長崎の石・岩・石造物 (長崎市)」カテゴリーアーカイブ

茂木道無縁塔  市指定有形文化財

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茂木道無縁塔  市指定有形文化財 

長崎市上小島2丁目、「ピントコ坂」の途中にある。現地説明板は次のとおり。

市指定有形文化財  茂木道無縁塔
指定年月日 昭和50年12月5日 所在地 長崎市上小島2丁目698
所有者 上小島2丁目自治会
正徳2年(1712)8月天然痘が流行し、翌年3月まで患者3千余人を数えたという。このとき、死者(主として子ども)を供養し併せて長崎の町に病気が入ってこないよう祈念するために、この供養塔を建てたと思われる。
正面には釈迦如来像を、右面には阿弥陀如来像を、左面には観世音菩薩像を、裏面には地蔵王菩薩像を、それぞれ石でつくり出しており、基礎石には獅子の像が彫り出されている。
長崎市教育委員会

砲痕石  国史跡高島秋帆別邸跡

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砲 痕 石  国史跡高島秋帆別邸跡

長崎市東小島町、国史跡高島秋帆別邸跡内にある。岩永弘氏著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊10頁の説明は次のとおり。

天保9年(1838)高島秋帆は、万才町の本宅が大火で類焼したので、小島郷(東小島町)の別宅に移った。庭園内に演習場を設け、砲術の指南を行った。大砲の的として使った石の砲弾の痕があり、砲痕石として保存されている。平成年度以前は裂けていなかったような記憶がある。経年か?。そばにあった説明板に次のように書いてある。

この砲痕石のある射的場は、もとは上部も側面も石で囲んだ石室状のものであったが、明治33年(1900)ごろ当時の所有者が、この石材を利用して雪見灯籠をつくった。このとき向こう正面だけ残したのが、この砲痕石といわれている。

琥珀石  松森神社境内

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琥 珀 石  松森神社境内

長崎市下西山町、松森神社境内にある。岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊2頁の説明は次のとおり。

境内左側に、小池をまえにした大きな石が立っており、石の右上に「琥珀石」と刻まれている。
今日、字体の風化が進み近寄って見なければ良くわからない。古の記録では、巾9尺、高さ5尺余とありだれが寄進したか不明である。昭和の本「栄光の長崎」には次のように記載されている。
「この石の上手に一根3本の大きな松があったので新井白石が琥珀石と名付けた」

琥珀石は松などの樹脂が埋れてできた鉱石。現地の石はそんな石には見えず、命名がよくわからない。

猿岳(秋葉山)の石造物  鈴虫岩・岩屋・石室・石祠

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猿岳(秋葉山)の石造物  鈴虫岩・岩屋・石室・石祠

猿岳は小八郎岳の東南尾根にある。市街から僻遠な山で、バス便は茂木回りにより千々まで来ているが、便数が少なく、山歩きには敬遠されているが、なかなか良いところである。

再三の引用となるが、まず概略理解のため、故臼木寅雄氏稿「千々川遡行」(長崎岳人会「足跡」No.13 1969.12発行)の6頁から次のとおり。

小八郎岳の東南尾根、秋葉山(三〇〇米)の岩崖の上には秋葉権現、猿田彦大明神を祭るので猿岳さん詣りと称して近郷の信仰が厚い。千々から尾根通し上り一時間、下り四十分の処。一〇〇米ばかり下った稍平らな肩の西端の岩屋に気骨の強いお爺さんがいる。当年七二才。神に奉仕してもう三〇年もこゝに住いしている。この脇に捨身滝と云う立派な滝があり、こゝで水垢離修行が行われる。斯うした処からこの川を猿岳川と云い塩釜神社の西側で千々川本流に落合っている。

この稿は昭和42年10月の記録。もう40年経つ。今は千々峠(乙女峠)まで行く林道が干藤トンネル先から上り、約10分ほどの大カーブ地点で(8月現在、災害工事中でこの先通行止)カーブミラーのあるガードの脇に「猿岳さん詣り」の山道入口がある。すぐの尾根の先に鈴虫岩(最後の写真では中央下に写っている)はあり、片道5分ほどで往復できる。
道は山腹を横へはってさらに15分ほどで石室と草地地点に着く。当時ほどなく死んだ爺さんの住んだ岩屋と捨身滝(滝で別項)に下る箇所はその途中にある。広い草地は昔、ここでハタ揚げ合戦をしたらしい。

