長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:2057 寺の山門(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2057 寺の山門(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
整理番号46番台の一連の作品を見ている。

目録番号:2057 寺の山門(2)
〔画像解説〕
場所は特定できないが、東京のあるお寺の山門。境内の内側から写したものだが、山門の下には数人の人物の姿が見える。

目録番号:4902 石山寺仁王門
〔画像解説〕
石山寺境内の入口に、瀬田川に向かって建つ東大門の様子。東寺真言宗大本山石山寺は、縁起では天平19年(747)聖武天皇の命により、良弁(ろうべん)が開いたといい、天平宝字5年(761)に伽藍が整備された。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。東大門は、建久元年(1190)の建築といわれるが、淀君による本堂礼堂の再建時に新築に等しい大改造が行なわれている。この門前は、現在では公園整備され、参詣客向けの土産物やレストランが立ち並んでいる。写真右の手前にある建物の場所は、現在では公園になっているが、陳列台らしきものが見えることから、土産物を販売していたのかもしれない。

■ 確認結果

目録番号:2057「寺の山門(2)」は、「撮影地域:東京」。画像解説では「場所は特定できないが、東京のあるお寺の山門。…」としている。この山門は、滋賀県大津市にある有名な「石山寺の東大門」。国重要文化財の建物である。

次の目録番号:4902「石山寺仁王門」と造りを比べてもらいたい。門の中央に吊り下げられている物も同じであろう。目録番号:2057「寺の山門(2)」は、石山寺の東大門をくぐって「境内の内側から写したもの」に間違いないと思われる。

現在の写真は、瀬田川流域観光協会HPから。同説明は次のとおり。内側から写した写真も「現身日和(うつせみびより)」にあった。
石山寺(いしやまでら)
西国三十三所観音霊場の第13番札所。奈良時代後期に、聖武天皇の発願により、良弁によって開かれました。広大な境内には、寺名の由来となった天然記念物の硅灰石(けいかいせき)がそびえ、国宝の本堂・多宝塔を始め漢書、仏像、絵巻など多くの国宝、重要文化財があります。

長崎外の古写真考 目録番号:2096 丘陵地からの熱海市街

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2096 丘陵地からの熱海市街

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
整理番号46番台の一連の作品を見ている。

目録番号:2096 丘陵地からの熱海市街   豆相人車鉄道は、目録番号:2093〜2095にあり。
〔画像解説〕
キャプションがないため詳細は不明だが、高台の公園と思われる場所から、盆地に広がる町並が写されている。右手には休息所が設けられているが、人物の姿は見あたらない。

■ 確認結果

目録番号:2096「丘陵地からの熱海市街」は、「キャプションがないため詳細は不明だが、高台の公園と思われる場所から、盆地に広がる町並が写されている」と画像解説している。
写された町並みが「熱海市街」となると、はたしてこの高台の公園らしい場所はどこだろうか。背景の山の格好から見ると、この広場は公園ではなく、現在もお宮の松海岸の上の高台にある「熱海駅」あたりが考えられる。

古写真では左が海岸側となる。だが、「熱海駅」は現在のJR駅ではない。JR東海道線が開通する前の、小田原ー熱海間「豆相人車鉄道」の「熱海駅」は、現在の駅から少し下った咲見町にあった。現在、この場所には「熱海温泉の宿 南明ホテル」が建っている。
目録番号の前の3作品は「豆相人車鉄道」を写している。したがって次に到着した熱海駅前で熱海市街を撮影したことは十分に考えられる。
「豆相人車鉄道」については、「熱海温泉の宿 南明ホテル」HPに次のとおり貴重な記事と古写真がある。 http://www.nanmei.co.jp/blog/log/eid95.html

