長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:1237 谷川(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1237 谷川(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1237 谷川(1)
〔画像解説〕
場所は特定できない。かなり大きな谷川である。山あいをゆったり流れる豊かな水の様子が捉えられている。

目録番号:5047 保津峡を下る屋形船(5)   関連作品 目録番号:5557 保津川(9)
〔画像解説〕
保津川を航行する屋形船を上流北岸から撮影する。右山腹に京都鉄道軌道とトンネル口が見える。保津川下りとは亀岡保津町から嵐山渡月橋上流までの行程約16kmの船による川下りである。近世には丹波亀岡から京都へ木材や物資を輸送した舟運が、明治後期に京都鉄道の開通により衰え、行楽化した。写真は京都鉄道嵯峨・園部間が開通した1899年8月以後の撮影。

目録番号:1239 谷川(2)
〔画像解説〕
大きな岩が点在し、それらに当たり砕けながら流れる水の様子が捉えられている。露光時間が長いので砕ける水を瞬間的に写すことは出来ないが、流れの速さは感じ取れる。遠景の橋を人が1人渡っている。

目録番号:1690 保津川(8)

■ 確認結果

目録番号:1237「谷川(1)」の谷川奥の山の形は、目録番号:5047「保津峡を下る屋形船(5)」と同じである。したがって場所は京都の「保津川」であろう。

目録番号:1239「谷川(2)」も同じように見ると、目録番号:1690「保津川(8)」の山と似ている。これも京都の「保津川」ではないだろうか。

長崎外の古写真考 目録番号: 146 久形橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 146 久形橋 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 146 久形橋
〔画像解説〕
詳細位置不明。神戸市街北側に広がる丘陵山地付近の風景と思われる。

目録番号:1269 丘陵地より神戸港の遠景
〔画像解説〕
布引(ぬのびき)付近(現在のJR新幹線・新神戸駅の北側)から南方の神戸港を望む。中央を蛇行して海に注ぐのが生田川(いくたがわ)。この川の右(西)側に居留地がある。右奥には湊川(みなとがわ)河口の出洲、その向こうに和田岬がうっすらと見える。居留地の右手前の森は三宮神社。神社と居留地の間を旧西国街道が通り、3年あまり前の慶応4年1月11日(1868年2月4日)新政権の命を受けて西宮警備に向かう備前岡山藩兵と、外国人が衝突した「神戸事件」の舞台となった。生田川は写真のようにふだんは水量が少ないが、長雨が続くと氾濫して大きな被害をもたらしたため、明治4年(1871)に流路が付け替えられた。左手前の隅に付け替え工事中の新生田川が見えるので、明治4年(1871)頃の撮影であろう。この後、旧川筋は加納宗七(かのうそうしち)らによって埋め立てられて「加納町」が生まれる。”The Far East”1871年11月1日号によく似た写真がある。

■ 確認結果

神戸市文書館所蔵「又新日報」によると、検索画面で「明治24年 … 久形橋竣工式(昨日挙行につき) 葺合村生田川久形橋」と記録が出てくるが、正確な年月や橋の場所は不明。明治4年(1871)の生田川流路の付け替えの様子は、目録番号:1269「丘陵地より神戸港の遠景」にある。
目録番号: 146「久形橋」の画像解説は、「詳細位置不明」とあるが、目録番号:1269「丘陵地より神戸港の遠景」が、場所的に関連性のある作品だから、解説の参考となろう。

目録番号: 146「久形橋」の撮影者は、「日下部金兵衛」ではない。金子隆一氏研究紀要 ”内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置””(Adobe PDF)に、「図52 神戸より布引へ至ルノ途上」として、同じ写真(東京都写真美術館などの所蔵)がある。
明治5年(1872)、明治天皇の巡幸に随行した「内田九一」の作品である。帰路7月、神戸に寄って撮影している。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による「生田川」と「葺合区」の解説は次のとおり。

