長崎の風景・史跡 (市中央)」カテゴリーアーカイブ

長崎歴史文化博物館で、『ここがスゴイ!明治日本の産業革命遺産と長崎』展

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎歴史文化博物館で、『ここがスゴイ!明治日本の産業革命遺産と長崎』展

幕末から明治、日本の近代化を支えた長崎の姿がよみがえる。
日本の近代産業は、長崎をはじめとする九州・山口から始まりました。その輝きは現在も残され、その一部が平成25年に「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」として世界遺産の政府推薦案件に決定しました。
本展覧会では、幕末から明治にかけて重工業分野の産業化を行いながら近代国家へ向かう日本の姿を、三菱重工業長﨑造船所やグラバー園、端島(軍艦島)など、長崎に残る産業革命の足跡とともに、資料をひもときながら、「明治日本の産業革命遺産」とは一体何か?どんなところがスゴイのか?その魅力を皆さんにご紹介します。

会  場  長崎歴史文化博物館 (〒850-0007 長崎市立山1−1−1) 3階企画展示室
会  期  2014年5月24日(土)〜6月29日(日)
開館時間  8:30〜19:00 (最終入館18:30)
休 館 日  6月17日(火)
観 覧 料  一般800円(前売り640円) ※高校生以下無料
主  催  『ここがスゴイ!明治日本の産業革命遺産と長崎』展実行委員会(長崎歴史文化博物館・三菱重工業株式会社・長崎県・長崎市・グラバー園)

会期3日目の2014年5月26日(月)昼前、観覧に行った。世界遺産推薦特別企画展である。県民の多くに見てもらいたいのに、なぜ一般展覧会並みに観覧料を高くするのか。せめて500円くらいだろう。主旨が活かされていない。6月からでも料金改定ができないか。
長崎歴史文化博物館などが所蔵する貴重な史料や古写真が多いが、研究が足りず内容や解説がやや粗末。博物館へ疑問と苦情を言った。長崎では水道などの土木遺産も簡単に紹介してよいのではないのだろうか。

2014長崎帆船まつり  長崎港で5月1日まで

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

2014長崎帆船まつり  長崎港で5月1日まで

長崎水辺の森公園、出島ワーフ周辺で開催。2014年4月29日午後の会場の様子。妻が出かけた。長崎観光/旅行ポータルサイトながさき旅ネットの案内は、次のとおり。
これだけの集客である。長崎県美術館では、片岡鶴太郎展があっているが、長崎開港当時を写す「長崎古写真の世界展」を、来年から長崎市・長崎県美術館・長崎大学附属図書館の共催で、ぜひ実現してほしい。
県民ギャラリーで、入場無料でできる。その方が帆船まつりにふさわしく、遠来の観光客も楽しめるだろう。

2014長崎帆船まつり

港町長崎に国内外から大型を含む数々の帆船が集結する日本で随一の帆船イベント!
期間中は帆船が真白な帆を広げる「セイルドリル(操帆訓練)」、船内を見学できる「船内一般公開」、帆船に乗って長崎港内をクルーズする「体験クルーズ」などの帆船をメインとしたイベントの他、ヨットやカヌー、ロープワーク(縄結び)教室などの体験型イベントなども充実! 
ライトアップ・イルミネーションのほか期間中の28日(月)と29日(火・祝)には打ち上げ花火が上がります。そのほかにも、参加型のイベントや物産市など、いろんな催し物がもりだくさん!

開催の場所 長崎市長崎港(長崎水辺の森公園、出島ワーフ周辺)
開 催 日  2014年4月27日(日)〜5月1日(木)
問い合わせ 095-822-8888 長崎市コールセンター あじさいコール

立山公園・稲佐山・川原大池公園の桜花見情報

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

立山公園・稲佐山・川原大池公園の桜花見情報

2014年3月28日(金)、立山公園(写真1〜12、東高土手13)・稲佐山(写真14〜16)・川原大池公園(写真17〜19)の桜花見情報。すでに満開。花見客と夜桜の場所取りが多かった。
明日からは雨となるよう。きょうのうちと他の用件の途中で訪ねた。
立山公園(長崎市)の桜お花見情報:桜前線とれたて便2014:るるぶ.comでは、次のとおり。

