投稿者「misakimichi」のアーカイブ

長与町に残るアーチ式石橋めぐり (1)  2014年2月

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長与町に残るアーチ式石橋めぐり (1)  2014年2月

2014年2月16日(日)晴。西彼杵郡長与町に残るアーチ式石橋めぐり。参加6人。みさき道歩会の例会。岡郷5橋、中尾城公園1橋、川平道路入口1橋を訪ねる。
(1)は午前、(2)は午後の写真。
岡郷下岡バス停10:25—旧国道現役の橋10:28—その上流小橋10:33—おこ川上流橋
10:45—四釜橋10:56—その上流橋11:05—舟津橋11:45—広瀬酒本舗煙突11:49(昼食)12:40—法妙寺12:53—長与焼古窯跡皿山13:02—中尾城公園14:03—ゆりの橋14:36—長与駅前—川平道路入口橋15:36—本木バス停15:55(徒歩距離 約12km)

大波止9:34発堂崎行乗車。長与町下岡バス停から歩き出す。総合公園後ろとなる旧国道へ入り岡郷に集中して残るアーチ式石橋5橋(旧国道現役の橋、その上流小橋、おこ川上流橋、四釜橋、その上流橋)をまず見学。地元の人や長与町教育委員会も、その存在はあまり知らない。町文化財に小さな石橋群として指定して良い。石橋の詳細と所在地図は、次を参照。
長与町に残るアーチ石橋  西彼杵郡長与町岡郷ほか
https://misakimichi.com/archives/628
岡郷「四釜橋」及び「旧国道の現役の橋」上流のアーチ式石橋
https://misakimichi.com/archives/2855

旧国道から舟津へ出る。途中の住宅地内の旧家、森宅庭で、同じ幹から下は紅、上は白と2段咲きした珍しい枝垂れ梅を見た。こんな品種があるのだろうか。ここにはガレージを利用した写真ギャラリーがあった。
舟津橋の対岸へ渡り、長与川沿いの車道を行くと、広瀬酒本舗の煉瓦煙突が立つ。「鶴乃港」の酒造元だった。長崎県のまちづくり景観資産に指定されている。「長与町郷土誌 上巻」による紹介は、次を参照。この釜跡は原爆被災者の救援炊き出しに活躍しているが、これも記録してほしい。古写真の右側木橋は、酒造りの水を対岸の山手から引いていた自前の橋という。
名物煙突? 広瀬酒屋「鶴乃港」の煙突  長与町斉藤郷
https://misakimichi.com/archives/2850
煙突の後ろの庭で昼食。以下、午後は(2)へ続く。

『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録 (2)

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『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録 (2)

前の記事、『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録(1)に続き、これはまた、たいへん示唆に富む解釈と感想の、貴重なご教示をいただいた。
「肥前国 深堀の歴史」著者。現在は芦屋市在住で、みさき道研究では「関寛斎 長崎在学日記」(北海道陸別町同資料館所蔵)の解読に、たいへん協力いただいたKT氏である。
私信内容は次のとおり。長崎の道教の寺「崇玄観」解明の手がかりとなるので、あえて公開させてもらった。

先日来の崇玄観論争、興味深く拝見しています。
拝見する限り、原田先生の御説は分が悪いように思えます。新聞記事にも「田上方面の山あいにあった」とあるのに、どうして先生は大浦椎の木町に比定されたのでしょうか。本日UPされた『先民伝』を読むかぎり田上にあったことは動かし難いと思います。

sat*mo*a*emo2*08さんの読み下しのとおり、
①(大江宏隆は)晩年田上に道観を構え<田上は奉行所の南にある>、真武廟を建てた。
②そこで修練をおこなった。
③享保11年に長崎に来た高学士但賢がその道観を崇玄と呼んだ。
④長崎奉行日下部丹波守が親しく崇玄観の三文字を書いて(大江に)与えた。
とあるので、「長崎の田上には、真武廟を持つ道観があった」ことはたしかのようです。