生田川
生田川(いくたがわ)は、兵庫県神戸市を流れる二級水系の本流。六甲山系の摩耶山北側の兵庫県神戸市灘区六甲山町付近に源を発し南流。大阪湾の神戸港に注ぐ。
…天井川かつ流域が平地であるがゆえに、水害が発生するとその被害は広範囲にわたる大きなものとなっていた。幕末の開国で、京都に近い港として神戸(当時の「神戸」は、現在の神戸市中央区のフラワーロード以西、生田裔神八社の点在するエリアを指した。同じく明治時代に付け替え工事のなされる前の旧湊川が「神戸」の西の境で、その西が「兵庫」であった。)の開港が決まったが、開港にあわせて整備することとされたが外国人居留地(神戸外国人居留地)が、その位置から、生田川の災害が発生した場合に大きな被害となることが予想された。早急なる神戸の開港・神戸外国人居留地の整備が求められたことが追い風となり、加納宗七が現在の位置に生田川を付け替える工事をし、1871年に完了した。そのため現在の生田川を新生田川と呼ぶこともある。

旧生田川の河川敷は加納宗七に払い下げられ、これが同地域の地名「加納町」の由来になっている。なお、加納町歩道橋の一角には、ここにもとの生田川があったことを示す石碑が建てられている。さらに、この付け替え工事が終わり、天井川たる旧生田川が消えたことで、以後、神戸の市街地は、明治時代のうちに、それまでは田畑や林が広範囲を占めていた東側の旧菟原郡部へ急速に拡大していった。特に、旧菟原郡のなかで、もともとの「神戸」のあった旧八部郡にもっとも近い葺合村は、1889年に神戸市が誕生した当初から神戸市となっている。
…上流には布引の滝や、神戸ウォーターの採取地があり、山陽新幹線の新神戸駅がまたいでいる。河川敷にある生田川公園は桜の名所になっている。

葺合区
葺合区(ふきあいく)は、かつて兵庫県神戸市に存在した区。現在の中央区東部に当たる。旧生田川、すなわちフラワーロードを境に東側が旧葺合区の区域である。ただし、ポートアイランドは全域が生田区に属していた。
地名としての「葺合区」は1896年(明治29年)、神戸市に6区が設置された時に始まるが、当時は行政区ではなく、地域を表す呼称の扱いだった。1931年(昭和6年)、区域はそのままに行政区となる。1980年(昭和55年)に区域再編がなされ、葺合区は生田区と統合され中央区となり、消滅した。ちなみに神戸市中央区生田町は生田区ではなく葺合区にあった。

長崎外の古写真考 目録番号:6079 本妙寺浄池廟中門

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6079 本妙寺浄池廟中門

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6079 本妙寺浄池廟中門

目録番号: 254 本妙寺
〔画像解説〕
本妙寺は熊本市にある日蓮宗の寺。加藤清正の菩薩寺である。清正を祀る浄池廊がある。清正信仰の広がりで本妙寺に参詣するものが増え、本写真のように石段の両側に茶店が並ぶようになった。本妙寺で行われる頓写会と呼ばれる写経は有名である。

■ 確認結果

目録番号:6079「本妙寺浄池廟中門」は、目録番号: 254「本妙寺」の画像解説にあるとおり、熊本市にある寺である。「撮影地域:長崎」は間違い。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による「本妙寺」の説明は次のとおり。現在の写真は、日蓮宗六条門流 肥後本妙寺HPから。

本妙寺(ほんみょうじ)
熊本県熊本市の熊本城の北西にある日蓮宗六条門流の寺で大本山本圀寺から「六条門流九州総導師」の特別寺格を与えられている。山号は発星山。本尊は十界曼荼羅。日蓮宗の熱心な信者であり肥後熊本藩の初代藩主だった加藤清正を祀る浄池廟(じょうちびょう)があることで知られる。奥に長い石段があり、上ると加藤清正の銅像がある。

長崎外の古写真考 目録番号:3101 寺(10)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3101 寺(10)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3101 寺(10)

目録番号:6565 京都妙心寺

■ 確認結果

目録番号:3101「寺(10)」は、目録番号:6565「京都妙心寺」のとおり、京都市右京区花園にある「妙心寺」の仏殿と法堂である。境内に同じ大松?や藤棚?が写っている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による「妙心寺」の説明は次のとおり。現在の写真は、京都名所探訪HPから。

妙心寺(みょうしんじ)
京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(かんざんえげん、無相大師)。
日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭寺院(たっちゅうじいん、子院)が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。

「京都妙心寺」の作品は、「写真の中の明治・大正 −国立国会図書館所蔵写真帳からー」にも、次のデータにより掲載されている。
掲載資料 近畿名勝写真帖  刊行年 明34  請求記号 YDM25404
住所表記(明治期) 葛野郡花園村  住所表記(現在) 京都市右京区花園妙心寺町

