長崎市の石橋」カテゴリーアーカイブ

浪の平「了?福橋」の寄附者は「永井傳之助」  金刀比羅神社の碑で判明

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浪の平「了?福橋」の寄附者は「永井傳之助」  金刀比羅神社の碑で判明

長崎市浪の平町の「長崎市南公民館」先に、右へ入る昔の狭い幅の道がある。金刀比羅(琴平)神社鳥居がある参道口へ出る。
路地に入ってすぐ古河町となり、町境の小川に長い板石を5本渡した桁橋がある。手前左に古い親柱が残り、「寄附者 永井傳之?」と刻んでいる。
前項「古写真に残る石橋風景」を参照。 https://misakimichi.com/archives/1570

橋名はこの時、川岸に横たえて残っていたもう1本の親柱の刻みから、「了?福橋」とわかった。「寄附者 永井傳之?」を調べる手がかりに、金刀比羅(琴平)神社にある石柱や石碑に記名がないか見てまわった。
急な坂段を登り、金刀比羅神社本殿がある最上段の一つ手前の鳥居右脇に、「厳島琴平神社 合祀再建 造営竣 神威彌崇 明治四十三年九月」の記念碑がある。
この碑の正面に寄附者名があり「金貮拾五円 永井傳之助」、裏面の世話人名に「浪ノ平町 永井傳之助」とあった。

「了?福橋」の寄附者「永井傳之?」と同一人と見てよいだろう。橋を単独の資力で架けているから、浪ノ平町の相当な盛業者だったと思われる。
金刀比羅神社の社務所に聞いたが、何もわからなかった。小さな石橋でも様々な歴史がありそうだ。古写真にはっきり写って残っている橋であり、地元の方で調べ、記録しておいてほしい。

古写真に残る石橋風景  (8)浪の平の「了?福橋」

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古写真に残る石橋風景  (8)浪の平の「了?福橋」

長崎市浪の平町の「長崎市南公民館」先に、右へ入る昔の狭い幅の道がある。金刀比羅(琴平)神社鳥居がある参道口へ出る。
この道が明治期から、石橋より二本松を越えず、浪の平・小菅を経由した一時期の戸町・深堀道となり、「みさき道」となったと思われる道である。
路地に入ってすぐ古河町となり、町境の小川に長い板石を5本渡した桁橋がある。手前左に古い親柱が残り、「寄附者 永井傳之?」と刻んでいる。
橋は「古写真考」の次も参照。 https://misakimichi.com/archives/1546

ところが目録の古写真は、橋をはっきり確認できない。まだ良く写った写真だったはずにと、「長崎古写真集 居留地編」長崎市教育委員会平成7年刊を借りてきて、89・90頁の写真を見た。
ここに掲げた2枚目の古写真「75 浪の平一帯B(彩色) 長崎市立博物館所蔵」には、橋がはっきり写っている。
目録と同じ古写真なのに、橋の下部が少しカットされていたのである。拡大写真を参照。
1枚目の「74 浪の平一帯A(彩色)」は、現在の南公民館敷地にあった「尋常鎮鼎小学校」(長崎市立浪平小学校の前身)校舎が建つ前の古写真。このときは石橋は架かってなかったのか、確認できない。
いずれも、撮影場所は南側高台の金刀比羅(琴平)神社境内からと思われる。

「橋名」がわかった。再び訪ねると、汲み取りホース下の川岸に石柱が2本並べて横たえていた。1本に刻字があるようなので苔をはがすと、「了?福橋」と読めた。
大切に保存してほしい親柱である。架橋年代はない。刻まれていれば、古写真の撮影時期を推定できるのだが…
アーチ式石橋でないが、古写真にはっきり写り、しかもそのまま現存している珍しい桁石橋。すぐ上の支流流れ口にも、小さな桁石橋を確認した。
「長崎古写真集 居留地編」の145頁、林一馬先生稿「図版解説」は次のとおり。

74 浪の平一帯A(彩色)  横浜開港資料館所蔵
75 浪の平一帯B(彩色)  長崎市立博物館所蔵
ほぼ同一地点(浪の平の南側の丘にある琴平神社の参道付近)から類似した構図で居留地の南端と浪の平及び長崎港を望んだもの。遠くに出島や旧市街地、立山や金比羅山などの山々がみえている。

