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長崎の西空の夕日  10−02

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長崎の西空の夕日  10−02

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成22年 1月17日の17時35分頃から
写真  4〜 6  平成22年 1月19日の17時38分頃から
写真  7      平成22年 1月22日の16時58分頃から  女神大橋から神の島
写真  8〜10  平成22年 1月24日の17時26分頃から
写真 11      平成22年 1月25日の17時29分頃から
写真 12〜15  平成22年 1月26日の17時46分頃から  五島列島が見える

長崎市の100年 57P 大手橋から新大工町大通りを見る

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長崎市の100年 57P 大手橋から新大工町大通りを見る

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎市の100年 57P 大手橋から新大工町大通りを見る(新大工町・大正10年頃)
〔画像解説〕
欄干の柱頭に擬宝珠のついた大手橋から、連合大売出しでにぎわう新大工町商店街を見る。慶長年間(1596〜1615)に大工職人が集まってできた町といわれているが、周辺の人口増加とともにその後は食料品・日用品などを売る町並みとなり、現在に至っている。(提供:長崎電気軌道株式会社)

■ 確認結果
写真集「目で見る 長崎市の100年」は、株式会社郷土出版社から2002年7月に発行されている。監修は越中哲也、岡林隆敏、堺屋修一氏と著名な執筆委員。2009年に発行された「長崎市制施行120周年記念写真集 ふるさと長崎」の粗雑な内容と違い、掲載された古写真と解説は何の問題がない。

57P「大手橋から新大工町大通りを見る(新大工町・大正10年頃)」は、長崎の古写真考の前の記事「大手橋」で引用させてもらった。古写真を再掲したが、私の関心は今度は、新大工町大通りの奥に写った「大屋根の建物」(拡大)である。
中島川の石橋を渡り、まっすぐ行くと寺町通りと合い、上の山手に寺がある。諏訪通りなどで良く見る。新大工町大通りでも同じような光景があった。寺だろうか。

新大工町商店街通りを入口から進んでみた。商店街の出口を過ぎないと、今は奥の景色を確認できない。「春徳寺」は北の方にあり、この古写真では通り左側商家の家並み後ろとなって写らないだろう。
新大工町通りの延長となる桜馬場町の通り(シーボルト通り)に入ると、高い石垣の上に広い校庭を持つ長崎市立桜馬場中学校がある。「長崎村庄屋森田家屋敷」の跡地である。
古写真は大正10年頃だから、当時は桜馬場に移転した「長崎県尋常師範学校」がここにあった。大屋根の建物を私は勘違いしていた。師範学校の校舎ではなかった。

後日、satemosatemo2008 様のコメントによる指摘により気付いたが、地図のとおり長崎鳴滝高校の右側上方にある「高林寺」に間違いないだろう。
鳴滝高校の真裏あたりと覚えていて、地図も調べず出かけていた。本堂は近年改築され、屋根の造りを変えた近代的な寺になっている。背景の山並みは、諏訪神社から確認している。(この記事は1月27日修正して記した)
高林寺は、広助さんのHP「丸山歴史散歩」によると次のとおり。明治42年(1909)炉粕町から移転・新築したので、古写真には屋根がまだ新しく写っているのだろう。 

A−221:曹洞宗德光山高林寺(とっこうざん-こうりんじ)
鳴滝1-6-27(長崎村中川郷字松山)
高林寺は正保3年(1646)皓臺寺一庭が禅僧天宗融察と、オランダ通詞の名村、猪俣両氏の援助を受け炉粕町に創建します。一方、上長崎村中川郷に知足庵(当初は栖雲庵)という皓臺寺の末庵があって、明治40年(1907)池田新吉という者が、シャム国王(タイ国)勅願寺サケート寺に安置してあった釈迦如来の銅像をもらい受け、軍艦で長崎に運ばれここに安置します。しかし由緒ある仏像を末庵に納めることに市内寺院から反対が起こり協議会が開かれます。そして当時、移転を検討していた高林寺が手を挙げ、明治42年(1909)知足庵と合併し、この地に高林寺を移し現在に至ります。

長崎の古写真考 目録番号:4683 中島川と阿弥陀橋(3)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4683 中島川と阿弥陀橋(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4683 中島川と阿弥陀橋(3)

目録番号: 341 中島川と阿弥陀橋(1)

