長崎の珍しい標石」カテゴリーアーカイブ

伊王島灯台付近で見た標石

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伊王島灯台付近で見た標石

平成19年9月9日、長崎港外伊王島に史跡めぐりを兼ねたウォーキングを実施し、伊王島灯台へ行った。灯台入口バス停から灯台までで見た3種の標石。

灯台入口バス停前の四叉路東側角にあった。コンクリート製で損傷し、鉄筋がむき出しになっている。炭鉱のマークがあり、ここは以前、炭鉱住宅があったので、昔の炭鉱会社の敷地境界柱である。

灯台が見えてくる道路の左右道脇にある。「燈臺」しか見えないが、草つきの中にあった石柱には「燈臺敷地」とあった。格式のある標石。伊王島灯台は、慶応2年(1866)に米・英・仏・蘭の4カ国と結ばれた江戸条約によって全国8ケ所に設置された中のひとつ。明治4年(1871)に本点灯した。当時からの標石とも思われる。あと数本同じものが敷地内にあるようだ。
灯台公園の表示板手前には小さな標石があった。これは「伊王島」とあるが、下部は埋設で不明。やはり灯台敷地境界柱でないだろうか。

灯台の突端北方にある石垣の根元に立てかけられている。これは別項「長崎の要塞地帯(区域)標」に詳しく載せた標石。

金比羅神社の参道石と上宮道標石

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金比羅神社の参道石と上宮道標石

立山から金比羅神社に登る緩やかな参道坂道の左手に古い石柱をいくつか見る。これは「五間」とか寄進者の町名や名前が標されており、よくある参道石の寄進碑である。
三ノ鳥居から神社社殿を過ぎると、その裏となるが凧揚げ広場へ行く広い木立の中の道に1本の標石がぽつんと立っている。「従是上宮道」。人はあまり気にとめない。前に別項で載せていたが、字の写りが悪かったので撮り直した。

万寿山「望呉山」の三字は、「石穀山」の字跡に彫ったか

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万寿山「望呉山」の三字は、「石穀山」の字跡に彫ったか

長崎文献叢書第一集第三巻「長崎名勝図絵」(長崎文献社昭和49年刊)の241頁、「茶臼山」の説明は次のとおり。同書は文化・文政年間の執筆であったとされる。

284 茶臼山  俗に頂守山(ちょうすだけ)という 長崎の北にある。金山と続いている。山頂は二つ盛り上がった形をしており、北のを雌頂守、南のを雄頂守という。雌頂守の上に、伊勢大神宮祠があるが、いつ頃から祀られたものかは、判らない。雄頂守は俗に風頭というが、東にも風頭山があるので、こちらを女風頭、むこうを男風頭という。この南に低くて平らな山がある。奇岩怪石が露出しているが、中に屏風を立てたような大石がある。これは木庵和尚の書いた石穀山の三字を彫ってあったが、今は磨滅して読めなくなっている。最近望呉山の三字を彫ってあるが、誰の書なのか聞いていない。山の西麓を浜原(はまびら)という。…

「望呉山」碑のある場所の山は、立山の「ホテル長崎」の左。最近、老人ホーム「プレジールの丘」が建ち、その赤い建物裏となる。この「望呉山」碑については別項ですでに写真を紹介しているが、私がそのとき確認を忘れていたのは、屏風を立てたような大石の「望呉山」の三字は、はたして木庵和尚「石穀山」の字跡を削って彫られているのかということである。

「長崎名勝図絵」の記述はいろいろ考えられるので、また再確認に大石を見に行った。写真は上のとおり。近くに同じような屏風を立てたような大石はないし、「望呉山」の刻面はたしかに薄く丸く削った跡に彫られている。「石穀山」の字跡はもはやまったく確認できない。碑の裏面も考えられるが、ただの平面で無刻だった。

なお、長崎市立博物館「長崎の史跡 Ⅲ(歌碑・句碑・石碑)」によると、この碑のある山は「万寿山」といい、新しい「望呉山」の字は「鼓缶子」が刻んだことから望呉山と呼ばれたとされている。たしかに左の脇字に「巳未二月鼓缶子題」と刻んである。
金比羅山頂上の神社上宮右横の大岩に彫られている同じ木庵和尚書「無凡山」の字も、ほとんど消えかかって見にくいものとなっている。

長崎街道脇に見る電話線標石

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長崎街道脇に見る電話線標石

長崎街道の日見峠新道が下りにかかり、山道の坂道を向井去来碑のある芒塚までくる間に、道脇左手に標石を間隔をおいてところどころに見る。頭部には赤ペンキで「↓」が塗られている。多くは土や草つきに覆われており、何の標石かわからない。日見トンネルの東口(梨子の木茶屋跡)に出て、さらに先へ日見の方へ街道の道をたどってみた。

スズキオート長崎の下となる坂下公民館手前の車道カーブのところに、その新しい標石があった。15cm角、高さ25cmの石柱。「↑ 昭和41.4」電話局のマークあり、その下に「電話線」とあり、別面には「直下」とあった。日見の中心街へ下るまであと3本見た。

