投稿者「misakimichi」のアーカイブ

平谷越のモミ  佐賀県鹿島市平谷

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平谷越のモミ  佐賀県鹿島市平谷

萱瀬ダムから平谷黒木トンネルを抜けたところが、佐賀県鹿島市の平谷である。奥平谷キャンプ場から経ヶ岳(標高1075.7m)へ登る登山道がある。
馬の背まで約1時間、さらに20分ほどで、前の記事の「千年樫」(アカガシの老樹)に着く。
https://misakimichi.com/archives/2867

経ヶ岳の稜線「平谷越」までは、まだ25分ほどかかり金泉寺方面からの道と合う。「平谷越」へ出る途中、「千年樫」から10分ほど登ったあたりから、こぶのあるアカガシ、モミ大木、夫婦モミ、ヒメシャラなどを見る。
ひときわ大きいのは、登山道右下に見える上部で支幹が横に分かれたモミ。根元へ行ったら、幹囲5m、樹高25mほどあった。

枯れた白木の背後に見える高いピークが、経ヶ岳である。裏側から見ると、岩峰もこんな山だ。「平谷越」までは、まだロープを張った危険な岩場があった。奥平谷を13時30分出発、写真を撮りながらであったので、平谷越に15時45分着いた。
経ヶ岳まではあと20分かかる。日も暮れかかり、山頂往復はやめ、馬の背へ戻った。

馬の背には右へ下る「旧道歩道」の標識がある。駐車場がトンネル出口にあるため、平谷側に寄った「自然の館」へ出る旧道は、ほとんど利用されないが、渓谷沿いのなかなか良い道だった。
下ったところは、鹿島市「平谷郷土の森」。林内は多良岳山系に残された最後のケヤキの巨木群が自生している。自由に入林でき、案内図には樹齢200年とあった。「自然の館」にどの木か聞いてもわからなかった。

看板を国道側に出さないと、ここに「平谷郷土の森」があり、経ヶ岳の別ルート登山口であることがわからず、旧道は荒れる一方となるだろう。昔はこの道で登った記憶がかすかに甦った。

平谷越の千年樫  佐賀県鹿島市平谷

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平谷越の千年樫  佐賀県鹿島市平谷

鹿島市平谷温泉の記憶は、もう30年くらい前。龍頭泉から大野原へ上がり、春日越えして、道なき山の斜面を平谷へ下り、裸電球の湯で一泊。翌日、経ヶ岳へ登ったことが数回ある。
経ヶ岳へは急な登りできつかった思いが強く、このコースは敬遠気味だった。ひなびた温泉は新装され、有明海産の高級料理屋となった。

大村・鹿島間の国道444号が、1999年(平成11年)3月にでき、萱瀬ダムから平谷黒木トンネルを抜けると、平谷へはすぐ行ける。宮さんが先週、奥平谷から経ヶ岳へ登った。
「千年樫」と巨木の森を写している。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/28259539.html
あれ、そんな巨木があったかな。”さが名木100選”も、佐賀・長崎県境の名山「多良山系」の巨木調査が完全にもれていると思い、きょう確認に行った。

平谷黒木トンネルを出たところに、駐車場と奥平谷キャンプ場がある。ここが経ヶ岳登山口。馬の背まで約1時間。下山中の鹿島市立古枝小学校の子どもたちと会った。展望岩を過ぎ、あと「千年樫」まで20分ほど登る。
「千年樫」はアカガシの老樹だろう。幹囲4.5m、樹高12mほど。主幹は6mほどで折れ、中は空洞となって空が見えるが、左片枝が伸び葉は繁っていた。樹齢「千年」はオーバー過ぎる。

千年樫から平谷越まで、まだ25分はかかる。モミ・アカガシ・ヒメシャラなどの巨木地帯となったので、次の記事とする。

明治8年建「萩原峠越え」の古道標  長崎市長浦町

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明治8年建「萩原峠越え」の古道標  長崎市長浦町

琴海町教育委員会編「琴海町史」平成3年発行の148〜151頁は次のとおり。大子から手崎との間の往還道「萩原峠越え」について記している。掲載写真の「萩原峠越えの標識」(旧県道手崎川の上流1km地点)と「籠立石」(手崎への山中道大子側にある)を探しにきのう行った。琴海文化センターに場所はあらかじめ聞いた。