もちろん慶賀の絵に描かれていればベストですが、長崎に道観が存在したことを言うのに無理に慶賀の絵を結びつける必要はなさそうです。ましてみなさんが論証されたように比定地に疑問があるならなおさらではないかと思います。以下は蛇足です。

『先民伝』の在鎮正南は田上の位置についての注釈だと思います。鎮正南が鎮の正南なのか鎮正の南なのか、よくわかりませんが、国会図書館本は鎮正の南と読んでいます。つまり田上は長崎の南方だと注釈を付けているのではないでしょうか。
于は於と同じで、于田上で「田上に」と読むのだと思います。
以はもって。
〆に似たメは正しくは二画め突き抜けないで、シテの合字、「して」です。

事を奉して(奉じて)崎に在り、其の観を顔して崇玄と曰ふ、
「顔する」はよくわかりませんが、字書からすると扁額に書くことではないでしょうか。その道観を崇玄と呼んだという意味ではないでしょうか。
親はラと送り仮名があるので、「みずから」と読ませるようですが、「したしく」と読んでもいいと思います。(注 訂正したような線から「親テ」、つまり「したしみて」と読むこともできる、との解釈もあっています)
いずれにしろsat*mo*a*emo2*08さんが読み下しておられるとおりだと思います。

最後に、出家とその弟子さんが言われるように北の神様真武廟がどうして南にあったのかは疑問です。真武に関係する妙見さんでもあったのでしょうか。わかったら教えてください。

(追 記 2014年2月11日) 
次はKT氏から、解釈について追記です。稲佐山からの眺望図関係は、コメント内容から必要な絵図・写真を見てもらうため追加しました。

親の送り仮名はラともヲともテとも見えます。国会図書館HPを拡大してラと読みましたが、断定できません。「みずから」でも「したしみて」でも意味は同じだと思われます。
なお在鎮正南については、鎮正という言葉が字書になく、「鎮の正南に在り」と読むのかも知れません。いずれにしろ田上についての割注だと思います。真南ではないと思いますが。割注が三か所とも固有名詞に付いていると思うからです。

『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録 (1)

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『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録 (1)

以下は、sat*mo*a*emo2*08氏から、2月9日メールによるご教示である。『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録を、国立国会図書館デジタルコレクションから調べてくれた。
川原慶賀「長崎眺望」図において、同氏からは金比羅山や西山方面を描いた右側1枚の続きや、私たちが慶賀が描いたと推定した地点、現弥生町の長崎女子短大背後の標高240mピークから対象の山などとの位置関係を、現在の地形図へ線引きして確認するなど、たいへん協力いただいている。

長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述は、本ブログ次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/3909
「121 崇玄観  大江操軒が建てたが、廃絶歳久しく、その趾は不明である。〔長崎先民伝の操軒大江宏隆の項を引用してあるが略す〕」
これは、文化文政期の図絵執筆当時、長崎奉行の命を承った長崎聖堂助教の儒者ら編者が、「田上に崇玄観趾はすでに不明」とはっきり記している。〔 〕書きは現代語訳著丹羽漢吉先生が、先民伝引用の掲載は略したという注釈である。

Re: 報道センターNBCの特集

『先民伝』について「出家とその弟子」 様が述べられていたので、私も調べてみました。テレビ画像は『先民伝』の写本のようですが、木版本が国立国会図書館にありました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543340    コマ番号31〜32に書かれています(ズーム拡大)。以下書き下し文です。( )内は私が補いました。

大江宏隆(おおえ ひろたか)。字ハ意敬。操軒ト號ス。
(中略)
晩年自ラ道観ヲ(于)田上ニ構。鎮正ノ南在。真武廟ヲ建。修練ヲ以事ト為。享保丙午(享保11年
1726年)。高学士但賢(深見 有隣ふかみ ありちか1691年〜1773年)。字ハ松年。事ヲ奉メ崎ニ在。其観ノ顔メ崇玄ト曰。鎮台日下部博貞(くさかべ ひろさだ長崎奉行1717年〜1727年)。字ハ文如。丹波守。親テ崇玄観三字ヲ書以賜。後三年己酉(享保14年1729年)病卒。時年六十一。