石祠のある猿岳(秋葉山)へはさらに15分、急登を要する。標高300m。何もさえぎるものなく、天草の海の展望が良い。道はまだ上へ続き、1時間ほどで小八郎岳(標高590m)へ達する。

藤田尾のしし垣

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藤田尾のしし垣

「しし垣」とは、「猪垣」と書かれるが、イノシシに限らずシカやサルなどの獣害から農作物を守るため、石や木、土、竹などで築かれた構造物。江戸時代に多く造られた。
長崎では、西彼杵半島にイノシシが多く、石造りの「猪垣」と言われるものが多く残るが、長崎半島では珍しく、藤田尾の山中に「しし垣」の型を成すものが残っていた。八郎岳山系は野生鹿が多く、ここのは「シカ垣」と呼ぶべきだろう。

場所は、藤田尾川と津々谷の滝の沢に挟まれた尾根の山中。県道34号線藤田尾橋が架かった先の崖擁壁上部である。最初、三和史談会中島先生に連れて行ってもらったときは、あまりに造りの見事さに、何か由緒ある昔の建物の遺跡かと思ったが、藤田尾荒木氏の話では、あくまで「しし垣」である。ここに川から水を引き、1軒の農家と田畑があった跡らしい。シカ除けのため、石垣の高さは背丈くらいある。広い土地である。

藤田尾川の大正七年石橋架橋碑

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藤田尾川の大正七年石橋架橋碑

長崎市藤田尾町の浜近く河口にある。ここは集落を結び、学校へ通う要路であった。三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊377頁、荒木新氏稿「第四節 藤田尾余聞」中の架橋碑の記述は以下のとおり。藤田尾には、思わぬ史跡が多いのに、地元から詳しく報告されていない。
昭和22年茂木村から為石村に編入された関係か。大ツバキが近年になってやっと紹介されており、この架橋碑も立派なものである。石橋の当時の写真はないのだろうか。刻面も正しく記録しておく必要を感じる。

…藤田尾は急な斜面に集落をなしているため、道路は板石を段々に積み重ね、幅は一メートル以上、延長も数百メートルにも及んでいる。このように大石を使用し、数も相当なものなので、初めて見る人には強く印象に残ったそうである。今は一箇所「たのぎわ坂」に残っている。祖先の苦労がよくうかがえる一端である。
又茂木村のころ、西の端に位置する藤田尾に、近郷にない立派な石橋を架けようと、部落在住の村会議員が激論を闘わせ、やっと石橋の架橋に成功した。この橋もその後の大水害で流され短命に終わった。今は橋のたもとに、大正七年に架橋した旨を記す架橋碑のみが残っている。

架橋碑の読み取れた刻面は、次のとおり。碑の寸法は、台座高さ0.9mの上に、全横1.2m、全高1.7m位。
架 橋 碑
藤田尾名隣在於茂木村之南道路険 悪往来甚困焉況郷中有渓流一旦有 降雨乎河川暴溢人通頓杜絶郷人愛 之矣大正七年竹下水造君提議村 會而請架石橋衆議容之同年六月起 二郷人子來補設越三月竣成郷人請 余記所其由来則述其梗概欲使□□ 此橋者傳郷人徳也
大正七年丁巳年秋八月  永石深茂撰並書
監督人 竹下水造 山中□□郎 竹下弥田太七

なお、この橋名は不明。せっかくの石橋は架橋後5年ほどあとの水害によりすぐ流出した。川に散乱した石は、家の庭などに持ち去られ、一部、残骸の塊りを見るのみであった。  

長崎の女男岩・夫婦岩(石)

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長崎市南部の女男岩・夫婦岩(石)

