長崎の石・岩・石造物 (長崎市)」カテゴリーアーカイブ

仁田木場にある円形コロシアムの畑地

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仁田木場にある円形コロシアムの畑地

西山台から仁田木場へ行く。集落の中心に来ると右手へ西山木場に下る市道があり、ここから500mほど下ると、道路下にこの畑地が写真のとおり見える。
直径50mくらいのやや楕円形。真ん中が低い。ギリシャの円形コロシアムか高知や徳之島で盛んな闘牛場のような姿をしている。長崎で言うならお宮日の踊り場にまるでそっくりであろう。中が舞台、周りは高く取り囲んだ観客席だ。

ここを車で通るたびに、前からいつも感心していた。中のハウスは前はなく、平地となっていたのでなおさらである。自然の地形が単になせたものか。あるいは集落が昔なにかそれらしき行事をしていて築いたものか。さまざまに思いがふくらむ長崎の山上にある風景である。

三川の屏風岩・薬師如来

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三川の屏風岩・薬師如来

江越先生の平成18年7月12実施、西山街道歴史散歩「大村藩殿様道A(洗切〜川平〜西山口)」資料による説明は次のとおり。

5 屏風岩・薬師如来
…三川の谷に下ると、左手に三川渓谷の番人のような大岩壁が聳え立っている。この岩壁を屏風岩とか人間岩とか言い、岩壁の根元に薬師如来のお堂があり、岩壁には薬師如来の像が彫られている。
郷村記には、この薬師如来はもともと浦上家野村の岡本というところにあったが、延宝5年(1677)にこの地に遷座したとある。なお、岩壁の如来像の近くに「元禄15年(1702)午正月 願主長崎大井手町原賀利兵衛」と刻まれているのは、この如来像が彫られたことに関するものであろう。

なお、「元禄十五年午正月 願主長崎大井手町原賀利兵衛」の刻は、如来像堂の左外の野外岩面に○をして中に刻まれている。屏風岩の右方には乳首の形をした下乳首岩があるらしいがわからなかった。
また、このお堂の登り口は、JR長崎本線「長崎トンネル斜坑入口」となっており、列車の通過音が聞こえ、冷風が来る。

野母崎変はんれい岩露出地 県指定天然記念物

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野母崎変はんれい岩露出地 県指定天然記念物

現地説明板の記事のとおり。(オリジナルのサイズの画像で見るためクリックする)

黒浜トンネル海岸側「網掛岩」から以下宿「夫婦岩」、野々串にかけて約4kmの海岸に見られる。九州最古と言われる珍しい岩の露出地である。同じものは長崎港口の鼠島(皇后島)にも見られる。

深堀の女島大神祠 香焼埋立地に残る

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深堀の女島大神祠 香焼埋立地に残る

深堀のすぐ手前の海に、かつて「女島」という小さな島があった。昭和43年(1968)深堀〜香焼間の海面埋立てが完成し、三菱重工などの工場が進出した。この埋立地の中にまだ「女島」の島影が残っている。

場所は、深堀バス終点前の角に深堀公番がある。埋立地大通りを香焼側に50mほど行くと右に入る道があり、奥に赤い鳥居があってここが境内である。
アコウの大きな枝分かれした木の根元に「女島大神」が祀られ、中にはぐるぐる蛇がまいたような不思議な石の神体があった。女島は小さな岩礁だったので昔からあったのは、この祠だけと聞いた。他の祠や浜恵比須は後でどこからか持ってきているらしい。

本河内の宝篋印塔(ほうきょういんとう) 市指定有形文化財

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本河内の宝篋印塔(ほうきょういんとう) 市指定有形文化財

国道34号線「妙相寺通」バス停手前の道路右にある。車中から見える。説明板は次のとおり。場所は国道工事で再三移転している。
塔前にある狛犬も古めかしく、後ろ足を立てた珍しい格好であった。

市指定有形文化財 本河内宝篋印塔
指定年月日 昭和50年3月10日 所有者 長崎市
この本河内宝篋印塔は、文化8年(1811)、本篭町の薬種商中村盛右衛門仲熙・嘉右衛門茂済父子が造塔施主となり、肥後の人豪潮が建てた供養塔である。豪潮は全国に2千基の塔を建てたという。
笠の隅飾は華麗で、蓮座の下にさらに第2の塔身があり、いずれの種子も重厚である。同様な形式のものは清水寺・禅林寺・春徳寺に現存するが、この塔はその中でも最大のものである。
長崎市教育委員会(平成元年3月設置)

脇岬観音寺の宝篋印塔(県指定)も豪潮作である。熊本の名僧「豪潮」が長崎の福島清七の寄進により建立。「豪潮塔」と言われる。県下では7基だけしかないと言われる。このため本河内の塔を見に行った。

長崎駅前から立山へ上る 福済寺観音・高木家墓碑・望呉山碑

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長崎駅前から立山へ上る 福済寺観音・高木家墓碑・望呉山碑

金比羅山へ登る1つのルート。長崎駅前交通会館に集合。福済寺・本蓮寺墓地・ホテル長崎の立山へと上がった。墓地内の石段道を上がるごとに、長崎港と市街の全景が広がり、歴史散歩ができる。

