長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:1174 滝(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1174 滝(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号:1174 滝(1)
〔画像解説〕
場所は特定できないが、それほど大きな滝ではない。写真前面右側は、乾ききった土がむき出しになっており、わずかな水しか流れていない。

目録番号:1373 中禅寺湖付近の滝
〔画像解説〕
中禅寺道は馬返よりつづら折の坂を経て中禅寺に至る。その中途で般若滝と方等の滝を見る事ができる。写真は方等の滝である。

目録番号:4606 滝(7)

■ 確認結果

目録番号:1174「滝(1)」は、画像解説で「場所は特定できない」とある。目録番号:1373「中禅寺湖付近の滝」と比べると、水量の違いがあるが、同じ場所から撮影された同じ滝と思われる。したがって、中禅寺湖付近の「方等の滝」と判断してよいのではないか。

「方等の滝」は、古写真から見ると、2〜3段の滝となっている。一番下の滝つぼ左に大きな岩があり、流れを右、左へ変えている。目録番号:4606「滝(7)」の人物はその岩に立っているようであり、同じ滝とも考えられないことはない。
現在の滝の写真は、国土交通省関東地方整備局日光砂防事務所の広報HPにある。中禅寺湖道のつづら折坂の途中から「方等の滝」は見える。昔から有名な訪ねやすい滝と思われる。

なお、滝の関連作品に出てくる 目録番号:2895「滝(5)」は、撮影地域:長崎とあるが、この滝は熊本県御船町の「七滝」と現地確認をしている。冨重利平の作品である。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1948

長崎外の古写真考 目録番号: 292 江ノ島の兜岩

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 292 江ノ島の兜岩

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号: 292 江ノ島の兜岩
〔画像解説〕
相模湾の小島である江ノ島は古くから霊場として信仰を集めたが、江戸時代以降、庶民の間でも参詣が流行した。幕末期の日本の写真を多く残したベアトは、この島を「絵の島」として紹介し、「ここまで足を伸ばす価値は充分にある」と書き残している。

■ 確認結果

目録番号: 292「江ノ島の兜岩」の画像解説は、ベアトが「兜岩」の小島を「絵の島」として紹介し、書き残したと説明している。
古写真の「兜岩」は、実際は江ノ島の西方、茅ヶ崎の「サザンピーチちがさき」正面沖、1.2kmにある小島姥島を成す「えぼし岩」である。サザンオールスターズ「チャコの海岸物語」に、”えぼし〜岩が遠くに見える♪”と歌われる岩。
茅ヶ崎市HPの観光情報から、「えぼし岩」の画像及び歴史の説明を載せる。

えぼし岩の歴史

湘南を歌ったお馴染みの歌の中に再三登場する、茅ヶ崎のシンボル「えぼし岩」の誕生は、300万年前から600万年前といわれています。
えぼし岩周辺の地層は茅ヶ崎最古のもので、砂岩層と火山層が縞をなしていて、海底に堆積した地層が隆起したものといわれています。

また、えぼし岩のある姥島周辺は岩礁となっているので昔から絶好の漁場で、江戸時代には伊豆の漁師と地元小和田の漁師との間で漁場争いが起こり、その際に小和田の名主は京都の公卿近衛某が東下りの途中に詠んだという「相模なる小和田が浦の姥島は たれをまつやら ひとりねをする」という歌があったことを思い出し、その短冊を証拠に姥島が小和田の領地であることを主張し、紛争に勝ったという言い伝えがあります。
小和田の熊野神社にはこの歌碑があります。

昔のえぼし岩は現在のものより先端部分がより烏帽子らしく西へ長く尾を引いていましたが、戦後、米軍の射撃訓練の標的にされ、その先端部分は消失し、わが町のシンボルを守るための市民運動が起き、訓練は中止されました。
海水浴場サザンビーチにあるモニュメント「茅ヶ崎サザンC」の円の中心にも、えぼし岩は顔をだして、記念写真に一緒に収まります。

最後の”ギョ〜ェ〜!サメが釣れたぁ〜!?”は、ギャメロンさんの2010年3月22日画像。

長崎外の古写真考 目録番号: 1526 港の弁財船 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 1526 港の弁財船 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号: 1526 港の弁財船
〔画像解説〕
突堤のこちら側に中型の弁財船が停泊し、突堤向こうに三本マストの船がかすかに見える。手前の水面を土砂を積んだ平底船が横切っている。場所は特定できないが、のどかな港の風景である。

目録番号: 3226 港から桜島を望む
〔画像解説〕
内田九一撮影。明治5年天皇の西国巡行の折撮影された薩摩の台場と桜島の遠景。滑川河口付近より船形台場(新波戸砲台)を望む。手前は天皇に拝謁するための琉球の豊見城親方、池城親方、安室親方の乗船か。

■ 確認結果

目録番号:1526「港の弁財船」は、背景の山は富士山ではなく、鹿児島県の「桜島」だろう。場所はすぐ特定できそうに思われる。
この写真は、有名な内田九一の「西国・九州巡幸写真」の1枚と同じ写真である。データベースにある目録番号:3226「港から桜島を望む」がその写真。こちらの方が背景の桜島が良く写っていない。

