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長崎外の古写真考 目録番号:5281 門司市街全景 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5281 門司市街全景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号: 5275 門司倶樂部
目録番号: 5276 門司連絡桟橋
目録番号: 5277 門司甲宗八幡宮の風景
目録番号: 5278 和布刈神社
目録番号: 5279 和布刈神社海岸
目録番号: 5280 門司馬場遊廓
目録番号: 5281 門司市街全景
目録番号: 5283 門司港内石炭積込光景(1)

■ 確認結果

長崎大学古写真コレクションのデータベース上の検索における「撮影対象」と「キーワード」の不都合について、前記事で一部の作品の例を取り上げふれてみた。
次は「撮影地域」と「保管棚名」の不都合である。上記の8作品は「門司十二景」と題した絵葉書セットの一部。このうち、目録番号:5281「門司市街全景」を例に見てみよう。 「撮影地域」を「門司」で検索すると出てくるのは良い。しかし、「保管棚名」では「長崎」の検索の中に入って出てくる。「アルバム名:絵葉書(長崎地域)」「撮影地域:門司」となっているためである。

「撮影地域」の地域区分も不完全である。中国地方では「広島」の中に、「安芸の宮島(1)から
(20)」と「宮島の海岸」の21作品を入れているのに、別に「宮島」の地域項目があり、これには目録番号:1469「厳島神社」の1作品しか出てこない。
近畿地方では「兵庫」の中に「淡路島(1)から(6)」の6作品を入れているのに、別に「淡路」の地域項目があり、これには目録番号:3546「上野実雄と友人たち」の1作品しか出てこない。
また「兵庫」の中には、目録番号:5841「姫路城(3)」の1作品をなぜか入れている。「姫路」の地域項目は別にあり、これでは(3)を除いた「姫路城(1)から(6)」の5作品が出てくる。

以上は、まだ全部を見たわけではないのに、これだけ不都合があった。どのような項目や地域の整理をしているのだろう。「関連作品」の出方の基準もわからない。「撮影地域:未詳」の作品も、撮影地域の中に項目を設け、すぐ出てくるようにしてほしい。

長崎の古写真考 目録番号: 708 小島の風景 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 708 小島の風景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 708 小島の風景
〔画像解説〕
場所は不明。石垣上に腰掛けた髷を結った男が向こうに見える小島を指差している。いかにも演出されたポーズである。また画面上方をふさぐように伸びる樹木の構成は、日本画的構図の発想であろう。

目録番号:4084 高鉾島(28)
〔画像解説〕
横浜の玉村康三郎作と思われる、黒漆象牙象嵌蒔絵大型アルバムの中の1枚でキャプションはない。目録番号2922(整理番号59-13)と同じアングルを少し左にずれて撮影したもの。人物背後の台地にまだ人家が建っていないので、この方が古い。アルバムに収載されている他の写真から判断して、撮影時期は明治20年代前半頃。場所は長崎港の稲佐側突端にあたる神ノ島(現神ノ島町2丁目)である。目録番号2922の写真では人物左下の石垣上は畑になっているが、この写真では土がむき出しになっている。外国船は高鉾島の外側から長崎港に入港したので、神ノ島は、承応3年(1653)、文化5-9年(1808-12)に港内に築かれた、外国船打ち払いのための台場の候補にはならなかったが、警備上重要な岬であり船着場は良く整備されていたようである。下の屋根の建物は目録番号2922でも見える。江戸時代、この一帯は隠れキリシタンが住み着き、神ノ島の地名もそれに由来する。現在、岬の突端にマリア観音が築造されている。

目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1)
目録番号: 993 稲佐のイサバ船と弁財船(2)

■ 確認結果

まず、目録番号: 708「小島の風景」の画像解説は、「場所は不明」としている。7000点近くある長崎大学古写真データベースの全作品を私がいちいち確認することはできない。
この作品は「撮影地域:未詳」なので、撮影地域が「長崎」で検索しても出てこない。キーワードが「眺望/海」なので、撮影対象をいずれかで検索すると、「撮影地域:未詳」の作品も出てくる。大学側の未整理が今、わかった。場所が特定できない「撮影地域:未詳」の作品こそ、大学側も調べる必要があり、データベースの検索項目に追加するよう改善してほしい。

