長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:2027 寺と池 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2027 寺と池 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
整理番号46番台の一連の作品に戻って、続きを見てみる。目録番号:2026「山頂から眺望する海辺の遠景」は、後で述べる。

目録番号:2027 寺と池

目録番号:3182 猿沢池(7)
〔画像解説〕
猿沢池とあるが間違いで、東大寺中門の東南に位置する鏡池を写す。遠景に若草山が見えるので、東大寺の南北参道から東南方向に向いて撮影していることが分かる。写真では中島から階段が西にあり鳥居もあるので本来西からアプローチしていたようだが、現在は東側背面から入るように変わっている。

■ 確認結果

目録番号:2027「寺と池」は、「撮影地域:奈良」。タイトルに「寺と池」とあるだけ。後の作品が奈良公園と春日大社となるので、「猿沢池」と仮定して考えてみる。
池はかなり大きく池全体を、隅の高台から池周囲の二方の道路とともに写している。左奥に山の稜線がある。池の形は「猿沢池」に似てる。

山の稜線部分を拡大した。山の形は「若草山」ではなく、若草山南東となる「春日山」に見える。地図から考えると、この古写真は「猿沢池」の西隅、「南円堂」か「三重の塔」あたりの高台から、撮影できそうである。古写真に写る左側の建物2棟がなにかわからない。造りを見ると寺ではなく、附属建物や茶屋など考えられる。

参考のため、目録番号:3182「猿沢池(7)」を掲げる。画像解説では「猿沢池とあるが間違いで、東大寺中門の東南に位置する鏡池を写す。遠景に若草山が見えるので、東大寺の南北参道から東南方向に向いて撮影している」としているが、遠景は「若草山」と見えず、これも南東の「春日山」に似ているのではないだろうか。そうすると「猿沢池」となる。

撮影場所の特定がこの写真はできない。地元の検証をお願いしたい。現在の猿沢池の写真は「なら=しぜん・ミュージアム」、春日山稜線は「古都浪漫 奈良散策ガイド」HPから。

長崎外の古写真考 目録番号:6311 若宮大路 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6311 若宮大路 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6311 若宮大路

目録番号:2744 神社の参道(3)(鶴岡八幡宮社頭の景)
〔画像解説〕 
手前の立札には‘KAMAKURA 鎌倉鶴ヶ岡’とある。奥は鶴岡八幡宮境内と、寛文8年(1668)修造の石造三ノ鳥居(鳥居は関東大震災で倒潰)。前後に伸びる小高い路は段葛(だんかずら)で、路上には収穫物が干してある。両側の家々の前には溝があってそれぞれ板が渡されているが、中には溝の上に張り出した家もある。鳥居の左は旅館「角正(かどしょう)」。そこから3軒ほど手前の二階家が薩摩藩主島津家の旧本陣大石(おおいし)家か。同家には、藩主や家臣が源頼朝墓ほかへの墓参等のためたびたび逗留したという記録が残る。この写真は”The Far East”1874(明治7)年2月号に掲載された写真と同じ頃の撮影だろうか。なお、鶴岡八幡宮と門前町は文政4年(1821)の大火で焼失した。町が復興したことは紀行文の記事などからも知れるが、復興後の規模や様子などについては詳らかではない。その意味でもこの写真は、幕末から明治初年頃の八幡前の姿を伝える貴重な史料といえるだろう。

■ 確認結果

鎌倉市の由比ヶ浜海岸より鶴岡八幡宮へ一直線に延びる凡そ2kmの参道が「若宮大路」。また鎌倉の中心を走る主要な交通路として機能しながら、鎌倉の古えの姿を伝えている。
目録番号:6311「若宮大路」及び目録番号:2744「神社の参道(3)」は、(鶴岡八幡宮社頭の景)とあるとおり、鶴岡八幡宮の三ノ鳥居を撮影している。

データベースで「鶴岡八幡宮」と条件検索しても、この2作品は出てこない。「若宮大路」や「神社の参道」では漠然となろう。鶴岡八幡宮・参道・鳥居を関連づけたタイトルと画像解説にしてほしい。現在の「三ノ鳥居」写真は、Web-Kamakura 「鶴岡八幡宮 鎌倉 神社 写真 花 季節の行事」から。

長崎外の古写真考 目録番号:1463 神社の参道(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1463 神社の参道(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1463 神社の参道(1)
〔画像解説〕
相当に大きな神社境内であるが、神社名は未詳。池にかかった石橋、その向こうに本殿が見える。石橋の欄干に寄り掛かってこちらを見ている人物がいるのみで、人の気配はほとんど感じられない。静寂な神社の様子がよく表わされている。

