長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:1485 滝(4)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1485 滝(4) 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1485 滝(4)
〔画像解説〕
場所を特定する手掛かりはない。右手前、後ろ姿の男は髷を結っている。滝の上方に3人の男が点在しているが、その男たちと比べて、この滝はそれほど大きくはないことが分かる。

目録番号: 284 日光慈観滝(1)  関連作品 目録番号:2761(2)、2876(3)、4359(4)
〔画像解説〕
日光清滝の荒沢の上流には裏見の滝、初音の滝、さらに上に慈観の滝がある。慈観の滝は日光山の僧慈観により発見された。この滝は林道工事の為流れが変えられ、現在涸滝となっている。

■ 確認結果

目録番号:1485「滝(4)」は、目録番号: 284「日光慈観滝(1)」などにあるとおり、日光荒沢川の上流、裏見滝の上にかかる「慈観滝」であろう。高さ15m、幅3m。
日光市立図書館所蔵「版画日光名勝十二景」(発行年月日:明治14年)に、「11 慈観滝」が描かれている。 http://lib.nikkocity.jp/picture/doc.shtml?1131:1
現在の写真は、日光野鳥研究会HPの2001年5月観察会報告から。

長崎外の古写真考 目録番号:3945 箱根宿か

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3945 箱根宿か 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3945 箱根宿か
〔画像解説〕
山の形や川の流れ、建物等から判断して、箱根で該当するところはないように思われる。博捜すれば、あるいは、どこか当てはまる場所があるかも知れないが、今現在不明である。

目録番号: 293 大山
〔画像解説〕
英語で「大山の景色」と記入されているが、丹沢山系の雨降山大山寺の近くの登山口のひとつ。この寺は修験の道場で、参拝者が多く、山麓には門前町が発達し、宿坊が立ち並んでいた。

■ 確認結果

目録番号:3945「箱根宿か」は、次と同じ写真である。目録番号: 293「大山」の画像解説が正しかったら、「丹沢山系の雨降山大山寺の近くの登山口のひとつ」となるだろう。神奈川県伊勢原市大山か。大山ケーブルカーの登山口、追分あたりの旅館と思われる。この川は大山鈴川。
現在の写真は、伊勢原市観光協会HPから。同説明は次のとおり。

大山阿夫利神社下社
創建は紀元前97年崇神天皇の頃と伝えられ、大山神(おおやまずみのかみ)、雷神(いかづちのかみ)、高おかみを祭神とし、海人たちの守り神、鳥石楠船神(とりいわくすぶねのかみ)を合祀しています。本殿は山頂にあり、中腹に下社があります。

長崎外の古写真考 目録番号:1230 寺(2) 

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1230 寺(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1230 寺(2)

目録番号:3098 知恩院三門(5)
〔画像解説〕
知恩院三門を南西側から北東に望む。門前南方の小高い松の木は風のためか少し横倒しになり、足下には伐採された松の木の丸太が無造作に置かれている。知恩院三門は5間3戸、重層、入母屋造、本瓦葺で、元和5年(1619)に徳川家忠によって建立された日本最大の楼門である。

目録番号: 827 知恩院三門(2)
〔画像解説〕
京都市東山区新橋通。知恩院は、法然上人の吉水禅房にはじまる、浄土宗総本山。三門は、徳川秀忠による日本最大の楼門である。元和5年(1619)着工、2年後完成している。写真は、正面から松の木々ごしに、三門の全容を仰ぎ見る。楼上の「華頂山」の額は霊元天皇宸筆という。軒先に三手先の垂木の木口が白く整然と並んでいる。石段の下、及び中程に人影が見える。

■ 確認結果

目録番号:1230「寺(2)」は、次の同じスチルフリード(?)の目録番号:3098「知恩院三門(5)」、A.ファサリ の「目録番号: 827「知恩院三門(2)」にあるとおり、京都市東山区林下町にある「知恩院三門」だろう。

現在の写真は、京都観光サイト「京都じっくり観光」から。同説明は次のとおり。
知恩院は浄土宗の総本山であり、鎌倉時代に法然上人が住まいし、念仏の教えを説いたところ。現在の寺域は、徳川家康、秀忠、家光によって形成された。五間三戸二階二重門という三門はわが国最大で、楼上には「華頂山」の額が掲げられている。

