長崎の珍しい標石」カテゴリーアーカイブ

烽火山にある古い「七高山道」「普賢瀧道」「長崎市境」の標石

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烽火山にある古い「七高山道」「普賢瀧道」「長崎市境」の標石

写真上から

「七高山道」「従是七面道十一丁」「天明八戌申三月吉日」
妙相寺から秋葉山神社に上がり、烽火山へは右側の山道に入る。すぐそこにある。昔から正月行事として慣習のある長崎の七高山めぐりの案内標石と思われる。
「長崎古今集覧」の七面権現祠に次の記述がある。「長崎記云、七面権現ハ中川村二在リ○馬場村ノ街道二本杉ヲ数歩行テ、左ノ農家ノ端角二路アリ、是即放火山ノ路也、此処二七面山十二丁ト石碑建チ有之」。二本杉とは今のシーボルト通り入口あたりだが、この石碑はない。この標石と同じようなものでなかったろうか。
「長崎市史」に記す「文政六年 江戸麻生 小岩井正甫建 右七面山道」の碑は現在、田尻米穀店の角に明治17年再建されたと思われる新しい碑がある。

「普賢瀧道」
七面山境内の中ほどの参道脇にある。この標石どおり左の小道に入ると小沢に出る。ここにある瀧の案内標石と思われる。この道は片淵中から健山の山腹を上る烽火山登山道に竹林内で合する。この目印標石ともなる。

「長崎市」「境」
最近の長崎市有林の境界標石は、すべてコンクリート製で味気がないものになっている。その中でこれはまた、いかにも風格のある古い標石であろう。「長崎市」とだけあるが、市有林の境界標石と思われる。場所は先の秋葉山から烽火山の登山道を行き、植林地に入って山頂への最後の急な登りにかかる。その道脇に1つだけ見た。
なお、これと全く同じ造りの境界標石を、稲佐山の飽の浦峠尾根道でも見つけている。

田上にある「いなり志んじやみち」の標石

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田上にある「いなり志んじやみち」の標石

平成19年7月20日午後6時近く、三景台から田上交差点の方へ直接出る近道の狭い車道をバイクで下っていたら、田上近く家の前の広い駐車場の真ん前に地蔵と石がポツンと立っていた。写真は上のとおり。自然石は平仮名と漢字まじりの字があり、最後は埋れているが「みち」である。

写真を撮っていたら、先隣の家の年配の人が窓を開け、「これは何の石ですか」と聞く。聞きたいのはこちらである。地元でも書いている字の意味がよくわからないからであろう。とりあえず写真に収め、自宅に帰って考えてみることとした。

今、パソコンにより字を拡大し、5分ほどしてわかった。普通どおり縦に読んだら駄目である。これは左下がりの斜めに読む。そうすると「いなり志んじやみち」となる。乙な配列の字を刻んだ古い造りの道案内標石である。珍しいのを見つけた。
バイクは通り過ぎわからなかった。市内地図で確認すると近くにたしかに「稲荷神社」があった。右上へ上って行く道なので、方角も字の向きで指しているのかも知れない。

長崎市南公民館どじょう会「長崎の碑(いしぶみ)第4集」22頁によると、「稲荷神社道石碑」とし「※(いなり志んしゃみち)」と読んで紹介していた。寸法は、440×400×950mm。

長崎手帖1963(昭和38年)の「碑のある町」うつろい

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長崎手帖1963(昭和38年)の「碑のある町」うつろい

”碑のある町  孤独な碑はささやく 片隅にいるのですから 少しでも長生きさせてください”
長崎手帖社「長崎手帖 第三十二号」昭和38年6月発行の田栗奎作氏稿「碑のある町」の書き出しである。カメラは春光社当時のご主人真木満氏で、次の5つの碑の43年前の姿を写している。
・居留地境の碑 ・みさきみち ・諏訪神社境界碑 ・筑州建山の碑 ・恵比須神社の碑

私は若いころ田栗氏と多少面識がある。なつかしさを感じ、今度は私がこれらの碑を訪ねることとした。東京オリンピックの開催や東海道新幹線の開通した前年の写真である。

時津街道の滑石にある道案内標石

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時津街道の滑石にある道案内標石

1988年編纂委員会編「写真構成 長崎滑石郷郷土史誌」156〜157頁に、次のとおり時津街道の記録と滑石にある2本の標石の写真がある。
標石の刻字と寸法は次のとおり。同じ造りの標石が、時津町浦郷の茶屋(本陣)跡近くにも現存していた(平成19年12月18日追記)

平宗橋際の標石  18cm角、高さ60cm。
「+西浦上村字平宗」「明治三十三年九月」「長與→」「→長崎」

滑石入口の標石  18cm角、高さ40cm。埋設のため( )は推定
「+(西浦上村字横道)」「明治三(十三年九月)」「←長(崎)時(津)→」「三重」

時津街道巡見 (團龍美氏稿)