目録番号: 989 中島川大手橋(1)
〔画像解説〕
写真中央の木の奥に大手橋、中央に西山水源地裏の山々、右側に健山(たてやま)、左側は金比羅山のすそ野に当たる。写真は桃渓橋の上からの撮影である。大手橋は、馬町と新大工町間に慶安3年(1650)唐通事高一覧(日本名:渤海久兵衛)が架けた長さ13.4m、幅4.7mの階段付き唐風石橋である。大手橋の袂に長崎氏の大手門があったところで、古来堂門橋と呼ばれていたが、明治15年(1882)、これまで個々に呼ばれて不便であったので、呼び名が統一され、大手橋と付けられた。昭和7年(1932)ころ、交通に不便ということで、階段付きの上部を車が通れるように改造された。これまでの大水害でも崩落することもなかったが、昭和57年(1982)の大水害の災害復旧の河川改修工事に伴い、現在の橋の上部は改修されたが、アーチ部分は建設当時のまま残っている。川辺は出来大工町で、トントン葺きの家並みが見え、時代を感じさせる写真である。

■ 確認結果

古写真データベースで「中島川と阿弥陀橋」と条件検索すると、同橋タイトルの(1)から(7)まで7作品が出てくる。その中でも、目録番号:4683「中島川と阿弥陀橋(3)」は、明らかに他の写真の「阿弥陀橋」とは違うような感じがする。
条件検索した関連作品では、横の小画面となり橋の長さが引き伸ばされ、「阿弥陀橋」に似ているが、実際はこの古写真は縦長で、良く見ると石橋の造りが違う。

「阿弥陀橋」の代表作品、目録番号: 341「中島川と阿弥陀橋(1)」と比較してみよう。(3)の方は、橋の高さが川底から高い。川幅が狭くアーチ橋の造りが違い、アーチ間の径間が短い。欄干の数が少ない。左側の親柱に擬宝珠が写る。橋上部の通路部分が水平である。川岸に護岸の通りや人家がまだないことがわかるだろう。

「阿弥陀橋」と違うとすれば、中島川との合流点、二股に左から流れる西山川(堂門川)に架かる「桃渓橋」だが、「桃渓橋」には擬宝珠がない。欄干のある橋上部が水平でなくやや丸い。
「桃渓橋」は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1537
目録番号:5163「中島川と一覧橋と光永寺」は、データベース上、目録番号:5162「中島川と桃渓橋(1)」と写真を入れ違い、間違ったタイトルのまま、今でも公開されている。この項はすでに指摘済。

では、もっとも考えられる橋は、桃渓橋の上流に架かる「大手橋」だろう。大手橋の古写真は、目録番号: 989「中島川大手橋(1)」などあるが、桃渓橋の遠くから小さく写され、当時の橋の正確な姿がわからない。「大手橋」は、現在の新大工商店街通り入口に架かる橋である。上部は鉄筋造となって拡幅されているが、下部にはまだ建設当時のアーチ式石橋が残る貴重な橋である。現在の姿から当時の橋を推測するしかない。

擬宝珠がこの橋にはあった。大正10年頃の大手橋から新大工町通りを見た写真があり、擬宝珠が写っている(長崎電気軌道(株)の所蔵写真。写真集「目で見る 長崎市の100年」郷土出版2002年刊57頁に掲載)。橋の改造のため撤去された擬宝珠は、出来大工町の光雲寺入口と途中の階に現存している。
「阿弥陀橋」にも、擬宝珠があったが、橋全体の姿からこの古写真の橋は「阿弥陀橋」ではなく、「大手橋」と考えられるのではないだろうか。そうして見ると、目録番号:4683の作品の橋下に遠く霞む山は、「健山」か西山木場方面の山となる。川下へ降りて、アーチ式石橋を見上げて写した珍しい写真と言える。

目録番号: 989「中島川大手橋(1)」の〔画像解説〕にある「昭和7年(1932)ころ、交通に不便ということで、階段付きの上部を車が通れるように改造された」も確認調査が必要である。日見峠に明治新道が開通するのは明治15年(1882)で、「大手橋」が階段橋であったら、「古橋」と同じくその頃に改造されたと思われる。大正10年頃撮影の大手橋と通りの古写真が証明している。「古橋」や「一の瀬橋」とも言えないし、中島川の石橋を研究する方に判断をお願いしたい。

