月別アーカイブ: 2011年3月

長崎外の古写真考 目録番号:4609 遊郭(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4609 遊郭(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4609 遊郭(2)
〔画像解説〕
右手の建物の1階が張見世になっているので妓楼だと思われるが、左側の建物は旅館のような造りになっている。詳細は不明。  

目録番号:1845 高島町新風楼(1)
〔画像解説〕
横浜の遊郭、新風楼の建物と女性達を撮影した写真である。

■ 確認結果

目録番号:4609「遊郭(2)」は、次の目録番号:1845「高島町新風楼(1)」(「神風楼」が正しい)のとおり、横浜の「高島町神風楼」ではないだろうか。
右側の屋上に緑色の手すりがある建物の造りが同じようである。

なお、2枚目の目録番号:1845「高島町新風楼(1)」は、同じ写真が米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モース・コレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊173頁に「269 横浜・遊郭神風楼 ca.1900 神奈川」として掲載がある。
撮影年代は「1900年頃」となっている。

長崎外の古写真考 目録番号:4600 浦 賀

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4600 浦 賀

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4600 浦 賀

■ 確認結果

目録番号:4600「浦賀」は、写真左下に”URAGA”とある。画像解説がないが、写っている寺は、浦賀湾の景色から横須賀市西浦賀の「東福寺」と思われる。

現在の東福寺の展望と明治地形図は、HP「まちあるきの考古学|浦賀」から。
現在の東福寺の写真は、HP「黒船写真館 西浦賀散歩」から。同の横須賀市ホームページより引用文は次のとおり。

東福寺(延命山・曹洞宗太玄派)

このお寺は、徳川家康が江戸に入城した折に、三浦半島の代官となった長谷川七左衛門長綱によって 改宗され、禅宗のお寺になりました。江戸幕府から御朱印地二石をもらっており、浦賀奉行も就任すると必ず仏参しました。
本堂には江戸時代中期を代表する画家 酒井抱一が描いた大きな「亀」の絵馬があります。
本堂より一段低いところある観音堂の観音菩薩は「海難よけの観音様」として信仰されており、次のような伝説があります。

江戸時代の初期、西浦賀紺屋町にあった淡路屋治兵衛の回船が上方から荷物を積んで浦賀に 向かっている時に、時化にあい、船が沈みそうなりました。船頭はじめ乗組員が日頃から信仰する観音様に助けを求めていると、不思議なことに 船の舳先に観音様が現れ、それと同時に海は穏やかになりました。
船頭や乗組員は、観音様が自分たちの命を救ってくれたとして、浦賀に入港すると東福寺に観音像を安置しました。この観音菩薩は三浦三十三観音の十三番札所になっています。かつて観音堂脇に湧いていた水は「甘露水」といわれた良い水でした。

長崎外の古写真考 目録番号:1009 愛宕山百段男坂(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1009 愛宕山百段男坂(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1009 愛宕山百段男坂(1)
〔画像解説〕
愛宕神社東側社前の急斜面にある男坂。百段とあるが実際には86段。現在の坂は戦災後昭和41年のもの。講談・浪曲の『寛永三馬術』で有名。鳥居の傍らに茶店が見える。右手に緩やかに登っているのが女坂(109段)。

目録番号:1008 愛宕下の墓地
〔画像解説〕
愛宕下とは愛宕山付近の東部低地一帯の俗称。写真は愛宕山から墓地・寺院を俯瞰したもの。愛宕山山上には京都愛宕神社を勧請した愛宕神社がある。江戸時代には雪見月見の名所であった。

目録番号:1090 愛宕山頂の神社(1)
〔画像解説〕
愛宕山山上にある京都愛宕神社を勧請した愛宕神社。左後方に鳥居と社殿が見える。大きな鉄灯籠の前、子供たちがこちらを見ている。右手の休み処からは眺望が開けている。江戸時代、愛宕山は雪見月見の名所であった。

