長崎の藩境石と塚」カテゴリーアーカイブ

大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚の調査

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大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚の調査

西彼杵半島外海地方の藩境石塚の所在については、これまでこの項や川上氏寄稿により調査の一部を紹介している。
今回調査したのは、大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚で、「深入の辻」の傍爾石と「ヘン岳」の塚。地元も関心を持って探してくれており、平成20年3月22日、川上、中尾、私が訪ねた。案内してくれたのは、前外海こども博物館長松川先生と地元の高橋さん。

この2箇所の藩境石塚のことは、藤野保編「大村郷村記」第六巻(図書刊行会 昭和57年)98〜99頁の黒崎村「當領佐嘉領大境并傍爾石之事」出津郷の中に、次のとおり記している。

牧野内平より同所頭出津郷へんたけ、夫より同郷白木迄
一大塚七拾五 内貳ツ舫塚
出津郷白木終舫大塚見渡建石より白木頭、夫より同所大さこ赤首中道境ニ終る
一建石四拾六
小城海手初の塚より深入之辻迄
一大塚貳拾四、内壹ツ傍爾石、深入之辻ニ建
傍爾石銘文
従是 東南佐嘉領 西北大村領  末ニ向

「深入之辻」とは、現東出津町の道の駅「夕日が丘そとめ」国道反対側をやや登った高台である。黒崎中学校から行く方が道がはっきりしている。写真のとおりの藩境石(傍爾石)があった。
次に、現西出津町の「ヘン岳」(漢字では小字あり「変岳」と書く)に向かった。出津教会上の道を進み、この背後の小高い山。奥の民家手前にドロ神父井戸があり、尾根に上がると、神父が拓いたという広い畑があった。

「ヘン岳」ピークを目指し、雑木の尾根を南へたどる。石を積んだ藩境塚は間隔を置かず次々に現れ、山頂まで10基ほど。先の次のピークまでとその下りで8基ほど見た。
まだ探せば塚は続いてあるだろうが、山麓は畑地跡や赤道となり不明瞭で、ここで切り上げた。
なお、資料としては、案内してくれた松川先生の作成稿で、平成17年度文化財サポーター育成講座研修資料「外海における大村藩領地と佐賀藩領地について」などがある。

俵坂の「従是大村領」領界石  東彼杵郡東彼杵町

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俵坂の「従是大村領」領界石  東彼杵郡東彼杵町

国道34号線が、長崎県東彼杵町から佐賀県嬉野町との県境「俵坂」に登りきる切り通しの、すぐ手前となる右方のやや高い石垣上に、この領界石が移されて立てられている。車中からなら、よく注意して見てないと見過ごす。
現地説明板は次のとおり。同じ所に立つ隣りの高い石は「地神」である。

領  界  石

「従是大村領」の領界石は、元禄三年(一六九〇)ここより北西二百メートルの藩境(現在の県境)に建てられました。
高い所に立つ五尺五寸(一・七メートル)の大村藩の領界石と、その北側の低い所に立つ「従是北佐嘉領」の二・八五メートルと背の高い領界石が、よりそって立つ姿は、当時の旅人たちの目を引く存在でした。
明治の国道建設後、その所在がわからなくなっていましたが、昭和三十三年、俵坂バス停付近の土中に、上の部分が欠けた姿で発見され、ここに移しました。
東彼杵町教育委員会

波佐見の三領石  東彼杵郡波佐見町村木郷

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波佐見の三領石  東彼杵郡波佐見町村木郷

長崎市では見かけない三角形石柱の三領藩境石。波佐見から有田へ行く県道107号稗木場有田線の佐賀県との県境「峠」から左折して西の方へ車で10分ほど上がった山中にある。岩崎交差点から20分ほど。ずっと道路案内標識があった。最後のすぐそこ60mは歩いて登る。
波佐見町「はさみ100選 ガイドブック」1987年刊65頁の説明は次のとおり。

44.境 石〜三領石(村木郷)…

波佐見は県境の町、以前から藩境の村でした。三領石は、村木峠から西へ入りみかん畑を通り、少し山を登ったところに建っています。高さ7尺1寸(2.15m)幅1尺(30cm)の三角形石柱で、正面に「此三領境東西峯尾続雨水分南大村領 彼杵郡(ごおり)波佐見郷」、右面には同じく「…東西・・・佐賀領 松浦郡有田郷」、左面には「…西北・・・平戸領 彼杵郡早岐郷」と刻まれています。
今から240年ほど前の寛保2年(1742)に三藩の役人が立ち合って建てた境石です。三領石から東へは野々川の一本杉跡の石碑を経て、小樽の仏坂の境石までは、分水嶺が佐賀領と大村領の境です。以前は大松が点々と並んで境を示していたが、境松のない所や枯れた松には、佐賀は角塚、大村は丸塚を交互に築きました。

諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚を現地に見る

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諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚を現地に見る

平成17年春、長崎市の大久保山から戸町岳に残る大村藩と佐賀藩の藩境石塚を、私たちが調査した。結果は、研究レポート第2集やこのブログ先項に載せている。
この時、最近調査された近郊の藩境塚で、「森山町郷土誌」から諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚の例を、概略で次のとおり紹介していた。

(資料4) 森山町郷土誌 光富 博氏稿「諫早史談会 森山探訪資料」 平成16年  185〜188頁
(3)諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚
藩境に石で築かれた御境塚が森山町・愛野町合同調査(註1)により、諫早領唐比村と島原領愛津村の藩境に存在することが確認された。合同調査によると御境塚は日吉神社の鳥居わきの山中に南東の方向へ五七五mに渡って分布している。諫早領の御境塚は円形で十八基、島原藩の塚は四角形で十三基、合計三十一基の御境塚が残されている。この外に潰れた四角形の御境塚ニ基が残っている。
この御境塚はいつ築かれたのか不明であるが、安永八年(1879)、双方の境に諫早領と島原領より御境塚ニヶ所を新規に築き、道の終点に双方より石を一つ宛埋めて中心の目印とした。この塚ニヶ所の上に杉壱本宛植えて双方の境目とした。(註2)
この御境塚に関係する記事が『日記』(註3)の安政四年(1857)六月十一日の条にみえる。この記事を読み下しに直して次に掲げておく。(略)
註(1)平成十五年四月九日、「藩境石塚」について、森山町教育委員会,森山町郷土誌編纂歴史部会及び愛野町教育委員会、愛野町郷土誌学習会による合同調査を実施した。
(2)『日記』安永八年九月ニ十一日の条。(諫早市立諫早図書館蔵)
(3)『日記』安政四年丁巳五月ヨリ七月迄。(諫早市立諫早図書館蔵)

ここの藩境石塚は、一度は見ておきたかった。思い立って平成20年2月23日、愛野町の現地を訪ねた。国道251号線唐比交差点から愛野の方へ左折し、ほどなく行くと小原バス停がある。右前方の小山に日吉神社があり、山王自然公園として整備されていた。巨石が多いのには驚いた。神体も石である。頂上広場に展望台があった。

藩境石塚は、ここにはない。公園入口の鳥居のところからすぐ右方へ分岐する広い車道があり、行くと「NER PLUS ナイロン(株)」の正門でつき当たり。この会社の敷地外周の山中に藩境石塚が残る。公園には、入口にも何の案内図や藩境石塚の道標はない。場所を探すのに苦労した。諌早市で何とかしてほしい。
現地の「藩境石塚」説明板は次のとおり。このあたりで確認されている13基の石塚が、連続して見られる。町の指定文化財。史跡石柱があった。

藩 境 石 塚     愛野町乙字山王2番18

島原藩と諫早藩の境の印として積まれた石塚です。古い記録によると、南北一・五キロに四十二ヵ所となっていますが、今は三十一ヵ所現存しています。
島原藩は、一辺二メートルの□形で十八ヵ所、諫早藩は、一辺二・二メートルの○形で十三ヵ所確認されています。
石積みの高さは、六十〜七十センチメートル、一個の雑石の長さは三十センチメートル前後です。塚間の距離はまちまちで、同間隔ではありません。
このような藩境石塚は、諫早藩と大村藩の藩境である鈴田峠近くの風観岳の山中にもわずかに残っています。
この石塚は、島原藩・有馬晴信の頃、諫早藩・初代龍造寺家晴が諫早に入部後、約四百余年前の天正年間に積まれたものと考えられています。
平成十七年二月一日   愛野町教育委員会

鈴田峠から風観岳の藩境石塚  諌早市・大村市

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鈴田峠から風観岳の藩境石塚  諌早市・大村市

鈴田峠は、諌早と大村の境。鈴田峠から風観岳に残る藩境石塚の見事さは、話に聞き、HPにより見ていたので訪ねてみた。鈴田峠から歩くつもりだったが、HPに山道の地図がなく、峠駐車場に何の案内もない。
地元の人も知らず、峠手前「トンネル上」バス停の鈴田峠甘酒まんじゅう屋のところから車道が上がっていると聞いて、バイクで登った。
私は国道34号線から行った。どうもHPは、昔の長崎街道の鈴田峠から話が進んでいるようなのに、今となって気付いた。