第九節 往 還 道

最寄り家との間には畠道、田の畦道道路あり、山間を分け入る近道もあったろう。この中にあって集落と集落を結ぶ主要幹線道路を往還道と呼んだ。現在の国道に匹敵する江戸期までの主要道であった。この道は、牛と人が通れば足りる道幅の三尺道路で足りた。路肩の両脇には雑草が生えて真ん中は地道、主要道たるの標識でもあった。…

大子から手崎へは無人地帯の山系を通った。「さやの首」と呼ばれる所に「籠立石」があって、現国道から2kmの西側山中に位置する。いよいよ萩原峠越えとなる。鬱蒼たる山中道は、約200mで手崎農道に出た。楠原や長浦岳が展望されて急に天地が開けた。農道は旧道の石垣を残して拡幅されており、東へ300m歩くと、ミカン収納庫がある。農道を離れて山中へ分け入ると、古道の面影を盛り土道に残している。横断する農道を3つほど横切り、畑中の古道を駆け下ってようやく手崎川に出た。これが「萩原峠越え」である。

「萩原峠越え」について、筆者(注:町史の執筆者 山口博氏)は父からよく聞かされた。明治36年の県道完成までの往還道。この道筋を通って、形上ムラ地区の子どもは、明治27年設置の長浦高等小学校へ往復した。1日に1足の草履を踏み潰したという、父祖が通った「萩原峠道」を辿るべく、筆者はついに手崎川の標識から登り上って、現在の手崎公民館道の農道の西方部に出た。これからが萩原峠越えであることは判明した。しかし、手崎から大子への道筋辿りの詳細は分からず、古道歩きは断念しつつも諦め得ずにいた。機会が巡ってきた。平成2年11月の婦人会(長岳峯子会長ら約20名)の史跡案内日のこと、同行の前会長佐木幸子が、大子の「籠立石」を知っているという。行事終了後、当地を自動車で案内していただいた。その節は日没時、ここが分かったらいつの日かと思いつつも時は過ぎていく。

執筆終了、帰阪の数日前の快晴日和、教委の神近正(昭和35年生)に依頼し、籠立石から手崎農道へ出る。手崎川沿いの坂本忠一宅付近に立つ「古道標」を目指すも不明。畑仕事中の手崎・山本喜市(大正6年生)に尋ねると、手を休め、古道の案内をしていただいた。こうして既述どおりの道筋で父祖の歩いた萩原峠を越えて手崎川に出ることができた。これで故郷史執筆終了の喝采感を得る。…

「萩原峠越えの標識」は、長浦バス停から手崎川へ向かい、左右岸の車道を1kmほど上流に行く。手崎川が角々に曲ったあたりに坂本宅がある。坂本宅入口と橋の間の右石垣上に古道標が立つ。
思ったより小さく、幅15cmほどの角柱、高さ50cm。正面「右 かめのうら かたがみ 道」、左面「左 山 道」と刻む。町史写真ではわからなかったが、右面に「明治八年 乙亥十一月 施主 佐木喜代作 濱口直左エ門 小林辰蔵 溝口共吉」?とあった。

この道が往還道だったと坂本氏に聞き、道標右の古道を登ってみた。藪道の尾根を200mほどで手崎農道上部へ出た。辺りはミカン山となっており、しばらく行って農道を離れて山中へ分け入ると、古道の面影を盛り土道に残した小山のピークに達した。ここが「萩原峠」だろうか。ピークの広場には大石が散乱していたが、写真の「籠立石」とは異なる。
ピークから大子側に古道を農道と最初に出合う所まで下った。あたり一帯を探しても、「籠立石」はわからず、往還道がこんなに高く迂回していることに驚いた。海岸部がそんなに険しかったのだろうか。私の場所と道間違いかも知れない。