長崎外の古写真考 目録番号:5281 門司市街全景 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5281 門司市街全景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号: 5275 門司倶樂部
目録番号: 5276 門司連絡桟橋
目録番号: 5277 門司甲宗八幡宮の風景
目録番号: 5278 和布刈神社
目録番号: 5279 和布刈神社海岸
目録番号: 5280 門司馬場遊廓
目録番号: 5281 門司市街全景
目録番号: 5283 門司港内石炭積込光景(1)

■ 確認結果

長崎大学古写真コレクションのデータベース上の検索における「撮影対象」と「キーワード」の不都合について、前記事で一部の作品の例を取り上げふれてみた。
次は「撮影地域」と「保管棚名」の不都合である。上記の8作品は「門司十二景」と題した絵葉書セットの一部。このうち、目録番号:5281「門司市街全景」を例に見てみよう。 「撮影地域」を「門司」で検索すると出てくるのは良い。しかし、「保管棚名」では「長崎」の検索の中に入って出てくる。「アルバム名:絵葉書(長崎地域)」「撮影地域:門司」となっているためである。

「撮影地域」の地域区分も不完全である。中国地方では「広島」の中に、「安芸の宮島(1)から
(20)」と「宮島の海岸」の21作品を入れているのに、別に「宮島」の地域項目があり、これには目録番号:1469「厳島神社」の1作品しか出てこない。
近畿地方では「兵庫」の中に「淡路島(1)から(6)」の6作品を入れているのに、別に「淡路」の地域項目があり、これには目録番号:3546「上野実雄と友人たち」の1作品しか出てこない。
また「兵庫」の中には、目録番号:5841「姫路城(3)」の1作品をなぜか入れている。「姫路」の地域項目は別にあり、これでは(3)を除いた「姫路城(1)から(6)」の5作品が出てくる。

以上は、まだ全部を見たわけではないのに、これだけ不都合があった。どのような項目や地域の整理をしているのだろう。「関連作品」の出方の基準もわからない。「撮影地域:未詳」の作品も、撮影地域の中に項目を設け、すぐ出てくるようにしてほしい。

長崎外の古写真考 目録番号: 257 淡路島(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 257 淡路島(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気が付いた作品を取り上げる。

目録番号: 257 淡路島(1)   関連作品 目録番号:1691 同(4) 目録番号:5579 同(Awajisima Inland Sea)(7)
目録番号:1545 淡路島(2)   関連作品 目録番号:2797 同(5) 目録番号:2843 同(6)
目録番号:1547 淡路島(3)

■ 確認結果

兵庫県淡路島の古写真の話題。まず目録番号: 257「淡路島(1)」の画像解説は、「淡路島海岸部(詳細位置不明)。奇岩の下に腰を下ろした人影や、船を操る人物なども見える」。
同じような作品が目録番号:1691「同(4)」、目録番号:5579「同(Awajisima Inland Sea)(7)」。

次の目録番号:1545「淡路島(2)」の画像解説は、「左手に鳥居が見えているが、詳細は不明」。しかし、これには関連作品があり、目録番号:2797「同(5)」の画像解説では、「なかほどの奇怪な小島は、淡路島の岩屋(現淡路市)にある大和島(やまとじま)。…目録番号1545の写真と見比べると、左手前に石屋 (いわや) 神社があることがわかる」と説明し、「大和島」と「石屋神社」(岩楠神社)がとりあえず判明した。

さて最初の目録番号: 257「淡路島(1)」外2点。詳細場所不明らしいが、左端の岩は特徴がある。観光地の写真と比較すると、明石海峡大橋を渡った淡路ICがある近くの、これも淡路市岩屋の「絵島」と考えられる。 
絵島は国生み神話に登場する「おのころ島」と伝えられる。近くの大和島とともに淡路地域の誇る景勝地 地質学的に珍しい約2千万年前の砂岩層が露出した小島で、岩肌の侵食模様が特徴的である(兵庫県HP「淡路島の風土資産」から)。

現地の現在の地形図と、「みしのん日和」から「絵島」の画像を掲げる。したがって、目録番号: 257「淡路島(1)」では、左端が「絵島」の岩場、遠く右に写る島が「大和島」であろう。
なお、目録番号:1547「淡路島(3)」は、中央左に大松を配した作品。目録番号: 257「淡路島(1)」では、右端の高台にある松の岬が、遠くに写る「大和島」へ向き岩礁が続いている。この景色と思われる。現地調査をしたわけでなく、島の大きさがわからず、地元へ確認をお願いしたい。
最後は、淡路国名所図絵に描かれた「岩屋浦絵島」。

私は2013年10月、淡路島を訪ねた。絵島と大和島の写真を追加する。

長崎外の古写真考 目録番号:2895 滝(5) ほか 

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2895 滝(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2895 滝(5)
目録番号:6083 御船の七滝