途中の集落に石祠があり、au無線塔の先に山道の案内があったが、そのまま頂上近くまで走った。車だと5分位。この一帯の尾根に藩境石塚があった。最大の三角塚は、一辺の長さ4mほどある。まっすぐ歩いて行くとすぐ山頂。
巨石の広場に、「従是東佐嘉領」の文字を削って、転用された「遥拝所」の石柱があった。建立の刻は「明治卅年四月三日 本高来郡破籠井村 総代柿本覚六」か。

あと1つの石碑は「明治三十七、八年日露戦役出征軍人凱旋紀念櫻」。が、桜はなかった。三角点が見あたらず、墓石を間違って書いた思われるHPもあった。山頂から先へ少し下ると、風観さんの石祠があった。下の集落のと同じようだ。後は何もなく引き返した。
HP「藩境石塚(鈴田峠〜風観岳)」の説明は次のとおり。これを参考に行ったのだが、「硯石」を見てなく、また同氏のには、別に近くの大村市今村川畔「藩境石(今村川)」があることを知らず、調べそこねた。再度、出かけねばならない。
最後の写真は、国道34号線の諌早市真崎町側から見た風観岳。

HP 「藩境石塚(鈴田峠〜風観岳)」

長崎街道の鈴田峠から、大村に向かって右手に入ると、風観岳に上がれる。(01/05/2002)
昔から、大村と諫早の境界である、風観岳(236.7m)。鈴田峠から、風観岳の遥拝所の間で、藩政時代の、国境標識である、藩境石塚を見ることが出来る。
この石が、硯石で、大村諫早間の鈴田峠の目印。この石から、右手に上って行くと、風観岳の山頂に上がれる。途中に分かれ道が、二箇所ほどあるが、上に向かっていけば大丈夫です。
この塚は、三角塚と言い、藩境石塚の一種だが、境界が、「く」の字に折れたところに築かれたもの。風観岳の山頂に行く途中に、遺された、この石塚は、確認された中では、最大のものです。

四角く積まれた、この形の藩境石塚は、角塚といい、諫早(佐賀)藩が築いたものです。また、丸く積まれたものは、大村藩が築いたもので、丸塚と呼ばれます。
藩境石塚は、約30m間隔で、設置されていて、享保10(1725)年に築かれたそうです。
この藩境石塚は、全部で三百数十基が築かれたそうですが、この諫早西部の丘陵地帯に、60基ほどが確認されています。
しかしながら、その多くは戦後の開発や開拓で消失しています。せめて、現在残っているものだけでも、文献資料を伴う、大切な歴史遺産として、遺していきたいですね。

風観岳山頂の東端にある、東方遥拝所の文字が刻まれた石柱があります。この石柱は、もともと、街道の硯石の傍にあって、「従是東佐賀領」と書かれていた、石柱だったそうですが、その文字が削られ、明治時代に、現在の場所に、移されたものです。藩境石も、こんなリサイクルをされるとは、思ってなかったでしょう。
風観岳の山頂は、日露戦争の出征兵士凱旋祈念碑などもあり、上の石柱と併せて、軍国主義時代の遺物になっています。
現地の状況からすれば、昔は、東側に諫早湾や、多良岳連峰を望む、絶景の地だったようですが、現在は、杉の木立に隠れて、遠景を楽しむことは出来ません。

古賀敏朗著「くにざかいの碑−藩境石物語」のおもしろい記述

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古賀敏朗著「くにざかいの碑−藩境石物語」のおもしろい記述

古賀敏朗著「くにざかいの碑−藩境石物語」峠の会(福岡)1983年刊の関係文は次のとおり。本は長崎市図書センターに蔵書あり。
著者は佐賀県嬉野の方で教師をされていた。すでに平成15年他界された。全国の藩境石を訪ね歩いた苦労話があり、北は樺太の国境石までの話がある。西日本新聞に掲載された藩境石シリーズをまとめた本である。
この本には長崎の藩境石も数多く登場する。気を惹いたのは次の文の記述である。著者に代わって、本の発行から20年以上経た平成17年の春と秋、友人の川上君らと探索してみた。

