長崎の石・岩・石造物 (長崎市)」カテゴリーアーカイブ

豊前坊(飯盛神社)の両国力だめし石と蛤石

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豊前坊(飯盛神社)の両国力だめし石と蛤石

林正康先生の「長崎県の山歩き 新版」(葦書房2000年)豊前坊(標高340m)の項、18〜19頁に次のとおり紹介がある。

…石段を登ると、飯盛神社があります。社殿の背後の山は飯を盛った形をしているので、飯盛山といい長崎七高山の一つにあげられています。豊前坊というのは、英彦山にある社寺の豊前坊の名をもらったものです。…
社殿の左横には、両国梶之助土俵の力だめし石があります。地元本河内出身の両国関は、昭和三年(一九二八)、国技館で初土俵を踏み、小結、関脇と昇進し、十三年春には四八連勝中の横綱双葉山にうっちゃりをかませ、観客をわかせましたが、結局物言いがついて敗れました。

碑は「両国関初土俵力験之石 昭和二年十一月」とあり、石はその右の丸石であろう。
なお、両国碑の右側には、「蛤石」を飾っている。後の「蛤石の由来」碑文は次のとおり。

昔より当山に蛤石のあること傳説ありしが、昭和二十八年秋発見せり 此蛤石の頭をなで祈願すれば万病不思議になをる
昭和二十八年十月 発見者 五島作太郎ほか6名を連記 管理者 本河内町中

豊前坊(飯盛神社)へ行くには、田手原バス停先に案内標識があり、参道口の広場まで車が入ってすぐである。

彦山の昭和十三年長崎アルカウ會「質実剛健」の碑

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彦山の昭和十三年長崎アルカウ會「質実剛健」の碑

林正康先生の「長崎県の山歩き 新版」(葦書房2000年)彦山(標高386m)の項、19〜20頁に次のとおり紹介している。この碑のことはミラン山の会のHPにも写真があった。

彦山へ登るには、飯盛神社の石段を少し下がった所から左におれ、広場の右端から製材作業所の前を通って行きます。
頂上にある英彦山神社へ登る石段のわきに、珍しい石碑があります。「質実剛健」と達筆で刻まれた文字の右横に「大正十一年九月十八日創立」、下に「長崎アルカウ會」、左横に「昭和十三年十二月十八日二百回登山記念」と刻まれています。
山の上には、ロボット雨量計の中継局やマイクロウエイブの巨大なバラボラアンテナがたっています。
山頂からの眺めは長崎の町が一望に見渡せ、稲佐山にそって深く湾入した長崎港の港口には、香焼や伊王島が浮かんでいます。

実際行くには、田手原バス停の先に「豊前坊神社」の標識あり、車が広場まで上る。これから左へ山道を登って20分、山頂の「英彦山神社」参道石段にかかった左脇にある。横幅4m、高さ2mほどある大きな石面。まさに達筆である。山の先駆団体の記録が見あたらないのが残念である。

ねずみ島(皇后島)の今昔

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ねずみ島(皇后島)の今昔

長崎港の入り口に、「ねずみ島」の通称で市民に親しまれていた「皇后島」がある。昭和13年刊「長崎市史」によると、昔は次のとおり。

鼠島は往時野鼠の発生多く作物悉く其の食ひ尽す處となつたので其の称を得たと云ふ。又其の地戸八浦の西北に當るを以て子角(ネスミ)嶋と唱へた。外人等はフイセルアイランドと称すと云ふ。又皇后島と称す。昔三韓征伐の途此の島に繿を繋け給ひしにより後人皇后島と称し、その音によりて佝僂嶋と書くものがあるのは誤である。
安政二年二月外国人遊歩場として本島を外人に開放した。蓋當地に於て否日本に於ける一般外人上陸開放の嚆矢であらう。…
明治三十六年七月…瓊浦遊泳協会を組織し…遊泳術教授に努むると共に一般人の海事思想普及上進に努めて居る。

毎年の夏休み、多くの子どもたちが通ったこの島も、長崎港の開発計画により1989年8月いっぱいで水泳道場は閉鎖され、島の3分の2が埋め立てられ、小瀬戸町と陸つづきとなった。現在は松山町の「市民プール」で水泳教室が行われている。
この島が地質学上、貴重な島であることはあまり知られていない。布袋厚氏著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊は、次のように指摘されている。

