長崎の石・岩・石造物 (長崎市)」カテゴリーアーカイブ

城の古址  夫婦川町・片渕2丁目(春徳寺背後の山)

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城の古址  夫婦川町・片渕2丁目(春徳寺背後の山)

長崎市夫婦川町の春徳寺背後の山。現在近くに長崎市立片渕中学校の城を模した校舎が建てられており、西山ダムから車道が学校裏のすぐ山頂近くまで入る。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊18頁による説明は次のとおり。

城の古址は唐渡山・舞山・鶴城などの名で呼ばれ、昔、長崎の領主、長崎小太郎重綱の城砦があった所である。小高い丘は岩肌むきだしの岩盤があり、龍頭巌と言われている。町より直ぐなので近郊の人はよく散策していたようである。

承応年間(1652〜55)に城の古址観音堂が創設されたもので”即非禅師の座禅石”とも呼ばれた。
石室に正面「大園通黄檗隠元書」左面「南無観世音菩薩即非書」右面「園通萬畳山即非書」

ここより若干登った林の中にドルメンではないかと考えられる巨石が残っている。

”龍頭巌の伝説”
(イ)1600年代、朱印船の貿易ならびに長崎の代官として権威を奮った末次家が、先祖の墓造成のため岩を削り取ろうとしたところ、鮮血がほとばしりでたので祟りを恐れて直ちに中止した。
(ロ)笛の上手な娘と美青年武士との恋物語。武士は蛇の化身で幻と消えた。岩を叩くと「たんたん竹女の音がする」といわれた。

十三仏  立山2丁目(永昌寺墓地上)

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十三仏  立山2丁目(永昌寺墓地上)

長崎市立山2丁目にある。長崎歴史文化博物館前の道から左に入った永昌寺の墓地上になるが、ホテル長崎の立山バス停から老人ホーム”プレジールの丘”前を行き、「望呉山碑」のある所から坂段を下った方がわかりやすく近い。
台座の建立銘板によると、昭和11年6月、松本亥之吉ら3人が発起者、大師講会寄付金などで建立している。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊50頁による説明は次のとおり。

県立美術館の上隣はユースホステルで、此の前の道は2つに分かれ、右の坂は車も通るが左の坂は人道となっている。此の人道を登って行くと、左側斜面一帯は永昌寺の墓地である。急な坂段を180段程登り、左に折れて上の森を目指し、100段程登りつめると岩盤地帯となり、此処に不動明王と12体の石仏像が並んでいる。十三仏の先隣に、長崎四国第19番霊場の立江地蔵堂があり、延命地蔵菩薩が祀られている。
岩盤上の平地に、釈迦牟尼仏を中心として8体の石仏がとり囲んでいる。

川平金山の坑口と金湯鉱泉の跡  三ッ山町六枚板

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川平金山の坑口と金湯鉱泉の跡  三ッ山町六枚板

福田網場脇の観音崎「金水温泉」跡は、別項ですでに紹介している。三ッ山町の六枚板にも”金湯”という冷泉の湯治場があった。斉藤茂吉が訪れている。
長崎市立博物館平成17年3月19日「長崎学史跡めぐり(6) 西山街道を行く(2)」の資料による説明は次のとおり。

8 六枚板
六枚板という地名は、大きな榎があり、合戦のときその木から楯用として6尺の板が6枚取れたことから地名になったという。この六枚板では、以前に金鉱の採掘が行われていた。「郷村記」には、元禄6年(1693)に、浦上村淵掛の庄屋志賀藤右衛門が、その試掘を許可されたことが記述されているが、この志賀藤右衛門は、それ以前からも西城山のほうで金鉱の採掘を行っていたらしく、その場所は現在の金堀町という。
この金鉱にちなんでか、六枚板には”金湯”と呼ばれる冷泉があり、皮膚病や火傷などに効果があるといって、湯治客も多かったそうだ。斉藤茂吉(1882〜1953)も、長崎滞在中の大正9年(1920)の10月11日から15日まで、ここで療養している。
そのときのことは、「浦上の奥に来にけりはざまより流れ来る川をあはれに思ひて」「日もすがら朽葉の香する湯をあみて心しずめむ自らのため」などと詠んでいる。また茂吉は、この六枚板での療養中、昼間は教会やキリスト教徒の人たちの部落を訪れている。「かかる墓もあわれなり『ドミニカ柿本スギ之墓行年九歳』」「小さなる御堂にのぼり散在する信者の家をみつつゐたり」などは、その時のことを詠んだのであろう。

