長崎の藩境石と塚」カテゴリーアーカイブ

岩屋山にあった境塚と式見「遠の木場道」の境塚

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岩屋山にあった境塚と式見「遠の木場道」の境塚

平成19年5月、滑石4丁目の農道改修記念碑のあるところから急な尾根を岩屋山に登った。この道が現在、同町多以良初見宅の庭に横たわる「右志きみ 左てぐま」標石の「左てぐま」道の旧道と思われる。
岩屋山の山頂近くとなり、特徴ある尾根上に写真のとおり境塚と思われる石組みを1つ見た。滑石・手熊の当時の村境と考えられる尾根である。

私にはあと1つ、気にかけている場所がある。昭和61年刊「式見郷土史」163頁、陸上交通(三)往還の項に、次のとおり記述が出てくる。
(3)遠の木場道
間役所(現長崎市式見支所)門前より亥(北西)の方箱石峠を経て平山、畝刈村境塚まで二七町一七間(約三粁)牛馬の往来がよく坪山を下って遠の木場に至る。

これはその前(二)境目巡検に、「永禄六(一五六三)年櫁越前守は馬で家従源左ヱ門を随え、領中の境目をことごとく巡検した記録がある。領内の部落から部落への里道や、村境を明確にするための境界道などは、当時、既に開発されていたものと考えられる」とあるとおり、永禄6年(1563)の記録で、遠の木場道に「畝刈村境塚」なるものがあったというのである。

このあたりは、滑石トンネルを抜けて矢筈岳に登る山道があったが、「あぐりの丘」への取り付け道路が次々にできてわかりにくくなっている。しかし、一度は出かけて「境塚」が残っていないか調べてみたい。この参考に岩屋山の尾根に見た境塚と思われるものがなるようである。

新小が倉と小ヶ倉にある「従是南佐嘉領」の藩境石

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新小が倉と小ヶ倉にある「従是南佐嘉領」の藩境石

長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」平成16年の97頁による説明は次のとおりである。

125 領境石・従是南佐嘉領(所在地:新小が倉1丁目1番25号)
126 領境石・従是南佐嘉領(所在地:小ヶ倉町1丁目62番地)
佐賀藩の領境石で、これらの石碑の南側は佐賀藩(深堀鍋島家)領であった。深堀鍋島家は、建長7年(1255)戸町浦の地頭として下向した深堀能仲を祖とし、以来、この地を領したが、江戸時代の18代純賢は、佐賀藩の家臣となり、鍋島茂宅と改名した。以来、同家は6000石を領し、佐賀藩の家老職を代々勤め、幕末・維新に至った。

(注)
125の標石は、小が倉バイパス「新戸町団地」バス停から入ったところにある。「みさき道」の道筋となり、原田パイプ工作所の角に建っている。
なお、この標石は昭和49年12月刊、中尾正美編「鍋嶋藩深堀資料集成」の巻頭頁に当時の写真があるので転載した。昭和58年刊、古賀敏朗著「くにざかいの碑ー藩境石物語」によると小ヶ倉バイパスの工事中、ショベルカーが掘り起こした新聞記事を紹介しているが、そんな乱暴な工事をしたのだろうか。小ヶ倉の年配の人は、標石の存在と位置を覚えており、位置はそんな動いてないと聞いている。

126の標石は、女神海岸通りの「白崎」バス停から小峰商店脇の坂段を登りつめた松尾満平方の石垣に埋め込まれてある。
(画像は、雨後で石垣から水が浸たっているため黒くなっている)

いずれの標石も深堀・小ヶ倉方面への藩境の道筋にあり、別稿の記事「大久保山から戸町岳に残る藩境塚」で見たとおり、長崎歴史文化博物館の史料から、建立は天明7年(1787)ころと思われる。

三川町谷口宅庭にある「従是東北大村領」の藩境石

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三川町谷口宅庭にある「従是東北大村領」の藩境石

江越先生の平成18年7月12日実施、西山街道歴史散歩資料「大村藩殿様道 A(洗切〜川平〜西山口)」による説明は次のとおり。
三川町の谷口宅は、長崎バス「上の角」バス停近くである。

8 領 境 石
かつて天領長崎と大村藩領浦上木場村の境三組川内峠(西山台)には領境石が建てられていた。郷村記には「高さ五尺(1.5メートル)横七寸、安政5年(1858)に建て、従是東北大村領と銘にある。以前は木杭であった。」とある。
現在は、谷口家の庭に移設されている。谷口家の人の話によると、昭和30年ころ三川の区長だった仙右衛門さんが『おとしの峠』と言われるところから運んできたとのことである。
この『おとしの峠』の所在地が今ひとつはっきりしないが、谷口さんのお話によると、今のバス道路の最高点現川峠や仁田木場への分かれ道あたりであったという。しかし、領境石が郷村記記述のものと同じ物であるとすれば、明治以後に『おとしの峠』付近に移されたものとも考えられる。

