く)、県道沿いのにある大クスノキ(長崎市指定天然記念物)、花の里山川河内、石室の地蔵祠、山川河内公民館手前にある大正12年建長崎・茂木・矢上の道案内標石、同地から県道を左奥に望む

茂木の散策 (13) 飯香浦の風景・史跡  長崎市飯香浦町

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茂木の散策 (13) 飯香浦の風景・史跡  長崎市飯香浦町

長崎市の茂木地区は、「長崎の奥座敷」ともいわれ、海上交通の要所だった茂木の港を中心に、南北に自然豊かな町が広がる。いずれも天草灘に面し、豊富な漁獲と茂木びわの大産地となっている。
茂木の散策(13)は、飯香浦の風景・史跡。前に続く韓甫石、日吉青年の家、甑岩。
甑岩は標高362.6m。雲仙・天草の展望も良いが、この日は霞んで見えなかった。
韓甫石は、次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/5431

市道上線の畑奥にある韓甫石(長崎名勝図絵にある)と女石とされる祠、長崎市立日吉青年の家(教育研修施設)、甑岩展望台と甑岩神社など

茂木の散策 (12) 飯香浦の風景・史跡  長崎市飯香浦町

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茂木の散策 (12) 飯香浦の風景・史跡  長崎市飯香浦町

長崎市の茂木地区は、「長崎の奥座敷」ともいわれ、海上交通の要所だった茂木の港を中心に、南北に自然豊かな町が広がる。いずれも天草灘に面し、豊富な漁獲と茂木びわの大産地となっている。
茂木の散策(12)は、飯香浦の風景・史跡。日吉青年の家や甑岩は次へ。

赤崎鼻側下の海岸岩場、県道から飯香浦の枇杷崎を望む、養魚場と飯香浦の浜を望む、飯香浦の浜、浜の先の海岸洞穴、飯香浦長崎バス終点、枇杷崎山中にある陸軍省長崎要塞区域標第二十四号、県道から飯香浦集落を望む、県道沿いの日吉神社鳥居、成尾寺の石門と地蔵、長崎市立日吉小・中学校、山川河内分岐に立つ記念碑、甑岩登りから飯香浦の遠望

茂木の散策 (11) 北浦の風景・史跡  長崎市北浦町

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茂木の散策 (11) 北浦の風景・史跡  長崎市北浦町

長崎市の茂木地区は、「長崎の奥座敷」ともいわれ、海上交通の要所だった茂木の港を中心に、南北に自然豊かな町が広がる。いずれも天草灘に面し、豊富な漁獲と茂木びわの大産地となっている。
茂木の散策(11)は、北浦の風景・史跡。北浦は先の続き。

三浦一族夫婦の墓(茂木中入口道路角 86番札所脇にある)、長崎市立茂木中学校、北浦観音堂(10番札所)、横にある三浦一族太祖の碑、長崎県立長崎南商業高等学校(2009年3月閉校)、自衛隊による県道建設感謝の碑、フェリー側防波堤から見たドンク岩と赤崎鼻、北浦海岸のドンク岩と地層、入港中の天草フェリー、赤崎鼻の地蔵・不動明王、沖防波堤手前瀬のじゅうご様祠?

もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」による説明は次のとおり。

写真  1〜    三浦一族夫婦の墓
写真  3〜    三浦一族太祖の碑
三浦とは北の上手は浦、東南も浦、西も浦。この3つの浦は三方行根相合し、故に三浦と云う。三浦氏の末裔と云う。

茂木の散策 (10) 北浦と早坂の風景・史跡  長崎市北浦町・早坂町

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茂木の散策 (10) 北浦と早坂の風景・史跡  長崎市北浦町・早坂町

長崎市の茂木地区は、「長崎の奥座敷」ともいわれ、海上交通の要所だった茂木の港を中心に、南北に自然豊かな町が広がる。いずれも天草灘に面し、豊富な漁獲と茂木びわの大産地となっている。
茂木の散策(10)は、北浦と早坂の風景・史跡。柳山橋手前から若菜川の上流へ上がって行く。北浦は次へ続く。

茂木枇杷原木記念碑、近くの三浦シヲ生家跡、大山祇神社、参道脇にあるヤマモモの大木、神社後方の小山の元木場古墳群は不明、早坂の岩窟(33番札所)、奥の院鬼の岩屋(71番札所)、長崎自動車道長崎(早坂)インター、田手原町重篭の轟の滝もついでに

もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」による説明は次のとおり。

写真  1〜    茂木枇杷原木記念碑
枇杷と魚は茂木の特産品である。天保年間南支那から長崎に唐船が枇杷を運び長崎代官に献上した。代官屋敷の女中奉公していた茂木村木場出身の三浦シヲは、その種を貰い受け弘化2年甥の山口権之助に送り、権之助は屋敷の一隅にその種を蒔いて茂木枇杷の原木を作った。