斉藤茂吉は長崎医学専門学校(長大医学部の前身)の教授。単身赴任の不便な生活のため、同年9月感冒にかかり、これに端を発した胸部疾患の養生に、この年の10月末まで自宅療養から雲仙、古湯、更に嬉野へと転地している。
長崎の生活は決して順風満帆と言えなかったが、草かげろうに己を比す茂吉に生の意欲をかき立てたろう湯治となった、と書かれている(新訂「長崎の文学」平成3年刊第三刷146頁)。

川平金山については、布袋厚著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊146頁に次のとおりある。
長崎市内に金山のあとがある。場所は川平の周辺で、東西二キロメートルほどの範囲に、金をふくむ鉱脈が十数条あって、それぞれ東西方向に走っていた。これから総称して「川平金山」とよび、明治のおわりごろには、地元に精錬所がもうけられていたという。鉱石一トンあたり、最高では、金が六百八十七グラム、銀が三百五十五グラム含まれ、品位(有用成分の含有量)がたいへんたかかった。…

さて、この川平金山の坑口と金湯鉱泉の湯治場はどこにあったのだろうか。地元で聞いて調べてみた。結果は上の地図と写真のとおり。地元でもあまり知らないことなのでまとめて紹介してみる。

布袋氏著地図にない掘りかけて止めた坑口跡が六枚板公園から兵底に上る古道右脇にあと1つあった。ここは「長崎県の山歩き 新版」94頁に記述と写真はある。南山グランドから下ると近く100mほどのところ。道脇の水路をたどるとすぐ坑口跡に着く。

六枚板公民館の下側付近となる坑口跡は、大水害により埋没し、全然わからなくなっている。ここに精錬所が設けられていたようで、戦後もガラの山から大きな水晶が拾えたらしい。
鉱泉の湯治場は、坑道に沿った今公民館上近くにあった。戦後も廃家が残っていたと記憶している人がいる。竹林の下の小沢から鉱泉が湧いて湯治場ができていたらしい。
石垣が残り、隣の畑の溝蓋に建物跡の煉瓦片が使われている。近くは最近地すべりがあり、古い風呂タイル・皿の片、湯呑、薬の小ビンが出土したのを近くの家の人から見せてもらった。

犬継側の坑口跡は、教会先からバイパスの上に架かった新平床橋を渡り400m位行ったところ。ここを字名か「小谷」と呼ぶ。川脇の大工小屋の対岸の崖面にある。横1m、高さ2m位だったと思われる完全な坑道が残っているようである。パイプを川に渡し、水を汲めるようにして、近隣の有名な水汲み場となっていた。

なお、永井隆博士の「長崎の鐘」に次のような記述があるのが、インターネット「六枚板」検索画面で出てくる。この項は後日、調べてから紹介したい。
「即ち六枚板鉱泉浴をした者は、しない者よりも平均二週間早く癒った。この鉱泉浴は外傷にも有効で、私自身も主としてこの泉の恩恵に浴した。まことに鉱泉こそは天然に与えられた薬局である」
「三ツ山救護所」の記録は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/286

兵底の古墓  長崎市三川町  

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兵底の古墓  長崎市三川町

長崎市北部の山、帆場岳と天竺岳の鞍部にある三川町兵底(ひょうそこ)。6軒の集落である。現在、長崎南山高校の総合グランドができている。道端で会った地元山崎さんから「ラグビー・サッカー場上の高台に珍しい古墓がある」との話を聞き行ってみた。

自然石を立てた「勇大神」を祀るところの下の広い草場の斜面に、この古墓の群があった。40基ほどが見事に間隔を置いて林立している。近頃の墓地では見当らない光景である。話では士たちの墓らしい。もう1つの大村藩殿様道がこの脇を通り、帆場岳の山腹を行ったとも聞いた。