メは〆で、…にして か? いくつかの文字の読みは判りませんが、これが問題の発端の文章です。最初に「出家とその弟子」 様は、その時点で原文を読まれた上で、慶賀の絵に関する原田氏の見解に疑問を感じ、「道人」様に調査依頼として問題提起されました。
原田氏は「鎮正の南に在り」という部分にこだわり過ぎて、真南にある丸尾神社と崇玄観を強引に結びつけておられるようです。『長崎名勝図絵』にも書かれているように、大江宏隆没後九十年を経て、志を継ぐ者も出ず、寂れて跡を留めぬこととなったと思われます。
慶賀の絵も『長崎名勝図絵』とほぼ同時期に描かれているようなので、絵には崇玄観が存在しないはずです。

NBCのニュースは独自取材も無く、長崎新聞記事に追随したことは明らかです。「道教の寺が長崎に!」ではなく「道教の寺が長崎に?」と断定していないところに、まだ救いがあります。
川原慶賀の絵は稲佐山からの絵も含めて、今から190年程前の長崎を描いた正確なパノラマの絵は全国的に評価されてしかるべきと思います。

NBC長崎放送「川原慶賀の風景画 道教の寺が長崎に?」

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NBC長崎放送「川原慶賀の風景画 道教の寺が長崎に?」

NBC長崎放送が、2014年2月6日午後6時15分からの”報道センターNBC”で、特集として「川原慶賀の風景画 道教の寺が長崎に?」を放送した。
この項の、本ブログや私たちの考えは、次を参照。
川原慶賀「長崎眺望」全図と、どこから描かれたか再考
https://misakimichi.com/archives/3911
川原慶賀「長崎港眺望図」は、どこから描かれたか
https://misakimichi.com/archives/3908
長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述
https://misakimichi.com/archives/3909

長崎新聞と長崎放送の報道姿勢は問題がある。放送内容の全部は紹介できないが、絵図と現在の写真の対比放送画面は載せたので、みなさんで考えてもらいたい。論理は全くの誤認があるだろう。正しい文献調査や現地調査を行った結果の発表となっていない。
長崎学はこれでよいのだろうか。ライデン博物館、椎の木町自治会、日本道教本部、中国メディアまで及んだニュースとなっている。高名な先生だけに、慎重な研究をくれぐれもお願いしたい。
テレビ画面は、著作権法で認められた範囲で引用し公開したつもりだが、誤りがあったら画像は削除したい。

「広助さんの丸山歴史散歩」による丸尾神社の解説は、次のとおり。
C-267:丸尾神社(まるおじんじゃ)
椎の木町14(旧 大浦元町/戸町村大浦郷)
この神社がある付近は起伏が激しく、ちょうど神社付近が尾っぽのように丸くせり出ている様子から丸尾という地名が誕生したものと考えられます。また、丸尾神社の創建は定かではありませんが、祭神は稲荷神で、鳥居に明治20年(1887)と刻されているところから、そのころに創建されたものと考えられます。また、創建後の大正9年(1920)に再建られ、境内に小さな祠が点在しているところから当時の厚い信仰の様子が伺えます。
〇御大典記念碑:昭和天皇即位記念に昭和3年(1928)に建立。

八郎岳登山口の登山者用駐車場などの整備と、手造りアーチ式石橋「乙女橋」

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八郎岳登山口の登山者用駐車場などの整備と、手造りアーチ式石橋「乙女橋」

長崎市へのご意見・ご提案等の紹介
ご意見(要旨) 八郎岳登山口の登山者用駐車場、公衆便所などの整備 【2013年12月受信】
長崎市南部の山、八郎岳は標高589.8m。長崎市内の最高峰。野母半島県立公園で、九州百名山の1つです。市内外から訪れる登山者が多く、2011年8月から、再三、長崎市平山町の八郎岳登山口に登山者用駐車場、公衆便所、国道側案内標識などを設置するよう、長崎市及び長崎県にも要望しましたが、納得できる進展がありませんでした。
周辺案内図が設置されただけで、ほかはそのまま放置されています。財政的な理由は、たしかに理解できますが、あまり予算をかけず実現できる方法をぜひ考え、実行してください。今回このことを再要望したのは、最近、市民農園関係者が休みのたびに、農園駐車場に張り込み、登山者の駐車を厳しくとがめていると聞いたからです。
登山や農作業は、お互い気持ち良く楽しみたいはずです。このような険悪な事態は、長崎市政の評判と評価を落すだけです。公衆便所は、農園利用者も必要としていると思います。以上のことを良く理解し、長崎市において早急な実現をぜひお願いします。

