月別アーカイブ: 2011年3月

長崎外の古写真考 目録番号:1432 村山からの富士山 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1432 村山からの富士山 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1432 村山からの富士山
〔画像解説〕
写真中央に大きく富士山がそびえる構図だが、撮影位置等は不明。

目録番号:5367 山村からの富士山
〔画像解説〕
富士宮市村山あたりから富士山を遠望したものか。富士宮登山口から登る場合は、途中にある村山集落の村山浅間神社(むらやませんげんじんじゃ)・大日堂(だいにちどう)へ参拝し登っていく。富士山の稜線には宝永山の突起が右側にあるため、村山あたりからの撮影で問題はないが、特徴のあるものが見えないため、撮影地点の特定は難しい。

■ 確認結果

目録番号:1432「村山からの富士山」と、目録番号:5367「山村からの富士山」(タイトルは「村山」に訂正が必要)は、ベアト撮影の同じ写真。
HP鮎川俊介氏の「幕末・明治の日本を歩く」は、ベアトが富士宮の村山を訪ねていることを、次のとおり記している。

『富士山よもやま話』遠藤秀男(静岡新聞社)によると、オランダ公使ポルスブルック一行の富士登山にベアトが随行した。江戸を出立し、横浜、吉原を通り、慶応3年(1867年)8月14日(9/11)の昼頃、富士宮の村山に到着した。村山で宿泊した一行は、翌15日に村山口登山道を登って富士登頂を目指すのだが、富士登山の時期としてはやや遅い。

途中の石室で宿泊し、16日に登頂したというが、「その記録はまだ見つかっていない」(『富士山よもやま話』)という。塩川論文にも「ポルスブルックは登山の記録は残していない」とある。
随行カメラマンのベアトが、その富士登山の時の写真(村山口から頂上までの)を1枚も残していないというのも不自然らしい。

以上からとりあえず、目録番号:5367「山村からの富士山」の画像解説どおりとして、現在の村山浅間神社から見た富士山の写真を、ブログ「ある日・ある時・ある場所で…」富士山すそ野ウォークより掲げてみる。

長崎外の古写真考 目録番号:5398 パゴダ島のサンビーユ氏の邸宅 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5398 パゴダ島のサンビーユ氏の邸宅 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5398 パゴダ島のサンビーユ氏の邸宅

目録番号:5399 サンダース夫人とサンビーユ夫人
〔画像解説〕
二人の外国人女性が椅子に腰掛けたスタイルで撮影されている。サンダース婦人とサンビーユ婦人と記されるが詳細不明である。

■ 確認結果

目録番号:5398「パゴダ島のサンビーユ氏の邸宅」と、目録番号:5399「サンダース夫人とサンビーユ夫人」は、ベアト等アルバムの続きから、「撮影地域:香港」と思われる。
サンビーユ夫人は、邸宅の夫人であろう。

「パゴダ島」は不明。タイのサムイ島最南端に建つパゴダは、海の安全を祈願して造られたそうだが、「パゴダ島」とは言わない。ほかに該当する地名がなく、香港と思われる。

香港港の「ダグラス号」記事で、目録番号:5395「S.A.が撮ったダグラス号」の「S.A.」は、人名ではないかとふれた。香港に邸宅がある「サンダース」か「サンビーユ」氏のことではないだろうか。

長崎外の古写真考 目録番号:5391 ダグラス号 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5391 ダグラス号 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5391 ダグラス号

目録番号:5395 A.S.が撮影したダグラス号          (掲載略)

目録番号:5396 香港に到着したダグラス号

目録番号:5397 ディオュで座礁したダグラス号         (掲載略)

■ 確認結果

ベアト等アルバムの「ダグラス号」関係4作品。いずれも同じような光景であり、香港の港で撮影されたと思われる。
掲載を略した作品の、「A.S.」は人名、「ディオュ」は近くの地名のようだが、不明。

目録番号:5391「ダグラス号」と、目録番号:5396「香港に到着したダグラス号」は、同じ写真である。香港に到着したダグラス号を撮影しているなら、「撮影地域:香港」となろう。
目録番号:5397「ディオュで座礁したダグラス号」も、同じ写真である。
目録番号:5386「廈門港で座礁したアメリカ船」の作品もあるが、船は少し違うようだ。

長崎の古写真考 目録番号:5334 上級武士の家族 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5334 上級武士の家族 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5334 上級武士の家族
〔画像解説〕
明治5年ごろ上野彦馬撮影。大村藩30代藩主で文久3(1863)年には長崎総奉行を勤めた純熙(すみてる)の家族写真。純熙は明治2(1869)年の版籍奉還で藩知事、明治4年の廃藩置県で引退した直後の明治5年ごろ撮影。場所は長崎の大村屋敷(現中町教会)の玄関。