長崎外の古写真考 目録番号:3482 博覧会場の寺山門

イメージ 1

イメージ 2

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3482 博覧会場の寺山門

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3482 博覧会場の寺山門

■ 確認結果

目録番号:3482「博覧会場の寺山門」は、「撮影地域:未詳」「撮影時期:未詳」で画像解説がない。寺山門の柱に掲げられた看板の字を拡大すると、たしかに「博覧会」とある。
この寺は京都府下京区にある「西本願寺」で、明治4年(1871)に開かれた日本初の博覧会の会場となった写真である。
この項は次のウェブに記事がある。 http://www.tanken.com/kyoto.html

観光都市「京都」誕生

明治2年(1869)に東京へ都が移ると、京都は人口が急減し、産業も衰退の一途をたどってしまいました。
そこで、京都復興の手段として考案されたのが、博覧会の開催でした。明治4年(1871)に開かれた日本初の博覧会は好評で、翌年には、「第1回京都博覧会」としてさらに大がかりのものが開催されたのです。当時のビラにはこう書いてありました。

《西洋諸国に博覧会とて、新発明の機械古代の器物等を普(あまね)く諸人に見せ、智識を開かせ、新機器を造り、専売の利を得さしむる良法に倣ひ、一会を張らんと、御庁に奉願、和漢古器を書院に陳列し、広く貴覧に供せんことを思ふ……》(原文カタカナ)

西本願寺で開催された博覧会。右は入口部分の拡大写真(明治4年)…

長崎外の古写真考 目録番号: 912 海岸の風景(1)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 912 海岸の風景(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 912 海岸の風景(1)
〔画像解説〕
場所未詳の海岸の漁村。干潮の海岸に漁船と思われる和船が10艘近く置かれ、中央には砂浜で人が写されている。漁村のほとんどの屋根が藁葺きで、僅かに瓦屋根が混じっている。横浜の近くと思われる

■ 確認結果

目録番号: 912「海岸の風景(1)」は、かなり大きな漁村の港で、背後に高い山が写っている。
横浜で発刊された英字新聞「ザ・ファー・イースト」の掲載写真とわかった。九州大学デジタルアーカイブを見ていたら、同じ写真がVol.2 No.6 1871/8/16 にあった。「指宿付近からの開門岳」と説明している。

新聞掲載写真の下には、「ODOMIWARRA-NEAR  CAPE  CHICHAKOFF」の解説英文がある。「NEAR CAPE」は「近く 岬」だろうか。「ODOMIWARRA」「CHICHAKOFF」がわからない。
「指宿付近からの開門岳」では、手前に池田湖があると景色は似るが、海岸とすると指宿の浜あたりとなり、開門岳から遠くなる。参考のため指宿からの写真を、鹿児島県総合観光サイトから載せた。九州大学に撮影場所の見解があれば、教えていただきたい。

この項は、次記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/3108

長崎外の古写真考 目録番号:1478 寺(3)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1478 寺(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1478 寺(3)
〔画像解説〕
茅葺屋根の御堂である。左手前のつるべ井戸で、髷を結った男が水を汲みあげている。この寺の墓守なのであろうか。

■ 確認結果

目録番号:1478「寺(3)」は、前に見た目録番号:1086「寺(1)」に似た茅葺屋根の御堂である。造りが少し小さく、別な寺と思われる。
横浜で発刊された英字新聞「ザ・ファー・イースト」に掲載された写真を見ていくと、Vol.1 No.19
1871/3/1に「TEMPLE GANJO-JI,TOBE.」があった。

願成寺(がんじょうじ)は、神奈川県横浜市西区西戸部町にある高野山真言宗の寺院。明治までは杉山神社の別当寺としてくらやみ坂の下(現・西区役所付近)にあり、横浜開港後に新設された神奈川奉行所の宿舎にもなった。 また、くらやみ坂脇には戸部監獄と刑場が置かれ、外国人殺傷事件で処刑された人々の墓がある。