目録番号:4584 愛宕山頂の神社(2)
〔画像解説〕
『ファーイースト』の1871年6月12日(旧暦明治4年4月29日)号に貼られた写真を、後に複写彩色して販売したものと思われる。『ファーイースト』は鶏卵紙の写真を貼り付けた英字新聞(後に月刊絵入雑誌に変更)。当時は1枚ずつ太陽光で焼付けたので、数種のネガを使用している。子供が7人居る写真もある。奥は火伏せの神として信仰された愛宕神社。

■ 確認結果

目録番号:1009「愛宕山百段男坂(1)」、目録番号:1008「愛宕下の墓地」、目録番号:1090「愛宕山頂の神社(1)」は、横浜で発行された英字新聞”THE FAR EAST”Vol.2 No.2 1871/6/16 にいずれも掲載された作品。

4枚目の目録番号:4584「愛宕山頂の神社(2)」は、掲載月日が違うし、子供が7人いる3枚目の目録番号:1090「愛宕山頂の神社(1)」の方が、新聞の掲載写真のようである。
”THE FAR EAST”は、九州大学デジタルアーカイブ本山文庫から。

愛宕山は、標高25.7m。現在の東京都港区芝愛宕1丁目、国道1号(桜田通り)と日比谷通りの間を南北に通る愛宕通り沿いにある。江戸から明治期にかけては東京湾、市中の眺望にすぐれたらしいが、現在は木々に囲まれ、樹林の隙間から見える景色も、ビルに囲まれ山頂にいる実感はもてないらしい。

長崎外の古写真考 目録番号:4234 桜(春) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4234 桜(春) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4234 桜(春)

目録番号: 76 野毛山の桜(1)
〔画像解説〕
英語で「桜の花、野毛山、横浜」と記入されている。横浜、野毛山の桜並木である。左右に用水路のある斜面の通りを人力車夫が婦人の客を乗せて走行している。右端に写った子供は丸刈り、着物姿である。  

目録番号: 699 町並の桜並木
〔画像解説〕
桜並木の坂道、着物姿の男の子と山高帽をかぶった男がカメラをじっと見詰めている。桜並木の古写真は本コレクション中に他にもあり(整理番号55-39)、それには「NOGE HILL」とある。本写真も同じ場所かもしれない。

目録番号:2779 野毛山の桜(6)
〔画像解説〕
野毛山一帯には、明治3年(1870)に伊勢山皇大神宮や成田山横浜別院(通称野毛不動)が勧請された。山上から港や市街が一望できることもあり、桜や紅葉の季節には多くの参詣者を集めた。

■ 確認結果

目録番号:4234「桜(春)」は、次の目録番号: 76「野毛山の桜(1)」のとおり、左右に用水路のある斜面の通りとなっており、横浜「野毛山の桜並木」と思われる。

目録番号: 699「町並の桜並木」も、次の目録番号:2779「野毛山の桜(6)」が整理番号55-39 である。同じく横浜「野毛山の桜並木」と思われる。

A.ファサリ撮影のA.ファサリ・アルバム(2) は、次のとおり春夏秋冬を写している。次を参照。

目録番号:4234 「桜 (春)」  横 浜 野毛山の桜
この記事。

目録番号:4235 「菖蒲(夏)」 東 京 堀切菖蒲園の菖蒲
https://misakimichi.com/archives/2526

目録番号:4236 「紅葉(秋)」 東 京 王子滝野川の紅葉
https://misakimichi.com/archives/2475

目録番号:4237 「雪 (冬)」  横 浜 増徳院薬師堂前の雪
https://misakimichi.com/archives/2463

長崎外の古写真考 目録番号:4108 崖からみた横浜居留地

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4108 崖からみた横浜居留地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4108 崖からみた横浜居留地
〔画像解説〕  超高精細画像 和文タイトル: 山手から見た山下居留地(2)
右手前の空き地は元フランス海軍物置所で、明治29年(1896)ここにフランス領事館ができる。現在はフランス山公園の一部となっている。左手は明治12年(1879)創業の機械製氷会社で、当初はジャパン・アイス・カンパニーという名前だった。、明治14年(1881)に競売に付され、横浜アイス・ワークスと名称を変えるとともに、オランダ人ストルネブリンクの経営となった。
堀川の向こうが山下居留地になる。画面中央には明治20年(1887)に鉄橋化された谷戸橋が見えている。その向こうがグランド・ホテル旧館(居留地20番)で、大きな煙突は自家発電所のものであろう。そのさらに向こうの三角屋根の建物が、明治23年(1890)にフランス人建築家サルダ(Sarda,Paul)の設計で増築された新館(18・19番)。橋の左手の寺院のような建物は旧ヘボン
(Hepburn,James Curtis)邸。