この作品は、神の島教会の高台から、長崎港口の「高鉾島」を望んだ写真である。データベースに同じ構図の写真は多くあるのに、なぜ気付かないのだろうか。目録番号:4084「高鉾島(38)」玉村康三郎アルバム(1)とまったく同一写真である。
タイトルを「小島の風景」としながら、キーワードが「眺望」では漠然とし、多数の作品が出てくる。「島/海」にすべきだろう。目録番号:4084 の解説にある「神の島」の由来も、神功皇后が立ち寄った島という意味ではないか。
この項の関連作品記事は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1688

次に、目録番号: 696「稲佐のイサバ船と弁財船(1)」と、目録番号: 993「稲佐のイサバ船と弁財船(2)」は、キーワードがなぜ「和船/川」となるのだろう。ほかの稲佐崎海岸の和船を写した作品と合わせ、「和船/海/港(ないし運搬)」にすべきだろう。
画像解説では「長崎稲佐海岸」と説明しながら、キーワードが「川」とはならない。タイトルを変えた時点でも、キーワードには気を付けてもらいたい。
この項の関連作品記事は次を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/48304537.htm

長崎の古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3)

目録番号:5314 長崎製鉄所(1)    画像解説は、岩場に関係ないので省略。

■ 確認結果

朝日新聞の2010年(平成22年)1月21日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った”長崎港のパノラマ 優美さ まるで浮世絵”、及び2010年(平成22年)1月28日付”長崎港のパノラマ 特定難しい撮影時期”。
三菱重工(株)長崎造船所史料館に展示している4枚組全景の写真を参考のため掲げた。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2192

この長崎港パノラマ写真は、飽の浦恵美須神社の神殿裏が斜め左に写っている。海岸を向いた神殿の右上に大松が生えた小高い岩場の広場があり、2人の人物が港を眺めている。目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」が岩場の写真となる。
朝日新聞は1月23日付記事により、「撮影した場所はいずれも、現在の三菱重工業長崎造船所史料館近くの高台(飽の浦町の西日本菱重興産本社付近)です」と解説した。撮影場所は、私も1年前に調査し「菱重興産ビル 第ニ別館」あたりのかつての岩場と記事にしている。 
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1589

その時はデータベースにまだ公開されていなかったと思われ、私は参考としなかったが、最近のデータベースを見ると、この岩場を飽の浦側から展望している古写真があるのがわかった。
それが、目録番号:5314「長崎製鉄所(1)」である。現在の塩浜町の少し高台から撮影しているようだ。当時の長崎製鉄所はもちろん、飽の浦恵美須神社近くの岩場の位置と様子を写した貴重な写真となる。

岩場付近を見やすくするため拡大した。生えた松の大木の格好から判断すると、拡大写真の中央が岩場、右斜め下が飽の浦恵美須神社となることがわかるであろう。
この写真は、内田九一の「西国・九州巡幸写真」になく、上野彦馬の後年の撮影(年代未詳)と思われる。

ところで、目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」の右にくる写真。長崎大学データベースでは見当たらないが、次の写真集に詳しくあった。
石黒敬章氏著「続幕末・明治のおもしろ写真」平凡社1998年初版第1刷37頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

屋形船の不思議
〔写真15〕飽の浦より写した長崎港。横浜写真アルバムでよく見られる。4枚続きの右2枚。右が長崎造船所。4枚並べると、左に恵比(美が正)須神社が写っている。これまでの本では上野彦馬撮影とされている。しかし彦馬の写真は横浜写真では見かけないこと、霞会館所蔵の明治天皇御巡行(幸が正)の時撮影された一連の写真にあることなどから、内田九一の撮影と思われる。 