なお、藤野保編「大村郷村記 第六巻」図書刊行会昭和57年刊の中「浦上木場村」237頁の記述は次のとおり。

(屏風岩や三組川内川を通り)同駕立場より三組川内峠長崎御料境傍爾石 高サ五尺、横七寸、安政五午年建之、此以前ハ杭なり、銘曰従是東北大村領 まて九町五拾弐間、此間上り坂にて、左右田畠・山なり、此所を三組川内峠と云、長崎越第一の難所なり、木場村往還道此所にて終る

長崎街道の藩境石  日見烏合場・中里役の行者神社・古賀庄屋屋敷跡

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長崎街道の藩境石  日見烏合場・中里役の行者神社・古賀庄屋屋敷跡

長崎街道は、長崎から小倉まで57里(228km)の道のりである。日見峠を越して市東部を行く天領・大村領・佐賀領が入り混じった長崎街道沿いに藩境石は多い。

日見・矢上境まで来ると、藩の怠慢が原因となったフェートン号事件で佐賀藩士16人が切腹したとも言われる腹切坂下の方の峠で、地名は烏合場(とろしば)と言う。まず、ここに藩境石がある。「従是北佐嘉領」「彼杵郡之内日見境」。設置場所を彫った珍しいものらしい。国道が拡幅されたため、「網場道」バス停から左道へ上ってしか行かれない。日見第3団地突き当りの道にこの標石はある。25cm角、高さ1.3m。
腹切坂はいろいろな説がある。「網場道」バス停近くに日見腹切坂史跡保存会が、平成14年国道工事により移設整備した碑の一角が由来とともにあったので紹介した。

番所・矢上を過ぎ、街道は長龍寺橋あたりから八郎川の右へ東町を行く。高速道のガードをくぐり、役の行者神社先は古賀との境であった。ここに「従是南佐嘉領」がある。24cm角、高さ1.5m。天領だった古賀村は、安政6年(1859)戸町村と交換されて大村領となっている。

中里町へ入ると街道をはずれて古賀村庄屋屋敷跡に「従是東北大村領」「従是南大村領」の2本の標石がある。和仁会病院正門側の登り口に当たり、左のコンクリート坂を松尾宅まで上ると、前庭に2本並べて建っている。場所はわかりにくい。案内板が必要なようだ。水害で移設され、もともとの場所は石垣下の道だったらしい。なぜ2本が近くに建てられたか。古賀敏朗著「くにざかいの碑—藩境石」(峠の会昭和58年)が詳しく推理されている。

後は諌早市となり、井樋尾のライオンズクラブ碑の傍らに「従是東佐嘉領」がある。水害でこれも50m位移設されているらしい。

外海出津・黒崎の藩境石と藩境塚

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外海出津・黒崎の藩境石と藩境塚

平成18年2月19日、川上君と柚の新種「ゆうこう」の木の分布調査を兼ねて訪れた。このあたりはほとんど大村領だが、佐賀領の飛地があちこち入り混じっていた。

藩境石は2つ見た。先ず西出津町の外海歴史民俗資料館前庭にあるのは、正面「従是下川側舫塚迄川中境」右面「東北大村領」左面「西南佐嘉領」裏面「自此塚川中境迄四間壹尺四寸」。24cm角、高さ1.23m。上部は四角錘である。
次にド・ロ神父記念館庭にあるのは、正面「従是南佐嘉領」裏面「川中境迄貮間貮寸」。形状は同じである。

両藩が築いた「下川側舫塚」(もやいづか)なるものを探してみたいが、出津大橋が架かる前、旧バス道が出津川を渡る地点に建っていたと思われる。資料館等の下の谷間らしいが、地元自体、この石柱をどこからいつ頃持ってきたか、もはや正確に知っている人はいなく、樫山の場合と全く同じような状況となっていた。

藤野保編「大村郷村記」第六巻(昭和57年図書刊行会)100頁、黒崎村の「当領佐嘉領大塚并傍爾石之事」の記録によれば、この銘文は「内平川」に建ってたものだが、年月は不明である。同村記は黒崎村にあと12本の藩境石を記録している。建てるのも大変だが、探すのも大変だ。

藩境塚は、新牧野町カリタス外海診療所の丘南下の尾根に残っていた。3基見られ川上君が以前の執念の踏査によって見つけており、連れて行ってもらって確認した。地元もほとんど知らないのではないか。外海こども博物館の先生も間違いなく藩境塚であると後日、確認してくれた。
他に黒崎の枯松神社墓地先や子捨崎の上尾根へ行ったが、成果はなかった。