彩が丘団地から矢上普賢岳へ  平成22年1月

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彩が丘団地から矢上普賢岳へ  平成22年1月

平成22年1月24日(日)晴れ。彩が丘団地から矢上普賢岳(標高439m)へ。参加12人。
矢上バス停9時30分発ー東町ー彩が丘団地ー北西尾根ー矢上普賢岳(昼食)ー行仙岳ー北尾根ー普賢岳林道ー彩が丘団地ー矢上バス停14時10分着(徒歩距離 約12km)

朝からバタバタして出かけ、デジカメが前々日の接写モードのままだった。ピントがボケてておかしいなと思いながら、最後まで写してしまった。見にくい画像となって申し訳ないので小さくした。参加した人は、だいたいどこを写しているかわかるだろう。きれいな画像は宮さんので。

1809段の石段登りで有名な矢上普賢岳。コースを変えて東町彩が丘団地の墓地から登る。北西尾根と呼ばれ、矢上からの写真とおりの尾根を左側から登って行く。時々、急傾斜があるが、植林地で展望なし。黙々と登って行ったら、墓地の山道入口から1時間半で矢上普賢岳の山頂に着いた。11時30分着昼食。

山頂を12時10分発。石段下りを止めて全員、行仙岳(標高456m)方面へ縦走する。普賢岳林道に出、彩が丘団地の出発点へ1時間半ほどで下った。船石岳への分岐を過ぎて、高圧線が尾根を越し、普賢岳林道の鞍部にあるアンテナ塔が見えるあたりで、下山路を間違いやすい所があり要注意。アンテナ塔を目指し、その尾根の道を行くこと。

宮さんの参加記事は、http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/23314186.html

1−特 小瀬戸遊園地の右角隅  (長崎要塞第一地帯標? 所在不明)

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1−特 小瀬戸遊園地の右角隅  (長崎要塞第一地帯標? 所在不明)

小瀬戸郵便局の右側に小瀬戸遊園地がある。前小榊小学校跡地で車道に面した右角の電柱脇に10年前位まで陸軍省の石柱があった。近くの小瀬戸久田氏と別に前自治会長峯氏から聞いた。略図にない地点だが、確かな証言である。今回の調査(平成17年12月20日から約1か月間に及ぶ)により新しく判明したが、所在は不明となっている。

(この標石は上記のとおり研究レポート”江戸期の「みさき道」第2集”平成18年刊147頁に調査結果を報告。小瀬戸遊園地は木鉢カトリック教会登り口右側のフェンスがある所。標石があった右角隅は側溝が整備され、電柱が立っていて写真を撮っていない)

長崎の古写真考 目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3)

目録番号:1007 飽の浦からの汽船と南山手(2)
〔画像解説〕
長崎の西岸飽の浦辺りから、汽船越しに大浦居留地と東山手居留地を撮影した写真である。明治5年(1872)2月16日付の”The Far East”に掲載された写真である。撮影時期が特定できる重要な写真である。煙を吐く汽船の船首付近が下り松居留地で舳先付近の2階建ての建物が下り松42番D、後の香港上海銀行の場所である。煙突の向こうがイギリス領事館、そこから左の山手が東山手地区である。山腹に教会の建物が見えているが、これは、元治元年(1864)に建設された大浦天主堂に先立ち、文久2年(1862)に建設されたイギリス国教会の教会である。現在の海星高校に体育館の下に当たり、プレートがはめ込まれている。その右下に洋館が見えるが、この建物は東山手12番館である。左隅の海岸線は大浦居留地の建物である。明治元年(1868)末、新地が居留地に編入され、明治2年(1869)に3橋が架設され、長崎の外国人居留地が完成した時期の写真である。

■ 確認結果

目録番号:6260「飽の浦からの汽船と南山手(3)」は、ボードインコレクションにある作品。昨年6月以降、データベースに追加公開されたと思われる。最近、初めて見た。
一見、撮影場所は「飽の浦から」のように見えるが、そうではない。写真の右側、南山手居留地の上は「鍋冠山」、奥に霞んでいるのは八郎岳へ続く尾根の「熊ヶ峰」である。

先日、朝日新聞2010年(平成22年)1月21日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」”長崎港のパノラマ 優美さ まるで浮世絵”を、ブログ記事にしていて思い出した。パノラマとした3枚の古写真の今度は右側、1枚目は目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」。
飽の浦恵美須神社近く、松の大木がある岩場から長崎港の南山手方面を写している。飽の浦恵美須神社近くまで来ると、もう鍋冠山の山頂と奥の熊ヶ峰の稜線は合わない。「戸町岳」まで見えてくる。

