投稿者「misakimichi」のアーカイブ

長与町の主な史跡など (3)  斉藤郷・岡郷

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長与町の主な史跡など (3)  斉藤郷・岡郷

長与町の主な史跡などの説明は、平成15年ふるさと長与研究会編「ながよふるさとカルタ解説書」HPから。詳しくは、長与町教育委員会編「長与町郷土誌」平成6年発行や、長与町役場HP「観光・文化」の項にある。
http://www.nagayo.jp/kurashi/kyoiku/main_6_11.html   
http://www.nagayo.jp/kbs/index.html

写真  1〜 3   1 長畠山法妙寺(斉藤郷)

長与川河口付近、時津へ行く国道207号沿いにある。斉藤郷「寺の下」バス停がある。
年こしの かねの音ひぴく 法妙寺
法妙寺は、一六二七年に大村純信により建てられました。法妙寺が建てられるおよそ六十年前は、大村純忠によりキリスト教が広まっていましたが、その後禁止されるようになり、キリスト教徒ではない証明と、人々に仏教を広めるために法妙寺は、建てられました。
法妙寺本堂に祭られているのは加藤清正像で、大村純忠の子、喜前(よしあき)と互いに助け合った縁があるそうです。

写真  4〜 5   2 唾飲(つのみ)古城城跡(斉藤郷)

斉藤郷法妙寺の裏山、標高百十数メートルの山頂にあり、往時をしのばせる土塁や石垣がわずかに残っている。史跡説明板は法妙寺入口参道にある。
うめぽしの 声で落とした 唾飲城
斉藤郷法妙寺の裏山にあったとされる唾飲城の名前の由来は、今から約四百年ぐらい前(一五八六)、長与村の地頭長与太郎右衛門純−が、大村純忠と戦ったときのこと。浜城に立てこもった純一を攻める大村勢は、大変な喉の乾きに見舞われていました。
そのとき、攻め手の中に「梅干し、梅干し」と叫ぶ者がいて、みんな生唾を飲み込みながら浜城を攻め落としたことに由来します

写真  6〜 8   3 鶴乃港の煙突(斉藤郷)

長与川河口、舟津橋の少し上流左岸にある。造り酒屋は現在「広瀬酒屋」となっている。
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2850
えんとつが 大きい酒屋 鶴の港
広瀬酒店は、江戸時代から続いた造り酒屋です。広瀬酒店の酒は、長与の山の方から水を引いて裏の大きなたるの中にためておき、それを使ってつくっていました。
戦後、広瀬酒店で酒をつ<ることはな<なりましたが、今も長与川の川ばた(斉藤郷)に、大さな赤いレンガの煙突が見えます。

写真  9〜11   4 毘沙門天王(岡郷)

舟津橋先から「琴の尾岳遊歩道」(車道)があり、1kmほど登ったところにある。
(長与町郷土誌 上巻 219〜221頁)
岡郷佐敷川内にある。安永9年(1780)6月再建の記録があるが、それ以前の沿革は判明しない。毘沙門天は一名多門天ともよばれ、北方を守護し仏法に帰依した者を守る武神で、その霊力によって病気平癒や、ものごとを良く治めると信じられている神様で、日本では七福神の一つとして財宝富貴の神としても知られている。
「殿様道」と呼ばれる七曲がりの旧街道の急坂を登ると、古い鳥居と大・小の記念碑がある。…拝殿の奥の神殿の部分は岩窟となっている。『郷村記』には「石祠、岩窟の中にあり。神体立像石に切りつけ且岩座に鬼形切りつけ彩色あり」とあるが、この鬼形は今では見当たらない。… 

写真 12〜14   5 鍋石様(岡郷)

舟津橋先から「琴の尾岳遊歩道」(車道)があり、毘沙門天王を過ぎ、さらに900mほど登ると、「鍋石公園」分岐道がある。「古なべいしみち」と刻む石は毘沙門天王入口すぐ先の崖にあった。
ぬったなら できもの治す 鍋石の水
鍋石さまとは、岡郷側から扇塚公園へ行くと中の鍋石公園にある、鍋のような形の大石のことです。いつも水がたまっています。昔、佐敷川内のサヨという女の子の体中に赤いぶつぶつができてしまったそうです。近所のおばあさんにすすめられて、鍋石さまにいつもたまっていた水を体中にぬりました。すると、二週間ほどできれいに治ったそうです。
それから、鍋石さまの水は皮ふ病にきくと言われるようになりました。できものが治ったらおとうふ十二丁をお供えするという言い伝えがあります。