A 小ヶ倉の佐嘉藩境石           215〜216頁
長崎市内には日見峠、古賀の佐嘉境石とわずかに形態のちがう、もう一種の佐嘉境石がある。簡単に書きとどめる。
長崎市の山間部、戸町、小ヶ倉を抜けて香焼へ通じるバイパスの工事中、ショベルカーが藩境石を掘り出したという、うわさを聞いた。長崎県立図書館で古記録を調べると、佐嘉領小ヶ倉村と大村領戸町村の藩境紛争が天明七年(1787)に解決し、大久保山と戸町岳の間に六十九の塚を築き、道路が藩境を通過する地点の塚の上に境石をたてている。御境絵図の境石の位置と、今度発見された場所は同じ地点らしい。
長崎駅前から新戸町までバスに乗った。旧道を峠の方へ歩いて行くと、家並みのつづく道路わきに境石がたっていた。
従是南佐嘉領
高さ一五〇㌢、幅ニ四㌢の形のよい藩境石だ。軒下にたっているから、ぼんやり歩いていると、目にとまらない。
刻銘も書体も古賀の境石とまったく同じである。だが、古賀の境石が頭部が平面であるのに対して、こちらは凸形である。私が日ごろさがしている表裏に刻銘した舫境石ではないかと期待して出かけたのだが、普通の境石だった。考えてみれば、大村藩戸町村は安政六年(1859)天領古賀村と交換されたのだから、大村藩の境石など残っているわけはないのである。

B 余談 その3 三重町の境塚       118〜120頁
藩境石をたずねる旅は、簡単にさがしだせることもあれば、何度通ってもみつけることができず、相手の姿を心に描きながら、まだ、会えずじまいに終っているものもある。
この稿は、実見の機会に恵まれない藩境石の一例。

長崎県西彼杵半島の南部、三重町の一部に、三方を大村領に囲まれて東シナ海に臨む佐嘉藩の飛地がある。長崎の豪族、深堀家は鍋島家に従属していたが、一族には大村家に臣事するものもあり、佐嘉、大村両藩の間で藩境紛争が起きた。宝暦二年(1752)に和談が成立、藩境に塚を築いた。そのときの『絵図裏書証文之覚』には「境塚都而(すべて)弐拾弐」とあり、以下、二行に分けて「内舫(もやい)塚三、大村御領塚五、佐嘉領塚四、堅石捨テ」と内訳がつづき、記述は他の件に移っている。
「堅石」とは切り出したままの石のことであろう。そのような石をどこに並べたのか。舫塚三に大村、佐嘉各領の塚合わせて十二。すべて二十二とあるからには、残りの石はどこに設置されたのか。そのへんが、はなはだ茫漠としているが、調査に出かけた。景勝の地で、海岸の高台にたつと、すばらしいながめだった。
古地図のコピーと二万五千分の一の地図でおおよその見当をつけてから、集落で新築工事を監督中の六十を超える年配の棟梁に声をかけてみた。しかし、この人も、何人かの大工さんたちも、境石のことを聞くのは初めてで、そんな塚や石があるだろうか、という。
集落の長老で、一番の“もの知り”といわれる方に会ってみた。私が持参した『絵図裏書証文之覚』の写しを、すらすらと読まれたあと、腕を組まれた。
「向こうの集落は大村領、こちらは肥前領だったと聞いているが、塚のことはまったく知りません。話を聞くのも、いまが初めてです。小さな集落だから、現存するなら私の耳に入るはずです。もし、あるとすれば、あのあたりでしょう」
指された方角は大部分が畑地となっていた。石垣の石として使用されているかもしれないが、さがすにしても、石そのものが見当がつかない。むなしく引き返した。
現実の境石の写真が得られないため、やむをえず宝暦二年の『御境絵図』から「堅石」の絵を借用する。大きさも石質もわからないが、なんとなく「堅石捨テ」の意味がわかるような気のする石の図である。左右の白抜きの四角のマークは両藩の舫塚の図である。

なお、冒頭にふれた深堀家は、鎌倉時代の末、関東から戸八ヶ浦に下向したと伝えられる。戸八ヶ浦は現在の長崎市深堀町。深堀家は佐嘉藩の家老で六千石であった。

以上が関係文。つまり、Aの小ヶ倉については、佐賀・大村領の藩境紛争が天明7年(1787)に解決し「大久保山と戸町岳の間に築いた六十九の塚」の方。著者は塚は実地で確認していない。Bの三重樫山については、著者が樫山へ行って調べても、どうしても「実見の機会に恵まれなかった藩境石・塚・竪石」である。
著者は嬉野から日帰りのため、満足な調査ができなかったと思われる。