したがって、目録番号:6260「飽の浦からの汽船と南山手(3)」の撮影場所は、「飽の浦から」とはならない。背景の山の重なりが合う当時の「丸尾山」(丸尾山を削り取って、海岸を埋め立てできたのが現丸尾町)の少し高台から、先端の海岸越しに、対岸の南山手方面に停泊した船を写したのではないだろうか。ホテルヴェスナーがあった稲佐崎からでは合わない。

明治25年の丸尾山地形図は、「稲佐風土記」著松竹先生の作成地図を掲げた。現在の写真は、丸尾町の十八銀行稲佐支店と長崎市消防局丸尾出張所の間にある菱重パーキング屋上から写した。古写真の撮影場所と思われる近くとなり、南山手を見通しできる所は今ではこのあたりである。

次の目録番号:1007「飽の浦からの汽船と南山手(2)」は、関連作品で参考のため。
この古写真は、大浦や東山手居留地が正面に近く写り、飽の浦の浜から右端は身投崎(長崎古写真集 居留地編の137頁解説)か、または身投崎の浜から、画像解説どおり撮影されたものに間違いないように思われる。
現在の写真は、三菱重工業(株)長崎造船所は入構禁止なので、本館ビルがある岩瀬道バス停上の高台の道から写した。目録番号: 987 「飽の浦からの汽船と南山手(1)」の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/1590

長崎の古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

朝日新聞のきょう2010年(平成22年)1月21日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った”長崎港のパノラマ 優美さ まるで浮世絵”(クリック拡大)。
解説文には別に問題ないようだが、パノラマとした3枚の古写真の左側、飽の浦恵美須神社を写した部分は、別の作品があるのに連結を明らかに間違っている。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1589

証拠となる連結写真をお見せしよう。データベース上で撮影者は上野彦馬など記されているが、ほとんどは明治天皇巡幸に随行した写真家内田九一の作品とされる。
右の1枚目は、目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」、中央の2枚目は、目録番号:1208「飽の浦からの長崎港(4)」、問題の左の3枚目は、目録番号: 51「飽の浦恵美須神社(1)」ではなく、神殿まで写った目録番号:1694「飽の浦恵美須神社(3)」、または同じような写真の目録番号:2875「同(4)」となるのが正しい。

同作品の以前のタイトルは「長崎稲佐海岸(2)」。現在は変更されて「飽の浦恵美須神社(3)」となった。神社関連作品に(3)が出てこないのが間違いの原因だろうが、まったく同じようなな作品が目録番号:546「同(2)」、目録番号:2875「同(4)」でもある。
今回見直すと、私も引用を間違っていたが、上野彦馬アルバムにあり色調から、目録番号:2875「同(4)」(前から公開されていたのか?)の方がふさわしいように思われる。

この連結写真は、三菱重工(株)長崎造船所史料館(飽の浦町三菱構内)に展示されている。
神社境内の右下建物の屋根、海岸線及び対岸の彦山の稜線がこの組み合わせで合い、港内の巡幸の様子を伝えている。長崎大学側はなぜまたこんな調査不足の公表をするのだろう。
朝日新聞シリーズ「長崎今昔 長大写真コレクション」も解説に問題が多い。

(1月23日 追記)
今朝「飽の浦恵美須神社」で条件検索すると、(1)〜(8)の8作品が出てくる。以前はこのようなことはなかった。特に目録番号:5312「同(6)」、目録番号:5648「同(7)」、目録番号:6132「同(8)」は、昨年6月以降に追加公開された作品と思われ、私の覚えがない。
(1)〜(8)を個別に開き、関連作品を見てみると、(1)(2)(4)(5)(6)が1グループ、(3)(7)で1グループ、(8)のみは単独、関連作品がないようになっている。
関連写真の出方はデータベース全体におかしい。見るのに支障があり、早く是正してほしい。

(2014年8月21日 追記)
最後のパノラマ写真2枚は、飽の浦恵美須神社に隣接する菱重ビル屋上から撮影した。

長崎の古写真考 目録番号:6066 小島からの長崎医学校と唐人屋敷

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6066 小島からの長崎医学校と唐人屋敷

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。
この写真集の解説の疑問点は、先に数点を記事とした。一部の作品は再掲となるが、次に後日、実地再確認を必要とした3作品について、現地調査の結果を順に報告する。その3。