回 答  農林整備課・農業振興課 【2013年12月24日回答】
平山市民農園は、駐車場も含めて長崎市が地権者から土地を借り上げ、入園者は使用料を負担して市民農園を利用しておりますので、入園者以外が農園駐車場を利用することは、ご遠慮いただいています。登山者の方も駐車されている場合がありますが、植え付け時期や収穫時期は多くの方が来園されますし、また、仕事の都合上、土曜日、日曜日だけしか農園に来られない方もおられ、駐車区画が不足することもあり困っている状況ですので、農園利用者以外の駐車はご遠慮いただいております。
登山者のための駐車場及びトイレ等の整備は、財政的に困難でありますので、国道沿いなど周辺駐車場などをご利用いただきますよう、ご理解とご協力をお願いします。また、案内標識などにつきましては、前回、回答いたしておりますとおり、八郎岳登山における必要な情報を判りやすく表示する観点から、山岳連盟などの専門家のご意見をお聞きしながら、引き続き検討しており、必要に応じてできるものから修正、新設を行っていきたいと考えています。

以上がその回答だが、単なる現状問題点の解決先送りである。再回答を求めたところ、長崎市農林整備課長から、次のとおり個別回答があった。

平成26年1月22日  農林整備課長
長崎市におきましては、中期財政見通しにおいて、厳しい財政状況が続くと予想されることから、事務事業の抜本的見直しや収入増対策を徹底することにより、歳入歳出両面から収支不足の圧縮に努めることとしています。(詳しくは、長崎市のホームページをご覧ください) このため、選択と集中の観点から、市民生活に直結する事業について、緊急度や重要度を考慮した上で十分な検討を行い、優先順位をつけて計画的に事業を進めることとしています。
ご提案の登山者用の駐車場や公衆便所につきましては、日常的に市民生活に直接関わる施設とは言い難く、八郎岳登山ルートが数多くあるなかで、平山からの往復を限定するものであり、土地の確保や維持管理も困難であることから、現状におきまして、整備はできかねますので、ご理解いただきますようお願いいたします。
また、長崎市内の多くの山でも、登山者自らが、登山ルートや交通手段等を検討されておられますので、八郎岳への登山者におかれましても、自家用車を使用される場合は国道周辺の駐車場などをご利用いただくか、公共交通機関をご利用いただき、登山を楽しんでいただきますようお願いいたします。
一方、長崎市内の各所において、地域の皆様や志を共にされる仲間の皆様が、あらゆる分野で様々な活動をされていますが、このうち、多くの市民の皆様に有益な活動につきましては、長崎市として内容等を精査した上で、支援させていただいている事例がございます。
したがいまして、貴方ご提案の内容につきましても、登山に関わる組織や仲間の皆様と自ら活動される内容を含めてご検討され、皆様の総意として活動されることとなりましたら、長崎市としてご協力できることもあろうかと思われますので、ご相談いただきますようお願いいたします。

これが長崎市長の見解であり、最終回答として理解して良いのだろう。その後、回答はない。これを公表し、みなさんの判断を仰ぎたい。市政への提案回答として、私だけではなく、市民全体のみなさんへわかるよう、必ず公開をお願いしたい。
財政上の理由はわかるが、必要性はやっと理解されたようだから、今後、実現に向けて財政当局とぜひ折衝していただきたい。