ホテル長崎の展望浴場西直下の本蓮寺墓地最上段となる高木家墓地に、「永亮院殿一丸徹春居士」の大きな墓碑がある。誰かと思ったら、脇に「前高木彦右衛門尉藤永貞」と彫られている。
これは勘違いだった。長崎喧嘩騒動で深堀義士から討ち取られた長崎町年寄「高木彦右衛門」は「貞親」といい、「永貞」は先代の職にあった伯父に当る。その人の高木家墓地である。
「貞親」の一子彦八郎は、家財家屋敷没収・長崎五里四方追放となり、天草から大村へと流れ亡くなったと同騒動記にある。当の「貞親」の墓はあるのだろうか。

「望呉山」碑は、ホテル横の最近建てられた老人ホーム「プレジールの丘」の赤い建物のすぐ奥にある。山の古名は「万寿山」。唐僧木庵は石穀山と命名したが、鼓缶子が大岩に「望呉山」と刻んだことから望呉山とも呼ばれたと「長崎学ハンドブック」にあった。

金比羅山の珍しい石 三本足鳥居・狛犬・従是上宮道・無凡山石・神社境石など

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金比羅山の珍しい石 三本足鳥居・狛犬・従是上宮道・無凡山石・神社境石など

市中央部の山「金比羅山」は、標高366.3m。長崎市民に古くからハタ揚げ・学校遠足・七高山めぐりなどで親しまれている。 明暦3年(1657)に唐僧木庵(もくあん)が登り、長崎の景色を絶賛して名づけた「無凡山」の字が、山頂上宮の横の岩に刻まれている。

立山公園から金比羅山に登り、途中で見かけた珍しい石造物や標石と展望である。長崎金星観測碑・観測台などは別項とした。写真上から

三本足石燈籠
全高4mを越す長崎最大のもの。唐船海上往来安全祈願。文化三年(1806)建立
琴平神社前の狛犬
琴平神社は三井物産が明治18年(1885)勧進。飄軽な格好の狛犬一対は秀逸。
「従是上宮道」標石
金比羅神社の社殿裏となり、神社から遠足広場に行く途中にある。
ドンク岩
遠足広場上の奇岩。烏帽子にも似る。山頂の白い鳥居が見え、山頂までは0.6km。
「本紙屋町御接待場」と「牛塚」碑
山頂途中の不動明王の祠の両脇に見かけた。
丸紋のある石
山頂すぐ手前。直径50cm位の丸紋の彫り、中に「梵」らしき字あり。
年輪の模様?のある石
山頂の上宮手前の石に見た。年輪のようなのが縦になった形。自然にできたものか。
「無凡山」の刻み岩
山頂上宮の左側にはみ出した岩面にある。読み難いが「無凡山」「木庵書」と確かに彫 りがある。
金刀比羅上宮の内部
金網の奥に古めかしい額と珍しい彩色の彫りの岩が見られた。
「金刀比羅神社社有地」境石
山頂を越し、西山と分かれ西山台への道に入った途端見つけた。

戸泊公民館「岩河の地蔵」丸紋のある石は経塚か

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戸泊公民館「岩河の地蔵」丸紋の石は経塚か

長崎市深堀1丁目戸泊公民館入口の左側に、数体の石仏と共に高さ70cm位の珍しい石が据えられている。岩永弘著「長崎周辺 ”石・岩・陰陽石”」2002年刊、41頁は次のように記している。

「砂岩石のようで剥離した所があるが、丸い紋のような標しがあり、曰くありそうである。これらを管理されている主婦の話によると、先々代の頃、某地から担いできたとかで、昔の人は強かった、という程度の話しか聞けなかった。鞍形状でなんとなく気を引く石である」

深堀の識者に聞いてみた。丸紋を彫った自然石は、墓の傍に一緒に埋めた経筒の「経塚」である。深堀菩提寺奥墓地の古い墓に、たくさん見つけた。丸紋の中に梵字や氏を入れたのもあるらしい。
戸泊上の墓地はここも菩提寺墓地で、数は少ないが同じものがあった。末石町の江川地区公民館地蔵堂前にもある。

深堀地区だけのものでもない。戦跡調査の写真から、島原半島加津佐岩戸山にもあるのがわかった。蛇紋岩の平石が多い。戸泊のは砂岩の鞍形状で幅が広く珍しい。前の川は「岩の川」といい、大正年間、水害がひどかった。地蔵はそのため「岩河(いわんご)の地蔵」といい、水害犠牲者の供養塔ではないだろうか。

インターネットで調べてみると、同じようなものが「一字一石塔」として全国にあるようである。巨大なものは大分県安心院町に「佐田の京石」があった。「経塚」ないし「経塔」で検索し、参照していただきたい。

福田網場脇に冷泉の「金水温泉」湯治場があった

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福田網場脇に冷泉の「金水温泉」湯治場があった

大正七年「福田村郷土誌」に、次のとおり「金水温泉」の記述がある。
「古来世人に知られる観音崎の湯は、俗に「金水温泉」とも言う。硫黄等鉱物を含有し、創傷・かさ類・微毒・脚気等の諸病に特効あり。将来適当なる経営をなさば有望なる富源なり。」
「一時、其名遠近に聞こえし福田観音崎の湯は、木鉢村近藤栄次の経営なりき。然るに位置不便なるため収支償わず、それ故に幾多の特効に関わらず今は全く放任せらる。」

明治34年(1901)年測図国土地理院旧版地図には、「福田村」の「田」の字の左にはっきりと海岸埋立地と建物2棟が表示されており、当時から営業されていたことがわかる。

昨年11月、この温泉跡を探した。女神大橋を渡り神の島工業団地へ通じる「金水トンネル」を出た所のすぐ下の海岸に、源泉池と湯壷跡が残っていた。西海の海岸にまぼろしの温泉を見たようだった。