目録番号:6066 小島からの長崎医学校と唐人屋敷
〔写真集 51頁 40 小島からの長崎医学校と唐人屋敷 275×214 の作品。写真説明は次のとおり〕
小島から長崎医学校と唐人屋敷ごしに長崎港を遠望している。海側中央の建物が長崎医学校。文久元年(1861)に小島養生所として創設され、医学所を併設して慶応元年(1865)に精得館と改称。明治元年(1868)長崎府医学校と改称。その後明治5年(1872)に第六大学区医学校と変更し、明治7年(1874)には長崎医学校となり、明治24年(1891)浦上に移転した。

■ 確認結果

目録番号:6066「小島からの長崎医学校と唐人屋敷」は、上野彦馬の撮影とされる作品。今回、初めて見た古写真である。撮影場所が「小島から」とあるが、具体的でない。
長崎医学校の下に唐人屋敷があるが、ほとんど写っていない。中央に覗く橋が新地と梅香崎を結んだ梅香崎橋である。長崎医学校の手前の山腹を右から左へ登る道が、現在の思案橋から丸山公園を通り大浦中学校へ上がる市道の旧道となる。この道路の対面の山手から撮影している。

したがって撮影場所は、現在の鶴鳴学園長崎女子高校正門から入った駐車場の少し下、中小島2丁目の高台あたりから撮影していると思われる。中央右側の尾根上にあるのが、当時の長崎医学校で、現在は長崎市立佐古小学校が建っている。左へ尾根を上がって大木が写る丘の所が、現在の長崎市立仁田小学校となっている。
梅香崎橋のあった場所は、現在の写真のちょうど中央に写るダイエー長崎店の左方となろう。

長崎の古写真考 目録番号:6065 ドンの山からの出島

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6065 ドンの山からの出島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。
この写真集の解説の疑問点は、先に数点を記事とした。一部の作品は再掲となるが、次に後日、実地再確認を必要とした3作品について、現地調査の結果を順に報告する。その2。

目録番号:6065 ドンの山からの出島
〔写真集 50頁  39 ドンの山からの出島 270×215 の作品。写真説明は次のとおり〕
ドンの山十善寺郷ごしに出島と稲佐を望む。明治2年(1869)に出島から築町にかけて架設される出島新橋は見えるが、後ろの松の茂みの高台には明治9年(1876)に建設される長崎県庁はない。左の東山手には洋館1棟(後の梅香崎女学校)がみえる。明治3年(1870)に新地蔵・広馬場・元唐人屋敷が外国人居留地に編入されたが、右の出島と新地は幕末の建物が残っている。

(関連作品)
目録番号: 987 ドンの山から見た出島と長崎港(1)  略
目録番号:4028 ドンの山から見た出島と長崎港(2)
〔画像解説〕
十善寺上の山より、十善寺地区、新地、出島、浦五島町から長崎湾奥、さらに対岸の稲佐地区を撮影した写真である。明治2年(1869)に出島から築町にかけて架設される出島新橋はすでにあるが、出島の上の高台に明治9年に建設された長崎県庁の洋風新庁舎がまだ見えないので、撮影時期は明治2年(1869)から明治9年(1876)の明治初期のものである。写真左中央には、東山手の洋館が見えている。現在と違って、当時は東山手の丘から長崎湾が一望できたことが分かる。慶応2年(1866)に出島が、明治3年(1870)には新地蔵・広馬場・元唐人屋敷が外国人居留地に編入された。外国人居留地が完成した頃の、外国人居留地の北域を撮影している。写真右下の一画は新地で、長い倉庫が見えている。写真右下は、旧唐人屋敷である。出島には教会の建物がなく、明治初期の出島である。出島の向こうは、湾奥の浦上新田まで海が拡がっている。その後埋め立てられる地域である。
目録番号:4863 ドンの山から見た出島と長崎港(3)  略

■ 確認結果

次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1876
目録番号:6065「ドンの山からの出島」は、上野彦馬の撮影とされる作品。今回、初めて見た古写真である。「ドンの山から見た出島と長崎港」は、以前から3作品あったが、一番景色が似ている目録番号:4028「ドンの山から見た出島と長崎港(2)」と見比べてみよう。
東山手の丘の洋館を近くに写し、新地・出島を望む。目録番号:6065「ドンの山からの出島」の写真は、目録番号:4028「ドンの山から見た出島と長崎港(2)」の撮影場所、ドンの山の山頂近くまである十善寺郷墓地から左へ寄って、少し下った所から撮影していると思われる。

