長崎の石・岩・石造物 (長崎市)」カテゴリーアーカイブ

ともづな石  長崎市樺島町

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ともづな石  長崎市樺島町

長崎市樺島町にある。長崎県警察本部ビルの裏手となり、県庁坂の途中から左手に入るとホテルアイビスと旅館(現在取り壊し、マンション建設中)前の崖下にある。先には海岸の面影を残す地蔵堂もあった。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊15頁による説明は次のとおり。

県庁の坂下辺りまで昔は海が迫っていた。車が絶えない喧騒の坂より直ぐ横に入ると、樺島町裏手の静かな崖下通りになる。この通りにある「ともづな石」は市の手により枠囲いで大切に保存されている。

平山天満宮の陽石  長崎市平山町

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平山天満宮の陽石  長崎市平山町

長崎市平山町の天満宮にある。境内左端土手に土神の石祠があり、小さな陽石がその前に置かれている。天満宮の裏手には摩利支天が祀られ、鳥居手前には経塚のようなものもあった。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊70頁による説明は次のとおり。

長崎新地バスターミナルからバスで約25分、平山台団地入口で下車すると近くに松尾歯科医院の看板が立っている。此処から250m先に鎮守の森が見え平山天満宮がある。傍らの広い駐車場を横切ると直ぐ行ける。
鳥居の右柱には明治卅年(1897)九月吉日平山村中、左柱には神職今村豊幸の銘がある。此の天満宮は江戸時代既に存在していた由であるが由緒については定かでない。

目的の陽石は境内左端土手(駐車場左上)にあり、石祠二つと其の前に数えて9個の陽石(男根)が祀られている。長さ20〜30cm程、直径15cm内外のものである。昔は多数あったものと考えられる。一般的には陰と陽、対であるが、僻村においては陽石崇拝が多かったように思われる。昔の男性優位が影響しているのかもしれない。
左の石祠は土神とあり、右の石祠が何か分からないが此れと係わる神かもしれない。

森の後には摩利支尊天を祀る石祠、僅か下方に平石で囲ったドルメン?のようなものがある。

光雲寺にある石橋の親柱  出来大工町

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光雲寺にある石橋の親柱  出来大工町

長崎市出来大工町の光雲寺にある。諏訪神社前電停のすぐ近く。寺はビル上に再建され、近くの旧大手橋(親和銀行馬町支店脇)の親柱が入口門柱となり、旧阿弥陀橋(伊勢神宮脇高麗橋のあと一つ上流側)の親柱が階段踊り場に据えられている。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊51頁による説明は次のとおり。

光雲寺は曹洞宗のお寺で、国道34号線拡張により寺地が縮小されたので、今はビルの3階にある。諏訪神社前電停から少し先の中島川畔にあり、案外静かな所である。此処に二種類の親柱が据えてある。

a)寺入り口の門柱として据えられて擬宝珠親柱は、その昔諏訪神社下、新大工町に入る大手橋に取り付けられていたものである。即ち石橋は慶安3年(1650)唐大通事・高一覧が浄財を集めて架けたものである。
現在、大手橋の下アーチは昔のまま残り、上部分が補強舗装されている。

b)坂段途中の踊り場(庭)にある擬宝珠親柱は、元禄3年(1690)慈善事業に尽くした園山善爾が私財を投じて架けた阿弥陀橋のものである。阿弥陀橋は伊勢町の伊勢神宮前に架かる高麗橋上流側の橋で、昭和57年(1982)7月23日長崎大水害後、新たに架け直された。銘板を見ると昭和62年(1987)3月架設となっている。
〔参考〕園山善爾:側にある阿弥陀堂の阿弥陀如来台座に園山善爾の名が読み取れる。又下流側の光永寺境内には園山善爾の石像を納めた石祠がある。

なお、本河内町日見トンネル西口の文明堂の庭に、蛍茶屋の一ノ瀬橋の親柱と思われるものが据えられている。

撃剣場石  長崎市夫婦川町

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撃剣場石  長崎市夫婦川町

長崎市夫婦川町にある。新大工商店街の先からトッポ水へ行く路地に入る。桜馬場天満宮のすぐ先に小さな光栄マンションがあり、この敷地北のブロック塀側に地蔵堂・長崎詞碑・撃剣場石が並んで建っている。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊13頁の説明は次のとおり。

桜馬場天満宮さきの光栄マンション脇に、長崎詞碑ならびに水かけ地蔵がある。そして奥となりに、「撃剣場」と刻まれた中位の石があり、賜琴石斎西道仙の銘が刻まれている。維新前後、ちかくに道場があったのであろう。