長崎の古写真考 目録番号:5271 雲仙稚児の滝

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5271 雲仙稚児の滝

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5271 雲仙稚児の滝

■ 確認結果

目録番号:5271「雲仙稚児の滝」は絵葉書(長崎地域)。「明治後期から大正初期(1900年前後)の雲仙公園の風景。手彩色の絵葉書である。雲仙公園内の滝を撮影したもの。詳細な場所は未定」と画像解説しながら、タイトルは「稚児の滝」となっている。
雲仙の「稚児の滝」とは、別所ダム下流の「稚児落しの滝」のことと思われるが、この滝は行きにくい。滝の姿が違うし、写真撮影が簡単にできない滝のようだ。

雲仙で昔から有名な滝は、「一切経の滝」である。小地獄の国民宿舎「青雲荘」先の石門から下の谷へ下って行く。高さ7mほどの美しい滝。奈良時代の名僧「行基」がここで仏道修行をし、一切経(お経を一同に集めたもの)の経文を筆写したと伝えられている。
古写真と比べると、滝つぼからの落し口岩など変わっているが、洪水などで崩落し、形が違ってきたと考えられる。

その昔、修行の場であった「一切経の滝」周辺は、大正から昭和にかけて、欧米人の水浴場となった。「雲仙お山の情報館」に古写真が展示されている。石を組んで下流をせき止め、プールを作っていた。古写真に見られる石組みは、現在では全く残ってない。
古写真は次のHPを参照。 http://www.pref.nagasaki.jp/sizen/6unzen/41/41.htm
斎藤茂吉は、大正7年7月、胸部疾患の療養のため雲仙へ登り、「温泉嶽療養」の中には「幾重なる山のはざまに瀧のあり切支丹宗の歴史を持ちて」「露西亜よりのがり來れる童子らもはざまの瀧に水あみにけり」と歌い、後年まで「温泉岳はいい山だ」と記している。

金比羅山の高射砲陣地跡  長崎市立山5丁目

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金比羅山の高射砲陣地跡  長崎市立山5丁目

立山から金比羅神社へ参道の石段を登る。ニノ鳥居上段から左へ5分ほどなだらかな道を登ると、かつて金比羅山の高射砲陣地があった広場に出る。現在ここは「多目的広場」として整備されている。広場の奥に「原爆戦死者之慰霊碑」の碑が建つ。原爆直後の姿を、碑文は「その惨状阿修羅地獄といわんか」と刻んでいる。

2001年12月13日長崎新聞掲載「忘れられぬあの日 私の被爆ノート」福江市奧浦町浦清人さん(77)の証言。爆心地から約2.4キロの金比羅山の高射砲陣地で被爆した。
<274>  目に焼き付く「火の海」
高射砲部隊に入隊して一年、当時、二十一歳だった。原爆が投下された日は金比羅山にあった高射砲の陣地で、上等兵の指揮で訓練をしていた。高射砲は五門あり、一門ごとに十五人くらいが付いていた。私は一番砲手で、砲身わきの照準器の眼鏡で上空の敵機の目標を確かめながら高射砲の向きを合わせるのが役目だった。
午前十一時すぎ、訓練中に照準器で上空を見ていたとき、B29爆撃機一機が雲間から見えてきた。その瞬間、ピカッと稲妻が走り、強烈な雷鳴が響き渡った。間もなく押し寄せた爆風がそばにいた私たち隊員らを跳ね飛ばした。…

先日、金比羅山高射砲陣地跡の現在「多目的広場」になった所へ行ってみた。原子爆弾の惨状を思い起こせる、見通しが良い新しい展望台ができていた。長崎市街の浦上方面が広がり、原爆落下中心地がすぐ下である。
多目的広場や南側の一段下の平地、また付近の江平側の山地にも、陣地跡の砲台?や防空壕の一部とか水場と思われる遺構がまだむき出して残っている。

古書はこのあたりの山を、「瓊杵山とも呼ばれた金比羅山、烏帽子山、狭田山、若杉山、茶臼山、万寿山などが連なる」と記している。狭田山と思われるこのピークの高射砲陣地には、昭和
19年10月頃、260人くらいの要員がいたようだ(長崎の証言 第6集 語り手浜下氏記録)。
参考のため長崎原爆資料館所蔵、小川虎彦氏撮影の当時の「金比羅高射砲陣地兵舎と兵士たち」「倒壊した兵舎と倒れた樹木」写真を載せる。