当面の措置として、市民農園や元宮公園の駐車場は、どうしても開放はできないのだろうか。上記の回答文の後段は、おかしな回答である。
本来ならば、長崎市が当然しなければならない施策の実現を、私へ活動を押し付けている。財政上の理由は別として、必要性はやっと認めたのだから、皆の総意があっているものとして、事業を先へ進めて良いはずである。
何も私ひとりの要望ではない。協力できることは、相談がなくても早急に実現できるということではある。こんな回答はしないようお願いしたい。

少しはましな回答となったが、いつまでも市の見識のなさにあきれる。現状ではとにかく、長崎市政の評判と評価を落しているだけである。長崎市長がまずこのことを深く認識して、早急な対応をお願いしたい。つまらない回答はさておき、八郎岳の沢に手造りした石橋へ話題を変えよう。

「今晩は。今日後半は好天予報でしたので、平山墓地前を午前10:15に出発して、八郎岳・小八郎岳・乙女峠を回ってきました。山頂は残念ながら雲におおわれて視界はあまりよくありませんでした。乙女峠を下ってから、自然石の石橋「乙女橋」がしっかり健在であることを確認できました。完成後何年経過しましたかね? 堅牢な出来栄えですね。写真を撮りました」

きのう2月2日(日)、八郎岳へ登った○里氏からのメール。道歩会の仲間。駐車場の最近の実状を知らせてくれたのも、同氏である。
手造りの自然石アーチ式石橋「(第2)乙女橋」(仮称)の記事と場所は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2911
「(第2)乙女橋」は2011年10月完成だから、完成後、2年3か月経過している。
久留米市の「美幸さんの日記」も参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/a10412007/34212523.html

宮川雅一氏の長崎郷土史・新“岡目八目”  ピースミュージアム

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宮川雅一氏の長崎郷土史・新“岡目八目”  ピースミュージアム

長崎の明治・大正・昭和を紹介する「宮川雅一氏の長崎郷土史・新“岡目八目”」が、ナガサキピースミュージアム(長崎市松が枝町)で開催されている。
同ミュージアムの企画展資料は、次のとおり。

期  間 *2014年1月28日(火)〜2月23日(日) 入館無料
開  館 *9:30〜17:30  ※最終日は14:00まで
休  館 *2月3、10、17日(月)

郷土長崎をこよなく愛する宮川さんが、宮川家に残る古写真を中心に出版したエッセー<「郷土史・岡目八目」長崎新聞社2013年9月刊>を膨らませて明治・大正・昭和の長崎を紹介します。
親族に写真の元祖上野彦馬に師事した写真家もおり、明治から大正期の中国・上海「街並み」の貴重な写真などを公開します。

長崎学の第一人者である宮川雅一さんは、1986年に長崎市助役を退職後、長崎都市経営研究所を設立するなどして、ふるさと長崎を盛り立てて来られました。
現在も長崎史談会相談役、長崎近代化遺産研究会会長、長崎聖福寺大雄宝殿修復協力会世話人代表など多くの役を担っておられます。

2014長崎ランタンフェスティバル開幕前夜

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2014長崎ランタンフェスティバル開幕前夜

開幕前夜、1月30日午後6時と9時頃のメイン会場、新地湊公園などの様子。長崎観光・宿泊ガイド”あっ!とながさき”は、次のとおり。

2014長崎ランタンフェスティバル

長崎の冬の灯りの祭典である、長崎ランタンフェスティバルが今年も華やかに開催されます。約15000個もの中国提灯(ランタン)や、その年の干支のメインオブジェをはじめとする大型オブジェなどがところ狭しと飾られ、長崎の街を極彩色に彩ります。
期間中は、龍踊りや中国雑技などの中国色豊かなイベントも行われます。毎土曜日は清朝時代に皇帝、皇后が民衆と一緒に新しい年を祝う様子をイメージした皇帝パレード、毎日曜日には江戸時代に長崎に入港した唐船の乗組員達が、航海安全の神である媽祖を媽祖堂まで安置する様子を再現した「媽祖行列」が行われます。