ことの発端は「みさき道」の蚊焼茶屋跡の場所探しである。国道蚊焼入口から「みさき道」は急な坂道を上り、大きな桜の木のある草地に出る。ここは長崎の港外の島々の展望がよく、茶屋跡でないかとこれまで推定されていた。
関寛斎日記の記述はそうでない。「蚊焼峠」の前後の位置関係や、「喫水」の清水から疑問を感じ、字名を調べるとここは「女男岩」となり、字「古茶屋」は別にあり、まだここから100mほど先、草積祠のある場所の上の畑地が茶屋跡と考えられることとなった。

前の推定場所であった草地の土地所有者蚊焼高比良氏にも、このことは確認している。茶屋とは何も関係なかったのである。では、字名の元となった「女男岩」はどこにある岩のことか。重ねて高比良氏に尋ねた場所の岩は、写真のとおりであった。
しかし、そこは「庚申ノ元」の区域。別項に載せた「庚申塚?」のすぐ脇。写真の岩を男岩、「庚申塚?」の岩を女岩に見立てると考えられないこともないが、まだすっきりしないので調査したい。

「女男岩」ないし「夫婦岩」という岩・石は各地に多くある。陰陽石とはまた違う。相いふさわしいその実物があるからこそ名前がつけられ、地名が生まれたのであろう。これを探すのも一興がある。

長崎市の南部地域でこれまで記憶したのが、次のとおりあった。
(1)小ケ倉団地背後の岩稜に、セキ岩・オオ岩・ウマ岩とともに「夫婦岩」という岩がある。どの岩のことかは確認してない。
(2)先日、藤田尾の浜に下った途中に見かけた高さ3mほど大きな石。2つに割れ見事な石であった。すぐ先の小沢に橋がかかり、「夫婦石橋」の銘板があった。
(3)有名な野母崎以下宿海岸の「夫婦岩」。観光スポットである。
(4)前三和町「字図全図」で調べると、あと1箇所「夫婦石」の字名がある。徳道集落先の「熊ノ岳」入口分岐あたり。この西側山手。サイクリング道路と上はゴルフ場である。
(5)「長崎名勝図絵」204頁によると「覆鍋山(鍋冠山)に二つ石が相対して立っている。夫婦石と名づける。」との記述がある。展望公園となって見当らない。
なお、同図絵は、上小島ピントコ坂に「爺嬢石(じじばばいし)」があることを記していた。爺石のみは残っていた。(別項)

また、北部では、滑石大神宮一の鳥居左側に川から移された「滑石の夫婦石」がモニュメントとしてある。

蚊焼字庚申ノ元にある庚申塚

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蚊焼字庚申ノ元にある庚申塚

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊、207頁原田博二氏稿「第二編 町の成り立ち」中の記述は次のとおり。

庚申ノ元は、”こうしんのもと”と読み、庚申会とか庚申塚と呼ばれた信仰が実際にこの地でおこなわれたことがうかがえる。昔は庚申塚(塔)なども建てられていたものであろう。庚申会(庚申待)は、平安時代に伝えられた中国の守庚申に由来するもので、中世から近世とさかんに信仰され、その範囲はほぼ全国に及んでいた。この庚申(かのえさる)の夜は、帝釈天や猿田彦神などを祀って、誰しもが床につくことなく、徹夜して夜のあけるのを待ったという。というのは、この日就寝すると、身体に巣くう三尸(さんし)という虫が体内からぬけでて、その罪科を天帝に告げるためとか、三尸が人の寿命を短くするためとか信じられたためであった。

上記は三和町の地名に「古代や中世のものと思われる字名が現在も多く残っている」とし、一例で「庚申ノ元」の字名も簡単な説明をおこなった文である。「女男岩」の字名の岩とともに、この「庚申塚」も探してみた。
それらしきもの?が写真のとおりあった。場所は蚊焼入口から前焼却場に行く車道が、地蔵寺からの車道と合流する少し手前の右脇木立内。字「庚申ノ元」区域内の東端となる。

