長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:3095 神社山門

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3095 神社山門

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3095 神社山門

目録番号:6558 京都上加茂

■ 確認結果

目録番号:3095「神社山門」は、目録番号:6558「京都上加茂」にあるとおり、京都市北区上賀茂本山町にある上加茂神社の楼門である。楼門は1628年建造。
京都の社寺HPによる説明は次のとおり。現在の写真も同HPから。

上加茂神社

上賀茂神社は下鴨神社と並んで京都でもっとも古い神社の一つである。伝説では神武天皇の時代に加茂山に祭神が降臨したと言われ社殿の前にある円錐型の立砂はその山の形を表したものである。上賀茂神社は雷神を祭ることから厄除けの神、五穀豊穣の神としても信仰され、祭礼にもその性格が表れている。五月五日の競馬神事は馬の競走でその年の米作を占うもので、平安時代からの伝統行事である。最大の行事は京都三大祭の一つである葵祭りである。葵祭りの名称は参列する人の衣冠や牛車を葵の葉で飾ることにちなむ。現在も平安時代の風俗を再現した行列が京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社まで練歩く。

長崎外の古写真考 目録番号:5911 五重塔と池

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5911 五重塔と池

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5911 五重塔と池

目録番号: 160 浅草寺五重塔と鐘楼(1)
〔画像解説〕
弁天池奥から北に向かって五重塔と鐘楼を撮す。整理番号4-10の位置より引いて、右に振ったもの。五重塔の左隣に本堂の屋根、右手前に経蔵が見える。芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」でも有名。

目録番号:4440 浅草寺時の鐘と五重塔(2)
〔画像解説〕
弁天山の時の鐘から五重塔を望む。江戸期には庶民は時計を持たなかったから時の鐘を聞いて時刻を知った。まず捨て鐘を三つ叩いたとのこと。早朝九つ鳴れば三つを引いて明六つ(現午前6時頃)ということだった。内田九一が明治5〜6年(1872〜3)に撮影した写真だが、この写真は後に手彩色され横浜写真として販売されたものである。

■ 確認結果

目録番号:5911「五重塔と池」は、目録番号: 160「浅草寺五重塔と鐘楼(1)」及び目録番号:4440「浅草寺時の鐘と五重塔(2)」にあるとおり、まったく同じ作品て゜、「浅草寺の五重塔と鐘楼」を撮影している。それぞれのタイトルを調整要。撮影者が「日下部金兵衛」や「内田九一」となっているのも調査要。

長崎外の古写真考 目録番号:3018 神社(8)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3018 神社(8)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3018 神社(8)

目録番号:3103 芝増上寺境内(1)
〔画像解説〕
“文昭院霊廟奥院拝殿に通じる石段と唐門を,仕切門をくぐった位置から撮影したものである。左手に並ぶ灯篭は銅製で、大名家から寄進されたものである。銅灯篭には「文昭院尊前正徳二年十月二十四日」の刻銘がある。この日は、家宣の亡くなった日である。”

■ 確認結果

目録番号:3018「神社(8)」は、目録番号:3103「芝増上寺境内(1)」にあるとおり、「芝増上寺境内」であろう。

長崎外の古写真考 目録番号:2990 滝(6)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2990 滝(6)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2990 滝(6)

目録番号: 491 湯元温泉湯滝
〔画像解説〕
湯の湖からの水の落口に広い岩盤を末広がりに流れ下る湯滝がある。 湯滝が湯川となって戦場が原を流れ龍頭の滝となって中禅寺湖に落ちる。 滝壷近くの中央の立木はまだ小さい。 昭和末大きくなったこの立木は洪水で流失した。

■ 確認結果

目録番号:2990「滝(6)」は、目録番号: 491「湯元温泉湯滝」にあるとおり、「湯本温泉湯滝」(「湯本」が正)であろう。湯滝は奥日光、湯ノ湖から流れ落ちる滝で、高さ50メートル、幅20メートル。華厳の滝、竜頭の滝と並び奥日光三名瀑のひとつである。
現在の写真は、ギャメロンさんのブログ「ぶら〜り日記」から。

長崎外の古写真考 目録番号:2364 五重塔

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2364 五重塔 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2364 五重塔

目録番号:1780 仁和寺五重塔
〔画像解説〕
仁和寺五重塔を塔西側から東に見上げる。辺りには小高い松の木と、御室桜が植えられている。手前の左右に続く参道は仁和寺の仁王門と金堂をつなぐ。仁和寺五重塔は寛永14年(1637)に徳川家光が創建した。各方約5.5m、高さ33mの朱塗の五層塔婆である。

■ 確認結果

目録番号:2364「五重塔」は、目録番号:1780「仁和寺五重塔」にあるとおり、京都市市右京区御室大内にある仁和寺の五重塔でないだろうか
真言宗御室(おむろ)派の総本山、御室御所とも言われている。仁和寺五重塔(重要文化財、江戸時代初期 寛永14年 1637年再建、本瓦葺、高さ32.7m)
復古式五重塔の代表作。塔は、各層の屋根の大きさがほぼ同じという江戸期の特徴を示している。現在の写真は、京都の塔から。

長崎外の古写真考 目録番号:1106 蓮池(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1106 蓮池(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1106 蓮池(2)
〔画像解説〕
本コレクション中に蓮池の写真が多数ある。整理番号15-49「不忍池(2)」などとの比較から、本写真も不忍池と思われる。全面の大きな蓮の花と遠景の木立の対比によって、池の広がりが強調されている。

目録番号:2253 鶴岡八幡宮の蓮池(5) ほか
〔画像解説〕
” №54B. LOTUS FLOWERS AT KAMAKURA.’とある。向かって右には木の鳥居があり、その左側の赤い建物は若宮で、上にあるのは上宮廻廊(かいろう)であろう。ところで、明治期には池の周囲に馬場があったというが、この写真では判然としない。「玉村康三郎作品集」所収。撮影年代未詳。