かき焼きと小長井ウオーキング (2)  平成22年1月

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かき焼きと小長井ウオーキング (2)  平成22年1月

平成22年1月31日(日)曇り。新年会を兼ねたかき焼きと湯江・小長井のウオーキングへ。参加16人。車1台の4人とは現地合流した。
JR長崎駅8時36分発ー湯江駅ーうまかぁかき高尾ー湯江・小長井のウオーキングー小長井駅15時52分発ー長崎駅帰着。

JR電車で53分、湯江駅からかき焼き屋へ直行。11時まで食べ終わり、湯江・小長井のウォーキングへ。行き先は次のとおり。徒歩距離は結構、長かった。
和銅寺、光宗寺、善神古墳、川上神社、竹崎街道、称念寺、長里の日本一のオガタマノキ、長戸鬼塚古墳

宮さんの参加記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/23410047.html

かき焼きと小長井ウオーキング (1)  平成22年1月

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かき焼きと小長井ウオーキング (1)  平成22年1月

平成22年1月31日(日)曇り。新年会を兼ねたかき焼きと湯江・小長井のウオーキングへ。参加16人。車1台の4人とは現地合流した。
JR長崎駅8時36分発ー湯江駅ーうまかぁかき高尾ー湯江・小長井のウオーキングー小長井駅15時52分発ー長崎駅帰着。

JR電車で53分、湯江駅からかき焼き屋へ直行。11時まで食べ終わり、湯江・小長井のウォーキングへ。行き先は次のとおり。徒歩距離は結構、長かった。
和銅寺、光宗寺、善神古墳、川上神社、竹崎街道、称念寺、長里の日本一のオガタマノキ、長戸鬼塚古墳

宮さんの参加記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/23410047.html

長崎外の古写真考 目録番号: 257 淡路島(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 257 淡路島(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気が付いた作品を取り上げる。

目録番号: 257 淡路島(1)   関連作品 目録番号:1691 同(4) 目録番号:5579 同(Awajisima Inland Sea)(7)
目録番号:1545 淡路島(2)   関連作品 目録番号:2797 同(5) 目録番号:2843 同(6)
目録番号:1547 淡路島(3)

■ 確認結果

兵庫県淡路島の古写真の話題。まず目録番号: 257「淡路島(1)」の画像解説は、「淡路島海岸部(詳細位置不明)。奇岩の下に腰を下ろした人影や、船を操る人物なども見える」。
同じような作品が目録番号:1691「同(4)」、目録番号:5579「同(Awajisima Inland Sea)(7)」。

次の目録番号:1545「淡路島(2)」の画像解説は、「左手に鳥居が見えているが、詳細は不明」。しかし、これには関連作品があり、目録番号:2797「同(5)」の画像解説では、「なかほどの奇怪な小島は、淡路島の岩屋(現淡路市)にある大和島(やまとじま)。…目録番号1545の写真と見比べると、左手前に石屋 (いわや) 神社があることがわかる」と説明し、「大和島」と「石屋神社」(岩楠神社)がとりあえず判明した。

さて最初の目録番号: 257「淡路島(1)」外2点。詳細場所不明らしいが、左端の岩は特徴がある。観光地の写真と比較すると、明石海峡大橋を渡った淡路ICがある近くの、これも淡路市岩屋の「絵島」と考えられる。 
絵島は国生み神話に登場する「おのころ島」と伝えられる。近くの大和島とともに淡路地域の誇る景勝地 地質学的に珍しい約2千万年前の砂岩層が露出した小島で、岩肌の侵食模様が特徴的である(兵庫県HP「淡路島の風土資産」から)。

現地の現在の地形図と、「みしのん日和」から「絵島」の画像を掲げる。したがって、目録番号: 257「淡路島(1)」では、左端が「絵島」の岩場、遠く右に写る島が「大和島」であろう。
なお、目録番号:1547「淡路島(3)」は、中央左に大松を配した作品。目録番号: 257「淡路島(1)」では、右端の高台にある松の岬が、遠くに写る「大和島」へ向き岩礁が続いている。この景色と思われる。現地調査をしたわけでなく、島の大きさがわからず、地元へ確認をお願いしたい。
最後は、淡路国名所図絵に描かれた「岩屋浦絵島」。

