長崎の石・岩・石造物 (長崎市)」カテゴリーアーカイブ

式見の不整合 複数の地層が観察できる

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式見の不整合 複数の地層が観察できる絶好の地

布袋厚著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊、111頁による説明は次のとおり。県・市の天然記念物には指定されていないようである。

「式見の不整合」は、長崎変成岩類の上に長崎火山岩類がのっている境界面として有名である。場所は手熊と式見をむすぶ国道二〇二号線「蝶ヶ崎トンネル」北口のすぐちかくである。海の浸食によって断崖が露出した海岸で、地元では「ブイシャゴ」とよばれるところである。海上には浸食でとりのこされてそそり立つ「トンビ岩」(大村藩の文書『郷村記』にある名称は「立石」)がみえ、式見の景勝地である。バスで行くなら、「式見」で下車し、漁港に出てから南(海にむかって左)に二百五十メートルほど歩き、海岸におりると、ほどなく現地につく。

境界面よりも下は、長崎変成岩類の結晶片岩である。境界面のすぐ上には結晶片岩の破片の層がある。これは、岩盤の岩石がくだけて石ころや砂となり、地面をおおっていたあとであり、境界面が地表に露出して浸食されていた証拠である。このような境界が「不整合」である。破片の層は「基底礫層」とよばれ、これがみつかれば地層の境界が不整合であると判断できる。
基底礫層の上のほうで長崎火山岩類の凝灰角礫岩にうつりかわっている。…

川原大聖寺跡墓碑群 市指定文化財

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川原大聖寺跡墓碑群 市指定文化財

長崎市川原町にある。現地説明板は次のとおり。

長崎市指定文化財
一 種類及び指定名称
有形民俗文化財「川原大聖寺跡墓碑群」
二 指定年月日
昭和六十一年一月三十一日
三 指定の理由
室町時代以前の川原領主河原高満公一族の墓碑群であり、五輪の塔及び宝筐印塔は町内でも最古の遺物である。
五輪の塔で最高高八十八センチメートル、宝筐印塔で八十センチメートル、室町期のものと思われる。
昭和六十一年十二月 長崎市教育委員会 

為石岩崎墓地にある海難供養塔

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為石岩崎墓地にある海難供養塔

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊783〜785頁の説明は次のとおり。

三和町為石岩崎墓地入口の一画に「溺死万霊塔」「群霊塔」「女島遭難供養塔」の三基の供養塔が並列して建てられている。この漁村の被害の大きさに胸うたれるものがあり、漁民家族の悲しみが身に迫る思いがする。

一 溺死者万霊塔
蛇紋岩の切石で高さ一八七センチの供養塔
正面  「溺死万霊塔」と刻まれ
左側面 くだれる世の怖しき心を御安どの御仏の国に導きたまうにや文化十二年の春漁を業とせる此浦人一百五十余人唯ひとゆりの浪に溺れむなしくなりぬその亡(き)跡を弔らわんとこたび浦川沙童この碑を建供養せらるに予も随喜の菩提をなして
さめよさめよとても  七十四翁   御法とちるさくら  其水
裏面  文化十二年乙亥二月日  嗚呼時哉 願主  武士と思へば ゆゝし春の海 浦川沙童
右側面 
春の海に身を清めてや法の道   雨柳
亡影のしるしと塚の柳かな    可□
うかみ行く花の筏や三ッせ川   素石
むらさきの雲や迎へのはるの風  其石
七回のその先を□くみし人々の碑□□ 筆をとるも□□し日に日にて 命毛のたへてはかなき古筆かな  敲雲座一峰
台石(右)  世話人 射場 六之丞 茂 平  六軒 十五郎

二 群 霊 塔
高さ  一〇〇センチの切石の塔
正面  「群霊塔」
左側面 施主 高野屋和吉
右側面 嘉永三庚戌七月
(注)この塔の由来はわからないが、宝性寺の記録によれば、大風のため出漁中の為石村の漁夫50余人が溺死し、当寺で大追善を行ったとしてある。

三 女島遭難供養塔
高さ  一二〇センチの御影石
正面  「溺死精霊塔」
左側面 明治三十九年旧九月七日 男女島遭難者百九十七名之墓
右側面 篠原広吉 世話係 浜辺喜一

深堀赤土の海岸丘にある石塔  長崎市大籠町

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深堀赤土の海岸丘にある石塔  長崎市大籠町

長崎市南部深堀町から県道を大籠町へ行く。海の景色が良いところに三叉路となり、昭和11年の農道改修記念碑が建つ。左に上れば大籠町、真直ぐ進むと同町赤土の集落である。赤土の最初の家のかかる大カーブの道路は、現在、改修工事中である。
カーブを下りきったところにごみステーションがあり、小さな畑の奥の木立の中にすぐ石塔はある。2年前、長崎要塞地帯標を探していて、ここに不思議な石塔があると地元で聞いたためわかったのだが、行ってみるとどうも経塔のようである。