Aは、梅香崎の税関前の埋め立て地の様子や手前の南山手の建物の建ち方(17、18番の2棟はあるが、35番はまだ建っていないなど)からすれば、明治5〜10年頃のものであろう。ポールの立っているところがアメリカ領事館(明治8年4月以降ならばロシア領事館)で、ポール右上の屋根がリンガー邸であろう。南山手の周遊道路はすでにあり、石積みの手すりや石畳も24番地の前あたりまで整備されていたが、大浦地区からの遠さゆえにかこの居留地南端付近はまだ空き地が多かったことが確かめられる。一番手前にみえる洋館が図−4にも記載される24番のものだが、この当初建物ではヴェランダが下屋形式となっておらず、煙突もついていなかったことがわかる。

Bには、明治20年7月に新築移転してきた尋常鎮鼎小学校(のちの浪の平小学校)の校舎があり、その屋根上に明治22年8月上棟の二十五番館の棟頂ものぞくが、一帯の洋館群の様子は図−9よりもかなり前の状態なので、明治20年代中頃の撮影であろう。校舎の背後にみえる洋館2棟は24番の現・荒木茂康・君恵宅と荒木豊治氏宅だが、前者はAにみえた当初建物を明治10年前後に改築または建て直したものだったことがわかる。この頃になると南山手の区画もほぼ満杯状態になり、次には2階建て住宅がこの地区にも登場してくるようになる。

長崎諏訪神社一の鳥居前の石造橋「小橋」  長崎市上西山町

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長崎諏訪神社一の鳥居前の石造橋「小橋」  長崎市上西山町

長崎諏訪神社・長崎公園の石造橋と石門について、昨年10月次により紹介している。
https://misakimichi.com/archives/1423
ところが、諏訪神社一の鳥居前にも、立派な石造橋「小橋」という橋が残っている。欄干が片側にあるのに、ほとんど気付く人はいない。
HP長崎市観光・宿泊ガイド”あっ!と ながさき”の記事を見て、私も初めて知り、初詣客が少なくなった1月5日夕方、どんな橋か確認に行った。

諏訪神社入口を国道側から石段を3段登ると、一の鳥居前、両脇の大きな石燈籠まで参道の敷石が少しアーチ状になっている。これが石造橋の「小橋」である。
参道左の「諏訪神社」とある大きな碑の横に、橋の欄干が残っている。親柱に「諏訪幼稚園園児募集」の立看板がくくりつけられていたので、はずしてみたが「橋名」はなかった。転がっている石柱などにも何も刻字はない。

橋の下を芦原歯科側から覗いた。アーチ式ではなく、桁石橋だった。小さな溝となって、水が右方から流れている。上面を測ると、参道幅は12m、長さ2.4mほどが橋部分となるようである。
江戸時代中期からある橋らしい。記録は調べていないが、参道に珍しい橋が気付かれずに、今日まで残っている。
諏訪神社も、境内案内で「狛犬散歩道」や「縁結びの陰陽石」と同様、珍しいものとしてHPにより「小橋」を紹介してもらえれば、後世への記録となろう。
最後の写真は、拝殿左の奥まった「神池」にもあった石造橋。

唐人屋敷跡の石橋と石門  長崎市館内町

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唐人屋敷跡の石橋と石門  長崎市館内町

長崎市館内町にある鎖国時代の唐人屋敷跡。一帯で見る石橋と石門。
「土神堂」と「観音堂」に石橋と石門がある。石橋は近年、再建?された桁石橋である。
後の方は、地元の富豪森伊三次氏が寄贈した天后堂裏の堀にある「榮橋」(階段橋)、「森伊橋」(桁石橋)と、少し下流のアーチ式石橋「森橋」。
次も参照。  https://misakimichi.com/archives/614
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による「森橋」の説明は次のとおり。

第 85 番    森        橋   長崎市館内町18〜十人町11
明治25年   長 さ 約2.5m  幅 員 約2.0m  森伊三次氏が寄贈した橋
地元出身の森伊三次氏が寄贈した橋は、同じ川の上流に、もう2橋ある。アーチ橋ではないのだが、これも石橋。榮(さかえ)橋と森伊橋。