手崎農道はグルグルとカーブしながら手崎へ下っていた。歩いてはまっすぐ下れる別の道がある。これが往還道のようでもあるが、手崎のどこへ続いて降りるのか、はっきりわからなかった。
なお、「大村郷村記」長浦村往還道筋の記録は次のとおり。古道標は設置年代から、この「傍爾石」ではない。

同手崎川より右の方形上道追分傍爾石まで壱町拾壱間、此間左右田・人家あり
同形上道追分傍爾石より萩原の辻まで七町四拾間、右田畠・人家・野、左畠野にて、此間上り坂あり
同萩原の辻よりさやの首まて四町弐拾壱間、此間左右畠野なり、長浦往還道此処にて終る

琴海地区の旧明治県道の一里標

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琴海地区の旧明治県道の一里標

琴海町教育委員会編「琴海町史」平成3年刊の597〜598頁は次のとおり。琴海町史は「一里塚」と記しているが、本ブログではほかの記事に合わせ、「一里標」として統一する。
「一里標」は「亀高村(現・西海市)では白似田の山中バス停付近」、「(現・長崎市琴海地区では)形上の内山家の藤の木の下(下半分は現存・写真付)、手崎の田添さん宅附近(三社大神参道入り口、現在の手崎公民館入り口付近)、戸根の川尻の山際、次は琴海高校の前」(大江・西川一夫談)に建っていたと記す。

四 旧県道の一里塚

旧県道は村松村は明治34年、長浦村・明治36年、長崎面高間の内海県道の完成は、明治
38年ごろであろう。この旧県道に一里塚が建立された。
これについて、村松小学校大正13年卒の梅園藤男は、「確か川尻といったと思うが、県道の曲り角のところに里程標がたっていた。”長崎へ六里、面高へ九里”と書かれていた」(昭和53年刊『村松小一世紀の歩み』)から判じて、一里塚は明治末期にに建てられたのではあるまいか。県道完成の祝賀碑といえよう。

一里塚は「亀高村では白似田の山中バス停付近、形上の内山家の藤の木の下(下半分は現存)、手崎の田添さん宅附近(三社大神参道入り口、現在の手崎公民館入り口付近)、戸根の川尻の山際、次は琴海高校の前」(大江・西川一夫談)に建っていた由。西川一夫は筆者と幼友達、一里塚所在を電話で尋ねると、反射的な返事「オレは、長崎までよく歩いたから知っている」には驚嘆した。

当時、よく歩いたにも驚嘆したが、今は歩こうにも歩けない。自家用車あり、トラックあり、バスありの自動車地獄となった。手崎から大子まで家並みなき2km間を、歩いている人を見ることはできない現状にある。もし国道の歩道部を歩いたと仮定したら、形上内山家から長崎への八里は、六里に短縮されているに違いない。琴海町域で各里道へ入るとするなら、昔も今も県道、国道経由で里道へ入った。里道が村道に指定され、村政からの補助金が出るようになったのは、長浦、村松両村とも、大正3年ごろからと思われるが、史料を欠く。

このうち、西海市亀岳「白似田の山中バス停付近」は現存。次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/2383

今回、琴海町史でわかったのは、琴海地区の「形上の内山家の藤の木の下」で、写真のとおり下半分が現存する。場所は、形上近く「大子小浦」バス停から小川沿いに右に入る。「株式会社平田形上工場」の裏側へ回る小道が旧明治県道。石祠を過ぎしばらく行くと、内山宅入口先の草の茂みの中に折れた標石がある。
折れた上半分は所在不明らしい。現存する下半分の刻字は、「里」「長崎縣」?の2面が読める。「琴海町史」交通の発達590頁が、次のとおりこの標石を詳しく記していた。