高さ60cmほどの2m四方の四角い石囲いの上に、平石の石塔が立つ。寸法は横50cm、厚さ15cm、高さは1.6m位。刻面は真中がはがれてよくわからない。上部に25cm位の「○」、下には栄誉の「誉」らしき字に続き「宗哲」とかなり大きな字がある。史跡案内書や資料に見当たらない石塔である。

地元の話では、時代がいつの頃かわからないが、この前の海で船の海難があったとか、前面の島、高島の島流しや炭鉱当時、高島からこの浜に逃げ出す者が多く、それらで溺れ死んだものの供養塔でないかという。その他、疫病の死者をまとめて葬った墓所など考えられる。
石塔刻面にある「宗哲」とはどのような人物だろうか。調べる必要がある。

為石年崎の「れき質片岩」

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為石年崎の「れき質片岩」

長崎市為石町と川原町の境となる年崎海岸の突端に見られる。三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊11〜13頁、地質の「長崎変成岩(西彼杵変成岩)」中の説明は次のとおり。

長崎半島は西彼杵半島とともに長崎変成岩が広く分布している。…三和町では緑色片岩・黒色片岩・れき質片岩の結晶片岩類がみられる。…

「れき質片岩」は、れき岩を原岩とした結晶片岩である。為石年崎、三和中学校入口付近など局所的にしか分布していない。結晶片岩の中でもれき質片岩は全国的にも珍しく、四国の大歩危のれき質片岩は天然記念物に指定され有名である。為石年崎海岸に露出しているれき質片岩は、原岩のれきも明瞭に観察できるもので地質学的に重要な露頭である。

れきの主体は優黒質岩(はんれい岩・せん緑岩など)であるが、優白質岩も含まれている。優黒質岩のれきの大きさはおおむね五〜一五センチで、はんれい岩のほかに角せん石の集まった岩石もある。優白質岩は中〜細粒の角せん石せん緑岩を主とする。原岩としてのれき岩の構造が保存されており、成層状態や、扁平なれきが層理面に平行に重なっているのなどが観察できる。細粒れきによる成層部分では、原岩の斜層理を示す岩相も見られる。

全体的には緑色を帯びた層厚二〇メートル以上のれき質片岩で、年崎から三和中学校方面へ分布がのびていると考えられる。本岩中のはんれい岩れきを構成している角せん石の巨晶を使って測定された放射年代は九一〇〇万年の値がでている。このように様々な意味で年崎のれき質片岩は学術的にも貴重なものであって、護岸工事などで今後埋めたり破壊されたりしてはならないものである。

蚊焼波戸の桜並木道と桜御前の石祠

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蚊焼波戸の桜並木道と桜御前の石祠

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊の749頁、その他の信仰「蚊焼の石仏」において、高崎一郎先生は「桜御前」の石祠について、次のようにふれられている。

蚊焼には、石仏が数多く点在する。年代を見ると余り古いものは見当らず、年代不詳のものが多いが、どうしてこうも多いのか、江戸末期近く一つのブームにのって盛んになったものであろうと思われる。…
石仏の種類も様々で地蔵菩薩・観世音菩薩・阿弥陀仏の外に水神としての守り神や、恵比須様、摩利支天、天神様、それに何々家先祖神など数えるにいとまがない。中には桜御前と称するものも数か所にあり、応仁御前と呼ばれる碑石もある。

石祠一覧には、波戸にある明治二四年一一月、桑原幸松建立のものと、小家にある昭和八年七月、桑原弥太郎建立のものの2基が載せられている。小家のはまだ訪ねたことはないが、波戸のは最初見たときから、気が惹かれた。まず「桜御前」という碑名とその建っている場所である。

蚊焼から岳路へ今の国道は、蚊焼大川沿いに行く。「岳路みさき道」もほぼ同じである。しかし、波戸から南百合崎を越し、海岸沿いの丘陵を岳路へ行く道もあった。春は桜並木が美しい。カーブの多い道。今は町道折山線となり、昭和40年認定である。
この入口に「桜御前」の石祠は建つ。「桜御前」の名も桜並木と何か関係はないだろうか。高崎先生に聞いたが、由緒はよくわからなかった。

HPでは興味深い話があった。静岡県森町には「桜姫」の石碑がある。桜姫は藤原中納言の奥方となったが、保元の乱に敗れ中納言は島流しされ、姫は都に子を残し尼となって旅に出た。最後は森町に庵を結び亡くなった遺徳を偲ぶ。
福島県郡山市には赤津「御前桜」の伝説がある。京の公家の姫が人買いにさらわれ、この地に連れて来られた。慣れない下女仕事に耐えかね、望郷のあまり、桜を手折り挿し木して「帰ることが叶わぬならば根付くな!」と我が運命を占ったところ、春には花が咲き、姫は京から迎えの人たちと無事帰ることができたという。
蚊焼の「桜御前」石祠も、いずれに関係するのか。調べればおもしろい話となりそうである。 