写真  5〜    大山祇神社・元木場古墳群
元木場の産土神は愛媛県大三島の国弊大社大山祇神社の分霊である。この神社の境内後方の山林尾根頂上に今から約1700年前の弥生中期、竪穴式直径10mの円墳があり、長崎市では珍しいもので、昭和49年長崎大学医学部助手坂田邦洋氏により片町辻の石の御前古墳と同時に発見された。

茂木の散策 (9) 茂木の風景・史跡  長崎市茂木町

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茂木の散策 (9) 茂木の風景・史跡  長崎市茂木町

長崎市の茂木地区は、「長崎の奥座敷」ともいわれ、海上交通の要所だった茂木の港を中心に、南北に自然豊かな町が広がる。いずれも天草灘に面し、豊富な漁獲と茂木びわの大産地となっている。
茂木の散策(8)は、茂木地区の中心、茂木町の風景・史跡。長崎遊・通さるく「茂木界隈」のコース外。周辺の続き。

転石下の明治・大正時代旧県道の分かれ、河平川水車小屋があった谷、今も残るアーチ式石橋「河平橋」、上手は唐八景を越し「戸町二至ル」の標石、早坂近く茂木街道の道へ戻って、長崎南環状線道路工事現場、すぐ下に団地造成中、茂木街道の残る道、柳山石橋跡、長崎大水害前の石橋古写真、道路改良開通碑、学校法人セレスタ学園茂木幼稚園、石の御前神社に祀られる神功皇后「カモジ掛けの石」、大木根元の円墳は不明、同神社向いのセレスタ修道院・茂木カトリック教会

もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」による説明は次のとおり。柳山石橋写真も同から。

写真  4〜    アーチ式石橋
旧県道開通時に造られたもので河平川を上り県道大曲の下にあり、茂木にある石橋の一つである。(「河平橋」の橋名と「明治四十一年九月架」の石柱がある)

写真 11〜    柳山石橋跡
若菜川に沿い辻を通り柳山、転石、田上を経て長崎へ通じる石畳の旧道があり、明和6年(1769)江波市左衛門温石の石畳を敷きつめ、その後安政5年(1858)長崎出来鍛冶屋町竹内億助、東築町瀟地喜平衛の両名私費で浄善田の石橋を架け交通の便を図る。
昭和47年6月 市指定有形文化財に指定、昭和57年7月 長崎大水害で流失。

写真 15〜    石の御前
茂木を開いた女神神功皇后を祭る。大山祇神社と云う石の御前様。此所には1500年前の直径5mの円墳があり大木の根元に厚さ7cm石蓋がある。

茂木の散策 (8) 茂木の風景・史跡  長崎市茂木町

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茂木の散策 (8) 茂木の風景・史跡  長崎市茂木町

長崎市の茂木地区は、「長崎の奥座敷」ともいわれ、海上交通の要所だった茂木の港を中心に、南北に自然豊かな町が広がる。いずれも天草灘に面し、豊富な漁獲と茂木びわの大産地となっている。
茂木の散策(8)は、茂木地区の中心、茂木町の風景・史跡。長崎遊・通さるく「茂木界隈」のコース外。周辺を訪ねる。次も続く。

道しるべ(旧県道 黒橋手前国道脇)、黒橋、若菜川の淵頭と渡り石、長崎市立茂木小学校、付近の古写真、城山(秋葉山 茂木小前バス停近くから登る)、潮見崎の原爆慰霊碑、海岸沿いの料亭 海月別亭・かね万・二見、立石海岸と料亭こがね、立て岩の近景

もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」による説明は次のとおり。

写真  1〜    道しるべ(旧県道)
旧県道開通時に建てられたと思われる。前は現在地の下の段にあったと云われ交通の安全祈願と思われる。

写真  8〜    城山(城の古跡)
大友宗麟の女白縫姫が籠城した跡とも云われている。茂木はよいとこ城山背にし、前は海原、潮見崎。こんな歌もあります。別名秋葉山ともいう。

写真 17〜    立て岩
海辺を離れて海中にあり、衝きたる秀たる頂上に松あり。一つは大きく数十丈、一つはやや低し、盆石を見るごとし。(名勝図絵)    

茂木の散策 (7) 茂木の風景・史跡  長崎市茂木町

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茂木の散策 (7) 茂木の風景・史跡  長崎市茂木町

長崎市の茂木地区は、「長崎の奥座敷」ともいわれ、海上交通の要所だった茂木の港を中心に、南北に自然豊かな町が広がる。いずれも天草灘に面し、豊富な漁獲と茂木びわの大産地となっている。
茂木の散策(7)は、茂木地区の中心、茂木町の風景・史跡。長崎遊・通さるく「茂木界隈」コースの順路により、まず一回りした終り。次はさるくコース外へ続く。