ねずみ島は全島が「変斑れい岩複合岩体」でできている。この岩石はあらい結晶の集合体で、こい緑色の部分と黄色っぽい部分が混在している。これは、野母半島西岸に分布する九州最古の岩石によくにており、おそらく同じものと思われる(…)。長崎港周辺でこの岩石が分布するのは、ねずみ島だけであり、ほかを探してもまったくみあたらない。
このように、ねずみ島とその海岸は、小さい島にもかかわらず、いろいろな価値が凝縮されているので、将来にわたって保存すべきである。開発優先の時代はおわっている。

写真はねずみ島の現況。特異な岩石とともに桟敷跡、神功皇后之御舊跡碑を写す。明治期長崎の古写真でも、野外パーティーを楽しむ外国人の姿は、背景に高鉾島や八郎尾根が写っており、この島に間違いない。

長崎金星観測碑・観測台 県指定史跡 

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長崎金星観測碑・観測台 県指定史跡

長崎市中央部の山、金比羅山の中腹となる金比羅神社から道標により右手の道に入る。展望のよいところ。現地説明板は次のとおり。
なお、脇に長崎県測量設計業協会が設置した「我が国初の経緯度原点確定の地」の碑があるが、その地は実際は南山手で、諸般の事情からここにとりあえず設置されている。

県指定史跡 長崎金星観測碑・観測台

指定年月日 昭和35年7月13日  所有者 長 崎 市
明治7年(1874)金星観測の最適地として日本が選ばれ、フランス、アメリカ、メキシコなどから観測隊が来日し、横浜、神戸、東京、長崎で観測が行なわれた。
フランスの天文学者ジャンサン一行6名は、金比羅山に観測地点を設け、明治7年12月9日、太陽面を通過する金星の観測に成功した。この碑は、観測が成功したことを記念するために、ジャンサン氏の願いにより建てられたものである。
また、平成5年(1993)この記念碑から24mの地点で、観測台が発見された。この観測台は、この地で金星観測が行われたことを示す貴重な遺構であり、また、日本最初の経緯度原点(チトマン点)を決める基準となったダビットソン点の位置を推定する手掛かりとなるもので、測地学史上からも重要な意義を持つものとして、平成7年3月16日県の史跡に追加指定された。
長崎市教育委員会

為石石鍋製作所跡

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為石石鍋製作所跡

為石石鍋製作所跡は、三和中学校上の墓地から左の寺岳登山道に入る。すぐ白川稲荷神社で赤鳥居道を登り、上祠から下に下ると右手の山際に跡の岩面2つがある。
三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊26頁のコラム。外山三郎氏稿「為石石鍋製作所跡」は次のとおり。あと1箇所、川原字スビ石の製作所跡にもふれられているが、場所がよくわからずまだ訪れていない。長崎県遺跡地図によると岬木場、大崎にもある。

為石石鍋製作所跡・川原石鍋製作所跡

為石にある三和中学校北側の、かなり長い坂道を登ると、海抜およそ五〜六〇メートルの雑木林内に石鍋製作所跡がある。高さ数メートルの蛇紋岩の岩壁に十数個の円形の石鍋製作途中のものが、あたかも大きな皿を伏せたようにして残っている。
また川原住吉神社の西、八〇〇メートル、海抜およそ五〇メートルのところ(字スビ石)にも石鍋製作所跡がある。…
西暦一〇〇〇年、平安末期から鎌倉初・中期にかけて西彼杵半島や野母半島で石鍋製作が行われたらしい。そのうち西彼杵半島大瀬戸町のものは、軟らかく製作しやすいこの地方の滑石を原料としたもので、その代表的なホゲット製作所遺跡が国の史跡に指定されている。野母半島なかでも三和町では滑石の分布が少ないため、蛇紋岩を原料として製作にかかったものと思われる。しかし一般に、蛇紋岩は滑石よりはるかに硬く、なかに軟かい部分も混じっていてこわれやすい。従ってこれで果たして使用に耐える石鍋ができたかどうか疑わしい。しかし、いずれにしても、これで石鍋製作にとりかかった古人の苦心のあとがしのばれてほほえましく、貴重な文化財といえる。  外山三郎