九州大学デジタルアーカイブから「ザ・ファー・イースト」の「TEMPLE GANJO-JI,TOBE.」写真を最後に載せたが、目録番号:1478「寺(3)」は、この寺である可能性が考えられる。撮影の向きは違うが、茅葺屋根の御堂の造りや左手前立木は似ている。
現在の写真は、横浜市西区HPから「保土ケ谷道」。

長崎外の古写真考 目録番号:1086 寺(1)

イメージ 1

イメージ 2

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1086 寺(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1086 寺(1)
〔画像解説〕
“写真外に “”TAIMA TEMPLE,NEAR TANA “”とある。当麻寺のことであろうか、よく知られる当麻寺にはこのような建造物は見られない。 “”TANA “”という地名も未詳。”

■ 確認結果

地名「タイマ」は全国的に見られる。大和の当麻寺は、相模国の当麻山無量光寺、陸奥国会津国河の当麻山東明寺とともに、「日本三当麻」といわれている。
目録番号:1086「寺(1)」には、写真外に””TAIMA TEMPLE,NEAR TANA “”とあるのは、横浜で発刊された英字新聞「ザ・ファー・イースト」のVol.2 No.10 1871/10/16に掲載された写真だからである。 「””TANA “”という地名も未詳」らしいが、インターネットで「TAIMA TEMPLE,NEAR TANA」と検索するとすぐわかった。 

「貧忘録」ブログ氏の記事がある。http://blogs.dion.ne.jp/hinboh/archives/2009-10-1.html
2009年10月28日「Taima Temple」の記事。当麻寺というと奈良県葛城市の古刹が思い浮かぶが、紙面の少し上(Vol.2 No.8 1871/9/16)に“相模川、田名”というのがあるので、相模川沿い、田名の少し南にある「当麻山無量光寺」だと思い調べられたら、『当麻山の歴史』(当麻山無量光寺)に次のように記していたそうである。

“「ザ・ファー・イースト」は明治三年(1870)五月一日、絵入り隔週刊英字新聞として横浜で創刊され、明治六年七月一日からは月刊にかわり、明治八年八月三十一日号まで続いた。いわゆる画報の草分けで、発行者はイギリス人ジョン・レディー・ブラック(1827-1880)であった。「ザ・ファー・イースト」は。題名の示すように日本を主として、中国・台湾・朝鮮など極東を取材範囲とし、読者対象を主として極東居留地外国人・およびイギリス本国在住の同国人においているが、内容はニュースのほか、各地の紀行文・探訪記・風俗習慣等で、全巻六百余枚の写真を加えて、非常に内容が豊富である。
当麻山の写真がこれに掲載されているのは、明治三年六月十八日・十九日の両日、イギリス人マック・レガーとその友人がカヌーで市域田名から相模川を下った際に撮影したものと思われる。カヌーはイギリス本国から横浜へ取り寄せ。それを陸路人夫を使用して田名まで運ばせたもので、彼らは田名から相模川をくだって江の島へ行き、それから金沢を経て横浜に帰った”

したがって、目録番号:1086「寺(1)」は、現在の神奈川県相模原市当麻にある「当麻山無量光寺」の当時の姿を撮影した作品となるだろう。現在の写真は、HP「さがみはら百選」から。

(追 記 2012年2月26日)
長崎大学のデータベース上では、「当麻寺のことであろうか、よく知られる当麻寺にはこのような建造物は見られない。 “”TANA “”という地名も未詳」と解説し、イースト写真との説明はない。
しかし最近になって、長崎大学古写真研究会編「古写真研究 第1号」長崎大学附属図書館平成6年発行62頁に、当時、岡林助教授らの次の研究があることを見つけた。
和名「田名付近の当麻寺」だから、当時の当麻寺の建物に間違いないだろう。同じ大学の研究なので、見解を統一してほしい。

第2表 長崎大学附属図書館が所蔵する「The Far East」の写真目録の中
通し番号  52  (掲載)年月日  1871.10.16  
欧  名  TAIMA TEMPLE,NEAR TANA
和  名  田名付近の当麻寺
整理番号  24−38
タイトル  寺(1)〔不詳〕

長崎外の古写真考 目録番号:3045 富士山の遠望(2) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3045 富士山の遠望(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3045 富士山の遠望(2)