〈開催期間〉 1月31日(金)〜2月14日(金)
〈点灯式〉 1月31日(金) 17:30〜18:00 新地中華街会場、中央公園会場にて行います。
〈皇帝パレード〉 2月1日(土)・8日(土) 14:00〜16:30
〈媽祖行列〉 2月2日(日)・9日(日) 14:00〜17:20
〈会 場〉 新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場、興福寺、鍛冶市会場、浜んまち会場、孔子廟会場
※ステージイベントの時間は各会場、イベントによって異なります。

川原慶賀「長崎眺望」全図と、どこから描かれたか再考

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川原慶賀「長崎眺望」全図と、どこから描かれたか再考

2014年(平成26年)1月5日付の長崎新聞第1面トピックス記事において、日本唯一の道教の寺だった「崇玄観(すうげんかん)」を、川原慶賀「長崎港眺望図」から特定し、位置を現在の椎の木町、創建時期不明とされる「丸尾神社」一帯ではないかと、発表されている。
私たちはこれに疑問を感じ、本ブログで疑問点を先に指摘しているので、次を参照。
川原慶賀「長崎港眺望図」は、どこから描かれたか
https://misakimichi.com/archives/3908
長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述
https://misakimichi.com/archives/3909

眺望図は4枚一組。出島のオランダ商館員フィッセルのコレクションとされ、オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵している。江戸期の1820年前後の風景とみられる。
長崎新聞では左側の3枚しか掲載がなく、それも左右端の一部をカットして、読者にとってわかりにくい記事と図版である。
西武美術館1980年発行「鎖国の窓を開く:出島の絵師 川原慶賀展」(制作講談社)に、右側の1枚となる金比羅山など続いて描いた部分があった。これで眺望図全体の詳細な画像を見ることができる。
同巻末の解説は、次のとおり。眺望図はライデン博物館HPにも収録されているようである。

●長崎眺望 184〜187                        絹本著色 4枚一組 (B)
長崎の一大眺望である。4枚合せると270センチにもなるこのような眺望図の例を私は知らない。神戸市立南蛮美術館に衝立になった慶賀筆「長崎港図」(絹本69.0×85.5cm)があるが、本図もまた「長崎港図」とあまり時期を隔てずに描かれたものと考えられる。「長崎港図」とは視点を変え、長崎の北東部おそらく彦山からの眺望であろう。
この地点から視野に入るすべてを写している。一つ一つの山や島の形から市街地の家並、道筋にいたるまで、見えるそのままを遠近法を用いて描き、不自然さを感じさせない。慶賀はシーボルトとの出会い以後いっそう洋画的手法による写実性を増していくが、本図は、それ以前にすでに洋画的技法をかなりの程度まで会得していたことを示している。      (兼重 譲)

さて、この川原慶賀「長崎眺望」は、どこから描かれたのだろうか。金比羅山など描いた4枚一組の、右側1枚の存在まであまり調べてなかったので、現地確認調査をし直した。
調査に協力した方のコメントなどが多く推測したとおり、これは「愛宕4丁目」(どこを特定されたか、「弥生町」との町境も説明が不明)や、「彦山」からではない。
絵図のポイントは、稲佐山と岩屋山の稜線重なり具合と、港口の高鉾島や伊王島などが同じように見えるかで、おおよそが判断できる。

「弥生町の高台、長崎女子短期大学背後の標高240mのピーク」から描いたものと、やっと確信できる地図や資料が揃った。
これによると、道教の寺「崇玄観」は、椎の木町「丸尾神社」一帯にあったと考えにくい。茂木村田上名にあった黄檗宗「観音寺」(現在は「徳三寺」)の建物を、眺望図で道教の寺と勘違いされているのではないかと、あらためて感じた。
絵図説明の「星取山」は、ここは「唐八景」と思われる。「長崎名勝図絵」の崇玄観記録は研究されたのだろうか。

現地の現在のピークは、藪の広場となっている。周囲は雑木や竹の高い木立に覆われ、慶賀図どおりの長崎眺望全体は、伐採しない限り確認できない。現在の写真はそのため、図とかなり合わないが、できる限り付近から撮影したものを載せているので、繋ぎ合わせて全体を考え、それぞれが研究を進めていただきたい。詳しい理由や写真説明は省く。
山名や地名などは、主なものだけ表示した。推定地点からのカシミール3D作図は、升本氏、国土地理院地形図による対象山などとの線引き確認は、入江氏の協力による。