人車鉄道の熱海駅だったんです   2009.05.17 Sunday 13:19 | posted by nanmei

鉄道がお好きな方がよく南明ホテルの玄関のところで写真を撮られていますが・・実は当ホテルは人車鉄道の熱海駅だったんです。えっ?人車鉄道??って?(じんしゃてつどうと読みます) 読んで字のごとし・・で機関車が走る前の鉄道でお客様の乗った車両を人が手で押して走る鉄道です。なんだかお気の毒で、私だったら降りて一緒に押してしまいそうです^^;
こんなことをして人を運んでいたんですね。当時の職員は片道だけでぐったり〜だったんでしょうね。次の写真は当時の熱海駅です(当ホテルのできる前です)
人車鉄道が終わって機関車になったときの写真もありました(^0_0^) 皆さん、着物を着ています。町並みも明治時代を思わせます。
(これは当ホテルにはあまり関係のないお写真ですがめずらしかったのでのせてみました^^;) 当ホテルの大浴場”ひのき湯”とフロント前にもお写真がかざってありますので是非ご覧ください。

楽しい記事であろう。現在の熱海市街と山の姿は、「沼津の風景 周辺市町の風景写真」HPから。豆相人車鉄道と当時の熱海駅の古写真は、「熱海温泉の宿 南明ホテル」HPから。同ホテルの玄関脇に『豆相人車鉄道記念碑』がある。
「人車鉄道の世界」豆相人車鉄道は、 http://www.kk-net.com/~tabuchi/JINSHA.htm

長崎外の古写真考 目録番号:6609 近江 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6609 近江 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6609 近江

目録番号:1338 比良遠望
〔画像解説〕
“比良山系は琵琶湖西岸にある標高1,000m程度の山群。近江八景「比良の暮雪」として有名。「さざなみや 比良の山風 さ夜ふけて 月影寒し 志賀の唐崎」(源実朝)”

■ 確認結果

目録番号:6609「近江」は、ボードインコレクション(4)のアルバムにある作品。撮影場所が不明だが、まったく同じ写真がデータベースの目録番号:1338「比良遠望」で見つかった。
右上にタイトル、説明、ローマ字表記のキャプションがある。このような作品は目録番号:1322「三条大橋」から目録番号:1343「下鴨神社」まで22点(別に目録番号:3450,3454,3471,3483,3484があったので27点)ある。
京都・奈良・滋賀の社寺など名所を写し、外国人向け絵葉書のような一連の写真である。すべて卓越した構図となっており、出来ばえが素晴しい。撮影者は誰だろうか。

超高精細画像があるとキャプションを読まれ、撮影場所を正しく推定できそうだが、画像解説では源実朝の歌を紹介しているので、「志賀(滋賀)の唐崎」が考えられる。
琵琶湖の西岸、現在の滋賀県大津市唐崎1丁目に「唐崎神社」がある。境内は滋賀県指定史跡。宇志丸宿禰が植えたのに始まるとされる「唐崎の松」がある。境内から琵琶湖を背景に唐崎の松を描いた歌川広重の浮世絵「唐崎の夜雨」で知られており、「近江八景」に選ばれている。

古写真は神社の湖岸側突端「唐崎」を写したものだろう。東を向いているので、「比良遠望」と題しながら写っている山は「湖東三山」と思われる。北を向くと大津市街越しに「比良山」の雄大な姿が眺められると思われる。ここは現在、県営都市公園:湖岸緑地「唐崎苑」となっている。
近江八景の図は、社団法人びわ湖大津観光協会HP「びわ湖大津よりどり観光ガイド」から。唐崎からの遠望は、バス・ギルポイントHP「柳が崎から大宮川河口A(柳が崎から四谷川河口付近)」の参考写真を載せた。

長崎外の古写真考 目録番号:3224 精錬所 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3224 精錬所 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3224 精錬所

目録番号: 408 有馬(但馬が正)の生野銀山
目録番号:5066 神戸の海岸線

■ 確認結果

目録番号:3224「精錬所」は、明治天皇巡幸に随行した内田九一の写真と思われるが、巡幸写真に掲載がなかった。やはり有名な鉱山の精錬所だった。兵庫県朝来市(旧生野町)にあった「生野銀山」。内田九一は巡幸の途中、神戸から立ち寄ったのだろう。
「生野銀山」は、大同2年(807年)に開坑し、信長・秀吉・徳川幕府の時代を経て明治元年には政府直轄となり、その後は皇室財産にまでなった大鉱山。1200年以上も銀山として栄え、昭和48年に閉坑した。現在は史跡、鉱物館、体験観光施設となっている。