高鉾島の正体不明な台座石

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高鉾島の正体不明な台座石

長崎港口の無人島「高鉾島」は、長崎市南公民館どじょう会「城郭他遺構調査書(追加 その一)平成5年の、(六、台場、番所)「4、高鉾島台場跡」に調査記録があり、この中にある記録を見つけた。
同会が高鉾島を平成4年11月調査したものだが、「(ア)地点山頂広場、長さ約8.5m、幅広いところで4m。何の為のものか不明であるがコンクリート台が築かれて」とあり、台の形状寸法図と写真が掲載されていた。

現物をぜひ確認したくなり、磯道松山氏に頼んで釣り船を出してもらい、江越先生・西山中尾氏とも4人で、平成18年12月高鉾島に上陸した。島内の山道は特別に荒れておらず、台場跡を見学しながら約25分で山頂広場にたどり着き、台座と対面した。

高さは約1.05m、上面に厚い石板が乗せられ縦76cm、横77cmあり、大きな長方形の溝と3つの穴が三角としてあった。コンクリート製でなく、台座とも硬い砂岩を組んで作られているようで、目地や長方形の一部に漆喰かモルタルが塗られている。高鉾島は殉教跡から台場・戦争と長い歴史があり、この台座が古いのか、新しいのか全然わからない。

どじょう会の記録だけではわからないことが多かった。長崎歴史文化博物館の史料によると、高鉾島にも明治九年「地理局測点」が海岸べりの平地と山頂広場の位置に2箇所設置されたこととなっている。もしかしたら、この測点台座ではないかと思って調査に行ったわけだが、正体不明な台座で史料・資料類、用途をなるべく当たっている。

祭祀・祠座・像座・砲座・測量・観測・灯火などいろいろ考えられる。この島は変遷が有りすぎたのだ。天門峰の測点岩も上面に小さな四角の彫りがあった。「長崎市史」によると天門峰には山頂の自然石の上に毎夜小さな灯火を灯し、船の航路の目印とした記述があるが、ほんとうの史実かわからない。
この間、立山三界萬霊塔横で忘れられたような石祠を見た。台座はやや小ぶりだが造りは似ている。案外、こんな単純な石祠だったということで高鉾島のも決着しそうだ。

最近になって、「高鉾島」のある重要さに気づいた。それは「海図」からである。地形図には載らないのでわからないが、「海図」では東経129度50分、そして北緯32度43分が高鉾島で交わっている。
高鉾島の構造物の結果はどうであれ、大正年間、長崎報時観測所が行なった経緯度観測や、水路部では毎年12ヵ所の経度を測定し海図を作成していたから、長崎高鉾島は、明治初期からこれら各種観測や測量の重要測点と目標地点となっていたことは、いろいろな記録からうかがえる。

(下2枚の写真は中尾氏画像)

大籠町新田神社の石祠

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大籠町新田神社の石祠

新田神社は、深堀から平山台団地へ行く車道途中の大籠町にある。神社奥の石祠は大きく、屋根の部分に蛸・蟹・海老の姿があり珍しい。道路反対側には六地蔵堂もあった。
三和史談会中島勇氏は、キリシタンの宗教色が強いと、平成10年三和町文化協会誌に「新田神社考」を掲載されている。

中尾正美編「郷土史 深堀」昭和40年刊、第五部「深堀史跡篇」の説明は次のとおり。

(三七)新 田 神 社(大籠町)
新田義興を祀る神社で、其の奉祀の原因及時期はさだかでないが義興が矢口渡に誘致されたので正平十三年(一三五八年)で、それより百年位前に此の地に新田正久が居住していたと言われている。
秋暑し陽に酔ひくゞる木の鳥居 寺田 智子

蚊焼の俳句つき墓碑 曲江舎奇流雅翁

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蚊焼の俳句つき墓碑 曲江舎奇流雅翁

三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」平成9年8月183号掲載記事 中島勇さんの「ご存じですか」は次のとおり。
蚊焼の俳句つき墓碑