大久保山から戸町岳に残る天明藩境石塚の調査

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大久保山から戸町岳に残る天明藩境石塚の調査

長崎県立長崎図書館(現在は長崎歴史文化博物館に移管)の古記録によると、佐嘉領小ヶ倉村と大村領戸町村の藩境紛争が天明七年(1787)に解決し、大久保山と戸町岳の間に69の塚を築き、道路が藩境を通過する地点の塚の上に境石を建てている。

「従是南佐嘉領」と刻んだ形のよい藩境石の標石は、新戸町団地バス停近くと白崎バス停上に2本あることは知られていたが、大久保山から戸町岳にかけて築いた69の藩境塚の存在はこれまで知られず、調査が行なわれていなかった。

これは、古賀敏朗著「くにざかいの碑」(1983年峠の会 福岡)のある記述と、御境絵図から藩境となる両方の山の尾根を踏査し、まだ藩境塚33基が現存していたことを確認した平成17年春の調査記録である。(画像は、一部松林氏協力)

(2014年9月4日 追 記)
大村郷村記「戸町村」分が、2014年発刊されている。大村市立史料館へ照会したところ、戸町村と小ヶ倉村境の塚について、「一、佐嘉領境三國境ゟ小ヶ倉迄、先年ゟ論所之處、天明六午年熟談 論所差分相極、同七年塚築立、同八年膀示石建」という記述があるとわかった。

追加の2図は、入江氏作成。「地図上に藩境塚と思われる地点に赤い点を付けました。小ヶ倉村古地図からは、写真の解像度の問題から、これ以上判断できませんでした。赤い点が小さいので見にくいと思いますが、ビューワーで拡大して御覧下さい。現地調査される際はGPSを活用されると良いと思います。」ということである。

大村郷村記の三重東樫山「藩境石塚」の存在を確認

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大村郷村記の三重東樫山「藩境石塚」の存在を確認

「みさき道」の調査仲間で友人である川上正徳君が、峠の会(福岡)昭和58年発行の古賀敏朗著『くにざかいの碑—藩境石物語』の本で知り、調べていた。本の著者が地元樫山の人へ聞いてもどうしてもわからず、実見できなかった石である。
大村郷村記三重村144頁に「佐賀領境傍爾石之事」として藩境銘のある大塚の石2、その他大塚、建石(竪石)を相当数建てた記録があるのに、地元で存在が確認されていないことは不思議なことであった。著者は茫漠とした「竪石」がどんなものか気になっていたようだ。

川上君が、長崎県立長崎図書館で御境・石塚位置の古地図をデジカメ写真に撮って見当をつけており、平成17年9月と10月の2日間、同行して調査した。現実に何の苦労もなく、偶然に見つかったのは幸運としか言いようがない。
三重崎の突端海岸部の山中に、境大塚が1基完全な姿で残り、あと2基ほど壊れたものがあった。竪石は赤岳頂上(標高118mの三角点)から北側の海岸断崖部に、列をなして完全なのが3基確認された。後日また行くと列の崩れたのが、頂上直下の北側下りに7基ほど確認された。
「竪石」とは単なる平たい少し大きめな自然石を、藩境線の地上に間隔を置いて埋めたものであった。

櫻の首白眼に建てられた銘のある大塚「従是 東北大村領 西南佐嘉領」は、三重リハビリセンター事務局長木浦氏の記憶によって、東樫山町836番地新道宅前の空き地に放置されていたのが判明した。ここは樫山バス終点の奥にあたる。この路地が藩境だったと言われるが不明である。
三重崎の同大塚「従是 西北佐嘉領 東南大村領」は、同じく長崎市三重支所の玄関スロープ植え込みの中に移設されてあった。調査において「灯台もと暗し」はよくある。この石は支所に何の記録がなく、どうしてここにあるのか不明となっている。いきさつを地元でよく調査して、説明板をつけるなり、元の場所に戻した方が良いのではないだろうか。

藤田尾飛瀬海岸道に天保八年「領界目印石」2本見つかる

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藤田尾飛瀬海岸道に天保八年「領界目印石」2本見つかる

茂木町であった藤田尾名は、昔から為石村と日常生活のあらゆる面で関わりが深く、昭和22年茂木町と住民の懇願によって為石村に編入されている。

この茂木村ももともとは有馬領であった。その後秀吉によって収公された七ヵ村のひとつである。七ヵ村とは古賀・日見・茂木・樺島と、長崎港口の礼物徴収行為によって天正16年(1588)深堀領が没収された川原・高浜・野母の各村である。七ヵ村の支配は長崎代官などに分属した。一方、為石・蚊焼・御崎村は、佐賀藩深堀領のままである。