目録番号:4660 山手谷戸坂からのグランドホテル
〔画像解説〕
中央の建物はグランド・ホテル旧館。左奥にはサルダ(P.Sarda)設計の新館(明治20年竣工)が見える。旧館左の大きな和風屋根は旧ヘボン邸。谷戸橋の手前に広がる敷地には、のちに(同29年)同じくサルダの設計によりフランス領事館が竣工する。

目録番号: 101 グランドホテル全景
〔画像解説〕
英語で「グランドホテルの風景、横浜」とある。横浜バンドの東端、20番のグランドホテルの全景を元町側から撮影したものである。右端の大きな建物木骨石貼のグランドホテル旧館で、明治3年開業された。

目録番号:4910 山手より港を望む(2)
〔画像解説〕
谷戸坂上からの景。正面に和風屋根のヘボン邸が見える。左手に谷戸坂沿いの家並み。右手の茂みはフランス山(フランス軍が駐屯していたのでこう呼ばれる)。裏手には洗濯屋の店が見えるが、英国連隊の洗濯物を一手に引き受けていたと言われる脇沢金次郎の店であろう。

目録番号: 105 キャンプ・ヒル
〔画像解説〕
英語で「横浜のキャンプの丘」とキャプションが印字されている。これは、山手の外国人居留地の一部であり、幕末・明治初期に英仏軍が駐屯していたことから、「キャンプヒル」と呼ばれた。

■ 確認結果

目録番号:4108「崖からみた横浜居留地」(超高精細画像タイトル「山手から見た山下居留地(2)」)、目録番号:4660「山手谷戸坂からのグランドホテル」、目録番号: 101「グランドホテル全景」、目録番号:4910「山手より港を望む(2)」は、ほぼ同じ場所から撮影され、いずれも正面に「ヘボン邸」や「谷戸橋」などが写っている。

最後の目録番号: 105「キャンプ・ヒル」は、逆に「ヘボン邸」あたりから、山手「キャンプ・ヒル」を撮影した作品と思われる。
したがって、前4作品の撮影場所は、「谷戸坂上」には違いないが、「崖」とか「山手」からとしないで、「キャンプ・ヒル」からとした方が具体的と思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:4005 屋敷と庭園 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4005 屋敷と庭園 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4005 屋敷と庭園
〔画像解説〕
戸塚村(現新宿区戸塚町)にあった旧高松藩主松平頼聡の別邸であろう。明治15年(1882)に東京専門学校(現早稲田大学)を開校した大隈重信が、2年後の明治17年(1884)にこの屋敷を購入。庭を和洋折衷に改装したという。1904年発行の写真5010では池が埋められ芝生の庭園になっている。この写真は明治初年にスティルフリード(Baron Raimund Stillfried Rathenitz)が撮影したものと思われ、大隈が購入する以前だと思われる。

目録番号:5010 大隈重信の屋敷(2)
〔画像解説〕
戸塚村(現新宿区戸塚町)の大隈重信の屋敷である。大隈は出色の洋風建築として評判の飯田町(現九段1丁目)の屋敷に住居していたが、明治17年(1884)に東京専門学校に隣接した旧高松藩主松平頼聡(よりさと)の別邸を購入し移転した。購入すると多少の増築と改装をした。庭も写真4005に写る池を埋めたりして改造している。明治37年(1904年)、アンダーウッド&アンダーウッド社(UNDERWOOD &UNDERWOOD)発行のステレオ写真。

目録番号:5540 大隈重信の屋敷(3)

■ 確認結果

目録番号:4005「屋敷と庭園」の以降の変遷は、次の目録番号:5010「大隈重信の屋敷(2) 」、目録番号:5540「大隈重信の屋敷(3)」のとおり。
早稲田大学構内にある「大隈庭園」説明板は次のとおり。現在の復元された大隈庭園の写真は、HP「万歩計 早稲田大学界隈」及び「大隈庭園の四季」から。