長崎県の桜お花見スポットリスト
【長崎県】長崎市  立山公園 たてやまこうえん
開花度:開花(61〜80%) ※3月27日現在
特徴 長崎駅から東方1kmの場所に位置し、展望台や多目的広場、遊戯広場などがある公園。春には約700本のソメイヨシノやヤマザクラのお花見が楽しめる。
桜お花見情報
例年の見ごろ 3月下旬〜4月上旬  本数 約700本  主な種類 ソメイヨシノ、ヤマザクラ

立山公園さくらまつり
期間:2014年3月21日(金・祝)〜4月6日(日) ※桜の開花状況により変動の場合あり
夜桜・ライトアップ
期間:2014年3月下旬〜4月上旬 ※開花状況により変更あり。時間:日没〜21時

立山公園のデータ
所在地 長崎県長崎市立山5-175外
問合先 095-829-1171/長崎市みどりの課
料 金 無料(桜まつり開催期間中は駐車料金別途)
交 通 JR長崎駅→バス20分、バス停:立山公園口下車、徒歩すぐ
クルマ 長崎バイパス川平ICから県道昭和馬町線経由15分
駐車場 あり/32台/無料(桜まつり開催期間中は1日につき200円)/桜まつり開催期間中は臨時駐車場を開設予定(約200台)、利用時間9〜21時

「クイーン・エリザベス」が長崎に初寄港

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

「クイーン・エリザベス」が長崎に初寄港

2014年3月21日午前11時頃、長崎港松が枝国際観光船埠頭で撮影。長崎新聞3月22日(土)9時34分配信記事は、次のとおり。
最後の写真は、対岸の三菱造船所立神ドックで現在、建造中の大型のクルーズ客船。伊コスタ・グループから受注した大型クルーズ客船2隻の1番船。12万4,500総トン、約3,300人乗りで、アイーダブランドの客船としては最大の船型という。

豪華客船ようこそ鶴の港へ

世界一周の旅を続ける英国の豪華客船「クイーン・エリザベス」(9万1000トン)が21日、長崎市松が枝町の長崎港松が枝岸壁に初入港した。
英国王室の許しを得て女王の名を冠している。3代目でキュナード・ライン社が運航。乗客約2千人のうち日本人は2割。同社が所有する3隻の豪華客船すべて入港したのは長崎が日本で初めてという。
早朝から多くの市民が集まり、「世界一豪華」とされるクルーズ船の写真を撮ったりスケッチをしたりしていた。同日午後6時ごろに次の寄港地、韓国・釜山に向け出港した。

川原慶賀が稲佐山から描いた「長崎眺望」図は、どんなものか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

川原慶賀が稲佐山から描いた「長崎眺望」図は、どんなものか

長崎新聞の2014年(平成26年)1月5日付第1面トピックス記事「川原慶賀の作品に道教の寺」、及びNBC長崎放送が2014年2月6日午後6時15分から”報道センターNBC”で放送した特集「川原慶賀の風景画 道教の寺が長崎に?」については、私たちの疑問を本ブログで前に展開した。

江戸時代の絵師、川原慶賀が長崎市街と港を描いた「長崎眺望」図は、出島のオランダ商館員フィッセルのコレクションとされ、オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵している。江戸期の1820年前後の風景とみられる。
川原慶賀「長崎眺望」図は、「道教の寺?」関係のため、弥生町高台ピーク(私たちの推定地点 長崎女子短大背後の丘)から描いたと思われるものを、これまで紹介してきた。

川原慶賀の作品は、これと対をなすようなあと1枚の、稲佐山山頂からの「長崎眺望」図がある。長崎港を東と西からまさに対面をなして山なども描いている。
もはや「道教の寺?」と関係なくなるが、写真がまだない時代、長崎全体をこれも正確に描いた貴重な大作である。原田博二氏著「図説 長崎歴史散歩」1999年河出書房刊から図版を掲げてみる。sat*mo*a*emo2*08氏が、主な地名や山名などの書き込んでくれた。

長崎市西部の「稲佐山」(標高342m)は、長崎観光の名所。長崎市街と港など大パノラマが広がる。写真が発明された幕末・明治期となり、次のような古写真も残っているので、時代の対比として見てもらいたい。現在のパノラマ写真を添えた(ズーム拡大)。
きのう稲佐山へ出かけた。なかなか同じように写せる場所がなく、推定場所の間違いも考えられる。写真写りも悪いので、そのときは後日差し替えたい。