長与町の主な史跡など (2)  丸田郷

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長与町の主な史跡など (2)  丸田郷

長与町の主な史跡などの説明は、平成15年ふるさと長与研究会編「ながよふるさとカルタ解説書」HPから。詳しくは、長与町教育委員会編「長与町郷土誌」平成6年発行や、長与町役場HP「観光・文化」の項にある。
http://www.nagayo.jp/kurashi/kyoiku/main_6_11.html   
http://www.nagayo.jp/kbs/index.html

写真  1〜 3   1 中尾古城跡(丸田郷)

丸田郷中尾の標高90mの丘陵にある。一帯は「中尾城公園」となっている。
地域の オアシス 中尾城公園
昔の山城のあとに作られた、地域のみんなが楽しめる公園です。公園のシンボルでもある赤いエアロフリッジからすべりおりる高さ二十六mのスパイラルスライダーや長さ五十二mの草スキー場などで遊ぶことができます。春には桜がきれいに咲き、花見にはぴったりの場所です。
公園の中には町民文化ホールや陶芸の館、展望台などもあります。

写真  4      2 中尾城公園に移築されている「百合野橋」(丸田郷)

町民文化ホール駐車場奥に、道路拡張のため移築されたアーチ式石橋「百合野橋」がある。
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/628

写真  5〜 7   3 寺屋敷跡・五輪塔群(丸田郷)

昭和45年県指定史跡。丸田郷中の原にある。三菱丸田アパートの後ろ側。周りは住宅地。
昔を伝える 丸田の 五輪の塔
丸田郷の寺屋敷と呼ばれている畑の中に、ふるい五輪の塔があります。これは、今からおよそ五百から六百年前の「武士の世の中」に、長与をおさめていた人々のお墓だと考えられています。

写真  8      4 丸田温泉(丸田郷)

三菱丸田アパートの先にある。同地の素封家中山氏が経営していた。現在は町のセンター。
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2853 
(長与町郷土誌 下巻 73頁)
大正時代の丸田温泉
現在の老人福祉センター丸田荘は、大正のころは幽雅閑静な鉱泉場として遠くからも訪れる人が多く、人々に親しまれていた。
当時の新聞はこの情況を次のように伝えている。(大正11.9.18 東洋日の出新聞 略) 
なお附近に三菱療養所があって鉱泉を利用して治療に用いた。

写真  9〜13   5 タンタン岩と屏風岩(丸田郷)

丸田谷の奥に見える岩。丸田岳山頂分岐から200m下る。登山路は、丸田谷、稗ノ岳、本川内など各方面からある。
(現地説明板)
雨が降った時、雨水のしたたり落ちる音がタンタンと聞こえることから、タンタン岩とという名が付けられたという説もある。
この岩体は、浸食に弱い火山カクレキ岩層が急な崖を形成している。今から200万年以前爆発した長崎火山の周辺部の位置しており、浸食や風化が著しいため、異様な景観を呈している。
ちなみにタンタン岩には怪物が現れて、村の若い者にお告げをしたという昔話もある。

写真 14〜17   6 丸田岳(338.9m)烽火台跡(丸田郷)

タンタン岩の上の山が丸田岳である。登山路は、丸田谷、稗ノ岳、本川内など各方面からある。
(現地説明板)
寛永15(西暦1639)年,長崎市の烽火山に烽火台が設けられ,長崎に異変があったとき,琴ノ尾岳→彼杵→高来の烽火台を経て太宰府へ伝えられた。
ここの烽火台は長崎から琴ノ尾岳への中継地として使われたものと推察される。
文化6(西暦1810)年「曇天で雲霧深き時分は分明に通じかねる」と申し出があり,それよりこれを止め飛脚をもって通じるようになった。

写真 18〜22   7 稗ノ岳(204m)(山頂は本川内郷)

緑ヶ丘団地の上に見える岩峰。団地奥から急な農道が「稗ノ岳神社」まで上がり、本川内へ通じる。山頂へはロープで登るが危険。現地説明板は丸田岳登山道の方へある。
(現地説明板)
ここの下方に大きな岩が3つそびえている。岩の上は約5坪くらいで松や草が生えている。
一番上の岩の下には石祠があり難聴に霊験あらたかであると信じられていることから「稗ノ岳神社」として祭られている。毎年4月15日が祭礼日である。
大昔はこの上を海水が乗り越えて岩の頂上に塩がたまっていたので「のりこし」とも呼ばれ岩体は輝石安山岩質の火山カクレキ岩で浸食に弱いため急な崖を形成し特異な景観をつくっている。…