⑪形上地区  現在の「吉野浦」バス停から県道は海岸沿いに迂回していた。そこには衆議院議員中村不二男の豪邸があった。それを過ぎると大子との界をなす形上の内山家、この内山家の所に楠の木と藤の木があった。ここは夏の憩い場であり、その下に一里塚の標柱が立っていた(597ページ写真参照)。
高さ1mほどの角柱「正面の下部に”長崎縣”、右側面の上部に”長崎へ八里”、左側面上部に”面高へ七里”」とあった。現在は露出部45cmが残って、正面の”長崎縣”のみが現存、左右は”里”のみを残し、上半分は折れている。思えば18cmの角柱、約1mの標柱であった。…

琴海地区のほかの3箇所も、現地一帯を念のため探したが、標石は見当らなかった。「戸根の川尻の山際」とは、山田GS手前の「パチンコサンライズ琴海店」あたりとなるらしい。戸根川の河口である。(琴海戸根町自證寺前・辻光雄氏の話)

長崎の西空の夕日  11−07

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長崎の西空の夕日  11−07

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成23年 7月11日の19時19分頃
写真  4      平成23年 7月17日の19時34分頃
写真  5〜 6  平成23年 7月27日の19時45分頃
写真  7〜10  平成23年 8月 1日の19時17分頃

自然石によるアーチ式石橋「乙女橋」が完成 (2)  八郎岳山系の沢

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自然石によるアーチ式石橋「乙女橋」が完成 (2)  八郎岳山系の沢

自然石によるアーチ式石橋「乙女橋」は、きのう完成した。長崎市平山町の長崎市民農園前を通り、「千々峠」(乙女峠)登山道入口まで車で行き、歩いて400歩で現地の沢に着く。
きのうの様子は(1)に。 https://misakimichi.com/archives/2862

宮さんはきのう午前中で帰り、石橋の完成を見ていないので、きょうも有志5人で、お神酒まきに現地へ行った。飛び石をきちんとし、残った丸太でベンチを作リたい。焼き鳥・から揚げ・巻き寿司・冷やしソーメン・缶ビールを用意し、沢へ納涼に行った。

できあがった飛び石と、丸太のベンチは写真のとおり。きょうは夫婦の登山者が1組通りかかり、石橋を珍しそうに見ていった。
宮さんの参加記事は、  http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/28280083.html

自然石によるアーチ式石橋「乙女橋」が完成 (1)  八郎岳山系の沢

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自然石によるアーチ式石橋「乙女橋」が完成 (1)  八郎岳山系の沢

長崎市平山町の長崎市民農園奥の谷間に、「千々峠」(乙女峠)登山道入口がある。200mほど登ると八郎岳(標高590m)から流れる1つの沢を渡る。小滝の渕尻を飛び石で渡っているが、増水時に渡りきれないときがある。
昨年夏、ここに自然石によるアーチ式石橋の架橋実験をしたが、あえなく落下した。
その様子は次に。  https://misakimichi.com/archives/2428

本年も夏となり、きょう再挑戦。みさき道歩会の例会で参加4人。現地に置いていた間伐材丸太は、腐ってなくそのまま使え、石も特別に川原から調達の必要がなかった。昨年の経験があり、石を慎重に積んでいく。作業は順調に進み、午後2時頃におおかた完成した。
アーチが持つか、丸太を慎重に上から1本ずつ抜く。見事に自然石によるアーチ式石橋「乙女橋」が完成した。

すべて現地調達の工法。実験石橋なので、もちろん人が渡れるような橋ではない。石が小さく、要石も完全な石が現地で見つからなかった。アーチが浮いて、写真を1枚でも撮れれば、私には満足なできばえである。
人手を多くし、大きな材石を使うと、人が渡れる石橋を造れる自信が、皆にできたことと思う。
橋名は乙女峠から「乙女橋」。橋長1.7m、橋幅0.7m位。見るからに貧弱な造りで危険。渡る人はいないだろうが、「実験石橋 危険 通行不可」の標識を付けてきた。

宮さんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/28274625.html
宮さんは夜勤明け。眠たく12時に帰った。橋の完成を知らない。2日目は不要となった。