大隈庭園   由来
この庭園は、井伊掃部頭・松平讃岐守の下屋敷にあった和様四条家風の名園を、本学創設者 大隈重信が文人風に改造したものです。没後、邸宅とともに大学に寄贈されました。
1945年(昭和20年)5月の空襲で廃墟と化しましたが、多くの人々の努力により、ほぼ昔の景観どおり復元され、今日に至っております。    早稲田大学

長崎外の古写真考 目録番号:4066 火消し衆(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4066 火消し衆(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4066 火消し衆(3)
〔画像解説〕
長梯子、纏、突きポンプを備えた8人の火消し衆(消防士)。それぞれ火消し半纏、防火頭巾、鉢巻きなどを身にまとう。明治時代の火消し衆の風俗。背後は寺院の一角らしく鐘楼もしくは燈台の石垣か。

目録番号:2656 芝増上寺有章院鐘楼(3)
〔画像解説〕
七代将軍家継(有章院)霊廟本殿の入口となる勅額門と鐘楼を南側から撮影したものである。勅額門の柱には龍の彫物があり、増上寺の徳川家霊廟の中では、最も華麗なものであった。将軍霊廟として最後の建築で、これ以後の将軍は、八代将軍吉宗の遺命により既存の霊廟に合祀する形で奥院だけを造るようになる。

目録番号:3017 芝増上寺有章院鐘楼(4)
〔画像解説〕
有章院御霊殿の勅額門(右)と鐘楼である。徳川家霊廟御霊殿拝殿前庭には、勅額門に向かって左に鐘楼、右に水屋と井戸屋形を配するのが典型的な姿である。この鐘楼は、昭和20年3月10日の空襲からは焼失を逃れたが、続く5月25日の空襲で残念ながら焼失した。

■ 確認結果

目録番号:4066「火消し衆(3)」は、次の目録番号:2656「芝増上寺有章院鐘楼(3)」のとおり、東京の芝増上寺で撮影している。鐘楼の造りが同じ。階下の板壁の数(中央7列11段)が合う。
3枚目の目録番号:3017「芝増上寺有章院鐘楼(4)」は、鐘楼を向きを変え撮影しているから、板壁の数は違っている。

”WEB 浮世絵”JIN-仁-の世界 その3  幕末 人間模様 に、「纏を持つ火消衆」の古写真があった。増上寺鐘楼前で同じ纏を持つ纏衆が撮影されている。

長崎外の古写真考 目録番号:3934 峠の小径 369

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3934 峠の小径 369

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3934 峠の小径 369

目録番号:3150 中山道の松並木(1)
〔画像解説〕
中山道が五街道のNo2として開設されたのは、慶長7年(1602)である。その際街道の並木として松もしくは杉が植えられた。中山道では安中(群馬県)の杉並木が有名だが、第二次大戦後車の排気ガスでその多くが枯死した。ところが中山道の笠取峠では旧中山道に平行して国道142号のバイパスが建設されて、公害から松並木を守っている。茶屋の前に停まっている人力車は、馬車が通れるように改修された街道であることを示している。

■ 確認結果

目録番号:3934「峠の小径 369」は、タイトルに「369」とある。付された数字の意味がわからない。スチルフリード撮影。アルバムの連番号か。「東海道」と確かに考えられるのだが、同じ松並木の写真が見当たらないから、以下は余計な想像をする。
奈良県「伊勢本街道」の国道369号ではないようだし、旧街道で有名な場所を探す。

広重の浮世絵「木曽街道六十九次の御嵩」に描かれた「十本木立場」。「謡坂一里塚」が江戸日本橋から94里目(約369km)にあたる。
データベースには、目録番号:3150「中山道の松並木(1)」の作品もある。数字からいうと、現在の岐阜県可児郡御嵩町「中山道謡坂(物見峠)」あたりが推測される。
現在の写真は、HP「中山道中遊歩録 街道の行く先へ」から。同説明は次のとおり。