長与町の主な史跡など (1)  高田郷・吉無田郷・嬉里郷

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長与町の主な史跡など (1)  高田郷・吉無田郷・嬉里郷

長与町の主な史跡などの説明は、平成15年ふるさと長与研究会編「ながよふるさとカルタ解説書」HPから。詳しくは、長与町教育委員会編「長与町郷土誌」平成6年発行や、長与町役場HP「観光・文化」の項にある。
http://www.nagayo.jp/kurashi/kyoiku/main_6_11.html   
http://www.nagayo.jp/kbs/index.html

写真  1〜 3   1 辻田白菜発祥之地碑(高田郷)

百合野橋を渡り、「ゆりの温泉」入口まで行く。左上の坂道角に石碑が建つ。
百合野で 生まれた 辻田白菜
辻田白菜は、明治時代に、百合野に住む辻田長治郎さんが、品種改良したものです。長治郎さんは、交通の不便だった百合野地区に道路を造りたいと思い、白菜を品種改良したのです。辻田白菜は、漬け物にするととてもおいしく、その評判は、九州地区から全国に広まりました。
それで得た資金をもとに、道路が造られ百合野地区の人々は、とても助かったそうです。

写真  4〜 6   2 道ノ尾温泉(高田郷)

道ノ尾交差点から浦上貯水池の方へ向かう。貯水池畔に道ノ尾温泉はある。
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2846
道ノ尾の 温泉王は 吉兵衛さん (「吉平」が正しい。以下同じ)
今から百年以上も昔の明台二年、道ノ尾に古田吉兵衛という人がいて、この人が温泉を掘り当てました。何年かすると、鉄道が通るようになり、道ノ尾にも駅が出来ました。でも、まだ思うようにお客さんが集まりません。なぜなら、駅から温泉まで八百メートルもあり、馬車などが通るような道が出来ていなかったからです。そこで、吉兵衛さんは、お金を出して道路を造りました。そして、道の王様と呼ばれるようになりました。

写真  7      3 長与インター入口近くの石橋(高田郷)

川平道路長与インター入口交差点の「洗濯工房」裏の川に壊れたアーチ式石橋が残る。
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/708

写真  8〜 9   4 三千隠の金山跡(高田郷)

日当尾で地元を知る人に聞くと、高田三千隠から日当尾の間や、女の都入口には金山がいくつかあった。郷土誌写真の「三千隠」洞穴は、現在、長崎高等技術専門校の用地となり、つぶれている。
(長与町郷土誌 下巻 57〜58頁)
…長与の金山祭 今19日午前11時長与村山下金山(礦主山下傳之助氏)に於て金山祭を執行する由(明治44.4.19 東洋日の出新聞)
右の新聞記事にどれほどの信頼性があるかわからないが、高田三千隠から日当尾の間に、洞窟のように掘ったところがある。これは金鉱があると称して資産家に出資させ、掘さく作業を行った跡である。金が出ないことは初めからわかっていて、工賃稼ぎのため掘ったものと言われている。…

写真 10〜12   5 長与焼古窯跡皿山(嬉里郷)

嬉里郷田尾にある。寺の下「法妙寺」の対面となるため、国道から寺参道と反対側の道に入る。
皿山に残る まぽろしの 三彩焼
長与やきは、今からおよそ三百四十年前(一六六七年)に、嬉里郷の皿山でやかれたのがはじまりで、百九十二年間続きました。皿山のかまでは、みんながふだん使う安いお皿や茶わんの長与やきと、おとの様にさし上げるほど高級な三さいやきの二種類のやき物がやかれたと言われています。皿山のかまあとには、今でも使われていたれんがが石がきにのこっています。

写真 13〜15   6 陶板墓碑(嬉里郷)