目録番号:3060 西本願寺大谷本廟    関係作品 目録番号: 893 西大谷 ほか
〔画像解説〕
西大谷円通橋西詰より登り坂の参道を東に望む。背後に建つ山門の脇には2本の大きな松がそびえ立つ。円通橋は安政3年(1865)に築造された石橋である。その形より眼鏡橋と称され、幕末から明治にかけて紅白の蓮が眺められる景勝地であった。橋の西詰北側には茶店が建ち、縁台が置かれている。F・ベアド撮影。

■ 確認結果

目録番号:1463「神社の参道(1)」は、「撮影地域:未詳」。「相当に大きな神社境内であるが、神社名は未詳。池にかかった石橋」と画像解説している。石橋の欄干飾りは大きな特徴があり、「橋」から条件検索すると、撮影場所はすぐわかる。

次の目録番号:3060「西本願寺大谷本廟」にあるとおり、ここは神社ではなく、京都市東山区五条橋6丁目にある「西本願寺大谷本廟」。有名な参道の石橋「円通橋」を撮影している。
掲載を略したが、関係作品に目録番号: 893「西大谷」、目録番号:4377「西大谷本願寺円通橋(1)」、目録番号:4381「西大谷本願寺円通橋(2)」がある。

現在の写真は、HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」京都府の石橋から。現地説明板が次のとおりあるらしい。
この石橋は円通橋と称し、池を皓月池(こうげついけ)と称しています。長さ約40m、幅約6m、橋脚、敷石板、欄干など総て花崗岩の切り石を用いています。橋脚によって作られた二つのアーチが池水に映る姿は、あたかも眼鏡のように見えることから、通称「めがね橋」として、親しまれています。安政3年(1856年)12月に竣工し、当時は「奇行をつくした石橋」として珍重され「花洛名勝図絵」にも紹介されています。    大谷本廟

長崎外の古写真考 目録番号:2222 和船(6) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2222 和船(6) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
掲載途中のデータベース整理番号46番台の残り作品は、調査が難しくしばらく保留する。

目録番号:2222 和船(6)

目録番号:5904 沼津の弁財舟

■ 確認結果

目録番号:2222「和船(6)」は、「撮影地域:未詳」、なにも画像解説がない。長崎では心当たりの海岸がなく、撮影場所を探していた。
最近、データベースに目録番号:5904「沼津の弁財舟」が追加して公開され、「撮影地域:沼津」とわかる。

この写真は、以前から放送大学附属図書館所蔵古写真データベースにあり、「日本残像 —写真で見る幕末、明治—」日本ところどころに紹介されていた。同解説は次のとおり。
「沼津の荷船」
日の丸を掲げた弁財船が停泊している沼津の船着場。別名、北前舟とも千石船とも呼ばれた弁財船は江戸期から明治初年までは最も積載量の大きな船だった。この後、蒸気船の出現で次第に姿を消していくことになる。明治20年代の撮影。

現地の現在の写真は、四季山岳会(調布市)HPの2007年度山行報告から。沼津市の海岸に間違いないことを確認した。

長崎外の古写真考 目録番号:2024 寺の境内の茶店

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2024 寺の境内の茶店

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2024 寺の境内の茶店
〔画像解説〕
神社境内の茶店の賑わいを撮影する。境内内には屋根付きの茶店の中に縁台が設けられ、大勢の女性が縁台に座って飲食に興じている様子。犬や子供達の姿も見える。同地は高台に建ち、眼下に景色の眺望を楽しめる場所に位置する。左の一段高くなった建物は能舞台か。縁台には煙草盆が置かれる。場所は不明である。

■ 確認結果

個人アルバムからの写真。整理番号46番台の作品は興味深く、最後まで見てみる。
この作品は「撮影地域:京都」。「神社境内」はタイトルから「寺」が正か。「場所は不明である」と解説している。京都の寺で能舞台があり、屋根付きの茶店がある所は、東山区の有名な「清水寺」の奥院(重要文化財)の方の、茶店の風景ではないだろうか。
画像は、Web−Town 京都の観光情報から。

長崎外の古写真考 目録番号: 357 松島(6) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 357 松島(6) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号: 357 松島(6)
〔画像解説〕
日本三景の一、松島。湾内には波の浸食を受けた様々な形の島が浮かぶ。写真では、和船が一艘帆を広げ、波静かな水面に影を映している。前景左手に松を戴く切り立った荒い岩肌が見え、中央から右端にかけての水面には小島が連なっている。

目録番号:2970 松島(12)
〔画像解説〕
雄島の磯より撮影した写真で、左側の島は亀島、右側の島は鯨島で双子島(ふたごじま)と呼ばれる別名もある。背後は自然植物園となっている福浦島である。船は真帆のダンベと呼ばれる種類である。島の形は今も変わっていない。