巨石の民家? 長崎市琴海戸根町

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巨石の民家? 長崎市琴海戸根町

国道206号線、長崎市琴海戸根町の中央幼稚園から左折、100mほど行く。田んぼの右に巨石に囲まれた民家が見える。近くのイチョウ大木も、大きく葉を揺らしていた。
琴海町教育委員会編「琴海町史」平成3年発行の1152頁は、次のとおり。

庭に巨石ある民家(戸根)

高さ、長さ、ともに約6m、幅4mの巨石が庭の一隅にあって、古い民家が建つ。戦中には一斗笊笥(そうけ)10杯分のバッチを干したという。…
(「バッチ」は方言。干し芋、カンコロのこと)

長与町の主な史跡など (5)  三根郷・平木場郷・本川内郷

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長与町の主な史跡など (5)  三根郷・平木場郷・本川内郷

長与町の主な史跡などの説明は、平成15年ふるさと長与研究会編「ながよふるさとカルタ解説書」HPから。詳しくは、長与町教育委員会編「長与町郷土誌」平成6年発行や、長与町役場HP「観光・文化」の項にある。
http://www.nagayo.jp/kurashi/kyoiku/main_6_11.html   
http://www.nagayo.jp/kbs/index.html

写真  1〜 2   1 夫婦木(みょうとぎ)と人柱の伝説(三根郷)

洗切小手前、川平へ抜ける「小原」交差点付近。JR線路との間の田んぼの中に榎の塚がある。
(長与町郷土誌 上巻 261〜262頁)
長崎バス小原停留所よりほど近いところ、県道と鉄道との間に広がる田んぼの中に、わずかに土を盛り上げた塚があり、そこに枝を広げた一本の榎が立っている。地名は三根の小原というところ。近くを長与川が横切っていて堰が設けられている。…(以下略。洪水が多い地域で昔、治水工事のとき人柱が「夫婦者じゃったろう」という言い伝えがある)

写真  3〜 4   2 上長与地区公民館の温泉とセンダン(平木場郷)

川平へ抜ける「小原」交差点から右折。すぐ左の橋を渡ると上長与地区公民館がある。洗切小学校跡地。旧清水温泉がここに引かれ、センダンの大木がある。
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2853
もう一度 入ってみたい 平木場の湯
むかしから、平木場には、どい水道温泉という冷泉が沸いています。その冷泉は、かさやできもの、それにきりきずといったけがや病気に効能があると言われていました。それで、今でもその水を沸かして、風呂の湯にしています。たとえば、上長与公民館では、浴場を設けており、その湯を使用しています。
(長与町郷土誌 上巻 43頁)
センダン(センダン科) 平木場郷  胸高周囲・332cm、樹高・17m
県下では福江市(五島市?)玉之浦に次いで大きなセンダンで、台風で枝の一部が折れ、樹勢はやや衰えている。

写真  5〜 7   3 洗切陣屋跡(継場跡)(平木場郷)

洗切小手前「洗切」バス停から右の旧道へ入る。すぐ「継ぎ場跡」碑と石垣が残る。
らくですね みんなが休んだ 平木場の継場
平木場郷洗切のパス停近くには、洗切陣屋跡の石がきが今ものこっています。ここは、今からおよそ五百年から六百年前の「武士の世の中」の時代に、役人や大名などが、旅のとちゅうにひと休みして、馬やわらじをかえたり、水を飲んだりしていたところです。

写真  8〜 9   4 首石集落のホルトノキ(本川内郷)

松ノ頭峠への途中、大越公園の所から右急坂を上がる。集落内にホルトノキの巨樹がある。
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2852
(長与町郷土誌 上巻 42頁)
センダン(センダン科) 平木場郷  胸高周囲・332cm、樹高・17m
県下では福江市(五島市?)玉之浦に次いで大きなセンダンで、台風で枝の一部が折れ、樹勢はやや衰えている。

写真 10〜12   5 大越の一里松(本川内郷)