私は2013年10月、淡路島を訪ねた。絵島と大和島の写真を追加する。

長崎の古写真考 目録番号:6275 新大工町の鳥瞰 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6275 新大工町の鳥瞰 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6275 新大工町の鳥瞰
目録番号:6277 春徳寺遠望

■ 確認結果

古写真データベースで撮影者「A.F.ボードイン」から探すと、この作品が出てくる。目録番号:
6275が新大工町、目録番号:6277が春徳寺を写している。下部にそれぞれ鳥居の列が写り、伊良林1丁目の竹ん芸で有名な「若宮神社」参道横から撮影されている。間の目録番号:6276はタイトル「長崎郊外(1)」。別景色の作品。

前記の2作品は、横に並べるとパノラマ組写真のようになる。同じ場所から写真機の向きを変えて撮影されたと考えてよい。背景の左は金比羅山、中央右奥にかすかに帆場岳(三つ山)、右は健山。撮影場所と思われる所は宅地となっている。
現在の写真は、近くの光源寺墓地内、高台の「大春家」墓門の場所から写したから、春徳寺の大屋根の向きが古写真と比べ少し変わった。後ろの写真は、若宮神社と小さな坂本龍馬之像。

なお、目録番号:6275「新大工町の鳥瞰」については、慶應義塾大学高橋信一教授の次の記事がある。
2008年12月 1日 (月)   朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価
122 長崎・伊良林からの展望
この写真はB3アルバムにあるものだが、撮影時期、撮影者が不明である。上野彦馬邸の前の中島川の川向こう、伊良林の丘の上の若宮神社から新大工町、片淵方面を望んだ写真である。手前左に彦馬邸、正面に高木邸とその倉庫の建物が写っている。上野彦馬邸の東南の角の家屋は建て直される前のもの。写真No.130の写真と比べると、屋根の形が旧いものとなっている。しかし、塀沿いの西側の建物は撤去されているので、慶応年間の後半であろう。塀の様子が判然としないので、白壁の塀の築造との関係は読み取れない。今後の課題である。明治以降に使われた広い写場についての考察は拙著「書評 馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』」(「民衆史研究」第74号、2007年12月号)(119)を参照されたい。

長崎の古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

朝日新聞の先週2010年(平成22年)1月21日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った”長崎港のパノラマ 優美さ まるで浮世絵”。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2185
パノラマとした3枚の古写真の左側、飽の浦恵美須神社を写した部分は、別の作品があるのに連結を明らかに間違っている。目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」か、または同じような写真の目録番号:2875「同(4)」となるのが正しい。

当日朝からすぐブログ記事にして、朝日新聞長崎総局と長崎大学附属図書館へ知らせていた。その訂正記事が上のとおり、きょう2010年(平成22年)1月28日付”長崎港のパノラマ 特定難しい撮影時期”(クリック拡大)となった。
三菱重工(株)長崎造船所史料館に展示している4枚組全景の写真を参考のため掲げる。
こんなことがないよう現地確認の徹底などを再三、苦言している。長崎大学附属図書館の古写真データベース管理体制に問題があろう。専門的な監修委員会を再び立ち上げ、全作品について正確な検証を早くお願いしたい。疑問がある作品は本ブログにより具体的に指摘している。

長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション① 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」2007年11月初版長崎文献社刊と、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」2009年12月第1版朝日新聞出版刊の解説の疑問についてもこれまで述べている。
長崎さるく幕末編に続く英雄編の年ということで、この古写真集が長崎歴史文化博物館や長崎まちなか龍馬館などで、そのまま盛んに市販されている。間違いがわかった作品だけでも、早急に簡単な訂正記事をまとめた文書を添えて、在庫分は売ってほしい。

2009年12月10日付の目録番号:5378「眼鏡橋(1)」新聞記事の「後方左の高い山は彦山です」は、2010年1月7日付の訂正記事では『正しくは「三ツ山」でした』そうである。「烽火山」なのになぜ「三ツ山」となるのか、具体的に説明してもらわないと訂正記事にならない。