金比羅山の高射砲陣地跡  長崎市立山5丁目

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金比羅山の高射砲陣地跡  長崎市立山5丁目

立山から金比羅神社へ参道の石段を登る。ニノ鳥居上段から左へ5分ほどなだらかな道を登ると、かつて金比羅山の高射砲陣地があった広場に出る。現在ここは「多目的広場」として整備されている。広場の奥に「原爆戦死者之慰霊碑」の碑が建つ。原爆直後の姿を、碑文は「その惨状阿修羅地獄といわんか」と刻んでいる。

2001年12月13日長崎新聞掲載「忘れられぬあの日 私の被爆ノート」福江市奧浦町浦清人さん(77)の証言。爆心地から約2.4キロの金比羅山の高射砲陣地で被爆した。
<274>  目に焼き付く「火の海」
高射砲部隊に入隊して一年、当時、二十一歳だった。原爆が投下された日は金比羅山にあった高射砲の陣地で、上等兵の指揮で訓練をしていた。高射砲は五門あり、一門ごとに十五人くらいが付いていた。私は一番砲手で、砲身わきの照準器の眼鏡で上空の敵機の目標を確かめながら高射砲の向きを合わせるのが役目だった。
午前十一時すぎ、訓練中に照準器で上空を見ていたとき、B29爆撃機一機が雲間から見えてきた。その瞬間、ピカッと稲妻が走り、強烈な雷鳴が響き渡った。間もなく押し寄せた爆風がそばにいた私たち隊員らを跳ね飛ばした。…

先日、金比羅山高射砲陣地跡の現在「多目的広場」になった所へ行ってみた。原子爆弾の惨状を思い起こせる、見通しが良い新しい展望台ができていた。長崎市街の浦上方面が広がり、原爆落下中心地がすぐ下である。
多目的広場や南側の一段下の平地、また付近の江平側の山地にも、陣地跡の砲台?や防空壕の一部とか水場と思われる遺構がまだむき出して残っている。

古書はこのあたりの山を、「瓊杵山とも呼ばれた金比羅山、烏帽子山、狭田山、若杉山、茶臼山、万寿山などが連なる」と記している。狭田山と思われるこのピークの高射砲陣地には、昭和
19年10月頃、260人くらいの要員がいたようだ(長崎の証言 第6集 語り手浜下氏記録)。
参考のため長崎原爆資料館所蔵、小川虎彦氏撮影の当時の「金比羅高射砲陣地兵舎と兵士たち」「倒壊した兵舎と倒れた樹木」写真を載せる。