私たちの探索の結果は、すでに前の項「大久保山から戸町岳に残る藩境石塚の調査」と、「大村郷村記の三重樫山藩境石塚の存在を確認」に載せ、詳しくは研究レポート第1集・第2集の中に報告している。
他界された著者へのたむけとしたく、私らが長崎の古い標石などに関心を抱くきっかけとなった貴重な記録の本である。

長崎街道の郡境石  諌早市旧九山峠

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長崎街道の郡境石  諌早市九山峠

長崎街道の「九山峠」と言われた現諌早市多良見町化屋と久山町の境に、復元されてある。井樋ノ尾岳の北麓で水神清水祠の先となる。
多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊733頁の説明は次のとおり。

2、郡境石
往時の長崎街道の路傍にある。昔のものは失われ、もとの位置に再建したもの。文化三年(1806)書かれた「筑紫紀行」には「貝津から…又一里行けば九山村、人家二〇軒計り茶屋あり、又十丁ばかり登り行けば九山峠、此所に郡境の表(しるし)、南は高来郡北は彼杵郡とあり。…」と記されている。

伊木力・大草の旧村境尾根に「郷村記」が記す境塚があった 

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伊木力・大草の旧村境尾根に「郷村記」が記す境塚があった

藤野保編「大村郷村記 第四巻」図書刊行会昭和57年刊の「壱岐力村」(伊木力村)の項、2〜3頁に「村境并他領境之事」が記されている。
この辺りは、当時、所領の違う村が山間で境をなし、伊木力村・長与村と畦別当は浦上木場村で大村領、大草村は佐賀領諌早、古賀村は天領だったが戸町村と交換されて大村領となる。
「郷村記」を読んで関心を持ったのは、大村領の伊木力村と佐賀領諌早の大草村の村境に多数の境塚と最合塚(両藩で築く)が築かれていることである。
「郷村記」は、安政三年、大村藩が藩政改革の一環として、一定の調査項目にしたがって藩内の実態調査をおこない、各村ごとに稿をまとめ、これを藩庁において集大成し、文久二年(1861)に完成したものである(同著凡例)。

「郷村記」の記述は次のとおり。
「一 佐賀領諌早境海濱田川尻より壱岐力村・浦上村・諌早領三方境折木境塚まで壱里拾弐町五拾六間半、此間諌早領との境なり。」
以下、この詳細として10区間の記述がある。ここに合計161+数拾基の境塚が表われ、その内の7基は最合塚である。境界に紛争があった場合に境塚が築かれるが、その詮索は今回行わず、文久2年から146年経過した現在、この境塚がどれほど残っているか、現地に行って調べてみることとした。

今は諌早市に合併された多良見町。旧伊木力村と旧大草村の村境は前の字名でわかると役場で聞いた。すなわち郷がついていたのは大村領、名は諌早領である。これから判断した当時の村境は、図のとおり赤線となった。
全部を歩いて探してみたいが、とりあえず境塚の現存する可能性が大きい大山の「峰尾境」へ行ってみた。「大山」とは一つの峰の名というより一帯の山地をさしていう名称。喜々津では”ウマヤマ”と訛ると、「多良見町郷土誌」新版平成7年刊「山岳」の説明にあった。
ここは「山川内郷」と「西川内名」の境で、車道が上がり一番わかりやすい。バイクで行き易かった。四角山林道の終点出合に車を置き、植林地内の道を上って尾根に出た。写真を写しながら、大山の三角点まで行った。往復で約3時間を要した。

今回調査したのは地図の赤線点線区間。この手前の尾根積み石は最近の地籍調査のもののようで測量杭が多い。「郷村記」の関係部分の記述は次のとおり。
「同岩首最合塚より三方境折木最合塚まで八町四拾間(944.8m)、此間峰尾境にて境塚 塚数四拾三、内二ッ最合塚 あり
塚上立石 高廿四尺廻り五尺 あり、左右山なり、諌早領との境此處にて終る」

ここに境塚が現存することは、「多良見町郷土誌」旧版昭和46年刊111頁、「一〇、玄蕃さん(山川内)」の項の末尾に次のとおりの文があった。
「山川内部落を取り囲む山は諌早領地、長崎天領境をなすのでその領境には石を盛った塚があって、三年ぐらいに双方立ち合って境の確認がなされて来ていて、石は所々に今も残っているという。」
著者は話に聞いているだけらしい。地元でこういった史跡の調査がされず、新版の郷土誌で記述が省略されているのは惜しく感じる。過去の「諌早史談」にも掲載はないようである。