この標石は、むろん近年の電話回線が地下に敷設されていることを示すものだが、私が興味をおぼえたのは、今でも電信・電話に関する基本幹線が長崎街道の日見峠越えをしているのではないだろうかということである。
次は、昭和34年発行「長崎市制六十五年史(後編)」182〜183頁の記述。

2 内国電信  (一)明治・大正時代
長崎電信局の開設は全国的にみて非常に早い。すなわち、わが国最初のの公衆電報取扱いは明治二年(一八六九)十二月東京・横浜両地間に始められたが、翌三年早くも長崎伝信局が設置(位置不明・民部省管轄)されている。以下長崎電信局にかんする局舎・回線その他の変遷の概略を述べてみよう。
明治三年(一八七〇)八月—横浜・長崎間に国内最初の長距離回線工事が起工され、翌四年八月東京・長崎間に陸線架線工事が着工された。
明治六年(一八七三)二月—東京・長崎間一・二番線が同時に着工し、その沿道に順次電信局が開設され、赤間関・神戸・大阪・京都・彦根・岐阜・名古屋・静岡・横浜・東京市内に通信連絡の途が開かれ、長崎松ヶ枝町大北電信会社屋の一部に「長崎電信局」を設け、同年四月二十九日から英国輸入のシーメンス・モールス印字機を使用して東京・長崎間に電信取扱いを開始した。なお、中国・九州沿道の各電信局は明治六年十月一日から開局されている。…

一方、外国電信は明治三年(一八七〇)政府がデンマーク国大北電信会社に対し、長崎・上海線および長崎・浦塩線の陸揚げを許可し、これによって外国電報の取扱いが開始された(181頁)。
長崎は、わが国に於ける外国・内国電信の最初の拠点だったのである。

御船蔵町にある「死刑場ノ馬込」標石

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御船蔵町にある「死刑場ノ馬込」標石

御船蔵町橋本治郎氏から「死刑場ノ馬込」と刻んだいささか珍しい標石があると聞き、平成19年8月22日現地を訪れた。場所は御船蔵町。国道に面した天理教肥長大教会本殿奥の高台の今は草地となっている敷地内。橋本氏は同教会長である。

この標石は、刻面にあるとおり個人が建てたもので、取り立てて由緒のある石でないが、明治時代のものらしく、同地の数奇な運命をものがたっており、時代が経つにつれ放っておいては偲べない標石となっている。教会の方が毎日、水や花を変えて弔っている。
標石は切り取った崖面の前にある。17cm角、高さ70cm位の石柱。正面「死刑場ノ馬込 右(?)タル法塔様モ参リ被下度」、左面「長崎市東中町 中島ノイ建」と刻んでいる。

この地のことは、昭和13年発行「長崎市史 地誌編神社教会部下」515〜516頁、同教会の所在の項に次のとおり記されている。

此の地は幕府時代に於ける死刑場なる所謂西坂と称する部落の一部で、浦上街道の基点に当り嘗て禁教時代には有名なる二十六聖人を始めとし数百の切利支丹や南蛮船乗組員やが斬罪に処せられ、引き続ける二百年間に幾多の罪囚が刑場の露と化せし地で、維新後も道路の並木は日光を遮り梟鳥の啼声に転々寝覚を寒からしめたものであるが、当教会設立後は全く旧時の面影を脱し人家櫛比せる清区と化した。
当教会敷地は旧浦上街道の南側下部に当り、茶臼山を背景にし、港湾埋築地及び稲佐山を前面指顧の間に展開し、丘を平げ巌を斫りて殿堂を構へ石甃を施し結構布置頗る宏荘である。

以下、沿革に開墾の大苦労が記されている。明治45年5月に工事起工式、大正4年6月に神殿等落成報告祭を執行している。この標石ももともとの位置ではなく、再三、移された。本来はこの崖の右上にあったようで、供養の法塔がそこにあったと伝えられている。現在、「二十六聖人殉教地」とされている西坂の丘に続く丘地である。

なお、HPによると、平野恵子氏製作の長崎歴史再発見サイト「長崎微熱」があり、2007.3.8記事「西坂刑場はもう少し北にあった」にこの標石が紹介されている。

茂木地区にある指差し石柱の施主がわかる

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茂木地区にある指差し石柱の施主がわかる

藤田尾の消防団分団前の車道分岐を左へ下ると浜に出る。
浜の右手前にゲートボール広場があり、これから歩いて藤田尾川河口の小さな鉄橋を渡ると、青屋根の32番所札所がある。道は上って集落へと続く。最初の写真のとおりの光景。浜手前からのこの道は、昔の街道みちである。

大正七年架けられた石橋の「架橋碑」とその残骸(別項)もここにある。橋を渡って道の右脇を注意して見て歩くと、3本のコンクリート石柱が続けてある。
まずは「長崎県」境界柱。えらく凝った昔の字で古めかしく珍しい。これと同じものは伊王島灯台入口バス停付近にもあった。次は上に「指差し」マークがあり、その下に「茂木町 施主 川浜奥四郎」と字の彫りがある。その次は道角に「指差し」のマークのみの石柱が立てかけられている。