森伊三次氏とは、とんな人?
明治3年、火災で焼失した唐人屋敷の払い下げを受けて道路・橋を整備した地元の富豪。
浦上駅の市内中心地側、現在の茂里町地区は、当時「浦上村里郷」と呼ばれていた。ここは浦上川からの土砂の堆積が進み、湾の奥から浦上川河口にかけて干潟が現れていた。森伊三次氏は、浦上川の埋立てに私財を投じ土地の新田開発に尽力し、この地の大半に及ぶ広大な土地を拓き所有していた。
開発当初は「森町」と呼ばれていたが、大正2年、長崎市域すべての郷名を町名に変える事業が始められたとき、自らの名前から里が茂(森)る(栄える)ようにという意味を込め茂里町が生まれた。
明治30年、現在の浦上駅(旧長崎駅)〜長与駅まで九州鉄道が開通し、森伊三次氏は駅舎用地など約15,000坪を寄付している。

梅園身代り天満宮 の御神橋  長崎市丸山町

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梅園身代り天満宮 の御神橋  長崎市丸山町

思案橋から丸山公園の料亭「花月」前まで行き、左折して有名な丸山本通りに入る。中ほどに「長崎検番」の建物があり、案内標識により右の路地に入り、石段を上ると「梅園身代り天満宮」に着く。
2007年、境内に「御神橋」が再建されているが、次の記事と写真のとおり石桁橋である。
fwd−net 長崎・諫早HPの中「石造アーチ橋以外の石橋・桁橋など」による説明は次のとおり。
梅園身代り天満宮

長崎の花町、丸山、中の茶屋に隣接する、梅園天満宮。吉永小百合扮する愛八姉さんの「ぶらぶら節」で、すっかり有名になってしまいました。…
丸山からの狭い石段を登って境内に入ると真っ白く塗られた鳥居に出会う。丸山の芸子衆がご贔屓なので、白粉塗りの鳥居だと地元の酔客の言。案外そんなものかもしれない。…

【再建された御神橋】
昨年11月(2007年)の大祭を前に、御神橋が再建された。その際、無くなっていた欄干の親柱が2本見つかった。この御神橋が扁平な石造アーチ橋(石拱橋)ではないかとの情報も有って、今日、確認に来た。
結果としては、石桁橋であった。橋の上に見える平行の石は厚さ5cm程度の石板で、両側のカーブした桁に6cm程の、ぬすみが切り込んであり、それに乗せられたものであった。
スパン1.9m、幅員もまた1.9mの石桁橋。部材は樹脂系のコーキングが施され、しっかりと復元されている。消失してしまう石橋の中にあって、こうして復元される石橋が有るのは嬉しい。

【現地説明板】            身代り天神で有名な「梅園身代り天満宮」

祭  神  菅原道真公(正殿)、宇賀御魂神(稲荷社)
創  建  元禄13(1700)年
所  在  肥前国彼杵郡長崎村小島郷
現在地  長崎県長崎市丸山町2番20号
お社のいわれ
ここの天満宮は、元禄13年(1700)丸山町乙名安田次右衛門によって創建され、以降丸山町の氏神様として親しまれています。
元禄6年(1693)安田次右衛門が二重門(現丸山交番付近)にて、梅野五郎左衛門に襲われました。そして、自邸に担ぎ込まれたが不思議なことにどこにも傷が無く、身代りに庭の天神様が血を流して倒れていたそうです。その後、この天神様を身代り天神様と呼ぶようになりました。
そのほか明和安永年間(1770年頃)より、この場所は長崎奉行の許しにより芝居や見世物、相撲の興行が行われるようになり、また、花町に接していることから、遊女や芸者さんが多く参拝していました。さらに明治31年(1898)社殿大改修の際には文人墨客により天井絵を奉納されています。
また、第2次大戦時、丸山町の出征を命ぜられた者は必ず参拝したそうですが、身代り天神によりすべて無事に帰還したそうです。
祭  事  節分祭 2月3日  天満宮祭 11月第2日曜日
平成12年6月吉日  丸山町自治会