(地図線の説明) 地図の北から反時計回りに
青 線  慶賀の絵の右端
赤 線  琴ノ尾岳 金比羅山 風頭山 愛宕山 岩屋山 茂里町新田堤角 正覚寺 出島 稲佐山
青 線  慶賀の絵の中央、二枚繋ぎ(正確には四枚)の中央
赤 線  鍋冠山 天門峰 伊王島と沖ノ島の界 高鉾島 沖ノ島左端 徳三寺(観音寺) 星取山 唐八景 熊ヶ峰
青 線  慶賀の絵の左端

「伊能忠敬測量日記」は、茂木街道の測量を、次のとおり記録している。眺望図に描かれている横黒線は、ピントコ坂を上がって田上を通るこの旧茂木街道なのである。
「文化十年八月二十三日(1813年9月17日) 晴天。
同所(長崎市炉粕町)に逗留して測る。御料所の長崎村小島郷の二印より初めて、茂木村への街道を測る。右に一向宗正覚寺。右に八剱社。地蔵堂。高来郡茂木村枝田上名。百姓の伝蔵宅で小休止。
右は石動山観音寺(現在は徳三寺)。右に浄土宗智恩寺の末寺で松原山田上寺。田上名の在所。字転石。…」

付近の当時の地形を知るため、明治34年測図旧版地図を載せた。図に描かれているという長崎村森田庄屋屋敷側(現在の長崎市立桜馬場中学校)からは、写真では矢の平の谷奥上に見えるのが、このピークである。
長崎全体の眺望が良い「この地点がまだ開発されずに残っていることが驚きです。早急に手を打つべきと思います」との声がある。「川原慶賀大作の地」として、長崎市や長崎女子短大によって、公園化を図ることが考えられる。
長崎新聞の報道姿勢は、読者に理解されやすい記事となるよう一考をお願いしたい。

コスタ・アトランティカ長崎初入港

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コスタ・アトランティカ長崎初入港

松が枝国際観光ふ頭に、クルーズ客船が入港していた。船名は「COSTA ATLANTICA」。長崎には初入港で、中国からの客のようである。1月26日、朝9時頃入港、写真は午後5時頃。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、次のとおり。
3、4枚目は、女神大橋の方を見ると、釣人がおり「ヤノウオ」が上がった。左の空にはきれいな光の虹(彩雲とか幻日の一種だろうか)が見えた。右はジェット機雲。

コスタ・アトランティカ(Costa Atlantica)は、コスタ・クルーズが運航しているクルーズ客船。

概 要 コスタ・アトランティカ級の1番船で、2000年6月30日、フィンランドのクヴァルネル・マサ造船所ヘルシンキ工場で竣工。船価は3億7500万ドル。 客室は全部で1,057室あり、そのうちの845室が海側に面している。 7月16日より東地中海クルーズに就航した。 主機には環境に配慮してNOx排出量を低減させたヴァルチーラ 9L46D型ディーゼルを採用し、イタリア船級協会(RINA)が定めた新環境基準を満たした最初の船舶となった。 また本船の各デッキには「La Strada」、「La Dolce vita」等、イタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニの作品名が付けられている。 その後同型の2番船が2003年に建造され、さらにカーニバル・クルーズ・ライン向けにほぼ同型船(カーニバル・スピリット級)が4隻建造された。

船 歴
起工
進水 1999年11月11日
竣工 2000年6月30日
その後

主要目
総トン数 85,619 トン
全長 292.6 m
幅 32.2 m
吃水 8.0 m
主機 ディーゼル・エレクトリック
(ヴァルチーラ 9L46D型ディーゼル 6基)
出力 84,800馬力(総出力)
48,000馬力(推進出力)
航海速力 22.0ノット
最高速力 24.0ノット
船客定員 2112名(最大 2680名)
乗組員 920名

長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述

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長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述