旧街道は、(六地蔵の)この崖から山手へ回りホンダから206号をまたいでJR長崎本線の下を潜って岩屋口へ入るが、今は勿論通れない。街道は線路左の旧道を進むのである。
岩屋口から206号西友—横道間の中途から、道の尾口の平宗橋を渡る。この橋の際に標柱があったが、今はすぐ傍の民家の入口に移されている。明治33年の建立。この道の尾通りから滑石川沿いに横道交差点に出る。交差点から滑石団地入口に入ると右手は元滑石小学校の跡地で市立滑石公民館がある。バス道から旧道へ入ると、滑石口の標柱が半分埋れて立っている。
道標には三重、時津、長崎の方向に矢印がある。道標の先は、打坂峠へ緩やかに回る旧道の左手に、大村藩横道庄屋(角の庄屋)といわれた菊池高谷家の旧家がある。今は後継の柿田本家、由緒深い屋敷である。この街道筋を「お籠立場」といい、ここで打坂峠越えの準備を整えたらしい。
打坂峠は、時津街道の難所であった。打坂交差点から右に行けば長与道、真っ直ぐ峠を越えれば時津へ至るが、峠の谷は潅木と竹林、井出園の横尾川へ下る谷は、つるべ落しの如き急坂の山道で、竹林の中には故ありげな建物跡の礎石や石垣が残っているのが興味深い。

本河内浄水場正門左脇にある「秋葉山大権現道」の標石

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本河内浄水場正門左脇にある「秋葉山大権現道」の標石

本河内低部水源池の底に消えた長崎街道は、高部水源池との間に上り、これから右岸の旧道を行く。この本河内浄水場正門左脇に、朱塗りの刻字が残る立派な「秋葉山大権現道」「妙相寺」「右」「左上宮迄八丁」の標石がある。

「秋」の字は何故か偏と旁が逆である。裏面は「従寛光孫山城国久世郡槇嶋之住 太田野右衛門尉行三男 太田益右衛門直徳 建立」。30cm角、高さ1m。上部は四角錘でどっしりしている。

今は「妙相寺入口」バス停から入る。「長崎街道」越中先生の稿は、この辺りを「明治十九年、我が国で三番目に建設された水道の水源池が建設されたとき、水源池新道が造られ、古道は失われてしまったが、先年その水源池の中より分かれ、奥山峠を越え、旧矢上村中尾に行く途中の妙相寺川に、幕末のころ架けられたアーチ型の小さな石橋が発見され、市の文化財に指定され保存されている」と書かれている。

秋葉大権現とは、妙相寺から烽火山に登る道の途中となる。妙相寺は、長崎市立博物館刊「長崎の史跡」によると次のとおり。今の石門は、この標石の所にあったらしい。

「175 妙 相 寺(曹洞宗・瑠璃光山 所在地:本河内町2439番地)
妙相寺は、延宝7年(1679)皓台寺5代住職逆流が開創。寛永19年(1642)開創の今籠町の宗円寺が衰微したもので、逆流がこれを再興、宝永4年(1707)現在地に移転した。文化6年(1809)以降、異変の際の中国人の避難所とされた。後山は秋葉大権現祠、柊大明神祠、天満天神祠などが祀られている。なお、境内の石門はかつては長崎街道沿にあったが、水源池が建設されるに及び現在地に移された」

滑石4丁目にある式見手熊道「右志きみ 左てぐま」の標石

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滑石4丁目にある式見手熊道「右志きみ 左てぐま」の標石

長崎市立滑石公民館に行くと、1988年地元編纂委員会編「写真構成 長崎滑石郷土史誌」があり、139頁に珍しい標石の写真があった。
「右志きみ 左てぐま」と読み取れる石である。

「この地蔵の近くの4丁目多以良初見宅に保存されている式見手熊道標石は、元もと4丁目山の口の小川の道路改修記念碑そばにあったもので、左へ上る旧道が手熊への山道であった。石柱は自然石で幕末ころのもの」と、写真説明がある。
地蔵とは「現在の4丁目もと木下川内にあった下山堤の守り神として堤のそば式見追分の入り口にあった」が、団地造成で堤は埋没され、地蔵も流転している。

滑石4丁目多以良初見宅は、以前通っていた「あぐりの丘」へ行く道の途中である。道路改修記念碑近くのお宅を、一度訪ねてぜひ標石を見たいと、平成18年2月19日川上君と出津・黒崎調査の行きがけ寄ってみた。

多以良氏は団地連絡協議会長や郷土史誌編纂委員長をされていた。今は高齢となられ娘さんが住まわれている旧家の庭の大きなヤマモモの木の根元に、健在であったが横倒しにされて標石はあった。
岩屋山の西肩を越して、古道はまだ残る。

矢上「滝の観音道」の標石

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矢上「滝の観音道」の標石

脇岬観音寺へ至る、脇岬海岸国道上にある元禄10年(1697)「従是観音道」の標石は、「みさき道」の道塚で紹介している。
これは同じ「観音道」でも、矢上にある「滝の観音道」の標石。
間ノ瀬川の中流約2.5kmのところ。平間町に滝の観音は位置し、滝の景観・落差は市内で第一級と思われる。山峡谷間の幽玄郷。普茶料理を味わえる。
昔から諌早家の祈願寺となり、参詣が多く、立派な道標の標石が建った。