歳旦塚(さいたんつか)  長崎市西山本町

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歳旦塚(さいたんつか)  長崎市西山本町

長崎市西山本町にある。元長崎東高校の裏通り、西山本町の9街区と10街区の間の急な石段を63段登った左側、西山本町9番30号松本宅の家囲いを裏へ回り込み、一段下がった軒下の庭地にある。この岩の上に家屋が建っている。岩の寸法は全横2.8m、高さ2mくらい。
石段の上側は、古い石祠など残り、崇福寺墓地もあった境界標あり。このあたりが由緒ある土地だったことがうかがえる。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊14頁の説明は次のとおり。なお、「歳旦」とは、1月1日の朝。元旦のこと。

元県立高女ならびに東高校跡公園上の道路で、生島邸左側の坂段を50段ほど上った松本宅(西山本町9番30号)の裏庭にある。この一帯は昔、崇福寺の末庵祇樹林があったところである。
巨石の歳旦塚は、家屋の軒下にあり哀れをもよほす。多くの漢詩?が刻まれている。特に芭蕉翁が庵に泊まったお礼に残した句「長崎の歳旦貰ふ歳暮哉」が太く刻まれている。

(追 記 平成19年11月27日)
実はこの句は芭蕉の句ではない。西山の中尾氏の協力により文献があることがわかった。長崎手帖社「長崎手帖 No.11」昭和33年1月25日発行の「碑をたずねて 6」27頁に、中西啓氏稿「歳旦塚について」があった。
後項「歳旦塚(さいたんつか)は芭蕉の句ではない」に載せて訂正したから、参照ください。

休 石  桜町の坂道角

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休 石  桜町の坂道角

長崎市桜町の長崎商工会館ビル東側から石畳の坂道が下り、その途中の角の所にある。
横31cm、縦27cm、高さ67cmのやや大きな角柱に「休石」と刻まれている。上面に、直径
10cmと5cmの摺り穴が左側にあった。

岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊3頁の説明は次のとおり。
いつ頃か、いまだに残る休石。坂の長崎では重い荷物を背負った丁稚や、小番頭、行商人がのぼってほっとひと休みした。

なお、寺町墓地幣振坂から風頭へ上る急な長い石段脇に、現在設置されている新しい「休石」は最後の写真のとおり。数箇所見る。

傾城塚(音羽の碑)  上小島墓地内

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傾城塚(音羽の碑) 上小島墓地内

長崎市上小島2丁目13墓地内にある。ピントコ坂の上の方で「茂木道無縁塔」先の峰家墓地前が入口で説明板と標識がある。「ピントコ」の坂名もこれにちなむ。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊31頁の説明は次のとおり。

中国人何旻徳と丸山遊女登倭との悲恋の碑で、道路拡張と時代の変遷により墓地の片隅に移設されている。価値の有無は別として煙滅しないためにも、碑の場所と碑文を記録する。上小島2丁目13の張り付け板のある墓地わきの小道を少し進み、岩本・西本家墓の前を通った奥にある。刻字は消滅しているので小島ふれあいセンター、小島地区石碑巡りで竹内光美氏が漢文翻訳発表されたものを抄録して記載する。

「登倭は丸山筑後屋の娼妓で才色優れ、客に分け隔てなく接した。明の商人旻徳が一夜この楼に登り、登倭と交歓、のち相たび交えて遂に偕老同穴の契りを為した。旻徳は後、国禁を犯して処刑された。刑の日、登倭はその首を官に乞い、小島郷に葬り自らの刃で之に殉じた。元禄三年(1690)某月である。地を旻徳坂と言うのはこの故である。嗚呼、登倭は貞操節義で人々に感動を与えるものである。これに比べ世の中に恥知らずの人がいることか…

同郷の人、桐山貞四郎・田中勝三郎等二十名で相計って碑を墓側に建て、余に之を記するよう請うたのは、此のことが煙滅して伝わらなくなるのを惜しむためである。明治二十年三月十五日 浅井日昇謹記」
(注) 浅井日昇は寺町長照寺中興開基と称えられた文学・書の名僧。

なお、「長崎ぶらぶら節」に登場した愛八の墓もこのピントコ坂の途中にあり、写真を掲げる。

雲紋石はどこに  東小島の雷公岡?

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雲紋石はどこに  東小島の雷公岡?

長崎市愛宕1丁目、愛宕山の山腹にある「水紋石」は前の項でふれた。長崎文献叢書「長崎名勝図絵」74頁には、また「雲紋石」というのが、この愛宕山の対面となる東小島町八剣神社傍らの「雷公岡」にあったことを、次のとおり記している。

105 雷公岡(かみなりおか) 小島村にある。傍に八剣社がある。この下数歩の地を空吹という。

106 雲紋石 雷公岡にある。高さ五尺、徑(わた)り二囲ほどの石で、石の表面に、細雲が点綴するような模様がみられる。元禄の初め(一六九〇頃)附近の人が、土の中から掘り出した。大変珍しいので、役所に届け出た。昔南蛮人が彫刻したものではないかという意見も出たが、そうではないことで落着した。今、道路の側に移し、石地蔵を造って、その上に安置している。