梅香崎唐船繋場の繋石とはどんなものか

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梅香崎唐船繋場の繋石とはどんなものか

十人町の「みさき道」道塚について「人によっては海岸がここまで来ていて、船のロープのもやい石ではないかと言う人もいる」と前に記した。当時の「もやい石」は残っていないだろうか。「長崎市史 地誌編」は、梅香崎唐船繋場の繋石が3箇所に転用さていることを記録している。

このうち、長崎市立博物館「長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」平成16年は、次のとおり記している。
28 唐船維覧石(所在地:玉園町1番16号 杉山宅・旧迎陽亭内)  60頁
西道仙(1836〜1913)の「唐船維覧石」の書が刻まれている。この石はかつて梅香崎の唐船繋場の繋石であったという。梅香崎には宝暦12年(1762)に石垣を築いて、唐船繋場が構築された。ここには唐船の修理が行われる場合、関係の役人や唐人達が詰めた木造二階建ての詰所も設けられていた。この繋石はとても珍しいもので、清水寺や梅香崎天満神社境内の燈籠の棹石この繋石といわれるばかりである。

「梅香崎の唐船繋場」は、現在の湊公園近くの梅香崎角ローソン一帯。玉園町の旧迎陽亭へ見に行った。かなり大きな石柱で比較にならない。清水寺や梅香崎天満神社は燈籠の三本足に使われている。

迎陽亭のは別の話がある。岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年の17頁は、「今の長崎駅近くの波止場に唐船継纜用の石があった。大黒町辺りの若者達が、迎陽亭の主人が骨董趣味があることを知り。この石をかつぎこんで一夜の宴会費に代えたという謂れのある石である、と」

瞑想石  野母崎権現山展望台

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瞑想石  野母崎権現山展望台

長崎半島の先端にある権現山(標高198m)は四方に天草、雲仙、五島灘、高島、香焼、長崎方面、遠くは鹿児島県甑島を一望することができる。寛永15年(1638)には遠見番所が設置されてから、外国船の来航を監視した。その後、明治・大正・昭和を通じ、日本海軍の望楼や高射砲陣地も築かれ、現在は展望公園として整備されている。
「瞑想石」と刻んだ石は、山頂展望台の階下に大きい座石とともにある。観光百選の地。公園整備のため近年設置された石のようで、特に由緒もないと思われるが、気のきいた石柱でなかろうか。

川原本村海浜の蛇紋岩れき浜

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川原本村海浜の蛇紋岩れき浜

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊、地質の項13〜15頁「三 蛇紋岩」から

蛇紋岩は超塩基性岩に属するかんらん岩が蛇紋石化してできたものである。脂肪光沢をもった濃緑色の岩石で、三和町では栄上を中心に為石、蚊焼、為石から野母崎町二ノ岳付近へと三和町の中心部一帯に広く分布し、野母崎町井上付近まで広がっている。…
風化の進みはじめた蛇紋岩は水を含むと崩れやすいものであるが、岩石そのものは緑黒色で重厚な感じのする岩石である。磨けば非常に美しく、記念碑などに好んで用いられる。

蛇紋岩地帯の東方にあたる川原本村海浜と宮崎海浜(川原海水浴場)には、蛇紋岩だけからできた「れき浜」が、数百メートル続き、蛇紋岩のみごとな円れき浜をつくっている。特に川原本村の海浜のれきは拳大の円れきがそろっており、自然な状態が良く保存されている。県下でもこれに類するものはない。三和町町民が有する天与の美しい財産のひとつと言って良い。

茂木植物化石層  県指定天然記念物

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茂木植物化石層  県指定天然記念物

長崎市茂木町。天草フェリー前の長崎市茂木支所庁舎の裏手となる。現地説明板は金網が邪魔し写真の字が読み取れないので、「長崎市の文化財」HPの説明を掲げる。

茂木植物化石層  県指定天然記念物

指定年月日 昭和54年7月27日  所在地 長崎市茂木町字片町 所有者 池山寅一郎
茂木町北浦の白浜海岸に露出する地層である。露頭の下部の、厚さ1.5mの泥岩の層に植物化石を含んでいる。植物化石は31科40属52種が識別されているが、その大部分は双子葉類で、ブナ・イヌザクラ・フウ・ケヤキなどである。この化石から推定されるこの地層の地質時代は、新生代第三紀鮮新世の終りごろ、1000万年前と考えられている。
1879年(明治12年)、スェーデンの探検家ノルデンショルドが長崎に立ち寄った際にこの化石を採集し、本国へ持ち帰った。これを古生物学者ナトホルストが研究し、発表したが、これが日本の新生代植物化石の最初の記録となって国際的にも有名である。