長崎半島の村はこうして、天領・佐賀藩・大村藩(戸町村は安政6年古賀村と交換されて天領となる)の入り組んだ支配となった。長年、もともと境界争いの絶えなかった地である。江戸後期になってその紛争が解決した幾例かを、三和町「三和町郷土誌」や平幸治氏「肥前国 深堀の歴史」が史料によって紹介している。

為石村と茂木村の村境については、藤田尾海岸の松の木が伐採されたことにより境界争いが再燃し、問題が生じた。平氏著書によれば「六〇年以前にも係争があり、、明和六年(1769)に双方で絵図面を取り替わし目印の塚まで築いたのに、再び領界争いとなったので、難航したのである。そして天保八年(1837)一二月になって、やっと解決をみた。その取り替わし証文によれば、獺越から浜辺まで双方の境に目印石を極め留りから三ッ瀬(為石では三ッ石と呼ぶ)見渡すところを境とする。また後年になって問題が再燃しないよう毎年一回双方の村役人が確認するというものであった」とある。

平成17年10月、私はふらりとこの海岸と尾根を探した。絵図面の様子と字図・現地図から目星をつけた。海岸は「飛瀬」という。為石から5分ほど、県道の「茂木まで16km」標識のあるすぐ先に、旧県道のカーブが海岸側に2つ残り、その2つ目から海岸に下る道があった。釣り人がよく利用している。

海岸へ下る尾根道の途中に、50mも行くとまず大きな境塚と思われる土盛りが1基残り、すぐ下の道路脇の大きな木の根元に、史料にある立派な「目印石」が建っていたのである。14cm角、高さ70cm位。上部は半円形。刻字はない。
釣り人は見ていただろうが、石柱の由緒はわからず、これは新しい発見と思われた。まさしく天保八年(1837)取替証文にある「目印石」であろうと判断した。

尾根の鼻にさらに100mくらい下るとあと1本、全く同じ石柱が建っていた。木立がなかったら橘湾の遠くまで見渡せる断崖上の道脇である。絵図面の海岸先端には「月(目)鏡岩」「飛瀬」「三ツ瀬」などの文字がある。海岸に降りると地形はそのとおりのようだったが、海岸の岩場一帯を探しても、他にこれというものは見あたらなかった。

帰りは県道に戻り、寺岳にかけての尾根を柴原まで探した。明らかな塚は残っていなかったが、それらしき石組みは少しあった。この上はすでに確認済みで、数基を見ている。

多良山系大花山の藩境塚 (1)

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多良山系大花山の藩境塚 (1) 平成18年12月

長崎・佐賀の県境となる多良山系の縦走路の線は、昔から佐賀(諫早)・大村藩領のせめぎ合いがあった。萱瀬ダム手前田下から五家原岳直下の横峰越までは、昭和44年国体コースとなり主に整備された。大花山はここにあり、富川渓谷から上がったりして、しゃくなげの群落を見ていた。

林先生著「長崎県の山歩き」を読んで、35年ぶりに昨年12月、会の行事を組んで行った。小川内渓谷はやまめ釣りや渓流遊びで、その後も数年かよっていたが、山に登ることはなかった。黒木小岳小屋辺りは、河川公園として整備され一新していた。

横峰越にやっと上がり、西へ小ピークを越え、大花山の方へと向かう。地籍調査の測量柱とともに、古めかしい石塚を6基ほどこの間に見た。上部に「+」を刻んだ古い石柱もあった。予定の鳥甲山は時間がなくなり、手前の峠から黒木へ下ったが、大花山の先には、塚は見られなかった。

後日調べた「大村郷村記 第二巻」萱瀬村の項181頁の記述は次のとおり。
「内三方境土器石より廣荷床一の塚まで四町弐拾壱間、境塚あり 塚数拾七、内壱ッ諫早領と大村領との最合塚と云 左右野なり、此間につるの岳と云ふ険阻の野岳あり」
地名の判断ができず、これかどうかわからないが、郡岳(野岳か)の西登山口近くでも見ている。大花山のも富川の方の尾根が藩境と思われ、一度尾根を歩いて調べてみたい。

長崎街道の鈴田峠から、大村に向かって右手に入ると、風観岳に上がれる。享保10年(1725)藩境石塚は、約30m間隔で三百数十基築かれたそうであるが、諌早西部のこの丘陵地帯に、60基ほど確認されている。詳しくはインターネットに、「今村川畔の藩境石」とともにある。

追 記: 2011年2月、宮さんが撮影した大花山の藩境塚写真は、次の(2)を参照。
https://misakimichi.com/archives/2558