古写真のポイントは、手前にある川の橋、石門の門柱、背景の山。参考写真は
1 日本名勝旧蹟産業写真集 刊行大正7年の生野銀山古写真 (国立国会図書館所蔵写真から)
2 生野銀山の現在の川の橋と背景の山 (HP色々な画像:生野銀山01から)
3 生野銀山の石門の門柱 菊の御紋入り (HP神戸観光壁紙写真集から)
関連作品の目録番号: 408「有馬(但馬が正)の生野銀山」は、小川一真撮影。生野峠の街道風景であろうか。

(追 記 2014年3月25日)
関連作品の目録番号: 408「有馬の生野銀山」が、長崎大学データベースで最近、タイトルが「有馬の剣山」と修正されていた。
蓬莱峡出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は、次のとおり。「有馬の剣山」のタイトルの方に間違いないようである。
目録番号:5066「神戸の海岸線」も、有馬街道で蓬莱峡上部あたりの景色と思われる。

蓬莱峡  
蓬莱峡(ほうらいきょう)は兵庫県西宮市の六甲山地にある峡谷。瀬戸内海国立公園の指定区域。

概要[編集] 蓬莱峡は、六甲山の裏側(北側)を有馬高槻構造線に沿って西から東へまっすぐ流れる大多田川の上流部、支流の座頭谷川との合流地点より上流(西側)にある。風化した花崗岩が鋸歯状の鋭い岩峰の稜線を見せる峡谷である。断層破砕帯にあたり、地質学では「バッドランド(悪地)」と呼ばれる地形であるが、これほど険しい地形は世界でも特異とされる。右の写真にある白い岩は著しく風化した花崗岩であり、その表面は素手で簡単に崩せるほどもろい。
殺伐とした白い無数の剣山があまりにも非現実的な風景であることから、映画やテレビドラマのロケ地としてしばしば採用された場所であったが、現在は六甲山地への代表的な登山ルートの一つとして広く知られる存在である。

写真説明
蓬莱峡:白く尖った地形は風化した花崗岩、その奥の茶色の崖は段丘が侵食されたもの
北側から見た座頭谷と蓬莱峡:左の砂防ダムが並んだ地形が座頭谷座頭谷は、その昔、ここを通りかかったひとりの座頭が道に迷い、ついには行き倒れになったという言い伝えから名づけられたものである。

歴史[編集]
・豊臣秀吉が大阪から有馬温泉へ向かうときに通行した道「有馬街道」の難所であった。
・江戸時代の儒学者貝原益軒か著した「有馬山温泉記」(1711年)では「剣岩」・「大剣」・「小剣」と記されている。
・黒澤明監督「隠し砦の三悪人」(1958年)の主な撮影地となる。

長崎外の古写真考 目録番号:3225 大川辺りの風景 ほ

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3225 大川辺りの風景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3225 大川辺りの風景

目録番号:3229 大阪の河口の風景
〔画像解説〕
川口波止場である。大阪は慶応4年(1868)7月15日に開港した。安治川河口から約4キロ上流のところに設けられ、税関・電信も設置された。写真に写っている船は外輪船である。遠くに見える洋館は、外国人居留地の建物である。明治20年(1888)ころと思われる。

目録番号:6578 大阪 安治川橋

■ 確認結果

1枚目の目録番号:3225「大川辺りの風景」は、「撮影者:内田九一」なのに「撮影地:未詳」となっている。「大川」とは、大阪では「旧淀川」の流域のようである。大川は、中之島で堂島川、土佐堀川の2川に分かれ、都心の川、堀を流れて、流末は安治川、尻無川、木津川の3川となり大阪湾に注いでいる。上流に「大橋」が遠く写る。橋が特定できれば良いが不明。「街路灯」が立つ。

2枚目の目録番号:3229「大阪の河口の風景」も、「内田九一」の作品。1枚目と風景が似ていることがわかるだろう。撮影場所は、大阪外国人居留地の「川口波止場」である。波止場に停泊中の「外輪船」。「街路灯」は右端に小さく写っている。
「外輪船」の奥に橋が写る別の角度の古写真もある(岩崎家近代建築古写真から)。