林正康著「長崎県の山歩き 新版」葦書房2000年刊の帆場岳の項94〜95頁は次のとおり。
…兵底には現在六軒の家が、平家落人の伝説を守って岩戸大権現を祀っています。平成元年(一九八九)に八百年祭をあげ、お堂を改築しました。
ここはまた、土地の人が”とのさまん道”と呼ぶ道があります。これはかつての長崎村西山口から大村へと続く昔の道で、大村純忠や長崎甚左衛門も通ったのではないかと想像されます。付近には四〇基をこす古い無縁仏の墓石が見られます。
サッカーコートの上部にあるヒノキ林の中を通る”とのさまん道”を登ると、林道に出て道は四つに分かれています。
左から一番目の道は、”とのさまん道”で恵の丘へ続いています。…

早坂町の洞穴 ②  茂木新四国八十八ケ所第71番霊場

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早坂町の洞穴 ②  茂木新四国八十八ケ所第71番霊場

長崎市早坂町にある霊場の洞穴。第36番霊場から「奥ノ院十三佛一丁」と岩に刻みがあり、竹林の道を10分ほどさらに行く。第71番霊場のこちらはすごい。北西矢岳を向いた高く大きな岩盤の根元に見事な洞穴があった。岩永氏著には2つしか紹介されてないが、その上にもう1つ大きな穴があった。こんな高い岩場に人は簡単に登って掘れない。3つとも人為の洞穴と一概に考えられないのではなかろうか。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊60頁による説明は次のとおり。

第36番霊場から更に6分山道を上った右前方に巨大な岩盤(推測巾50m、高さ20m)がある。此の根元に隣同士に2つの洞穴がある。此処が第71番霊場で剣五山弥谷寺・千手観音が祀られている。夫れ夫れの洞穴は畳10枚?は敷ける広さである。奥に祀られた高さ60cmの卵形石に「高岩山神社 大正十四年」とある。
洞穴が「鬼の岩屋」と呼ばれているのも正に其の名に相応しい。

☆茂木商工会のパンフレットによると、茂木の八十八ケ所が出来たのは茂木の先達が昭和4年に四国霊場の砂を持ち帰り、古くからあった祠の所に埋めて各霊場としたものだそうである。

早坂町の洞穴 ①  茂木新四国八十八ケ所第36番霊場

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早坂町の洞穴 ①  茂木新四国八十八ケ所第36番霊場

長崎市早坂町にある霊場の洞穴。昔から「鬼の岩屋」と呼ばれている。なかなか珍しい所であるが、本にほとんど紹介がなく、訪れる人は少ない。長崎IC早坂料金所の東側方面の山手となる。地図を参照し、三景台から下るとわかりやすい。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊59頁による説明は次のとおり。

…丘を下り、支流に架かる橋を渡って数軒民家のある所まで約5分、岩下利春様宅(早坂町1452)手前の道脇に第36・71番霊場の案内標識が立っている。此処から2分ほど歩いて行くと堰のある小川があり、更に2分山道を上って行くと茂木新四国八十八ケ所第36番霊場に着く。
岩盤の大きさは大体巾20m、高さ10mで、畳15枚は敷けそう?な洞穴である。独鈷山青龍寺・波切不動明王が祀られている。雑木林の中にあり、辺りは森閑として秘境の感がある。お参りする人も極めて稀のようである。知る人のみぞの思いがする。

巨岩の漢詩(題詩刻石二首)  愛宕山頂神社左横

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巨岩の漢詩(題詩刻石二首)  愛宕山頂神社左横

長崎市中央部、愛宕山頂(標高224m)の愛宕神社にある。社左横の巨石に漢詩二首が刻まれている。「文筆峰」の巨石の隣りである。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊40頁による説明は次のとおり。