古写真に残る石橋風景  (7)矢上の番所橋

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古写真に残る石橋風景  (7)矢上の番所橋

国道34号線により東長崎の番所橋バス停まで行く。旧長崎街道の道が国道沿いにあり、中尾川に架かる国道の橋から1つ上流に行くと、この橋が街道の「番所橋」である。
東長崎地区連合自治会「2000年の東長崎」平成13年刊、郷土の誇り26〜27頁による説明は次のとおり。
大正初期の番所橋古写真は巻頭グラビアから(田中町織田武人氏所蔵)。番所の見取図は5頁、眼鏡橋の図は26頁から。
現在の橋は、現地説明板にあるとおり、昭和61年(1986)10月の架設で、由緒ある如く、擬宝珠の親柱になっている。第四代となる。

20.番 所 橋

矢上駅の西端、田の浦川の北岸近くに番所をおき、諫早からの役人がいて一々厳重な取調べをした上で、長崎に伺いをたて、許可があって初めて通ることができる。この田の浦川の橋が番所橋で、橋のたもとには、頑丈なカンヌキをした扉があり、その両側に柵をめぐらして取締まったものである。これほどに大事なところであるので、鍋島閑叟公時代、1838年(天保9年)美しいメガネ橋が架けられた。

第一代 欄干式両眼鏡橋五合円型、番所橋。1838年(天保9年)冬架設。…
第二代 欄干式片目鏡五合円、明治橋と改称。1872年(明治5年)冬架。…
第三代 鉄筋コンクリート、番所橋。1923年(大正12年)10月架。…

日本地図をはじめて作り上げた伊能忠敬は、1812年(文化9年)11月22日に、番所橋を通り測量している。
測量日記によると「長崎街道御料所日見村、佐賀領矢上村界より初、矢上村枝鳥合場、枝五次郎、枝東望、12町9間1尺。目鑑橋7間、枝矢上村駅問屋場、2町26間…」とある。この「目鑑橋」は、眼鏡橋と思われる。その後1867年(慶応3年)6月の大洪水のため破損し修復を計画していたが明治を迎えた。
1872年(明治5年)架設され、この頃は「輪橋」として記録が見られる。この輪橋の形は、やや形としては変形をしている。破損した橋の材を用いて修復された跡が見られる。その後、1922年(大正11年)の大地震で失われた。

古写真に残る石橋風景  (6)現川自然石アーチ式石橋群

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古写真に残る石橋風景  (6)現川自然石アーチ式石橋群

現川焼で知られる東長崎の現川地区に、小さな自然石アーチ式石橋が少なくとも6橋あったそうである。
石橋群として長崎市指定有形文化財に指定されていたが、JR長崎本線の新線工事で2橋が消え、昭和57年(1982)7月の長崎大水害により4橋が流失、すべての石橋が消失している。

長崎市現川町へは、矢上から県営バスがあるが、JRでは長崎駅から15分足らずですぐ着く。
現川駅のそばに「じげもん市 現川物産館」があり、中に長崎大水害で流失した石橋の古写真(樫ノ木渡瀬橋・山川橋・小藤橋・山の神橋)を展示している。
架橋されていた場所の位置図はない。諫早郷土館の織田先生や地元の野口幸徳氏に確かめたところ、最後の図のようになるようである。

「樫ノ木渡瀬橋」とは、現在の「屋敷橋」の場所に架かっていた石橋を、以前にそう呼んでいたようである。
JR長崎本線の新線(市布経由)は、大水害前の昭和47年(1972)10月開業。現在の現川駅ホームのところに「尾崎橋」、トンネル口近くに「正納屋橋」という小さな橋があった。新線工事で撤去。アーチ式石橋だっと聞くが、まだはっきりした確認がとれていない。

東長崎地区連合自治会「2000年の東長崎」平成13年刊、東長崎の石造物42〜43頁による説明は次のとおり。小藤橋の写真も同頁にあった。
本河内の橋とは、高部ダムの湖底に眠る「まぼろしの石橋」などと思われる。

② 現川の石橋

アーチ橋の生命は、砕石にあるが、現川の石橋は自然石に近い石を使っていて、石橋の常識を破っている。
架橋は、明治2〜3年頃(1869〜70)長崎の本河内で山石を集めて架設した橋を見た中島土市が、現川の住民と共に5橋を架けました。
1982年(昭和57年)7月の長崎大水害で、市指定有形文化財であったが流失しました。