蚊焼の地蔵寺下の国道端に小区画の墓地がある。
その中央部分に苔むしてはいるが蛇紋岩の立派な自然石が立っている。よく見るとそれは、曲江舎奇流雅翁居士(きょくこうしゃきりゅうがおうこじ)と記されているから墓碑であり、天保十五年(1844)の建立である。
そこには「吹けば薄に(すすき)に戻る柳哉(かな)」の遺吟が刻まれている。その達筆な文字といい、曲江舎奇流という風変わりな戒名といい、実に風流を感じさせるものがある。
今は立派であるが統一規格のものばかりになり、このような風流気のある墓碑にはめったにお目にかかれない。
雅流居士の俗名を田嶋卯兵衛と言うから、武士であったろうか。現在、蚊焼に田嶋姓を名乗る家はない。

小ケ倉の褶曲地層 長崎県指定天然記念物

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小ケ倉の褶曲地層 長崎県指定天然記念物

現地説明板は判読不明のため、長崎県教育委員会HP「長崎県の文化財」から

長崎市小ケ倉の褶曲地層  県指定天然記念物

指定年月日 昭和38年7月23日  所在地 長崎市小ケ倉団地  所有者 長崎県
昭和37年、小ケ倉海岸の埋立工事のための土石採取が行われた際にあらわれた地層で、現在の小ケ倉団地の北側の崖面に露出する。地層は西側から働いた横圧力により折り曲げられて逆転し、いわゆる横臥褶曲を示す。この種の褶曲構造が、一つの露頭で見られる例はきわめて珍しく、地質学上貴重な資料である。地層は主に板状の砂岩より成り、薄い泥石をはさんでいる。最下部は黒色の炭質頁岩となる。これらの地層は、その堆積状態や構成鉱物の特徴から、高島炭田の最下位層である三ツ瀬層に対比され、中生代白亜紀末(約6000万年前)のものとされる。砂岩には無数の細かい亀裂が入り、微晶質の方解石脈により充たされる。また、砂岩にはさまれた泥岩には鏡肌が発達した所もあり、褶曲運動が行われた際、地層面にそって滑動して生じたものと考えられる。 

小ケ倉の奇岩の連なり セキ岩・オオ岩・ウマ岩・夫婦岩など

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小ケ倉の奇岩の連なり セキ岩・オオ岩・ウマ岩・夫婦岩など

小ケ倉バイパスをダイヤランドから小ケ倉交差点へ下る途中、右側、小ケ倉団地の背後の稜線に見える奇岩の連なりである。大久保山の南麓に当る。この団地の奥には団地造成中に発見された「小ケ倉の褶曲地層」(県指定天然記念物)があり、この岩の形成もその関係と思われる。展望の良い岩場だが、一般の人には危険な場所である。

この岩に行くには、小ヶ倉小学校へ下る旧道の車道を行き、中間地点くらいに浜崎工業の建物があり右手に車道が上り、すぐ奥に駐車広場がある。この道を少し歩くと左手に黄リボンをつけた山道入口があり、これを登るとすぐ岩に至る。

この岩を紹介した文献は、地学関係の本を調べてもほとんどない。私が知っているのは、地元の識者、中山太一氏稿 『「小ヶ倉」という地名の起こり』平成7年3月(小ヶ倉中学校区青少年育成協議会だより 第2号に掲載)がある。これによると次のとおり。

中の地蔵堂にしろ、八幡神社にしろ、セキ岩を御神体として、それを拝む位置に建てられたものである。…さて、先程、地図の上に線を引いたといったが、その線上には、セキ岩、オオ岩、ウマ岩、夫婦岩などの岩が一直線に並び、逆方向には、伊王島の一番高い所、陰ノ島の一番高い所も一直線に並ぶのである。そして、今はなくなったが陰ノ島の手前に、「ヒュー瀬」という瀬がこの線上にあったのである。
つまり、これらの岩は、春分・秋分の日に真西に沈む夕日を伊王島、陰ノ尾島の山頂に望む一大聖地だったのである。そして、その岩が一直線上に次々と並んでいるという所は他に例のない地形だと思われる。それでこの岩の連なりを古代人はコウガクラ(神が岩)と呼んだのである。それがいつの間にか訛ってコガクラとなり、何も知らない役人が、小ヶ倉、小鹿倉、古賀倉などと書き、「小ヶ倉」が定着して今日に至っているのだと考えられるのである。

地名の考察はさておき、具体的な岩の名が表われている。岩の名は西から順に言うと中山氏に確認している。