3枚目は目録番号:6578「大阪 安治川橋」。ボードインコレクションで撮影者未詳。中央に大きく写る「街路灯」。橋の中央部が「可動橋」となっている。
3枚とも「街路灯」は、大阪外国人川口居留地の「街路灯」のようである。したがって、1枚目の写真も、大阪「安治川畔」の風景と考えて良いと思われる。内田九一は最初、大阪で開業した。
大阪市HP「橋梁顕彰碑」安治川橋の説明は次のとおり。

橋梁名:安治川橋(あじがわばし)   所在区名:西区  河川名:安治川

江戸時代初期までの淀川河口部には九条島が流れを遮る位置にあり洪水がたびたび起こり、また土砂堆積により舟運にも不便をきたすことが多かった。このため貞享元年(1684)幕府の命により、河村瑞賢が水路を開削し、安治川と名付けられた。その後、周辺に富島や古川の新地開発が進められ、元禄11年(1698)に完成した。安治川橋はこの新地の開発に伴い初めて架設された。
江戸時代末期、幕府は開国に備え、この地を外国人居留地として、準備を進め、明治新政府によって明治元年(1868)大阪開港とともに外国人に競売された。居留地には、洋館や舗装道路が造られ大阪の文明開化の拠点となった。
明治6年(1873)居留地の交通の便を図るため、新しく安治川橋が架けられた。この橋の中央二径間は西欧から輸入された鉄橋で、高いマストの船が航行する時には、橋桁が旋回する可動橋であった。当時の人々はこの旋回する様を見て「磁石橋」と呼び大阪名物の一つとなった。
明治18年(1885)大阪を襲った大洪水は多くの大川の橋を流し流木となって安治川橋に押し寄せた。橋はこの流木や洪水に抵抗しよく耐えたが、市内に洪水の恐れが生じたため、やむなく工兵隊により爆破撤去された。

そのほか参考資料は、HP上で調べると次のようなものがあった。
・明治大正図誌 大阪 「浪花安治川口新橋之景(長谷川小信)」
・明治18年測図 安治川橋付近の地形図
・大阪旧川口居留地模型(「なにわの海の時空間」施設に展示) 
・明治12年(1879年)版大阪府区分新細図ヨリ転写 「本田地誌」1933年版の巻頭地図

(2011年12月16日 追 記)
目録番号:3229「大阪の河口の風景」は、学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊37頁に、「3 明治10年(1877)明治天皇畿内行幸写真」として掲載されているが判明した。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2801

同解説は次のとおり。行幸に随行した写真師は、記していない(27頁)。掲載写真を末尾に追加した。
13 大坂川口ノ景
大坂市港区の安治川河口にある船着場の光景。着色写真。

長崎外の古写真考 目録番号:3231 松山城(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3231 松山城(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3231 松山城(1)

■ 確認結果

目録番号:3231の作品は、タイトルが「松山城(1)」。内田九一が撮影した明治天皇の巡幸写真には、「熊本城」があり「松山城」はなかったので調べたのだが、作品は「松山城」に間違いない。一行の帰路の艦隊は、鹿児島から瀬戸内海を通り、坂出の崇徳天皇陵など参拝した後、神戸へ入港したので、途中、松山へも寄港したことは考えられる。
画像解説やアルバム名がなく、なぜ「内田九一」の作品としたか説明がほしい。上野彦馬アルバム中の一連の関係や、それとも写真裏に書き込みがあったのだろうか。

長崎大学側が「松山城」とわかった経過は、HP”「おしろとぶけやしき」〜さむらいれじでんす〜”の2008年3月記事にあるようである。
「長崎大学附属図書館 幕末・明治古写真に掲載されている、「目録番号: 3231 タイトル: 城 」ですが、今までどこの城か不明だった為わかりませんでした。私はその謎に興味があったので、2年ほど前より独自に調査しておりましたが、…このお城は伊予松山城で、南櫓・太鼓櫓・土塀の古写真です…」

現在の「松山城」写真は、HP”覚ゑがき『記憶のそら』”から。古写真とまったく同じ構図の写真があったので、すぐ「松山城」と確認できた。
データベースでは、タイトルを「松山城」と変更しているのに、「撮影地域:未詳」のまま。撮影地域「愛媛」で検索しても、この作品は出てこない。

長崎外の古写真考 目録番号:2047 駅前の人力車 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2047 駅前の人力車 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
整理番号46番台の一連の作品を見ている。