なお、高城台小現川分校(当時は矢上小の分校)先にあった「小藤橋」は、道口辰三郎先生が油絵に描き、現在は矢上町長崎市東公民館に飾ってあり、美しいアーチの姿をとどめている。
後ろの写真は、その油絵と現在の小藤橋。「現川物産館」の石橋写真も道口先生の撮影らしい。
それに物産館に展示されている現川の古絵図。杉澤翁昭和7年図で、表題は「現川維新前後の面影」とあり、「樫ノ木渡瀬橋」のみ、アーチが描かれているようだ。

桜馬場天満神社の御神橋  長崎市桜馬場1丁目

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桜馬場天満神社の御神橋  長崎市桜馬場1丁目

長崎市新大工町商店街からシーボルト通りへ向かう。商店街を出た交差点のすぐ先の通りの左に鳥居があり、奥へ行くと「桜馬場天満神社」がある。
史跡の項も参照。御神橋の両側面は家が建てみ、構造確認ができない。暗渠は新大工市場前から入れるが、遠すぎる。

親柱に「大正十三年一月」の銘。御神牛の手前に「石橋改修費寄附連名」碑があった。
fwd−net長崎・諫早HP「石造アーチ橋以外の石橋たちを訪ねて」による説明は次のとおり。

第 k-025 番   桜馬場天満神社の御神橋        長崎市桜馬場1丁目
最初の架橋年は不明。大正13年1月改修  長さ m 幅員 m  スパン m
参道一杯で側面からの確認は困難。

桜馬場と言うより、大手橋からシーボルト通りを歩いて、左手。(05/22/2002)
【神社由来記から】
大生山宝生院威福寺の開山なる射福院高順に源を発する。慶長元年に早岐から長崎に至り、同12年に筋違橋の袂に小堂を構え天満宮の尊像を祀ったのが起源という。
【祭 神】 菅原道真公
【創 建】 慶長12(1607)年
【境内社】 稲荷神社、竃神社、出雲神社

御神牛は道真公の生まれ年の縁と、大変可愛がられた牛が、天満宮をお参りしたことから、天満宮のシンボルのようになっている。
大正6年建立の一の鳥居は、建立当時はこのあたりもスペースが充分あったのであろう。今では写真の通り。
となりのビルは鳥居に遠慮したのか、建物を引っ込めて建設されている。今はこうして近隣の方からも崇敬される天満神社も、創建当時は切支丹の時代。多くの迫害も受け一時は現在の八幡町に疎開もしたが、元和8(1621)年に長崎奉行の肝いりで現在地に敷地を与えたという。
それ以来、長崎街道の起点にあたるところから、多くの参拝者を擁した。

長崎諏訪神社・長崎公園の石造橋と石門  長崎市上西山町

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長崎諏訪神社・長崎公園の石造橋と石門  長崎市上西山町

諏訪神社は鎮西大社と称えられる長崎の総氏神様。諏訪・森崎・住吉の三社を祀る。長崎くんちの舞台。隣に長崎公園がある。
石造橋や石門を見に行く。小さな桁橋しかない。最初のは日本銀行長崎支店の通用口。石門の葵紋とおり、東照宮はこの上の長崎県神社庁のところにあった。
風景・史跡の項も参照。

孔子廟の石橋「碧水橋」  長崎市大浦町

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孔子廟の石橋「碧水橋」  長崎市大浦町

長崎市大浦町の孔子廟に、昭和57年(1982)モニュメント橋として総大理石の石橋「碧水橋」が造られた。
「碧水橋」は儀門の正面池にあるが、奥の大成殿と中国歴代博物館との間にも、同じような造りの石橋を見る。手前は自販機部分のようにえぐられていない。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真      第 105 番    孔子廟の石橋(碧水橋)    長崎市大浦町(孔子廟)
昭和57(1982)年    長 さ 約4.5m   幅 員 約1.6m
総大理石のモニュメント橋。
孔子の霊をまつる聖廟は、佐賀県多久市や各地に造られているが、中国式建築の聖廟となると、長崎の孔子廟だけではないだろうか? 当時の清国が明治26年に清国の資金と指導で、日本人の手で建てられたという。日清戦争の最中でも、当時の長崎県は華僑の人たちの安全を保障すべき指示を出していた。