目録番号:3999 富士山(1)
〔画像解説〕
小山町須走(すばしり)あたりから富士山を遠望したもの。富士山の大きさや左手の稜線に宝永山が見えることから撮影地点が推定される。須走は古くから富士山須走登山道の登山口で、撮影地点はその登山道の途中であろう。撮影地の書込み方から撮影者はF・ベアトと考えられる。

目録番号:4000 須走(2)       関連写真 目録番号: 614 須走(1)
〔画像解説〕
小山町須走(すばしり)から富士山を遠望したもの。須走は古くから富士山須走登山道の登山口として栄え、御殿場から山梨へ向かう甲州道の籠坂峠(かごさかとうげ)越えの麓集落でもあった。道路には民家や石塔が並び、左手には半鐘台が見える。横浜開港資料館の研究(註)と撮影地の書込み方によりF・ベアト撮影と特定できる。

■ 確認結果

目録番号:3045「富士山の遠望(2)」と、目録番号:3999「富士山(1)」は、同一写真か、ほぼ同じ地点から撮影しており、タイトル、画像解説など調整要。
目録番号:4000「須走(2)」に須走側から見た富士山の姿がある。関連写真の目録番号: 614「須走(1)」は、同じ作品で彩色がある

長崎外の古写真考 目録番号:3042 神社(9)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3042 神社(9)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3042 神社(9)

目録番号:3483 石山寺(5)
〔画像解説〕 
石山寺(いしやまでら)境内で撮影したもの。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。奥に見える建物は、本堂と蓮如堂。画面には、寺名の由来であるごつごつとした岩山(硅灰石【けいかいせき】)が大きく写されている。

■ 確認結果

目録番号:3042「神社(9)」は、次の目録番号:3483「石山寺(5)」にあるとおり、滋賀県大津市の有名な「石山寺」の境内。「蓮如堂」(重要文化財)とその奥の「本堂」(国宝)を、硅灰石の岩山(国天然記念物)の方から写している。

現在の写真は、「愛知札所めぐり」HPから。滋賀県石山観光協会HPによる説明は次のとおり。
蓮如堂
硅灰石の崖にせり出しで建つ懸造の建物。慶長期に三十八所権現社の拝殿として建てられましたが、後に蓮如上人が祀られるようになりました。

長崎外の古写真考 目録番号:2031 神社の境内(1)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2031 神社の境内(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
整理番号46番台の一連の作品を見ている。

目録番号:2031 神社の境内(1)
〔画像解説〕
境内での記念撮影であろう。後ろの人物がこちらの様子をうかがっているのは、写真撮影がまだまだ珍しいものであったからであろうか。被写体と同一人物らしき女性が整理番号46-131の写真に見える。

目録番号:3483 石山寺(5)
〔画像解説〕 
石山寺(いしやまでら)境内の本堂正面から撮影したもの。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。瓦葺の建物(蓮如堂)の奥にみえるのが本堂で、承暦2年(1096)に焼失した後、再建された。

目録番号:2037 春日大社参道(5)
〔画像解説〕
参道を歩く和服姿の女性。同一人らしき人物が整理番号46-125の写真に見える。

■ 確認結果

目録番号:2031「神社の境内(1)」は、奈良市の「春日大社」と思ってタイトル「神社の境内」としているようだ。しかし、この建物は次の目録番号:3483「石山寺(5)」にあるとおり、滋賀県大津市の有名な「石山寺本堂」であろう。「撮影地域:滋賀」となる。

3枚目の目録番号:2037「春日大社参道(5)」に、「参道を歩く和服姿の女性。同一人らしき人物が整理番号46-125(目録番号:2031の作品)の写真に見える」のであるが、鳥居は赤く、これはやはり春日大社参道と思われる。

現在の写真は、「愛知札所めぐり」HPから。滋賀県石山観光協会HPによる説明は次のとおり。
石山寺本堂[いしやまでらほんどう]
巨大な硅灰石の岩盤の上に建ち、外観は一堂のようだが外陣と内陣の2堂が大棟で継がれている。外陣は慶長7年(1602年)淀君寄進の舞台造。内陣は永長元年(1096年)の建築。