この区間は、畦別当から大山に登り鎌倉山・普賢岳・水洗山へ行く縦走路の一部。大山のピークには朝霧山の会の指導標があり、四等三角点もあった。「郷村記」に記していると思われる「立石」は「山」と刻まれたものが三角点のすぐ傍らに立っていた。高さは1.2mの平石。基盤は一辺2m位の方形囲いの石組み。
「郷村記」の立石の記述は、「高廿四尺」とあるが、これは字の誤りで「高サ四尺」なら合う寸法だ。木場村235頁の記述は「三方境建石 高サ四尺、廻り五尺余の野石なり」とある。この立石は石仏ではないようだ。

最合塚を含めた境塚が当時の姿のまま、整然とこの峰尾境に数多く残る。苔むした石は緑の光に輝くものがあり、歴史の奥深さが感じらる。塚数は多く数え損ねた。
西川内虚空蔵山公園の道先なので、車で簡単に行ける。山道もあまり荒れていない。地元で詳しい調査をなされるよう期待したい。

なお、最後の2枚の写真は、9月22日調査した「郷村記」に記す「岩首最合塚」の下斜面で見かけた境塚。ここは大山林道の上下の植林地内にあった。群集落の小林氏からは集落の先の方の尾根に境塚が残っているとも聞いている。

長崎街道と井樋ノ尾の「御境石」

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長崎街道と井樋ノ尾の「御境石」

長崎市内となる中里町までの藩境石は別項ですでに紹介している。長崎街道はこれより長崎自動車道の下を通り、平木場を経て諌早市の井樋ノ尾に入り、久山の方へ向かう。
井樋ノ尾にある「御境石」と多良見ライオンズクラブが建てた「長崎街道」の現地説明板は次のとおり。脇石にあるとおり境石は大水害のとき近くから発見された。刻は「従是東佐嘉領」、右面に字名の「井樋尾」がある。この辺りの山には境塚も築かれていると聞いている。

井樋尾「御境石」
文化五年(一八〇八)のイギリス船フェートン号事件以降、長崎港警固の必要から、安政六年(一八五九)幕府の命により大村領東泊(大浦村)を天領に繰り入れ、代地として古賀村を大村領とした。この御境石は、このとき長崎往還道の佐賀領喜々津村と大村領古賀村の領境に立てられたことが文献に記されている。
平成十一年七月  諌早市教育委員会

長 崎 街 道
江戸時代に我国唯一の外国貿易港として繁栄した長崎から江戸に通ずる幹線道路で長崎警固の諸大名の行列が通り西洋文化もこの街道から日本各地へ広まつていつた 多良見町内では古賀境から諌早久山茶屋峠間一五粁余が通つている 途中にはお籠立場や茶屋などがあつて旅人は名物の心天に舌つつみを打ちながら往来した    多良見町教育委員会
昭和六十年十月吉日 十周年記念 多良見ライオンズクラブ 建立

なお、多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊733〜734頁の記述は次のとおり。
9.領境石 「従是東佐嘉領 彼杵郡(こおり)ノ内井樋之尾」と刻んである。昭和57年の豪雨による地崩れで発見され、現在地に建立された。もとは、常盤坂口にあったものと思われる。

神殿の礎石にされている藩境石 唐比天満社

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神殿の礎石にされている藩境石 唐比天満社

平成19年7月24日午後から、諌早市郷土資料館の織田先生と橘湾沿岸の戦跡調査に行った。愛野展望台からの帰り、唐比天満社の境内におもしろい藩境石があると聞き、連れて行ってもらった。織田先生は、諌早日記により諌早領内藩境石標の調査をされ、「長崎街道雑記」No.1にまとめられている。

唐比天満社は菅原道真を祭神とする。唐比蓮池の手前旧街道沿いとなり、唐比交差点から右に入る。鳥居をくぐり境内に入ると、拝殿の奥に神殿があり裏側に回ってみると、何と「従是西佐嘉領」の長い標石2本が、写真のとおり建物の両端の礎石とされていた。

織田先生の調査では、この標石は諌早日記の嘉永四年(1851)十二月の記録になく他から運ばれたもので、後に造られたものか。石の寸法や頭部が記録にあるものと異なるようなので、現在は調査不明扱いとされているらしい。
とにかく珍しい藩境石で、場所もわかりにくいと思ったから紹介してみた。なお、境内に六地蔵石憧二基が左右にあった。地蔵の首は壊され、廃仏毀釈のためらしい。