■ 確認結果

長崎の幕末・明治期古写真の撮影場所探しも、残り数点となった。目録番号:2895「滝(5)」は、撮影地域が「長崎」とあり、かねてから懸案としていた。長崎において古写真の対象となる名滝は、長崎名勝図絵に描かれた小島「白糸の滝」、同重篭(田手原)「轟の滝」、諫早藩の祈願所であった「滝の観音」、広瀬淡窓が訪れた「龍頭泉」などが考えられるが、滝の姿はまったく違う。
古写真の滝は大きく、流れは数段となっている。渕も大きく、何よりも左右の崖は高く、柱状節理を成している。

長崎の滝ではないと思い、本腰を入れて調べる。九州の主な名滝と比較した。あった。熊本県御船町の御船川名滝「七滝」。
滝に関するHPは数あるが、渇水期に写されたものが多い。最も古写真と似ていたのは、地元「御船町HP」観光マップにあった写真を参考に掲げる。
熊本まで昨日、現地確認へ行った。滝上の七滝神社駐車場から遊歩道の坂段を15分ほど下ると、滝下の渕へ出る。侵食と崩壊が進み、古写真どおりの写真は写せなかったが、「七滝」に間違いないことが確認できるであろう。

熊本は上野彦馬から写真術を習得した冨重利平が、明治3年(1870)に「冨重写真所」を開業したところ。冨重利平の関係を本日さらに調べると、同じ古写真が大学HPに、目録番号:6083「御船の七滝」でちゃんと別にあることがわかった。
この写真は撮影者から検索すると出てくる。こちらは撮影地域「熊本」。検索キーワードに両方とも「滝」と入力されていれば集合され、何も苦労することはなかった。
なお、冨重利平の仕事について、@あっと九州.com「九州ものしり情報」に、次のような記事があったので抜粋した。

時代を撮り続けて130余年—冨重写真所 〜その1〜 1999年10月

■ 冨重利平の仕事

現代のカメラは使いやすく、子どもにも手軽に撮影ができる。しかし、当時の写真撮影は容易ではなかった。
利平は長崎を離れる時、スタジオ用と野外用の二台の写真機を持ち帰った。野外の撮影にはもちろん野外用のカメラを運んでいくが、現在のように写真機だけを持って行けばいいわけではない。ガラス板に塗布した乳剤が濡れているうちに撮影しなければならないため、撮影現場ではまず暗室を組み立て、乳剤を塗布した種板を作ってカメラに入れる。この原板は長く置くと乾いてしまうため、撮影を終えたらその場で現像しなければならない。しかも、当時の写真機にはシャッターがなかったため、写真師はレンズのキャップを手で取って撮影し、時間をおいてまたはめる。その日の天候などさまざまな条件を把握して撮影時間を決めるのは、経験から身につけた写真師のカンに頼るところが大きかった。利平自身も二日も撮影しないでいるとカンが狂って、なかなか調子が出なかったようだ。
こんな具合だから、野外での撮影や出張撮影は人力車や大八車を使っての大移動となる。シャッターを押せば写る現代では考えられない一日仕事だった。

スタジオでの撮影にもいろいろな苦労があった。当時は今とは比較にならないほどの露光時間が必要だったが、被写体となる人物もその間じっとしていなければならない。今となっては笑い話のような「首おさえ」や、視線をどこに向けるかを示す「目標」は当時は不可欠な撮影機材だった。写真を西洋風の雰囲気にするために使われたヨーロッパ製の犬の置き物も、実は「三人で写ると縁起が悪い」という迷信への対応策だったらしい。
苦労のかいあって冨重写真所は大繁昌する。軍隊と学生の街だった熊本で、仕事は引きも切らず、写真所の前には順番待ちの行列ができるほどの盛況ぶり。職人の一カ月分の給料にも値するといわれた撮影代にもかかわらず、よそ行きに身を包んだ庶民も家族で記念の一枚を撮った。夏目漱石や小泉八雲などの文人も写真所を訪れている。
利平は熊本のさまざまな風景も撮影した。西南戦争で焼失する前の熊本城や軍の依頼で撮影した田原坂の戦跡、籠城中の将校たちなどは日本最古の戦争の記録写真だ。しかし、どんな無残な戦場を撮っても亡骸は撮らない。それが命を落した人々に対する礼儀だと考えていた。また、三角の築港経過も文明開化期の重要な記録だ。
利平が残した時代の写真は社会的にも文化的にも極めて価値が高い、日本写真史には欠かせないものとなっている。

長崎外の古写真考 目録番号:6110 稲荷川の河口(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6110 稲荷川の河口(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。目録番号は順不同。

目録番号:6110 稲荷川の河口(1)  (参考写真)目録番号:6099 稲荷川の河口(2)

■ 確認結果

目録番号が6000番台になると、本年6月新しく追加された作品。長崎関係はこれまで580点ほどあったが、今回、300点ほど追加されている。
この写真(1)も、これまでHPのデータベースになく、初めて見た。撮影地域を「長崎」で検索すると出てくる。
長崎で「稲荷川」とは聞いたことがない。何のことはない。次の参考写真(2)のとおり、「稲荷川」は鹿児島市にあり、撮影地域の単純な入力誤りである。鹿児島の方も困るだろう。