愛宕山頂、「文筆峰」の隣に高さ3mの巨石があり、石の表と裏に漢詩が刻まれている。
崇福寺六代、道本禅師が愛宕山に登った時に詠んだ詩である。道本禅師は享保4年(1719)56才で渡来し、詩文・書を良くし68才で示寂した。詩を簡訳すると「緑色の靄の中に高く浮かぶ愛宕山の岩石に青松は生え、下界の変遷、人間の喜び悲しみを幾重にも見てきた。…以下略」
因みに、国宝崇福寺第一峰門の双額「天空海闊無雙地」「虎伏龍野不二門」は同禅師がかけたものである。
漢詩については、「長崎市史」愛宕山の項に記されている。

正面  甲辰四月登愛宕山  題詩刻二首
道本 
翠靄浮天第一峰 雲根盤薄畳青松 遊人漫為悲陵谷 閲遍滄桑是幾重
裏面
遊山豈必春時比 日澄臨悟可治漱 緑新陰??幕碧 雲堆裏坐題詩時
享保九年歳在甲辰四月 ←寛文四年(一六六四)
立夏擇道奉来遊題與

文筆峰  愛宕山頂神社左横

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文筆峰  愛宕山頂神社左横

長崎市中央部、愛宕山頂(標高224m)の愛宕神社にある。山頂は巨岩・巨石が林立し、神社の社の左横の巨石に「文筆峰」と太く刻まれている。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊39頁による説明は次のとおり。

愛宕山頂・愛宕神社左横にある筆の穂先に似た大石で、昔、小島方面より望むと、そのように見える所からいつの頃からか「文筆峰」と命名された。
書字体は、市内弥生町の黄檗宗研究家、故宮田安氏によって解読され、崇福寺三代住持・大衡海権と判明した。大衡海権は小島茂木街道の「茂木道無縁塔」(長崎市文化財。別名ライオン塔)を建てた。ちなみにこの塔は、正徳三年(1713)子供を主とした三千余人の疫病死没者慰霊のために建てたものである。

大願王  愛宕山頂神社すぐ下

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大願王  愛宕山頂神社すぐ下

長崎市の中央部、愛宕山頂(標高224m)の愛宕神社すぐ下にある。風頭山バス停から玉木女子短大の横道へ入ると、尾根通しに山頂直下の鳥居参道まで難なく行ける。山頂まであと「一丁」の石柱あり。これを少し登ると右手に赤い鳥居があり、前面の立った巨石に「大願王」と刻まれているのがすぐわかる。石は全横1.4m、高さ3.1mあった。彫っている字が太く、一角70cmほど。

岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊39頁による説明は次のとおり。

愛宕山頂への道途中。高さ3m程もある巨石に「大願王」と太く彫り込まれている。
此の「大願王」については、小島ふれあいセンターだより(小島地区石碑巡り・竹内光美氏)で次のように紹介している。
「大願王とは地蔵菩薩のことで、大願を成就させる仏で、特に日本では子供たちの行く末を見守る仏として信仰され、願成寺の本尊であった。この碑の由来は唐商、魏之琰の二代目、魏道偉(日本名・鉅鹿清兵衛)が酒屋町に住んでいたが、元禄十三年(1700)娘カツが大病を患い、市中の医者より見放され、必死の状態を仏に祈願したところ、病気平癒となった。これを感謝し、岩に大書を刻み、正徳元年(1711)奉納したものである」

洗凡岩  上小島3丁目

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洗凡岩  上小島3丁目

長崎市上小島3丁目、「白糸の滝」のすぐ下側にある。白糸バス停から上に車道を「白糸の滝」のある暗渠のところまで上がり、車道反対側の川岸の路地の坂段を少し下ると、左手の小沢の奥に「洗凡観音」が祀られ、その下の大きな平たい岩面に「洗凡」と横書きで刻まれている。高比良保宅の真裏。字面は横2m、高さ1m位。刻みは補修し、新しくされている。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊12頁による説明は次のとおり。

愛染稲荷大明神の上隣り、洗凡魚藍観音下の大岩に、「洗凡」と太く彫られている。幕末、長崎に住んだ南画・書の達人、徐溶(雨亭)の書である。
直ぐ近くに白糸の滝があるので、人びとはここの修練場で、煩悩を洗い清めたのであろう。