参詣道の標石は、まず矢上側国道からの間ノ瀬入口に、「瀧山観音道」の大きな石碑が建つ。25cm角、高さは1.5m。天保12年(1841)の建立。新しく再建されたとも見受けられた。
上写真の右側、低い方である。

次は、松原町の親和銀行保養所「迎仙閣」(ぎょうせんかく)の庭にある標石。
国道からは、JR「肥前古賀駅」の標識から入ってすぐの場所である。
ここは故井上米一郎氏が、先代より継いだ紙業隆盛の頃この地を選び、静寂な住み家として昭和21年建築。没後、銀行が譲り受けた。

見事な庭園の中に据えられている。刻面は4面。「松原乃たきみち」「左長さ紀 松原名 若者中」「瀧観音」「弘化三歳次丙午二月且立焉」と読み取れる。
寸法は23cm角、高さ1m。上部は四角錘。かなり大きく立派な標石であった。
この標石はもともと国道入口にあったのが、20年ほど前ここにとりあえず仮設されているらしい。
近くの道にも他に小さい標石が2本あったが、これは道路工事の時からか、不明となっている。 

鳴滝塾跡・出島和蘭商館跡の史跡境界標石

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鳴滝塾跡・出島和蘭商館跡の史跡境界標石

鳴滝2丁目川端通りの蜀山人歌碑を見に行った帰り、裏通りに入り、シーボルト記念館の赤い建物の角にかかった。古い石段の坂道が上へ上がり、上段に石柱の姿が見えた。何だろうと登ったら、この石柱であった。
「史蹟指定地」「大正十二年九月一日」「内務省」
奥に立派な門構えの旧家があり、玄関先にも標石があった。合計で5本ほどあった。また帰りによく探すと、記念館正門入口と敷地左隅にもあった。

関連するのは、出島和蘭商館跡。南公民館どじょう会「長崎の碑 第一集」平成5年の1頁に「2出島和蘭商館趾界標(出島町 海江田病院前)」として、同じような標石の存在を記録している。しかし、今これを探しに行っても見当たらない。資料館の人の話では、電車通り側青いビルの横が駐車場となっているが、この境の石垣段差の中ほどにあった記憶があるらしい。同第2集平成6年「石標調査表」では、同じ界標が「出島神学校前角」にもあったとしている。

念のため出島復元室学芸員の方に所在を聞いている。居留地の「地番標」は6本あって、2本は出島内現地に説明板をつけて展示しているとの話であるが、地番標の全体の数も、当時のどじょう会調査数より少ないと思われる。

八郎岳天測点と大久保山子午線標の調査

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八郎岳天測点と大久保山子午線標の調査

恒星を観測して経度・緯度の座標を決める天文測量に使用した天測点は、全国に48点あり、長崎八郎岳(標高589.8)には、地理調査所によって昭和33年設置された。その対となる子午線標は、天測点のほぼ真北、約4.6kmの大久保山にある。
機器の改良によって、昭和34年以降は使われず、つかの間に役目を終えた標石となった。

茂木河平の「戸町二至ル」標石

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茂木河平の「戸町二至ル」標石

茂木へ下る途中の「河平」バス停から、コンクリート舗装の急坂道路を100mほど下ると、河平川谷間の旧県道(明治新道の茂木街道)へ出る。出合い口の両脇に標石はある。
左は「戸町二至ル」「昭和三年十一月 御大典記念 河平青年団」。寸法は、16.5×14×53cm。この標石は、茂木街道から分岐し、現在の唐八景の市民の森入口(八郎岳縦走東登山口)を越え、戸町に至ることを指す。
標石の写真は、どじょう会「長崎の碑(いしぶみ) 第四集」に載せられ知られている。

気づいたのは、道路の反対右側。別に苔むした古いコンクリート石柱が石垣に倒れるように立てかけられていた。上の方に「指差し」マークの凹みがあるが、下部は摺り減って字がわからない。寸法は、18×11×87cm。
鶴見台森田氏の記憶では、これは茂木地区によくあるバス停上の「四国茂木八十八ヶ所第七十九番霊場」札番所へ行く道案内標石である。

(追 記  平成21年9月11日)
「戸町二至ル」標石が指すルートについて、宮さんの本日付ブログ記事があったので次を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/21001284.html
当時のルートの参考のため、明治34測図国土地理院旧版地図を最後に掲げる。現在の地形と比べてもらいたい。

旧版地図の右端、水車小屋のマークがある下の分岐が「戸町二至ル」標石がある所である。唐八景の鞍部へ向かって登り、道が交差する所が現在の市民の森入口(八郎岳縦走東登山口)。この鞍部はまっすぐ越し戸町側の谷間へ入る。
ちびっこ創作村・立岩大師を通って、星取山手前から下ってきた小径と合い、現在の小ヶ倉水源池の湖底に明治時代から戸町へ下る街道があったことがわかるであろう。
昔の戸町への街道跡は、唐八景の鞍部からも以下湖底へ消えるまで、まだ残っているのを確認している。