三和町郷土誌の「蚊焼の石祠一覧」では、「晃神塚 石祠 天明元年丑(一七八一) 施主 喜宗汰 場所 宮ノ脇」としてある。この石祠は、浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ その14」では、次のように紹介されていた。
ただし、石祠の字は「早」の字の中央縦線が上に突き出ているその「神」だ。右の石塔は○の下に梵字のようなマークあり、経塔と思われる。

…また、宮の脇の庚申塚は、町道蚊焼川原線と同支線の交差する三叉路の小高い丘の雑木林の中にあり”申様(か?)”と刻まれた石碑が立っている。
当時の地域振興のシンボルとして、高比良義男氏宅の猿地蔵とともに、この「庚申ノ元」の字名の残る山林の中に当時の姿のままらしくに残っていることに感動した次第である。…

深堀城山の城塁と俵石

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深堀城山の城塁と俵石

林正康著「長崎県の山歩き」葦書房2000年新版、54〜55頁関係部分の説明は次のとおり。山の遠景は香焼側から写す。

18 深堀城山 350m  中世山城の遺構が見られる

…山頂は平坦で、その回りを鉢巻き状に石と土を積み上げて築かれた城塁が目をひきます。東西約二〇〇㍍、南北約一〇〇㍍、厚さ約四㍍あります。その年代や目的はまだ解明されていないようですが、戦国動乱の時代、緊急事態が発生すると、武士だけでなく領民全員が立て籠る場所だったかもしれません。

山頂に向かって右方向へ空堀をすすむと、八幡宮があります。木造の社の後ろに石造りの祠があり、深堀氏が関東より下向したとき、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の分神を奉持して、ここに祀ったと伝えられています。空堀を半分ほど回ったところに道標がありますから、それにしたがって善長谷の方へ下ります。山道の両側の斜面に「竪堀」の跡を見ることができます。全部で九本確認でき、敵の移動を困難にするためのものだったと考えられるそうです。

途中、俵石と呼ばれる直径三〇㌢、長さ一㍍〜一・五㍍の柱状の石が、地中に整然と配列されたり地上に散乱している場所も、道標にしたがって訪ねると興味深いでしょう。古代人が運び上げて、石垣を築いたという説と、地質学でいう「柱状節理」で俵石ができたという説があります。…

小浦波止場御船蔵跡と浜石・投光の怪

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小浦波止場御船蔵跡と浜石・投光の怪

長崎市の西部地区、福田は大浜、次は小浦、そして福田本町となる。小浦の海岸通りは久保工業の大きな工場があったが、小江工業団地へ移転したため、今は取り壊され、すっきりした道が造られている。
小浦の波止場はその川先にある。長崎が開港する前、福田浦がまず開港された。江越先生によると、この小浦の波止場は、昔の姿が今もよく残っていて市内でも珍しい。ここは船津という。

調べてみたら荒木正人稿「新編 長崎名勝図絵」(長崎文献社平成10年刊「長崎町人誌第六巻」256頁)に次のとおりあった。
小浦波止場御船蔵跡 この波止場は文化六年(一八〇九)に構築され、南蛮船が沖に現われたとき、番所の役人がただちにうち乗って出船する、船のたまり場である。弘化三年(一八四六)警備する役人の詰所として御船蔵が建てられた。

次は国道の反対となる外海の海岸側。いつも通りかかって浜の岩場に船の繋石らしい石柱が数本立っているのは気になっていた。平成19年8月15日、浜に下りて確認してみた。6本ある。古いのもあるが、新しいのもある。コンクリートの大きな角片も近くに散乱している。
石柱は、海岸の穴にまずこれを立て、それをコンクリートで塗布し、電柱のようなものにしたような形跡がある。古いのはそのはがれたもののようである。防波堤の何か施設跡か。先の御船蔵の繋船用でもあり、単純に考えると部落のペーロン行事に立てられる竹竿のくくり石とも考えられる。

最後は夕暮れの写真。小浦市営アパート塔屋背後の山中の小さな1点を写した。白く写ってしまったが、これは昼間通りかかっても、山中に青色の投光がいつも光っている。鶴見台森田氏によると飽の浦変電所上にもあるらしい。何なのか。確認してないが、船舶の航路目印か、航空機の空路目印ではないだろうか。