南川橋を渡った先にある一番札所、茂木の旧家池山邸と屋根(釣竿を持つ恵比須・大黒の飾り瓦、代々の当主の名「文」入り特注瓦が見どころ)、国道を渡った旧家、玉台寺と大イチョウ、長尾安右衛門尉の墓、玉台寺墓地高台から町並みを望む、クラフトベーカリー オロン、松柏楼(ビーチホテルと別の「茂木長崎ホテル」)跡の高崎湯、潮見崎観音と月見台、潮見崎公園、茂木漁港岸壁、茂木一○香本家、店内の休憩所と色紙

もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」による説明は次のとおり。
なお、新田にあった松柏楼(茂木長崎ホテル)跡は、長崎の古写真の項、次の記事を参照。「茂木商工会30周年記念誌」平成2年刊の44〜45頁に、貴重な記事と古写真がある。
https://misakimichi.com/archives/1535

写真  5〜    玉台寺
浄土宗、松尾山無量院玉台寺。寛永3年(1624)僧宝誉の開山。山門前向かって左側の墓地に立つ碑は寛政4年(1789)島原眉山爆発崩壊の時漂着した死者を埋葬したもの。

写真  8〜    長尾安右衛門尉の墓
玉台寺境内に高さ1丈くらい自然石の下に豆腐石を置いた墓。安永14年島原の乱が起り茂木のキリシタン住民も参加、安永15年長尾安右衛門尉は当時島原領であった茂木のキリシタンを撲滅し領主高力摂津の守が労をねぎらいその死を悼み壮大な墓を造り威を示した。

写真 12〜    松柏楼(茂木長崎ホテル)跡
外人専用のホテルとしてあったそうで、その後松柏楼という小料理屋に変わり、大正12年〜昭和12年まで開業していたと云われる。

写真 14〜    潮見崎観音
潮見崎観音は宝永3年(1706)開山。本尊は11面観音菩薩、子育て子授けの観音として信仰され、市中より参拝者も多い。

写真 17〜    月見台
月見台は潮見崎の上にあり注連(しめ)が崎とも云い、月は赤井が崎(赤崎鼻か)の上から出てその先を海にうつし注連が崎、月見台の下にかけて布を引いたようになるので「布引の月」と云う。    

茂木の散策 (6) 茂木の風景・史跡  長崎市茂木町

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茂木の散策 (6) 茂木の風景・史跡  長崎市茂木町

長崎市の茂木地区は、「長崎の奥座敷」ともいわれ、海上交通の要所だった茂木の港を中心に、南北に自然豊かな町が広がる。いずれも天草灘に面し、豊富な漁獲と茂木びわの大産地となっている。
茂木の散策(6)は、茂木地区の中心、茂木町の風景・史跡。長崎遊・通さるく「茂木界隈」コースの順路により、まず一回りしている。前の続き。次へ続く。

Sマート前弁天橋へ戻る、厳島神社、同地の大戦中茂木砲台の退避壕?跡(3基)、北浦への堀切と開通の碑、若菜橋、マキの木、茂木町役場跡地(現茂木商工会)、旧茂木町道路元標(札のつきの場所?)、旧家の町並み(前川内べっ甲店)、裳着神社、社殿内の展示写真、道永エイ名のある寄進石、本殿高梁の欄間彫刻、円成寺、同寺墓地からの展望

もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」による説明は次のとおり。

写真  5〜    堀切開通の碑
大正10年茂木鉄道株式会社が設立され、淵頭から北浦を通って長崎へ通じる鉄道敷設のため弁天山の北側を掘り切って、残土を茂木港内、打越海岸の埋立に利用し茂木北浦の交通路が完成(大正15年)。しかし鉄道の開通計画は挫折する。

写真 12〜    マキの木
昔の造り酒屋、湊屋の跡で閑院宮織仁殿下の御手植えのマキの木である。峰酒店から若菜橋を渡って右奥にある。

写真 14〜    札のつき
御高札の場所で村の往来の中心地。

写真 16〜    裳着神社
長崎市で最も古い神社で明治以前は八武者大権現を祭る。神功皇后が三韓出兵の途中当地に立ち寄り裳を着けたとの故事から裳着の地名が起り、その後当社が創建されたと伝えられる。
キリシタン布教で社殿を焼かれ一時廃寺。寛永3年(1626)再建され茂木の鎮守となる。その後裳木神社となる。

写真 22〜    円成寺
日蓮宗慶応山円成寺。長崎長昭寺の末寺上席となる。明治14年(1881)柴田俊道開山。