「プロセイン・ドイツが観た幕末日本」300・301頁に掲載。「ⅤⅠⅠ−51 長崎全景のパノラマ写真」1861年。(これは山頂でなく中腹、現在のホテル清風あたりからの撮影と思われる)
https://misakimichi.com/archives/3568
「写真の開祖 上野彦馬 −写真に見る幕末・明治ー」産業能率短期大学出版部昭和50年発行の126頁に掲載。上野彦馬撮影「稲佐山から長崎の港を俯瞰」。撮影年代は未詳。(これはほぼ山頂からの撮影と思われる)
https://misakimichi.com/archives/2804

川原慶賀の作品は、このほか金比羅山から長崎港入口を向いて描いた有名な「長崎眺望」図がある。プロセイン・ドイツ、F.ベアト、上野彦馬らも、同じようなフォトリトグラフや古写真を残している。これらについては、本ブログですでに個別に紹介しているが、この記事と同じように、そのうち対比をまとめてしてみたい。

『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録 (2)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録 (2)

前の記事、『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録(1)に続き、これはまた、たいへん示唆に富む解釈と感想の、貴重なご教示をいただいた。
「肥前国 深堀の歴史」著者。現在は芦屋市在住で、みさき道研究では「関寛斎 長崎在学日記」(北海道陸別町同資料館所蔵)の解読に、たいへん協力いただいたKT氏である。
私信内容は次のとおり。長崎の道教の寺「崇玄観」解明の手がかりとなるので、あえて公開させてもらった。

先日来の崇玄観論争、興味深く拝見しています。
拝見する限り、原田先生の御説は分が悪いように思えます。新聞記事にも「田上方面の山あいにあった」とあるのに、どうして先生は大浦椎の木町に比定されたのでしょうか。本日UPされた『先民伝』を読むかぎり田上にあったことは動かし難いと思います。

sat*mo*a*emo2*08さんの読み下しのとおり、
①(大江宏隆は)晩年田上に道観を構え<田上は奉行所の南にある>、真武廟を建てた。
②そこで修練をおこなった。
③享保11年に長崎に来た高学士但賢がその道観を崇玄と呼んだ。
④長崎奉行日下部丹波守が親しく崇玄観の三文字を書いて(大江に)与えた。
とあるので、「長崎の田上には、真武廟を持つ道観があった」ことはたしかのようです。

もちろん慶賀の絵に描かれていればベストですが、長崎に道観が存在したことを言うのに無理に慶賀の絵を結びつける必要はなさそうです。ましてみなさんが論証されたように比定地に疑問があるならなおさらではないかと思います。以下は蛇足です。

『先民伝』の在鎮正南は田上の位置についての注釈だと思います。鎮正南が鎮の正南なのか鎮正の南なのか、よくわかりませんが、国会図書館本は鎮正の南と読んでいます。つまり田上は長崎の南方だと注釈を付けているのではないでしょうか。
于は於と同じで、于田上で「田上に」と読むのだと思います。
以はもって。
〆に似たメは正しくは二画め突き抜けないで、シテの合字、「して」です。

事を奉して(奉じて)崎に在り、其の観を顔して崇玄と曰ふ、
「顔する」はよくわかりませんが、字書からすると扁額に書くことではないでしょうか。その道観を崇玄と呼んだという意味ではないでしょうか。
親はラと送り仮名があるので、「みずから」と読ませるようですが、「したしく」と読んでもいいと思います。(注 訂正したような線から「親テ」、つまり「したしみて」と読むこともできる、との解釈もあっています)
いずれにしろsat*mo*a*emo2*08さんが読み下しておられるとおりだと思います。

最後に、出家とその弟子さんが言われるように北の神様真武廟がどうして南にあったのかは疑問です。真武に関係する妙見さんでもあったのでしょうか。わかったら教えてください。

(追 記 2014年2月11日) 
次はKT氏から、解釈について追記です。稲佐山からの眺望図関係は、コメント内容から必要な絵図・写真を見てもらうため追加しました。