皿山から小道を下り、右方へ住宅地を行く。辻墓地が山手に見え、墓地中央に陶板墓碑。
(長与町郷土誌 上巻 555頁 コラム)
長与皿山から山一つ隔てた南側の谷間、辻というところに、陶器の碑銘板を四面にはめこんだ珍しい石塔がある。そこは渡辺家の墓である。その祖、渡辺作兵衛という人は弘化二年に皿山を再興した人。この陶器の銘板は皿山で焼いたものと思われる。墓碑面には宝暦四年、俗名尾古助右衛門ほか三名の戒名と俗名が読まれる。(もともと渡辺家の出自は波佐見の尾古家で、一時その姓を名乗っていたとのこと。)

写真 16〜18   7 さぬき屋敷(嬉里郷)

初代村長川添又右衛門の屋敷跡。長与小学校の裏側に残るが、無人となり荒廃しつつある。
(長与町郷土誌 上巻 18〜19頁 コラム)
初代村長 川添又右衛門
幕末から数えると30年以上も長与の村政をリードしていた川添又右衛門は大村藩士で、藩政当時は長与の手代の役を務めていた。祖先は讃岐(香川県)である。そのため自宅屋敷の一隅に金比羅社を建て、屋号を「さぬき」と称していた。村の人たちはここを「さぬき屋敷」と呼んだ。この家は現在も長与小学校の裏に残っている。…
明治になってからも、戸長、初代村長と歴任、明治25年に退任している。…彼の屋敷に祭られていた金比羅様は、現在斉藤郷樽津の金比羅神社に祭られている。

「四釜橋」と「旧国道の橋」上流でアーチ式石橋が見つかる  西彼杵郡長与町岡郷

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「四釜橋」と「旧国道の橋」上流でアーチ式石橋が見つかる  西彼杵郡長与町岡郷

長与町岡郷前田河内は、長与総合公園奥の集落。国道207号の旧道も長崎バスが通る。「前田河内」バス停から少し道を下ると「四釜橋」があり、新橋の脇にアーチ式石橋が残る。
上流は以前に調べたつもりだったが、きょう、縄文時代遺跡「前田河内洞穴」探索のため、この南谷間へ入った。洞穴はかなり上で、帰りは琴の尾岳遊歩道(車道)へ上がり、舟津へ下って、前田河内溜池へ戻った。

前田河内バス停から入った集落の奥の道で、この橋を見つけた。(写真 1〜 5)
だだっ広いコンクリートの道が斜めに川をまたぐ。「四釜橋」の上流150mほどの場所。内部を覗くと中央に小さなアーチ式石橋が残っていた。橋幅1.5m、径間1.44m、拱矢0.8m位。

次に「岡」バス停近くまで進む。「旧国道の現役の橋」がある。アーチ式石橋でまだ旧国道現役として活躍中。付近の地図を見ると、この川上流にも石橋がありそうなので、探してみた。わずか
100mも行かない上流に、アーチ式石橋が残っているのを見つけた。(写真 6〜10)
こちらも里道の小さな橋で、橋幅1.9m、径間1.1m、拱矢0.85m位。

場所は地図のとおり。歩いて良く調べないと気付かない。この一帯に残るアーチ式石橋は、これで5橋となった。「おこ川」は、上流の橋以外に見当たらない。
以前から見つかっていた3橋は、次を参照。https://misakimichi.com/archives/628

長与町には、このほか中尾城公園に移設されている「百合野橋」、川平道路長与インター入口の「洗濯工房」裏の川に壊れたアーチ式石橋が残る。

長与浦三景  堂崎鼻・ニ島・崎野鼻

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長与浦三景  堂崎鼻・ニ島・崎野鼻

長与町教育委員会編「長与町郷土誌 上巻」平成6年発行の533〜535頁に、「四、大村湾から眺めた長与浦」として掲載されている。長与の水辺を語る会が、勝手に選んだ「長与浦三景」。
長与浦の秀景を船めぐりして選んでいる。同三景をここでは陸(国道207号、堂崎鼻、鍋石公園途中)から撮影、カラーで紹介する。

1.岩の上にも三年、堂崎鼻で何思う!   (写真  1〜 3)
2.つきつはなれず、寄り添う二島!     (写真  4〜 6)
3.茜さす、悲哀のみさき崎野鼻!      (写真  7〜 8)

船津橋周辺や潮井崎公園も景色が良い。  (写真  9〜10)