「指指し」マークのコンクリート石柱は、これまで茂木地区で2本見ていた。河平バス停下の「戸町二至ル」標石の対面角と、重篭轟の滝の手前分岐にあった。(それぞれの別項に写真を掲載)
施主を刻んだのを、この藤田尾で初めて見た。この石柱は札所の案内であると聞いていたが、重篭轟の滝は現在の札所に入ってない。作成年代も、藤田尾は昭和22年茂木村から為石村に編入された。その前に設置したとも考えられる。

コンクリート製で新しい年代のものと考えられるが、いつの頃、だれが、どこに、何本設置したか、調べればおもしろい。茂木地区は「茂木町新四国八十八ヵ所霊場めぐり」が昭和4年頃できた。これと関連がやはりあるのかも知れない。施主がわかったのは、調べる手掛かりができた。

鹿尾川渡りのところにある記念碑

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鹿尾川渡りのところにある記念碑

「みさき道」はダイヤランドから磯道団地の西端に降り、土井首大山祗神社のちょうど鳥居の前の対岸から、鹿尾川を飛び石で渡ったようである。満潮時もこのところまでしか潮が来ない。
川は大水害の防災工事により姿を変えた。渡りの遺構が何かないか調べていて、3年前にこの記念碑をその場所で見つけた。当時、地元の中山秀雄氏に聞いたときは、鹿尾川水道組合の解散記念碑とのことであった。
平成19年8月17日、石柱の写真を撮りに行った。コンクリート製で17cm角、高さ66cm位。刻みは「記念碑 三農 昭和九年 十月 □□成功 浜谷建之」とあるようで、解散記念碑とは違うように思われる。何の記念碑か資料などで正確に調べてみたい。

道路元標  長崎県庁前の国道起点

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道路元標  長崎県庁前の国道起点

長崎市江戸町長崎県庁前の歩道石垣に組み込まれている。国道34号線などの起点の標石。
長崎市南公民館どじょう会「長崎の碑(いしぶみ) 第一集」平成5年刊3頁によると次のとおり。主要道路に水準点は設置されているので、その関連からこの項に載せた。

2 道路元標(江戸町、県庁正門脇)
(正面) 国道起点
(右側) 昭和三十五年七月 長崎県
碑  250×240×490mm

福田村・西浦上村所有権境石 岩屋山登山道にあった

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福田村・西浦上村所有権境石 岩屋山登山道にあった

小江原の警察学校の所から車道が岩屋山中腹まで上がる。途中に岩屋神社の鳥居があり、車道の終点からいよいよ登山道にかかる。東屋やDDI塔を通り、山道を10ほど登った植林地内の道脇の自然石に、見事な字で「福田村西浦上村境石」と刻まれている。ちょうど「西町・油木方面 九州自然歩道 手熊・式見方面」の道標がある地点である。刻面は次のとおり。

所有権
福田村西浦上村境石
大正十四年一月十七日福田村長相川金
三郎西浦上村長柿田介一並手熊
郷岩屋郷民立會境ヲ定ム
所有権

林純夫著「福田村郷土史」平成12年刊、594頁に「七、岩屋山・多以良山の境界争い」があり、次のように概説されている。

福田村(小江・手熊郷)は、文化元年(一八〇四年)、浦上北村・浦上西村及び平宗村とで岩屋山の境界、さらに文政元年(一八一八年)には、浦上北村・浦上西村とで「多以良山」の境界、そして明治に至り再度岩屋山での境界について三度も争っています。三度目となる明治時代の争いでは東京での裁判となりました。その裁判では、結局福田村の主張が認められたようです。
双方同じ大村藩領ではありましたが、その争いは約八〇年間にも及ぶものであり、いかに当時の百姓が自分達の生活のため土地を守り大事にしていたかがよく窺えると思います。

林氏著は、浦上西村「郷村記」も紹介し、争いの場所が「二階岩」近くであることを説明されている。「二階岩」とは、岩屋山案内図から先の車道終点近くにある岩ではないだろうか。そのまたすぐ上方の登山道にあるこの大正14年刻「境石」の存在を、林氏はまったくご存じなかったのだろうか。紹介されていない。山中道脇の珍しい石なのに案内図にも書いてない。
岩屋山における双方の村の所有権争いは、大正時代もまだ続いていたようである。

善長谷開拓碑 長谷川佐八碑・善長谷教会・境内ルルド  長崎市大籠町

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善長谷開拓碑 長谷川佐八碑・善長谷教会・境内ルルド  長崎市大籠町

長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」平成16年刊による説明は次のとおり。

132 善長谷開拓碑 (所在地:大籠町)
この地の開拓は、文政6年(1823)佐賀藩深堀領東樫山から水方佐七に率いられた人達の移住に始まる。彼らは全員キリシタンであったが、鍋島家より原野数町歩を与えられ、城山頂上の八幡神社の祭祀や掃除等を課せられた。さらに、旦那寺は菩提寺であったが、踏絵は免除された。このようなことが絶好の隠れみのとなり、以後も信仰を隠すことができ、幕末維新に至った。