茂木の散策 (6) 茂木の風景・史跡 長崎市茂木町
長崎市の茂木地区は、「長崎の奥座敷」ともいわれ、海上交通の要所だった茂木の港を中心に、南北に自然豊かな町が広がる。いずれも天草灘に面し、豊富な漁獲と茂木びわの大産地となっている。
茂木の散策(6)は、茂木地区の中心、茂木町の風景・史跡。長崎遊・通さるく「茂木界隈」コースの順路により、まず一回りしている。前の続き。次へ続く。
Sマート前弁天橋へ戻る、厳島神社、同地の大戦中茂木砲台の退避壕?跡(3基)、北浦への堀切と開通の碑、若菜橋、マキの木、茂木町役場跡地(現茂木商工会)、旧茂木町道路元標(札のつきの場所?)、旧家の町並み(前川内べっ甲店)、裳着神社、社殿内の展示写真、道永エイ名のある寄進石、本殿高梁の欄間彫刻、円成寺、同寺墓地からの展望
もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」による説明は次のとおり。
写真 5〜 堀切開通の碑
大正10年茂木鉄道株式会社が設立され、淵頭から北浦を通って長崎へ通じる鉄道敷設のため弁天山の北側を掘り切って、残土を茂木港内、打越海岸の埋立に利用し茂木北浦の交通路が完成(大正15年)。しかし鉄道の開通計画は挫折する。
写真 12〜 マキの木
昔の造り酒屋、湊屋の跡で閑院宮織仁殿下の御手植えのマキの木である。峰酒店から若菜橋を渡って右奥にある。
写真 14〜 札のつき
御高札の場所で村の往来の中心地。
写真 16〜 裳着神社
長崎市で最も古い神社で明治以前は八武者大権現を祭る。神功皇后が三韓出兵の途中当地に立ち寄り裳を着けたとの故事から裳着の地名が起り、その後当社が創建されたと伝えられる。
キリシタン布教で社殿を焼かれ一時廃寺。寛永3年(1626)再建され茂木の鎮守となる。その後裳木神社となる。
写真 22〜 円成寺
日蓮宗慶応山円成寺。長崎長昭寺の末寺上席となる。明治14年(1881)柴田俊道開山。