松ノ頭峠への途中、大越公園カーブの所に馬頭観音がある。ここから大越集落へ下る車道が旧街道の道か。一里松(一里塚)はこの辺りにあったと思われる。
(長与町郷土誌 上巻 628頁)
①松の頭峠〜②一里松
松の頭峠は切通されて低くなっている。ここから②までは急傾斜の雑木林だった。大越部落の住人、中島氏の祖先は殿様がとおる時枝を支えて通行し易くしたという。今はミカン園となって旧道の面影がない。大越の東南、斜面の中腹に一本杉が立っている。ここには以前松が生えており、一里松と呼んでいたので一里塚はこれか。 (中島敏昭氏談)
「殿様道の一本杉」の写真は、下巻459頁から

写真 13      6 長与ダム(本川内郷)

(長与町郷土誌 下巻 213頁)
本川内郷に「長与ダム」が完成し、竣工式や祝賀式が行われたのは、昭和60年(1985)11月15日であった。長崎県が、長与川総合開発事業の一環として、昭和48年度に実地調査を開始して以来、実に13年の歳月と、約48億円の巨額の費用を投じて建設したものである。…
このダムは、堤高36m、堤頂の長さ171m、総貯水量60万t、多目的ダムとして治水、かんがい、水道用水の取水などの役目を担い、町発展の礎となるもので、その完成は全町民の大きな喜びであった。…

写真 14      7 扇塚峠(本川内郷)

扇塚峠は、琴の尾岳と丸田岳の鞍部の峠。本川内郷長与ダムや岡郷舟津橋近くなどから琴の尾岳遊歩道(車道)が登っている。
扇塚 この山登ると「おー、きつか。」
あるとき、扇塚から伊木力よりの道を通りかけた二人の武士が、ふとしたことから口論を始め、とうとう刀を抜いての果たし合いになりました。一人は深い傷を負い扇塚から佐敷川内の方へ逃れましたが、途中ばったり倒れ、そのまま息絶えてしまいました。
その武士か逃げる途中、腰に差していた鉄扇を落としたところに塚を建てて供養したので「扇塚」という地名になったそうです。

写真 15〜17   8 琴の尾岳(本川内郷)

県道33号により松ノ頭トンネル入口まで上がる。琴の尾岳山頂まで行く車道へ左折する。
よいながめ 弁当持って 琴の尾岳
琴の尾岳は、四百五十一メートルの高さの山です。山頂からは、大村湾が見下ろせ、雲仙、多良岳、西彼半島、長崎市街と雄大な景色が広がります。山頂には、展望台や広場が整備され、車で行けるところもあって、休日には家族連れでにぎわいます。
頂上から少し下ったところには、江戸時代に長崎の異変を大村藩へ知らせたのろし台の跡があります。近くにはNTTのパラボラアンテナがあり、現在でも重要な情報の中継基地になっています。

写真 18〜20   9 琴の尾岳の烽火台跡(諫早市多良見町)

琴の尾岳の烽火台跡は、諫早市多良見町の町域に入るが2箇所ある。参考のため載せる。
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/293
https://misakimichi.com/archives/306

長与町の主な史跡など (4)  岡 郷

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長与町の主な史跡など (4)  岡 郷

長与町の主な史跡などの説明は、平成15年ふるさと長与研究会編「ながよふるさとカルタ解説書」HPから。詳しくは、長与町教育委員会編「長与町郷土誌」平成6年発行や、長与町役場HP「観光・文化」の項にある。
http://www.nagayo.jp/kurashi/kyoiku/main_6_11.html   
http://www.nagayo.jp/kbs/index.html

写真  1〜 5   1 前田川内付近の石橋群(岡郷)

岡郷前田川内は、長与総合公園奥の集落。浜崎バス停から右折し、国道207号の旧道を行く。「長与町郷土誌」に記録は見当たらないようだが、この一帯にアーチ式石橋が5橋残っている。
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/628
https://misakimichi.com/archives/2855