親の送り仮名はラともヲともテとも見えます。国会図書館HPを拡大してラと読みましたが、断定できません。「みずから」でも「したしみて」でも意味は同じだと思われます。
なお在鎮正南については、鎮正という言葉が字書になく、「鎮の正南に在り」と読むのかも知れません。いずれにしろ田上についての割注だと思います。真南ではないと思いますが。割注が三か所とも固有名詞に付いていると思うからです。

『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録 (1)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録 (1)

以下は、sat*mo*a*emo2*08氏から、2月9日メールによるご教示である。『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録を、国立国会図書館デジタルコレクションから調べてくれた。
川原慶賀「長崎眺望」図において、同氏からは金比羅山や西山方面を描いた右側1枚の続きや、私たちが慶賀が描いたと推定した地点、現弥生町の長崎女子短大背後の標高240mピークから対象の山などとの位置関係を、現在の地形図へ線引きして確認するなど、たいへん協力いただいている。

長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述は、本ブログ次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/3909
「121 崇玄観  大江操軒が建てたが、廃絶歳久しく、その趾は不明である。〔長崎先民伝の操軒大江宏隆の項を引用してあるが略す〕」
これは、文化文政期の図絵執筆当時、長崎奉行の命を承った長崎聖堂助教の儒者ら編者が、「田上に崇玄観趾はすでに不明」とはっきり記している。〔 〕書きは現代語訳著丹羽漢吉先生が、先民伝引用の掲載は略したという注釈である。

Re: 報道センターNBCの特集

『先民伝』について「出家とその弟子」 様が述べられていたので、私も調べてみました。テレビ画像は『先民伝』の写本のようですが、木版本が国立国会図書館にありました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543340    コマ番号31〜32に書かれています(ズーム拡大)。以下書き下し文です。( )内は私が補いました。

大江宏隆(おおえ ひろたか)。字ハ意敬。操軒ト號ス。
(中略)
晩年自ラ道観ヲ(于)田上ニ構。鎮正ノ南在。真武廟ヲ建。修練ヲ以事ト為。享保丙午(享保11年
1726年)。高学士但賢(深見 有隣ふかみ ありちか1691年〜1773年)。字ハ松年。事ヲ奉メ崎ニ在。其観ノ顔メ崇玄ト曰。鎮台日下部博貞(くさかべ ひろさだ長崎奉行1717年〜1727年)。字ハ文如。丹波守。親テ崇玄観三字ヲ書以賜。後三年己酉(享保14年1729年)病卒。時年六十一。

メは〆で、…にして か? いくつかの文字の読みは判りませんが、これが問題の発端の文章です。最初に「出家とその弟子」 様は、その時点で原文を読まれた上で、慶賀の絵に関する原田氏の見解に疑問を感じ、「道人」様に調査依頼として問題提起されました。
原田氏は「鎮正の南に在り」という部分にこだわり過ぎて、真南にある丸尾神社と崇玄観を強引に結びつけておられるようです。『長崎名勝図絵』にも書かれているように、大江宏隆没後九十年を経て、志を継ぐ者も出ず、寂れて跡を留めぬこととなったと思われます。
慶賀の絵も『長崎名勝図絵』とほぼ同時期に描かれているようなので、絵には崇玄観が存在しないはずです。

NBCのニュースは独自取材も無く、長崎新聞記事に追随したことは明らかです。「道教の寺が長崎に!」ではなく「道教の寺が長崎に?」と断定していないところに、まだ救いがあります。
川原慶賀の絵は稲佐山からの絵も含めて、今から190年程前の長崎を描いた正確なパノラマの絵は全国的に評価されてしかるべきと思います。

NBC長崎放送「川原慶賀の風景画 道教の寺が長崎に?」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

NBC長崎放送「川原慶賀の風景画 道教の寺が長崎に?」

NBC長崎放送が、2014年2月6日午後6時15分からの”報道センターNBC”で、特集として「川原慶賀の風景画 道教の寺が長崎に?」を放送した。
この項の、本ブログや私たちの考えは、次を参照。
川原慶賀「長崎眺望」全図と、どこから描かれたか再考
https://misakimichi.com/archives/3911
川原慶賀「長崎港眺望図」は、どこから描かれたか
https://misakimichi.com/archives/3908
長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述
https://misakimichi.com/archives/3909