目録番号:5503 松島(18)

■ 確認結果

3作品とも松島の雄島の磯からほぼ同じところを撮影している。画像解説をできれば合わせる。構図が違う目録番号:2970「松島(12)」は別として、同じ写真と思われる目録番号: 357「松島(6)」の撮影者は「小川一真」、一方の目録番号:5503「松島(18)」は「玉村騎兵衛?」となっている。撮影者はどちらなのだろう。

HP「手彩色古写真」に次のとおり、この「松島」の作品の記事があった。
http://www.page.sannet.ne.jp/rokano28/edo/tesaisiki/tesaisiki.htm
長崎大学附属図書館の幕末・明治期日本古写真データの「松島」に依ると、”小川一真撮影”となっているが、全く同じ写真が玉村騎兵衛?ともなっている。共に「日本三景の一、松島。湾内には波の浸食を受けた様々な形の島が浮かぶ。写真では、和船が一艘帆を広げ、波静かな水面に影を映している。前景左手に松を戴く切り立った荒い岩肌が見え、中央から右端にかけての水面には小島が連なっている」と説明されているから、承知のうえのことなのだろうが…ただ小川一真が正確なら、写真の同一性から玉村騎兵衛ということはありえないと思うのだが…。
…実はこの写真は5月に紹介した「亀戸天神の藤棚」と同じ台紙に張られたものであった。…

なお、松島の写真をデータベースの「撮影地域」で検索すると、地域が「宮城」と「松島」とあり、ほとんどは「宮城」に整理されている。「松島」では2作品しか出てこない。撮影地域の区分はどうなっているのだろうか。

長崎外の古写真考 目録番号: 305 松島(3) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 305 松島(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号: 305 松島(3)
〔画像解説〕
日本三景の一、松島。湾内には波の浸食を受けた様々な形の島が浮かぶ。写真では、背の高い松が茂る右手前の島と、中央左手の島を繋ぐ木造の架橋が見える。手前の島腹には通路が掘られている。整理番号8-37と同一。

目録番号: 306 松島(4)       同作品 目録番号: 363 松島(8)
〔画像解説〕
日本三景の一、松島。湾内には波の浸食を受けた様々な形の島が浮かぶ。写真前景左端に幹の太い松。画面に掛かるその枝の向こう、波静かな湾上には小島が二つ浮かび、手前には和船が三艘、人影もいくつか見える。いかにも日本画的な構図である。

目録番号:4419 島の風景、松島
〔画像解説〕
雄島の中央部から陸地側である渡月橋を撮影したものである。渡月橋は現在朱塗りであるが何時朱塗りになったかは不明であるので撮影当時は朱塗りではなかっのか興味深い。橋には欄干も設置されていない。現在中央部の陸地側は開削され遊歩道が造られている。

■ 確認結果

目録番号: 305「松島(3)」と、目録番号: 306「松島(4)」は、写真下の画像解説が写真と合わない。掲載写真を入れ間違っている。超高精細画像も移し変え、「和船」のキーワードも変更要。
そうしないと、同作品の目録番号: 363「松島(8)」の「整理番号7-29と同一」という説明と合わない。

最後の目録番号:4419「島の風景、松島」も、雄島中央部の同じ橋の所を撮影している。タイトルを「松島( )」として整理してよいのではないか。

長崎外の古写真考 目録番号: 513 瀬戸内海(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 513 瀬戸内海(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号: 513 瀬戸内海(1)
〔画像解説〕
本コレクション中に同一写真があり、それには「View of Matsushima」とある。したがって本写真も松島風景と見て間違いない。舟は典型的な小型帆掛け舟であり、司馬江漢描く「品川富士遠望図」の舟とほぼ同一である。

目録番号:1054 瀬戸内海の帆かけ舟
〔画像解説〕
写真中にINLAND SEAとある。整理番号11-43と同じ写真である。整理番号11-43を見よ。

目録番号:2964 松島(11)
〔画像解説〕
松島湾内で霊場として知られる雄島(おしま)からの松島湾を見た大眺望であり、遠くには湾内の島々をはじめ塩釜市や浦戸諸島が写り、遙か彼方には太平洋の水平線が見える。手前は真帆のチャブネと呼ばれる船である。現在このような船を見ることはできない。

■ 確認結果

目録番号: 513「瀬戸内海(1)」及び目録番号:1054「瀬戸内海の帆かけ舟」は、瀬戸内海のタイトルとしている。しかし、写真のカットされた下部には、目録番号:2964「松島(11)」のとおり、キャブショットが 「View of Matsushima」 とあるはずである。
同一な写真であり、したがって目録番号:2964「松島(11)」の画像解説のとおり、これは日本三景の一つ、宮城県「松島湾内で霊場として知られる雄島(おしま)からの松島湾を見た」眺望と思われる。