長崎外の古写真考 目録番号:1352 寺の境内(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1352 寺の境内(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1352 寺の境内(2)
〔画像解説〕
相当大きな寺院の中門前である。場所は未詳だが、一斉に中門に向かっている人々の姿が生き生きと捉えられており、祝祭的雰囲気を感じる。

目録番号:3339 寺の山門

■ 確認結果

目録番号:1352「寺の境内(2)」は、見慣れた光景だろう。奈良の「東大寺中門」である。奥にみえるのが「大仏殿」。
現在の写真は、Lavender House 奈良の旅から。

目録番号:3339「寺の山門」も、山門の大きさと造りから、「東大寺中門」と思われる。僧侶と親子連れが通りかかっている。先の作品の少し手前からか、中門をくぐって大仏殿の方から中門を撮影すると、「大仏殿」の屋根は写らないだろう。

長崎外の古写真考 目録番号:5902 皇室別荘全景 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5902 皇室別荘全景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5902 皇室別荘全景

目録番号:5903 中庭から見た皇室別荘

■ 確認結果

目録番号:5902「皇室別荘全景」と目録番号:5903「中庭から見た皇室別荘」とも、「撮影地域:箱根」なら、元箱根御用邸(箱根離宮)となる。神奈川県足柄下郡箱根町元箱根にあり、現在は「神奈川県立恩賜箱根公園」となっている。

同公園HPによる沿革は次のとおり。公園のほぼ中央に、旧離宮本館の礎石が残されている。その正面に建つのが、かつての離宮を思わせる「湖畔展望館」。展示されている箱根離宮の資料が、華やかな時代を物語る。目録番号:5903「中庭から見た皇室別荘」と同じような古写真が展示されているが確認できるだろう。
神奈川県立横須賀高校八期生HPにも、同じ古写真を「元箱根御用邸」とし記事がある。

■ 「神奈川県立恩賜箱根公園」の沿革
ここは「塔ヶ島」と呼ばれ、芦ノ湖に突出した半島のかたちをなしています。 宮内庁はここに皇族の避暑と外国からの賓客のために離宮の造営を計画しました。明治17年、当時笹の密集していた塔ヶ島を中心に163000平方メートルを買収し、離宮の造営が始まりました。

明治19年7月に完成した箱根離宮は、二階建ての西洋館と日本館を中心に官舎・兵舎が建ち並び、華麗な姿を芦ノ湖に映していましたが、大正12年の関東大震災・昭和5年の北伊豆地震と続いた災害によって倒壊してしまいました。その後、箱根離宮を再建する計画もありましたが、時代が戦争へと大きく傾いてゆく中にあって再建計画は打ち切られてしまいました。

そして、終戦後の昭和21年3月18日、離宮跡地は神奈川県に御下賜され、神奈川県はここを整備しその年の5月5日「恩賜箱根公園」として一般に開放いたしました。その後、昭和34年4月県立都市公園に指定され、園内が整備されました。さらに、平成元年より大規模な再整備工事を行いました。

恩賜箱根公園は、その恵まれた環境と富士山を正面に芦ノ湖を見下ろすすばらしい景観とによって箱根を訪れる人々の憩いの場として多くの人々に親しまれております。
【公園の概要】  名称 : 県立恩賜箱根公園
公園種別 : 風致公園 所在地 : 足柄下郡箱根町元箱根171 面積 :15.9ha

長崎外の古写真考 目録番号:5377 将軍の夏の別荘 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5377 将軍の夏の別荘 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5377 将軍の夏の別荘

目録番号:1284 浜離宮  関連作品   目録番号:1449 浜御殿(1)、4013(2)、5705(3)
〔画像解説〕
江戸時代の将軍の別荘。海辺に設けられた夏用の別荘で、船遊び用の船着き場もある。巧みに風景を取り入れた造園術が見事である。

目録番号:4514 御苑
〔画像解説〕
英文タイトルの「PALACE」は宮殿・御殿・大邸宅というような意味を持つ。かなり広い池と岩組みをふんだんに採り入れた典型的な池泉回遊式の大名庭園であるが場所は特定できない。左手の木はかなりの古木であり、この庭の作庭当初に植えられたもののようだ。