長崎文献叢書「長崎名勝図絵」丹羽漢吉氏訳著(長崎文献社 昭和49年発行)79頁に、「崇玄観」(すうげんかん)の編述があったから、関係部分を抜粋する。
文献社序によると、「長崎名勝図絵」は、長崎奉行の命を承り、当時長崎聖堂助教の儒者らが編述し、執筆は文化、文政年間(1804−30)であったと思われる、とある。
以下は、図絵「◎巻之二上 南邊之部」の編述。茂木村田上を順を追い、説明しているのだろう。

117 合戦場  茂木村の街道、田上峠にある。高く平らにひらけて、遠望がきくので、昔ここを茂木口の要路として、番所を設け、警備の者を置き、物見をさせた。長崎氏の所領時代に、深堀方の密使を捕えたなどというのは、ここである。故に合戦場といった。一説では、砲術の練習場であったから、火箭場(かせんば)といったのが訛ったともいう。どちらが本当か知らないが、あとの説は後世の人が作った話のように思われる。近年は春になると、凧揚げの場所となっている。

118 石動山観音寺  田上村にある。臨済宗黄檗派の禅宗で、天洲和尚の開基とする。天洲は隠元の法孫である。元禄年中(1688−1703)天草代官服部六左衛門が、長崎に近い所に、一寺を建立したいと天洲に相談した。天洲は茂木村がよかろうと答えた。その頃教存という真言僧が、ここに小堂を建てて、祈祷所としていた。天洲はこれを譲り受けて再興し、石動山観音寺と称した。近年は頽廃している。本尊観世音像は唐作。他にも像があり、又、即非や雪广筆の額、聠がある。寺の右の方、石段を上って石の小祠があり、開山天洲の立像がある。鐘は〔銘文は略す〕元禄十三年(1700)天洲の時、安山彌兵衛が鋳造した。

119 楊柳泉  観音寺の林中にある。島原城主高力左近将監が雄浦に別業を持っていて、ここに来た時は必ずこの泉の水で茶を煮たが、味が秀れていた。名づけて楊柳泉という。

120 松原山田上寺  田上松林の中にある。寛永年中僧九誉残岌が建てた。浄土宗である。高力氏が寺領四石を附したことがあった。

121 崇玄観  大江操軒が建てたが、廃絶歳久しく、その趾は不明である。〔長崎先民伝の操軒大江宏隆の項を引用してあるが略す〕

122 千歳亭  向井去来の営むところである。去来は京都から来往して、長崎ではここに住んだ。一説によると、齢百歳に近い老尼がいて、去来はこの老尼のために、これを建てたともいう。今その趾は判らない。〔長崎先民伝及び五升庵文草の去来に関する項があるが、ここには略す〕

次は、もう茂木村の中に入って、「123 石の御前」へと続く。したがって、掲載順からこの「121 崇玄観」は、田上の「観音寺、田上寺、千歳亭あたり」にあったと、推測するべきではないだろうか。
川原慶賀「長崎港眺望図」は、江戸期の1820年前後の風景と見られる。日本唯一の道教の寺とされる「崇玄観」が、大浦「丸尾神社」一帯にあったとするには、考えにくい。
「崇玄観」はあくまで田上付近にあり、「長崎名勝図絵」の執筆当時、すでに「廃絶歳久しく、その趾は不明である」と編述している。

大浦「丸尾神社」一帯とする違いは、絵図の「星取山」の見誤りだろう。この山は正しくは「唐八景」となり、右の山が「星取山」と考えられる。現在の弥生町「高台の旧峠の場所」(長崎女子短大附属幼稚園グランドあたり)から描いたとすると、はっきり対面に見えるのは、「観音寺」(明治維新後、廃寺。現在は「徳三寺」が建っている)の建物だったのではないだろうか。
今後の考証を待ちたい。

2014年(平成26年)1月5日付の長崎新聞第1面トピックス記事は、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3908

コメントにある川原慶賀「稲佐山からの眺望」(写真を追加)は、私の手持ち写真で確認したところ、現在の稲佐山展望台のところから描かれているのに、間違いはないようです。