目録番号:2047 駅前の人力車
〔画像解説〕
整理番号46-141から46-145までと46-160の合わせて6枚は、一連の写真と思われる。撮影者は未詳。駅名は分からないが、東海道線の一駅である。中央に立つ外国人や客を降ろす人力車夫など駅前の賑いを伝えている。

目録番号:2048 駅構内の蒸気機関車
〔画像解説〕
整理番号46-141と同じ駅の構内であろう。真直ぐ伸びる鉄路と蒸気機関車が、文明開化の象徴として捉えられている。

目録番号:2049 駅構内からの富士山
〔画像解説〕
線路の伸びた先に富士山が見える。プラットホームの柱と屋根だけの建物の中に荷物が積み上げられている。やがて貨物列車に積み込まれるのであろう。懐かしい鉄道構内風景である。

■ 確認結果

まったくの推定。JR東海道線から御殿場線が分かれる静岡県小田原市「国府津駅」ではないだろうか。線路が分かれ、富士山の光景が似てる。後の2作品は、車窓からの富士山風景となっている。
現在の写真は、しあのゆるいブログの東海道線国府津駅からと、小田原市観光HPから駅近く曽我丘陵から見た富士山。

長崎外の古写真考 目録番号:2665 隅田川の舟遊び(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2665 隅田川の舟遊び(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2665 隅田川の舟遊び(2)
〔画像解説〕
明治4年(1871)〜6年(1873)に来日した、有名なアメリカの国民的詩人ヘンリー・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow)の長男チャールズ・ロングフェロー(Charles Appleton Longfellow)の記念アルバムに同じ写真が貼ってある。チャールズが内田九一に依頼して撮影したと思われる。障子の間から顔を出している大柄な和服を着た男がそのチャールズの可能性がある。左から2人目の女性は山谷堀にあった料亭有明楼(ゆうめいろう)の女将お菊で、他はチャールズ馴染みの芸者。

目録番号:4583 隅田川の舟遊び(3)
〔画像解説〕
山谷堀が隅田川に流れ込む河口にあった有明楼(ゆうめいろう)前の今戸河岸で内田九一が撮影。浅瀬なので舟が浮いていない。それでブレずにシャープに撮れている。背景は向島で牛島神社や長命寺のある辺りである。この度長崎市立博物館所蔵の内田九一撮影のアルバムの中にこの写真を見つけ、九一撮影だと確認した。撮影は明治5年と思われるが、本写真は後に複写され販売されたもの。

目録番号:4772 隅田川の舟遊び(5)  関連作品 目録番号:2658 同(5)、4623 同(4) 
〔画像解説〕
大正14年(1925)東京朝日新聞社発行『アサヒグラフ臨時増刊写真百年祭記念号』に同じ写真が「内田九一氏と東京隅田川の舟遊」として載っている。説明に「明治七年頃の撮影で舟中欄干にもたるるは内田九一氏 平田健一氏所蔵」となっている。九一は洒落者だったので洋服姿で写った写真が多い。これは和服なので珍しい。

■ 確認結果

内田九一撮影「風頭山の行楽風景」を調べていて、この写真もHP上でわかった。 
1枚目の目録番号:2665「隅田川の舟遊び(2)」と、2枚目の目録番号:4583「隅田川の舟遊び(3)」は同じ作品。「この度長崎市立博物館所蔵の内田九一撮影のアルバムの中にこの写真を見つけ、九一撮影だと確認した」らしいが、「撮影者:内田九一」と入力修正しないと、撮影者検索で内田九一作品として出てこない。

内田九一が大阪で開業した現内田写真株式会社所蔵写真。2010年1月に東京ウォーカーで開催された「貴重な写真約130点を展示!坂本龍馬と幕末を知る写真展」に展示された。
この項は次で確認。 http://news.walkerplus.com/2010/0115/17/photo07.html

次に3枚目の目録番号:4772「隅田川の舟遊び(5)」は、舟に乗っている人数が多い。「明治七年頃の撮影で舟中欄干にもたるるは内田九一氏 平田健一氏所蔵」写真。
内田九一の弟子か「撮影者:臼井秀三郎」となっている。関連作品の目録番号:2658 「同(5)」と目録番号:4623「同(4)」も同じ写真なので、同様に修正が必要。