■ 確認結果

目録番号:5377「軍の夏の別荘」は、目録番号:1284「浜離宮」にあるとおり、「浜離宮」であろう。目録番号:4514「御苑」も「浜離宮」と思われる。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は次のとうり。

東京都立浜離宮恩賜庭園(とうきょう とりつ はまりきゅう おんし ていえん)は、東京都中央区浜離宮庭園にある都立庭園。東京湾から海水を取り入れ潮の干満で景色の変化を楽しむ、潮入りの回遊式築山泉水庭。江戸時代に庭園として造成された。園内には鴨場、潮入の池、茶屋、お花畑、ボタン園などを有する。
もとは甲府藩の下屋敷の庭園であったが、宮内省管理の離宮を経て、東京都に下賜され都立公園として開園。公園の広さは、250,165.81m²。有料で一般に開放されている。

外国人接待所として石造洋館である延遼館(幕府海軍伝習屯所)が建設された。延遼館は、明治維新後も鹿鳴館が完成するまでは迎賓館として使用された。明治維新後に、宮内省の管轄となり名前も浜離宮と改められた。明治天皇も度々訪れるようになる。

長崎外の古写真考 目録番号:3097 西本願寺(5) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3097 西本願寺(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3097 西本願寺(5)
〔画像解説〕
知恩院経蔵を御影(ごえい)堂南側より石燈籠をはさみ東に望む。経蔵は元和5年(1615)の創建で、本瓦葺で二層の宝形造である。裳階部分には壁・扉・窓がなく吹放しで、柱が立ち並んで周りを取り巻く「周柱式」が用いられている。背後には華頂山が迫る。左方から御影(ごえい)堂の屋根が姿を見せる。

目録番号:1998 寺の広場
〔画像解説〕
知恩院境内を霊塔南東側より北東に望む。石畳の参道が前方より一直線に延び、左方の本堂の御影(ごえい)堂、右方の経蔵へと続く。背後に華頂山をいただく。御影堂前には洋服にステッキを持った男性の姿、経蔵前には2対の石灯籠が見える。御影堂は寛永16年(1639)の創建で、入母屋、本瓦葺の大堂である。

目録番号:1329 知恩院

■ 確認結果

目録番号:3097「西本願寺(5)」は、画像解説では「知恩院」としながら、タイトルが「西本願寺」となっている。
目録番号:1998「寺の広場」は、タイトルを他の作品にあわせ「知恩院( )」としてよいのではないか。
目録番号:1329「知恩院」も同じ。

長崎外の古写真考 目録番号:3046 寺(6) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3046 寺(6) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3046 寺(6)

目録番号:3062 寺(8)

目録番号:4382 黒谷金戒光明寺の石段(1)  関連作品 目録番号:4919(2),4953(3)
〔画像解説〕
黒谷金戒光明寺の石段を蓮池院(熊谷堂)北側の参道より東に望む。石段両側の斜面には数多くの墓石が建ち並び、親子連れが石段を登っていく。石段上には樹林でさえぎられた文珠塔がそびえる。石段中腹左に見える阿弥陀如来座像は移築され現存しない。 文珠塔は三重の塔で、寛永11年(1634)に徳川秀忠の菩提を弔うために建立された。

■ 確認結果

目録番号:3046「寺(6)」と目録番号:3062「寺(8)」は、次の目録番号:4382 「黒谷金戒光明寺の石段(1)」の画像解説にあるとおり、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺「金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)」である。
「金戒光明寺」は、知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山の1つ。承安6年(1175)法然が比叡山より下りてこの地に庵を建てたのが寺の起こりと伝えられる。新選組発祥の寺で本陣も置かれた。

長崎外の古写真考 目録番号:2750 横浜からの富士山(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2750 横浜からの富士山(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2750 横浜からの富士山(3)
〔画像解説〕
地点は定かでないが、富士山の大きさや山容、その他の地形から見て、富士川の流域のように見える。

■ 確認結果

目録番号:2750「横浜からの富士山(3)」は、画像解説のとおり、「富士川」の流域ではないだろうか。タイトル・撮影地域とも調整要。
別作品として、目録番号:4409「富士川からの富士山(7)」などあるので参照。
現在の写真は、富士山周辺トラベルガイドから。撮影地不明。