ポイントは右下に写る中新町の広済寺(唐人屋敷の近く)の屋根、その丘越しの大木の右に写る梅香崎橋である。現在の広済寺は、本堂の建物と位置が少し変わったものと思われる。梅香崎橋は現在、ダイエー長崎店横の湊公園左方あたりの位置だったろう。
古写真の撮影場所と思われる一帯は、宅地や墓地となり、どこか特定できない。とりあえず見通しの良い場所から、現在の写真は写した。ドンの山の山頂近くの十善寺郷墓地内からである。
最後の写真は、現在の広済寺の屋根を墓地内の別の場所から古写真どおり写すと、古写真全体の位置関係が合わなくなる。

長崎の古写真考 目録番号:6042 大浦川沿いの居留地 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6042 大浦川沿いの居留地 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。
この写真集の解説の疑問点は、先に数点を記事とした。一部の作品は再掲となるが、次に後日、実地再確認を必要とした3作品について、現地調査の結果を順に報告する。その1。

目録番号:6042 大浦川沿いの居留地
〔写真集 38頁  29 大浦川沿いの居留地 273×214 の作品。写真説明は次のとおり〕
大浦川沿いを上流(北大浦小学校下)の斜面から撮影している。川口には弁天橋と松ヶ枝橋が見える。居留地には空き地が目立ち、明治7年(1874)8月の台風の被害があちこちに見られる。左の高台には妙行寺とその右横にはヘルビューホテルが確認できる。長崎港には多くの外国船が停泊していた。

(関連作品)
目録番号:5296 ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(1)
目録番号:5299 ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(2)
〔画像解説〕
目録番号5296(整理番号102-2)と同じく上野彦馬の大型アルバムに収載され、キャプションも同じであるが、この写真の撮影地点はもう少し高い位置であり、また大浦居留地背後の大浦32-33番あたりの空洞化が進んでいるので、撮影の時期も1-2年後である。従って明治6-7年(1873-4)頃。目録番号5296と比較してみると、大浦川右岸の川幅が狭まる地点から3軒目にあった倉庫は取り壊されて無い。大浦居留地の中央22番Bにあった倉庫と32番A(明治26年<1893>に孔子廟が建つ)にあった倉庫が取り除かれ、居留地の空洞化が進んでいる。河口の角から2軒目の大浦11番の建物は異常に大きい。右側の丘の大きな二階建て洋館は東山手9番のイギリス領事館で、ユニオンジャックの旗が翻っている。左手の丘には尖塔が一つになった大浦天主堂とその上に「ヨンゴ松」とグラバー邸が見える。  

■ 確認結果

次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1876
どちらも上野彦馬の撮影とされる古写真。目録番号:6042「大浦川沿いの居留地」と目録番号:5299「ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(2)」を見比べてもらいたい。
ほぼ同じ場所から撮影されている。右端の石垣の洋館とその下の宅地の屋根の向き、左端は妙行寺の位置と屋根の格好がポイントとなろう。撮影年代は、大浦川沿いや現在の孔子廟あたり空き地の建物の建ち方から、目録番号:5299の方が少し後の時期のように見える。

目録番号:6042の写真集解説は、「大浦川沿いを上流(現北大浦小学校下)の斜面から撮影している」としているが、大浦川がこの向きとなり、撮影場所の高度が高いから、もう少し上手となるドンの山中腹、海星学園の上となる上大浦小学校跡のグランドから撮影しているものと思われる。グランドは前北大浦小学校の校舎のだいぶん上、運動場となっていたが、同校は現在新設された大浦小学校に統廃合されている。

長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の78頁に「62 大浦川と両岸の町並みB」と似たような写真がある。「撮影は現・北大浦小学校下の斜面地からなされたものであろう」と画像解説しているのを引用したと思われる。この写真(目録番号:3794「大浦川沿い(4)」 掲載は略。)も撮影場所は違う。まだ高い場所からとなる。
目録番号:3794は、撮影場所をデータベース上で「東山手居留地南端の高台から」と説明している。この方が具体的と言えないが、差し障りのない説明と思われる。

「明治7年(1874)8月の台風の被害があちこちに見られる」の解説文もそうだろうか。目録番号:5299の〔画像解説〕との矛盾を感じる。撮影年代をもう少し検証してほしい。