長崎新聞と長崎放送の報道姿勢は問題がある。放送内容の全部は紹介できないが、絵図と現在の写真の対比放送画面は載せたので、みなさんで考えてもらいたい。論理は全くの誤認があるだろう。正しい文献調査や現地調査を行った結果の発表となっていない。
長崎学はこれでよいのだろうか。ライデン博物館、椎の木町自治会、日本道教本部、中国メディアまで及んだニュースとなっている。高名な先生だけに、慎重な研究をくれぐれもお願いしたい。
テレビ画面は、著作権法で認められた範囲で引用し公開したつもりだが、誤りがあったら画像は削除したい。

「広助さんの丸山歴史散歩」による丸尾神社の解説は、次のとおり。
C-267:丸尾神社(まるおじんじゃ)
椎の木町14(旧 大浦元町/戸町村大浦郷)
この神社がある付近は起伏が激しく、ちょうど神社付近が尾っぽのように丸くせり出ている様子から丸尾という地名が誕生したものと考えられます。また、丸尾神社の創建は定かではありませんが、祭神は稲荷神で、鳥居に明治20年(1887)と刻されているところから、そのころに創建されたものと考えられます。また、創建後の大正9年(1920)に再建られ、境内に小さな祠が点在しているところから当時の厚い信仰の様子が伺えます。
〇御大典記念碑:昭和天皇即位記念に昭和3年(1928)に建立。

2014長崎ランタンフェスティバル開幕前夜

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

2014長崎ランタンフェスティバル開幕前夜

開幕前夜、1月30日午後6時と9時頃のメイン会場、新地湊公園などの様子。長崎観光・宿泊ガイド”あっ!とながさき”は、次のとおり。

2014長崎ランタンフェスティバル

長崎の冬の灯りの祭典である、長崎ランタンフェスティバルが今年も華やかに開催されます。約15000個もの中国提灯(ランタン)や、その年の干支のメインオブジェをはじめとする大型オブジェなどがところ狭しと飾られ、長崎の街を極彩色に彩ります。
期間中は、龍踊りや中国雑技などの中国色豊かなイベントも行われます。毎土曜日は清朝時代に皇帝、皇后が民衆と一緒に新しい年を祝う様子をイメージした皇帝パレード、毎日曜日には江戸時代に長崎に入港した唐船の乗組員達が、航海安全の神である媽祖を媽祖堂まで安置する様子を再現した「媽祖行列」が行われます。

〈開催期間〉 1月31日(金)〜2月14日(金)
〈点灯式〉 1月31日(金) 17:30〜18:00 新地中華街会場、中央公園会場にて行います。
〈皇帝パレード〉 2月1日(土)・8日(土) 14:00〜16:30
〈媽祖行列〉 2月2日(日)・9日(日) 14:00〜17:20
〈会 場〉 新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場、興福寺、鍛冶市会場、浜んまち会場、孔子廟会場
※ステージイベントの時間は各会場、イベントによって異なります。

川原慶賀「長崎眺望」全図と、どこから描かれたか再考

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

川原慶賀「長崎眺望」全図と、どこから描かれたか再考

2014年(平成26年)1月5日付の長崎新聞第1面トピックス記事において、日本唯一の道教の寺だった「崇玄観(すうげんかん)」を、川原慶賀「長崎港眺望図」から特定し、位置を現在の椎の木町、創建時期不明とされる「丸尾神社」一帯ではないかと、発表されている。
私たちはこれに疑問を感じ、本ブログで疑問点を先に指摘しているので、次を参照。
川原慶賀「長崎港眺望図」は、どこから描かれたか
https://misakimichi.com/archives/3908
長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述
https://misakimichi.com/archives/3909

眺望図は4枚一組。出島のオランダ商館員フィッセルのコレクションとされ、オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵している。江戸期の1820年前後の風景とみられる。
長崎新聞では左側の3枚しか掲載がなく、それも左右端の一部をカットして、読者にとってわかりにくい記事と図版である。
西武美術館1980年発行「鎖国の窓を開く:出島の絵師 川原慶賀展」(制作講談社)に、右側の1枚となる金比羅山など続いて描いた部分があった。これで眺望図全体の詳細な画像を見ることができる。
同巻末の解説は、次のとおり。眺望図はライデン博物館HPにも収録されているようである。