現在の写真は、松尾芭蕉・おくのほそ道文学館の資料展示室 空から見た日本三景「松島」HPの宮城県松島町所蔵写真から。沖の島の姿は少し違うが掲げてみる。
これから判断すると、雄島の先端、「おくのほそ道」に「雲居禅師の別室の跡」と書かれた座禅堂(把不住軒とも呼ばれる)がある小丘の頂あたりから、古写真は撮影したものと思われる。

長崎外の古写真考 目録番号: 514 瀬戸内海(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 514 瀬戸内海(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号: 514 瀬戸内海(2)     同作品 目録番号:4089 瀬戸内海(4)
〔画像解説〕
整理番号11-43と同じ「INLAND SEA」のキャプションが付いているが、これも松島の一風景と思われる。着彩は全体に紫色を帯び、夕暮れの静かな内海の趣をよく伝えている。

目録番号:4088 瀬戸内海(3)

■ 確認結果

この前の番号となる整理番号11-43(目録番号: 513「瀬戸内海(1)」玉村騎兵衛アルバム)はまだ調査中。文に「それには「View of Matsushima」とある」を受けて、この目録番号: 514「瀬戸内海(2)」の画像解説になっていると思われる。
キャブションは、撮影者や後で整理した人の記入誤りがある。「Matsushima」はどこを指すのか。普通は宮城県の日本三景「松島」を考えるが、瀬戸内海でも倉敷市の市街地町名や鷲羽山側の海に小島がある。

目録番号:514の作品は、タイトルが「瀬戸内海(2)」、「撮影場所:未詳」。画像解説では「松島の一風景と思われる」とある。単葉で見たからこのような解説になったと思われる。目録番号:4089「瀬戸内海(4)」は同じ作品(掲載略)。
実は、次の目録番号:4088「瀬戸内海(3)」の作品が、目録番号: 514「瀬戸内海(2)」の景色の左側に来るようである。連結した写真を見てもらおう。

瀬戸内海で同じような景色を探すと、広島湾の宇品沖に名山「安芸小富士」(標高287m)がある「似島」という島がある。宇品港か元宇品の岬の海岸から、「似島」を撮影したものに似る。
尾道市因島大浜から東北の「百島」十文字山を望む景色もあるが、少し違うようでまだ確認できない。地元の方の検証をお願いしたい。
広島と似島を結ぶフェリーを運航する似島汽船HPに、古写真と合うような現在の写真が航空写真とともにあった。同HPによる「似島の紹介」は次のとおり。

似島は、広島湾の南約3km沖にある広島市最大の島。明治28年に旧陸軍検疫所が設置されて以降、第二次世界大戦終結まで、軍の島として歩んだ歴史があります。原子爆弾投下直後には、検疫所が臨時の病院になり、多くの負傷者が島に運ばれました。
現在は、恵まれた自然環境の中、魚釣り、登山、ハイキングなどを楽しめるリゾートアイランドとして、多くの人に親しまれています。

長崎外の古写真考 目録番号:3081 灯台のある風景 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3081 灯台のある風景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号:3081 灯台のある風景

目録番号:4594 住吉
〔画像解説〕
住吉高灯籠。創建は鎌倉時代末期といわれるが不詳。航海の安全を守る灯台として、また住吉名物として親しまれた。16メートルの高さがあり、楼上からは遠く淡路島が見えたという。昭和
49年(1974)に200メートル西に再建された。明治中〜末期。

■ 確認結果

目録番号:3081「灯台のある風景」は何も解説がないが、目録番号:4594「住吉」の灯籠は同じもので、大阪市住之江区にある「住吉高灯籠」だろう。キーワードが入力されていればすぐわかると思われるし、新しく古写真を所蔵する時は、前の作品に遡って十分な調査をお願いしたい。
現在地の写真は、大阪市HPのイベント・観光/歴史の項から。

「住吉高灯籠」は、昔から大阪の有名な名所。錦絵「浪花百景」 国員画、 「浪花百景之内」貞信(初代)画、「大阪名所」貞信(二代)画により3枚描かれている。
大阪府立中之島図書館が所蔵し、データベースにより画像を公開している。解説は次のとおり。同館の「錦絵にみる大阪の風景」を検索。 http://fukeiga.library.pref.osaka.jp

■名所名:住吉高灯籠     ■現在の市区町村:住之江区
出見の浜にあって、夜間航行する船の目印になった灯台。方角を見失った時に住吉大神に祈るとこの灯籠の灯が煌々と輝いたという。現在は台風により倒壊した灯籠を再建したもので、元の位置から200メートル東に離れた、住吉公園西側の国道26号線沿いにある。