写真(1) 前田川内付近アーチ式石橋所在地図
(2) 四釜橋
(3) 四釜橋上流の橋(今回、新しく見つかった)
(4) おこ川橋上流の橋
(5) 旧国道の現役の橋
(6) 旧国道の現役の橋上流の橋(今回、新しく見つかった)

写真  7〜13   2 前田川内洞穴(岡郷)

前田川内溜池から見ると、洞穴は右方の小さい谷間。細い山道を谷づたいに200mほど登った山林中にあるが、山道は入口が畑と藪でわかりにくい。舟津橋先「琴の尾岳遊歩道」(車道)を七曲がり上まで登り、尾根を少し伝って石塔がある所から谷間の洞穴へ下れる。

(長与町郷土誌 上巻 324〜335頁)
(五) 前田川内洞穴
前田川内洞穴は、町内を代表する縄文時代遺跡で、町内唯一の洞穴遺跡である。(「第22図 周辺地形図」、「第23図 近景」も同郷土誌から)
遺跡の立地
長与町岡郷字丸尾にある。長与町の北部、前田川内の集落を奥に入り、前田川内溜池から細い山道を谷づたいに200mほど登った山林中にある。標高51〜54m。現在は、山道は雑草や竹におおわれ歩きにくい。琴ノ尾岳から西へのびた尾根の北斜面に当り、北へ開いた谷の奥である。高さ10m余の崖をつくる三塊の巨岩があり、その崖下に生じた洞穴である。安山岩質の凝灰質角礫岩は侵食に弱く、町内では稗ノ岳など特徴的な侵食地形をつくっている。
この洞穴も、凝灰質角礫岩よりなり、垂直に発達した崖に亀裂や崩落が生じ、洞穴が生じたと予想される。岩塊と森林に囲まれて昼間でも暗く、恵まれた立地条件とは思えないが、水は豊かである。
洞の平面形は袋状をなし、現在の雨だれラインから4mほどの奥行きがある。堆積土もあって調査時の開口部の高さは60cm、奥で1m20cmほどあった。
調 査(略)
出土遺物(略)
特 色
…前田川内洞穴は、洞穴遺跡としては長崎県南部で数少ない例のひとつで、大村湾南岸では唯一の洞穴遺跡ということができる。第Ⅲ層が遺物を含む土層で、縄文時代早期(押型文土器)だけの短い間の利用にとどまっているが、住居として利用されていたことはまちがいない。…

写真 14〜16   3 穴 岩(岡郷)

岡郷中通集落の旧国道「おこ川橋」手前から、琴の尾岳方面を写した。山腹の岩が「穴岩」だが、今はここから穴は見えない。「岡」バス停から「琴の尾岳遊歩道」車道へ入る。最後の人家から右折、急な農道を岩の近くまで上がる。岩の下部にやっと丸い穴が確認できた。かなり大きい。
「穴岩」は、前項の洞穴遺跡とは別の岩である。

「郷村記」には、「此の向ふの岩面に洞穴あり、鬼の穴と云」と記している。(長与町郷土誌上巻
631頁「毘沙門越時津通道筋」を参照)
目の前で 「オーラオーラ」と 穴岩の声
長与町岡郷の中通りを過ぎていくと、右側の山の中ぐらいの所に、まんまるい穴が見えてきます。夜、その穴の下で、「オーラオーラ」と叫んで、かしわ手を「パン、パン」と打つと何か恐ろしいものがその穴を出たり、入ったりするのが見えるそうです。

写真 17〜19   4 堂崎遺跡(岡郷)

長与町及び県内を代表する旧石器時代遺跡。岡郷堂崎にある。幅350〜400m、長さ約1kmの小半島。周囲は、高さ10mほどの海食崖が発達している。景勝の地。遺物は半島の北半部に広く分布している。
歴史を 教える 堂崎遺跡
岡郷の堂崎遺跡からは、石で作った道具がたくさんほりだされました。このことから、ここでは大むかし−万年ぐらい前(じょうもん時代ごろ)の人々が、魚をとったり、かりをしたりしてくらしていたことかわかります。