●長崎眺望 184〜187                        絹本著色 4枚一組 (B)
長崎の一大眺望である。4枚合せると270センチにもなるこのような眺望図の例を私は知らない。神戸市立南蛮美術館に衝立になった慶賀筆「長崎港図」(絹本69.0×85.5cm)があるが、本図もまた「長崎港図」とあまり時期を隔てずに描かれたものと考えられる。「長崎港図」とは視点を変え、長崎の北東部おそらく彦山からの眺望であろう。
この地点から視野に入るすべてを写している。一つ一つの山や島の形から市街地の家並、道筋にいたるまで、見えるそのままを遠近法を用いて描き、不自然さを感じさせない。慶賀はシーボルトとの出会い以後いっそう洋画的手法による写実性を増していくが、本図は、それ以前にすでに洋画的技法をかなりの程度まで会得していたことを示している。      (兼重 譲)

さて、この川原慶賀「長崎眺望」は、どこから描かれたのだろうか。金比羅山など描いた4枚一組の、右側1枚の存在まであまり調べてなかったので、現地確認調査をし直した。
調査に協力した方のコメントなどが多く推測したとおり、これは「愛宕4丁目」(どこを特定されたか、「弥生町」との町境も説明が不明)や、「彦山」からではない。
絵図のポイントは、稲佐山と岩屋山の稜線重なり具合と、港口の高鉾島や伊王島などが同じように見えるかで、おおよそが判断できる。

「弥生町の高台、長崎女子短期大学背後の標高240mのピーク」から描いたものと、やっと確信できる地図や資料が揃った。
これによると、道教の寺「崇玄観」は、椎の木町「丸尾神社」一帯にあったと考えにくい。茂木村田上名にあった黄檗宗「観音寺」(現在は「徳三寺」)の建物を、眺望図で道教の寺と勘違いされているのではないかと、あらためて感じた。
絵図説明の「星取山」は、ここは「唐八景」と思われる。「長崎名勝図絵」の崇玄観記録は研究されたのだろうか。

現地の現在のピークは、藪の広場となっている。周囲は雑木や竹の高い木立に覆われ、慶賀図どおりの長崎眺望全体は、伐採しない限り確認できない。現在の写真はそのため、図とかなり合わないが、できる限り付近から撮影したものを載せているので、繋ぎ合わせて全体を考え、それぞれが研究を進めていただきたい。詳しい理由や写真説明は省く。
山名や地名などは、主なものだけ表示した。推定地点からのカシミール3D作図は、升本氏、国土地理院地形図による対象山などとの線引き確認は、入江氏の協力による。

(地図線の説明) 地図の北から反時計回りに
青 線  慶賀の絵の右端
赤 線  琴ノ尾岳 金比羅山 風頭山 愛宕山 岩屋山 茂里町新田堤角 正覚寺 出島 稲佐山
青 線  慶賀の絵の中央、二枚繋ぎ(正確には四枚)の中央
赤 線  鍋冠山 天門峰 伊王島と沖ノ島の界 高鉾島 沖ノ島左端 徳三寺(観音寺) 星取山 唐八景 熊ヶ峰
青 線  慶賀の絵の左端

「伊能忠敬測量日記」は、茂木街道の測量を、次のとおり記録している。眺望図に描かれている横黒線は、ピントコ坂を上がって田上を通るこの旧茂木街道なのである。
「文化十年八月二十三日(1813年9月17日) 晴天。
同所(長崎市炉粕町)に逗留して測る。御料所の長崎村小島郷の二印より初めて、茂木村への街道を測る。右に一向宗正覚寺。右に八剱社。地蔵堂。高来郡茂木村枝田上名。百姓の伝蔵宅で小休止。
右は石動山観音寺(現在は徳三寺)。右に浄土宗智恩寺の末寺で松原山田上寺。田上名の在所。字転石。…」

付近の当時の地形を知るため、明治34年測図旧版地図を載せた。図に描かれているという長崎村森田庄屋屋敷側(現在の長崎市立桜馬場中学校)からは、写真では矢の平の谷奥上に見えるのが、このピークである。
長崎全体の眺望が良い「この地点がまだ開発されずに残っていることが驚きです。早急に手を打つべきと思います」との声がある。「川原慶賀大作の地」として、長崎市や長崎女子短大によって、公園化を図ることが考えられる。
長崎新聞の報道姿勢は、読者に理解されやすい記事となるよう一考をお願いしたい。