『大村郷村記』長與村 嶋之事に見る「ニ島」
長与浦より一里十三町程北にあり、嶋二つあるゆえニ嶋の名あり、南の方嶋周廻六町五間、北の方嶋周廻四町八間、何れも松木立の嶋なり、この二つの嶋の間十七間程度、干潮の時は歩行にて通路自由なり、この嶋の前方は野嶋なりしに、中興松植立、今用山五段程あり、先年この嶋に畠を開きしに、何地ともなく数百疋の鼠群集して作物を喰荒し、生育せず、終に荒地となると云

長与町の温泉  長与町郷土誌から

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長与町の温泉  長与町郷土誌から

長与町教育委員会編「長与町郷土誌 上巻」平成6年発行の33〜35頁は、次のとおり。
昔に見つかった温泉で、24℃以下の冷泉。高田郷「道ノ尾温泉」、丸田郷「丸田温泉」、平木場郷「清水温泉」(現「憩いの湯」)について記している。
近年、ボーリングした温泉では、高田郷「ゆりの温泉」、岡郷「喜道庵」があるので、ついでに建物写真を載せる。

温泉について
長与町には、「道ノ尾温泉」、「清水温泉」、「丸田温泉」の3ヵ所があるが、どれも泉温が24℃以下の冷泉である。

1 道ノ尾温泉  (写真  1〜 2)
道ノ尾温泉は、明治初年、古田吉平氏により発見された、ラジウムを微量含有する冷泉である。明治2年に旅館業も始まり、現在では大久保泰助氏により「道ノ尾ラジウム温泉」として、経営されている。泉源の温度は24℃の冷鉱泉で、p.H7.6〜8の弱アルカリ性を示す。
道ノ尾温泉には、昭和初期の内務省東京衛生試験所の調査報告が残っている。それを要約すると「第三紀の凝灰岩より湧出す。泉温度24℃、湧出量は24時間で10.8トン。硫酸塩泉である。ラジウム含有量1.51マッヘ/ℓ」とある。
(成分分析値は略。以下同じ)
道ノ尾温泉の歴史は、次を参照。   https://misakimichi.com/archives/2846

2 丸田温泉   (写真  3〜 4   4は裏手のディーセンター「丸田荘」)
丸田温泉は、丸田郷351番地2にある。泉温18℃の冷鉱泉である。大正3年、長崎医科大教授、森永伊吉氏らにより泉質が調べられ、放射性物質を2.011×10‐10キュリー含むことが、確認されている。昭和58年、さびれかけていた丸田温泉は、長与町により買い上げられ、鉄筋2階建ての「老人福祉センター丸田荘」として生まれ変わった。
このとき調べられた、放射性物質であるラドン含有量は8.0×10‐10キューリー以下、これをマッヘ単位に換算すると、2.2マッヘ/ℓとなる。この温泉は、付近の方々はもとより、多くの町民から利用されるようになり、”復活した温泉”と言うことができよう。

3 清水温泉   (写真  5〜 6)
清水温泉は、旧洗切小学校付近の県道が川平と平木場へ分かれる三叉路のところにある。清水氏宅にあった鉱泉を呼んでおり、明治以来、第二次大戦中まで続いていた。最後の経営者が清水實氏である。戦後は温泉を廃業し、自宅で使用する程度であった。昭和55年4月、洗切小学校跡地に、上長与地区公民館が建てられた際、この泉源の水が引かれ、太陽熱とボイラーによって暖められ、公共温泉として復活したのである。泉源は、上長与地区公民館から200mほど上流の右岸にあり、現在は住宅の立ち並んだ裏の土手上に取水パイプがならんでいる。川床に降りると硫黄質(硫化水素H2.Sと思われる)の臭気を感ずることができる。
この温泉の泉質は、大正5年長崎県立病院薬剤部長の森川初三郎氏により調べられ、弱アルカリ性の炭酸泉とされている。この温泉も地域の人々はもちろん、上長与地区公民館でスポーツを楽しんだ人々にも、利用されている。
(注 「清水温泉」は、「憩いの湯(旧清水温泉)」と名称が変わっていた。入浴は、町内の人のみ。泉源の取水パイプの場所を探したが、わからなかった。清水宅は公民館手前の橋角にある)

〔近年、ボーリングした温泉〕

ゆりの温泉   (写真  7〜 8)

喜 道 庵    (写真  9〜10)