■ 確認結果

目録番号:1106「蓮池(2)」は、目録番号:2253「鶴岡八幡宮の蓮池(5)」ほかのとおり、「鶴岡八幡宮の蓮池」だろう。

長崎外の古写真考 目録番号:1149 神社(3) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1149 神社(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1149 神社(3)
〔画像解説〕
神社の社殿配置を全体的に捉えた写真であるが、神社の特定は未詳である。

目録番号:1540 生田神社(3)
〔画像解説〕
湊川神社の写真である。湊川(みなとがわ)神社はJR神戸駅の北に位置し、建武3年(延元元年[1336])5月湊川の戦で足利軍に敗れ、この地で自刃した楠木正成(くすのきまさしげ)を祀る。神社としての歴史は、慶応4年(1868)4月に政府が社壇造営を決定したことに始まる。明治5年(1872)4月に社号は湊川神社、社格は別格官幣社と決まり、5月には社殿が完成。写真は明治10年頃から20年代前半の撮影であろう。手前の建物は拝殿、奥は本社である。写真には写っていないが、元禄5年(1692)に徳川光圀(みつくに)が建てた「鳴呼忠臣楠子之墓」(ああちゅうしんなんしのはか)の石碑などが現存する。神社北方の丘陵には、後に実業家大倉喜八郎(おおくらきはちろう)が別荘を営んだのにちなんで、明治44年(1911)大倉山公園が開園される。その右手の宇治野山には、明治29年(1896)兵庫県立神戸測候所が創設され、大正9年(1920)に日本最初の海洋気象台が発足する。

■ 確認結果

目録番号:1149「神社(3)」は、目録番号:1540「生田神社(3)」と同じ神社を撮影した写真である。目録番号:1540「生田神社(3)」は、タイトルが「生田神社」となっているが、画像解説では「湊川神社の写真である」とし、解説している。

湊川神社(みなとがわじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区にある楠木正成を祭る神社。地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。
生田神社(いくたじんじゃ)も、同じ神戸市中央区にある神社だが、古写真の中央建物は、当時の「神能殿」のようであり「湊川神社」が正しいと思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:1456 不二沼からの富士山(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1456 不二沼からの富士山(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1456 不二沼からの富士山(1)  関連作品 目録番号:1465 同(2)
〔画像解説〕
写真左下に書き込まれている「不二沼」という地名は現実には見あたらないが、当て字だろうか。

目録番号:2245 東海道沼川からの富士山(1)
〔画像解説〕
富士市柏原新田付近の浮島沼(沼川の上流)から北方の山頂に雪の積もった富士山を遠望したもの。沼の水は沼川を通り、田子ノ浦に注ぐ。浮島沼の周囲は浮島ケ原の湿地帯であり、川舟で移動するため、多くの水路網が発達していた。帆を張った川舟には男性が1人が乗る。

■ 確認結果

静岡市HPに、歌川広重が描いた「五十三次名所図会」の作品として、”吉原 不二沼浮嶋が原”が出てくる。不二沼とは「浮嶋が原」ではないだろうか。
東海道五十三次今昔物語ー吉原宿ーHPの中に、八代市ちくたく凡様の寄稿として、次の文がある。

吉原宿から三里半余り、原宿(沼津市原)に着きます。目立たない小さな宿場ですが、白隠禅師が生まれた地で、住職を勤めた松蔭寺があり、ここにも禅師の墓があります。境内のすり鉢松も見ものです。吉原から愛鷹山麓に広がる浮嶋が原湿地帯(富士市・沼津市にまたがる)と富士山を左に見ながらの旅は爽快です。鴨長明が著した『東関紀行』でもこのあたりの風景の美しさは絶賛されています。(今は住宅が立て込んで見えにくくなっています)

長崎外の古写真考 目録番号:3096 風景

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3096 風景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3096 風景

目録番号:1387 三井寺と長等神社
〔画像解説〕
三井寺(園城寺)南側に接する長等神社である。飛鳥時代に、天智天皇が建速素戔鳴尊(タケハヤスサノオノミコト)に勧請して長等山岩倉谷に祀ったのが始まりとされ、また貞観2年(860)、比叡山の高僧円珍が、大山昨命(オオヤマクイノミコト)を合祀して園城寺の鎮守としたとされる

■ 確認結果

目録番号:3096「風景」は、目録番号:1387「三井寺と長等神社」の右上高台の風景である。したがって大津市「三井寺観音堂」を長等神社側から撮影していると思われる。
神社のすぐ横から三井寺へ登っていく長い石段が続いている。駆け上がれるほど短くもない。上がりきったところが、三井寺観音堂。今は駐車場の関係で仁王門から三井寺を訪れる人が多いが、かつてはこちらから参拝する方が主だったらしい。
現在の写真は、大津絵blog 雪月鬼から。

長崎外の古写真考 目録番号:1285 青銅の仏像

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1285 青銅の仏像

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1285 青銅の仏像
〔画像解説〕
“写真台紙に “”Bronze Emage and grave stones “”とある。雨ざらしの青銅阿弥陀仏は温和な藤原仏を思わせる。左、縁側に腰掛け仏像を見上げている髷を着けた男は、墓守であろうか。右下に “”KRODANI “”とあるが未詳。”

■ 確認結果

目録番号:1285「青銅の仏像」は、写真右下に “”KRODANI “”とあるなら、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院「金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)」でないだろうか。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろたにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山の1つである。
現在の写真は、Kimono act.Com 桜巡りから。境内に同じような造りの建物があるようだ。