今でも「雲紋石」があるのか。八剣神社は現東小島町。旧茂木街道の高島秋帆宅跡の先にあるので、このあたりで「雷公岡」とはどこかまず探そうと、地元の人に聞いているが、まったくわからない。岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」にも石の紹介がなく、不明となっているようである。

「雷公岡」については、昭和13年刊「長崎市史 地誌編名所旧跡部」祝捷山の項の中、300頁と301頁に次のように記されていた。

此の丘(祝捷山)に登るに三方面がある。…二は旧茂木街道よりするものである。即ち油屋町又は思案橋より東小島町正覚寺前に出て坂路を「雷公岡」に取り柿樹太郎、旻徳坂等を経て高僧都に至るものである。…

二、雷公岡(カミナリオカ) 或はカミナリとも云ふ。神成とも書く。八剣神社の上手の平地であるが、地名は八剣社勧請に因すること勿論である。後人雷公の字を借り用ふるのはその音によりてなせるものである。
此の附近維新前に於ける芝居興行地であった。維新前に於て市内各神社仏閣中維持困難の小寺社は、其の筋の許可を得、輪番を以て歌舞伎見世物等興行の勧進元となり其の純益を以て殿宇の修築を行つたものであつたので、此の附近に於ては四時興行物の絶え間が無かつた。
雷公岡の南上手に柿樹太郎、旻徳坂(鶴鳴高等女学校は大正七年寺町興福寺境内より此の附近に移転した)、北下方に八剣神社、高島秋帆宅址がある。…

以上を手がかりに、「雷公岡」「柿樹太郎」など八剣神社社務所の若い宮司にも聞いたが、わからない。なお、神社右奥は天満宮で菅原道真を祀る大きな石祠がある。左手上には「ライオンズマンション上小島」が建つ。地蔵はピントコ坂にかかる手前しか、このあたりではないが、そのような地蔵はここには見あたらないので、調査は行き詰っている。 HPによると、和歌山や北海道にたしかに「雷公神社」がある。しかし、祭神はいろいろなようである。

水紋石  愛宕山の山腹

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水紋石  愛宕山の山腹

長崎市愛宕1丁目にある。清水寺前—愛宕の下り一方通行の車道を行き、小島小の上方位のところから車道が山腹に分岐しているので、入ってすぐ愛宕山頂へ上る石段があり、人家が尽きる5分ほど登る。市貯水タンクのある下側の田中宅左にこの岩面を一部見る。岩水ないし若水大明神はもうない。近所の人の話では、ここに小川が流れていた。長年の水の浸食でできたものであろう。

岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊11頁の説明は次のとおり。
市貯水槽下の田中邸庭の崖で昭和初期、子供たちは「カマボコ岩」と言って良き遊び場所であった。古書に曰く「水紋石は高野平郷小野窪という所にあり。石面自ずから水波の紋ありて描けるが如し。この石のある所に稲荷社あり。若水明神という。※今はない

なお、長崎文献叢書「長崎名勝図絵」71頁の説明は次のとおり。
99 水紋石 高野平の東、小野の窪にある。立ちならぶ岩の石面は、皆自然に水波の紋が表われている。内に稲荷の神祠が祀ってある。岩水大明神という。俗に八兵衛稲荷と呼ぶ。

爺嬢石(じじばばいし)  上小島ピントコ坂

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爺嬢石(じじばばいし)  上小島ピントコ坂

長崎市上小島1丁目のピントコ坂途中にある。岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊34頁の説明は次のとおり。

長崎名勝図絵に曰く「僧都岡の坂道の折れ曲がる所にある。乳母の懐と言う。石は二つあって、北にあるのを爺石、南にあるのを嬢石と言う」
僧都岡は長崎女子高先の所謂ピントコ坂上一帯で、約200mのぼった左側墓地前に爺石がある。今も二本の木が茂り格好の休み場所である。嬢石は話によるともう少し上の民家のなかにあったが、砕かれ其の面影はないとか。この道筋は茂木街道だったので数々の史跡も残っている。

平松地蔵堂には俳人二宮岱雲の句碑や力士初瀬川の墓もある。この地蔵堂の真ん前に座するにもってこいの大きな平石がある。昭和年代、近くの子供の良い遊び石であったという。そこでこの石を”現代のばば石”と呼ぶことにしたいものである。

平成19年8月28日訪ねたが、爺石があるのは「唐島家墓」の入口。石を良く見たら、上面にこれを割ろうとしたのか、クサビ穴の列が残っていた。
平松地蔵堂は茂木道無縁塔からさらに登ったところ。南高から車道が下っている。岩永氏が”現代のばば石”とした石は、地蔵堂の道路向い側にある平石だが、植木鉢に占領されていた。最後の写真は二宮岱雲の句碑。