物見峠越え ②
物見峠から先は謡(うとう)坂の下り。案内板に坂の名の由来が書かれていたのでそのまま引用する。『この辺りの上り坂がとても急なため、旅人たちが自ら歌を唄い苦しさを紛らわしたことから、「うたうさか」と呼ばれていたのが次第に転じ、「うとうざか=謡坂」になったのだともいわれています。』
しかし、江戸方からは鼻歌交じりに歩く軽快な下り坂。逆にここを上ってくる旅人には重宝されたのであろう唄清水や一呑の清水、地蔵の清水の名水が今も水脈を残している。十本木立場跡や石畳など、中山道の風情を色濃く残す。

「中山道」では、タイトルに付された数字「369」を考慮しないと、最後の写真どおり長野県立科町「中山道笠取峠」の可能性もあろう。現在の写真はHP「日本隅々の旅 全国観光名所巡り&グルメ日記」から。同説明は次のとおり。

笠取峠の松並木    (長野県立科町芦田)
旅人が上り坂で暑さと疲れのあまり、いつの間にか笠を取っていることから笠取峠と呼ばれるようになったと言われる。1604年、江戸幕府は街道の改修、一里塚の設置とともに街道筋に松や杉を植えて並木を作らせた。笠取峠の松並木は小諸藩が幕府から下付された数百本のアカマツを近隣の村人とともに、峠道約1.6キロにわたって植樹し、その後も補植を行い保護・管理を続けてきた。歌川広重の「木曾街道六十九次」芦田宿に描かれている中山道の名所である。

(追 記 平成23年3月20日)
なお、目録番号:3150「中山道の松並木(1)」は、東海道の保土ヶ谷と戸塚の間「信濃坂」とする解説が見つかったので、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2620

長崎外の古写真考 目録番号:3621 桜咲く公園(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3621 桜咲く公園(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3621 桜咲く公園(2)

目録番号:2660 上野公園の桜(3)
〔画像解説〕
赤坂見附は江戸城見附のひとつで、外郭門があった。その赤坂御門は石垣を残して明治5年(1872)に取壊された。この写真は高台の見附門があった所から、現赤坂見附交差点方向を俯瞰したもの。坂の右手が弁慶堀、左手が溜池になる。桜並木は明治14年(1881)に植えられたらしい。右奥に明治22年(1889)竣工の弁慶橋がまだ架かっていないようなので、明治20年(1887)頃の撮影か。

■ 確認結果

目録番号:3621「桜咲く公園(2)」は、次の目録番号:2660「上野公園の桜(3)」のとおり、東京の「上野公園」と思われる。ほぼ同じ場所から撮影されている。
桜並木の枝ぶり、奥に黒く写る建物、道路縁石が同じようだ。

長崎外の古写真考 目録番号:3192 甲州街道沿いの吊橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3192 甲州街道沿いの吊橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3192 甲州街道沿いの吊橋
〔画像解説〕
写真中央奥に吊り橋が写る河川の光景を写した写真であるが橋の名称や撮影位置は現在のところ不明である。写真タイトル「甲州街道沿い」であるとすれば、このような光景は桂川沿い、しかも山梨県大月市以東であると考えられるが、山梨県内では該当地を指摘できず、あるいは相模国側の甲州街道沿いとも考えられる。

目録番号:3118 富士川に架かる吊橋釜口橋(2)
〔画像解説〕
芝川町長貫(ながぬき)と瀬戸島(せとじま)の間の富士川の難所釜口峡(かまぐちきょう)に架かる吊り橋を南から撮影したもの。ここは両岸が切り立った崖で川幅が最も狭く、江戸時代には富士川に架かる唯一の橋であった。板を並べ藤蔓で縛ったスノコのような橋で、背景には尾崎の集落と白鳥山(しらとりやま)が見える。

■ 確認結果

目録番号:3192「甲州街道沿いの吊橋」は、次の目録番号:3118「富士川に架かる吊橋釜口橋(2)」のとおり、富士川に架かる唯一の橋とあり、「釜口橋」ではないだろうか。
2枚目のまだ手前の川岸河原から撮影したと思われる。