本川内郷のホルトノキ  西彼杵郡長与町本川内郷首石

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本川内郷のホルトノキ  西彼杵郡長与町本川内郷首石

長与町教育委員会編「長与町郷土誌 上巻」平成6年発行の42〜43頁は、次のとおり。「本川内郷のホルトノキ」は、全国上位の巨樹?なのに、郷土誌の記録を見落としていた。
首石は、本川内郷長与ダム対面の集落。松ノ頭峠への県道33号線の途中、大越公園の所から右手の急坂を上がる。集落内を通って行くと、すぐ木本宅先に長与町教育委員会表示板がある。「首石」という石があるのだろうか。調べ忘れた。

四 巨樹・名木

1.ホルトノキ(ホルトノキ科)    本川内郷首石、空き地
胸高周囲:472センチ、樹高:8メートル
長崎県環境部がまとめた『わが町の大樹コンクール報告書』によるとホルトノキの最も大きなものは佐世保市のもので、胸高周囲450センチある。長与町のものはそれよりも大きく、県下で最大のものである。根元は空洞になっており、樹齢が相当古いことがわかる。

2.センダン(センダン科)    平木場郷、上長与地区公民館
胸高周囲:322センチ、樹高:17メートル
県下では福江市玉之浦に次いで大きなセンダンで、台風で枝の一部が折れ、樹勢はやや衰えている。

3.クスノキ(クスノキ科)    斉藤郷寺の下、法妙寺
胸高周囲:445センチ、樹高:25メートル
クスノキの大木は各地で知られており、上記のものはクスノキとしてはそれほど大きくはないが、長与町では最大のものであるので記録しておく。

平木場郷、上長与地区公民館のセンダンは、次の記事を参照。最近の写真を最後に追加した。
https://misakimichi.com/archives/678
斉藤郷寺の下、法妙寺のクスノキは、今は境内に見当たらない。枯れて撤去されたか。

佐世保市のホルトノキや、福江市(五島市?)玉之浦のセンダンもどこのだろう。本ブログ巨樹・名木の項で紹介していない。

二重の虹撮った 長崎・南部の団地

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二重の虹撮った 長崎・南部の団地

朝日新聞長崎地域版2011年7月20日付の記事。18日午後7時半すぎ、台風6号の影響でにわか雨が降り、長崎・女の都の空で二重の虹を写している。
私もこの虹を、長崎市南部の団地、自宅から午後7時15分に撮っている。あわてて動画だったので、停止画像をこれ以上拡大できない。

名物煙突? 広瀬酒屋「鶴乃港」の煙突  長与町斉藤郷

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名物煙突? 広瀬酒屋「鶴乃港」の煙突  長与町斉藤郷

長与町教育委員会編「長与町郷土誌 上巻」平成6年発行の537〜538頁は、次のとおり。
店内展示の古写真は、昭和初期の頃らしい。店前に橋が架かっていた。郷土誌には「かつての広瀬酒屋(1990.9)」の写真がある。後ろの広い庭園跡に、おもしろい石があった。
最後の写真は、長与川河口の堰。広瀬酒屋前から少し上流にある。

名物!  鶴乃港の煙突

長与川の河口から舟津橋・新浦橋にかけての斉藤郷川端一帯、ここはごく最近まで昔ながらの舟津の風情を色濃く残していた。そのなかでも一きわ目立つのが、かつての造り酒屋だった広瀬酒屋の高いレンガの煙突と、古色蒼然とした大きな家屋であった。この家屋も寄る年なみには勝てず、最近新しく立て替ったが、赤い煙突は今も銘酒「鶴乃港」の名を掲げて悠然と立っている。
戦争中この煙突は特に目立つので、再三敵機の攻撃目標となり機銃弾を浴びたらしい。
長与川に影を写しながら、長与の今日の発展を感慨深く見つめているようだ。長与の名物の一つである。

川原木場の海岸岩場キャンプ  平成23年7月

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川原木場の海岸岩場キャンプ  平成23年7月

平成23年7月16日(土)快晴。午後3時集合。食料買出し後、17日(日)午前中まで、長崎市川原木場の海岸岩場でバーベキューキャンプ。参加6人。みさき道歩会の例会。
蛇紋岩の大岩があり、川が傍を流れるきれいな所である。昨年とおなじ海岸。今年は大型テントも持参した。朝日は島原半島の雲仙岳。9枚目の沖は樺島。

昨年の様子は、 https://misakimichi.com/archives/2401
宮さんの参加記事は、
(1日目)   http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/28192512.html
(2日目)   http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/28201370.html