長崎外の古写真考 目録番号:2042 山の中腹より湾を望む(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2042 山の中腹より湾を望む(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
整理番号46番台の一連の作品を見ている。

目録番号:2042 山の中腹より湾を望む(1)
〔画像解説〕
三重県内(場所は不明)の山の中腹から、伊勢湾を望む。

目録番号:2043 山の中腹より湾を望む(2)
〔画像解説〕
整理番号46-136の写真のアングルを右側に振ったもの。

目録番号:2026 山頂から眺望する海辺の遠景
〔画像解説〕
小高い山地の上から眼下に海辺を眺望する。右手前から左奥にむかい、山裾に沿って谷川が流れ、下流に扇状地が形成されている。扇状地には整備された田地が見え、農耕が営まれている様子。海は穏やかで、対岸の丘が霞んで見える。

■ 確認結果

目録番号:2042「山の中腹より湾を望む(1)」は、「三重県内(場所は不明)の山の中腹から、伊勢湾を望む」。次の目録番号:2043「山の中腹より湾を望む(2)」は、「整理番号46-136の写真のアングルを右側に振ったもの」と画像解説があり、この2作品はパノラマ写真となる。

繋ぎ合わせて、3枚目の古写真の目録番号:2026「山頂から眺望する海辺の遠景」を見てみよう。パノラマ写真の中央部と同じ光景である。したがって、3枚目の古写真は「撮影地域:京都」とならない。京都の琵琶湖側にこのような島はない。目録番号:2043の後の作品が、二見ヶ浦の夫婦岩や伊勢神社参道を撮影しているから、奈良から三重へ行っている。

パノラマ写真は、「伊勢湾」でも鳥羽市の前面の島を写している。右が「坂手島」、中央が「答志島」、左は「浮島」「日向島」あたりであろう。手前の海岸は、鳥羽市街側の「小浜口」ではないか。
撮影場所は、鳥羽から二見ヶ浦へ向かう旧県道の峠の高台からと思われる。地図に示したが、現在の伊勢志摩スカイライン料金所のすぐ先あたりとなる。

適当な写真がないので、HP「伊勢志摩きらり千選」から、峠の麓となる「扇野展望台」からの展望を載せる。展望が似ていることがわかるだろう。山本周五郎の小説「扇野」にちなんで「扇野の里」と呼ばれる。扇野展望台とめだかの学校は、樋ノ山の中腹に立つホテル扇芳閣の直ぐ上にあり、同ホテル社長の谷口仙二氏が余暇に自力で、平成12年4月完成させた施設だそうだ。

なお、撮影年代は異なるが、同じ場所から撮影したと思われる「鳥羽港」の写真が、「写真の中の明治・大正 −国立国会図書館所蔵写真帳からー」に掲載されている。同データは次のとおり。
掲載資料 日本之名勝   刊行年 明33  請求記号 YDM23032
住所表記(明治期) 志摩郡鳥羽町  住所表記(現在) 鳥羽市

長崎外の古写真考 目録番号:2032 神社の境内(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2032 神社の境内(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
整理番号46番台の一連の作品を見ている。

目録番号:2032 神社の境内(2)

■ 確認結果

目録番号:2028「公園の鹿(1)」から、目録番号:2041「町の風景」までの14作品は、奈良公園や春日大社の鹿、旧奈良県物産陳列所、春日大社参道など写している。内容に違いはないようであるが、タイトルや画像解説の整理は必要と思われる(全部の掲載は略)。

その中でも途中にまぎれこんだ目録番号:2032「神社の境内(2)」は特別な作品。奈良公園や春日大社ではこのような建物は見当たらない。
これは滋賀県大津市の有名な石山寺にある「多宝塔」であろう。

現在の写真は、(社)びわ湖大津観光協会HP「びわ湖大津よりどり観光ガイド」から。同説明は次のとおり。
石山寺多宝塔
国宝。建久5年(1194年)に源頼朝が寄進したもので、わが国最古の多宝塔。上層は円形、下層は方形の上下2層からなり、それぞれの屋根の描く曲線美と調和して均整美と安定感を併せ持つ傑作。本尊は大日如来(重要文化財)。昔の4円切手の図柄としても有名。