長崎の標石
「長崎の標石」と検索すると、標石関連のHP情報が多く出てきますが、ブログ情報がなかなか表われません。検索を早くするため、記事タイトルを作りました。
「ブログ」検索し、「みさき道人”長崎風来紀行”」をクリックし、このブログの中で「長崎の珍しい標石・石」などの書庫に内容を収録していますから、これで見るようにしてください。
長崎の標石
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長崎市と旧香焼町の境界標石
平成の市町村大合併により、香焼町も平成17年1月4日長崎市に合併された。無用のものとなったが、立派な旧境界標石が残っている。三菱長崎造船所の工場などが進出するため、深堀と香焼島の間の海を埋め立てた。
莫大な固定資産税が入る土地の境界線引きが必ず必要だった。今、この標柱がわびしく残る。歩道工事で埋められたか、わずか10cm位。「長」と「香」の字しか読まれない。場所は、埋立地大通り、三菱研究所先の信号手前の左側歩道隅にあった。
大谷町にある「筑州建山」の標石は筑前屋敷の境界柱
大谷町は長崎港の対岸地区にある。水の浦町が町界町名の変更により「水の浦町」と「大谷町」に分かれた。この町は鎖国時代、西泊番所で長崎港を警備した筑前黒田藩兵士の宿舎と馬場があった。
屋敷の境界を示す「筑州建山」と刻んだ貴重な標石4本が、大谷町のカトリック飽の浦教会から九州電力飽の浦変電所にかけての尾根石段道に残っている。
旧渕村の歴史を顕彰する会作成「幕末の水の浦」説明板は、水の浦バス停」近く日光タクシーの川端に設置され、絵図がある。
田上の徳三寺近くに明治44年「祝捷山登口」碑が見つかる
写真のとおり由緒ある珍しい標石が、田上の徳三寺近くで見つかっている。2月21日見学に行った。
「祝捷山登口」と刻んだ碑は現在、国立長崎病院前バス停上の寺駐車場の入口左隅に置いてある。徳三寺の話によると、寺前の県道工事のとき折れたのが発掘され、補修して横たえていると言う。
碑の寸法は、24cm角、高さ114cm。正面「祝捷山登口」、左面「道仙松在此山中」、右面「此坂路百間改築 明治四十四年十月竣工 田中直三郎」
この石らしい記録は、昭和13年「長崎市史地誌編名勝舊蹟部」祝捷山の項で見つけた。
「西北なる小島、田上方面よりの入口には各石柱を対立せしめ小島口には日耀千旗影、山呼萬歳声と刻し、田上口には武威揚海外、義気貫天中と刻す、西道仙の題する所である」。
碑の背面に刻字はないようだが、別のところの石とは考えられない。旧茂木街道沿いから祝捷山へは両方の登り口があった。
「祝捷山」とは、日露戦争の戦勝を記念し西道仙が命名。田中直三郎が整備した。山頂の自然石にも大正3年山名が彫られ、現在運動公園となって隅に移設されている。「祝捷山登口」碑はこれより年代が古い。
西道仙書の田上口の1本「武威揚海外」も、この横に現存して立っていた。
太田尾町山川河内の道案内標石
長崎市太田尾町にある。県道の集落入口看板のあるところから約700m入った「山川河内公民館」手前にある大正12年建立の古い道案内の標石。
道脇に転がっていて、3面に刻面があった。寸法 20cm角、62cm角。
正面 長崎道 大正十二年一月十七日建立
右面 茂木道 一夜講習記念
裏面 矢上道 山川河内青年団
この標石は、長崎市茂木支所保管の昭和33年発行「茂木町郷土史」に記録があり、現地に探しに行って現存を確認した。