目録番号:5335 上野彦馬と家族
〔画像解説〕
明治3〜4年ごろの上野写真館における上野彦馬の家族写真。写されているのは彦馬をはじめ、彦馬の母伊曾(いそ)、彦馬の妻むら、彦馬の4人の妹たち、この、(牧)ちえ、ぬさ、にわおよび牧の娘なかと元次郎である。

目録番号:5332 男性の肖像(52)        (以下、掲載略)

目録番号:5333 男性の肖像(53)

目録番号:5336 日本人の集合写真

■ 確認結果

上野彦馬アルバム。連番号からいうと、目録番号:5332 から、目録番号:5336 までの5作品。〔撮影地域:未詳〕となっているが、いずれも長崎の上野写真館などで撮影されたのではないだろうか。

特に目録番号:5334「上級武士の家族」は、「大村純熙(すみてる)の家族写真。明治5年ごろ撮影。場所は長崎の大村屋敷(現中町教会)の玄関」。次の目録番号:5335「上野彦馬と家族」は、「明治3〜4年ごろの上野写真館における上野彦馬の家族写真」と、はっきり画像解説している。

長崎外の古写真考 目録番号:1433 原宿の庭

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1433 原宿の庭

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1433 原宿の庭
〔画像解説〕
純日本風の屋敷の庭園で、日本髪に着物姿の女性が4人、髷を結い羽織袴を着た男性が2人。記念写真風の構図である。

■ 確認結果

目録番号:1433「原宿の庭」は、「撮影地域:静岡」。具体的な場所は、沼津市原にある「帯笑園(たいしょうえん)」。旧東海道の宿場町、原宿の豪農であった植松家の庭園である。
厚木市所蔵のベアト写真集に、「原宿 帯笑園」と題されて掲載されている。

静岡県「しずおかネットテレビ/5ch」しずおかお楽しみ情報による説明は次のとおり。現在の写真も同から。 
帯笑園(たいしょうえん)
沼津市原にある帯笑園は、旧東海道の宿場町、原宿の豪農であった植松家の庭園として造園され、その美しさは幕末の博物学者シーボルトも絶賛したと伝えられています。当時の庭の在り方を示す、貴重な歴史資料ともいえるこの庭は、後世に残すべき日本の園芸文化の遺産です。

なお、慶應義塾大学 高橋信一教授HP「教育の原点を考える」2008年12月の記事 ”朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価”は、この作品を次のとおり取り上げている。

…1867年富士登山の途中で静岡・原宿の植松家に行った際の写真が有名だが、ここには1858年にポルスブルックが長崎から陸路神奈川に移る際に寄っている。
79  静岡・原宿植松家の人々
9年ぶりの再会である。ベアトが同行した。1858年の際は、たくさんの警備の武士が付いていたが、今回はポルスブルックの恋人が同行するくらい安全になっている。No.169の項で述べるが、No.78に写る女性と同じであり、ヒュースケンでなく、ポルスブルックの恋人であろう。彼らの子供もいっしょだったかもしれない。

長崎外の古写真考 目録番号: 168 田子ノ浦沼川からの富士山(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 168 田子ノ浦沼川からの富士山(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 168 田子ノ浦沼川からの富士山(2)
〔画像解説〕
田子の浦より見た富士山。現在の沼川、鈴川付近の橋。人力車と旅人を眺める人物は舟の船頭か。舟は比較的大きな和船で荷船であったと考えられる。

目録番号:1220 田子ノ浦沼川からの富士山(10)
〔画像解説〕
静岡県東部、駿河湾奧にある田子ノ浦橋と富士山。左端には3隻ほどの荷船も見える。万葉の歌人山部赤人が、歌枕に読み込んだ地としてあまりにも有名である。

■ 確認結果

田子ノ浦から富士山を写した作品は多い中、目録番号: 168「田子ノ浦沼川からの富士山(2)」だけ、「現在の沼川、鈴川付近の橋」と画像解説している。
鈴川付近の有名な橋「河合橋」ではない。
鈴川の「河合橋」は、 https://misakimichi.com/archives/2289

次の目録番号:1220「田子ノ浦沼川からの富士山(10)」のとおり、この橋は、「田子ノ浦港(昔の吉原湊)手前の便道に架かっていた田子ノ浦橋(明治6年架橋)」である。
この点は、次HPが指摘しているので参照。

画廊アモン Sideway 古写真2  http://yass.m78.com/sideway/hakone/koshyashin2.html
上段の写真はお気に入りの1枚で、田子の浦からの富士山です。写真の説明には「現在の沼川、鈴川付近の橋」とあったので地図で調べたところ、富士山の方向に流れがあるのは和田川との合流後のわずかな区間だけでした。もし私の考えが正しいのなら、写っている上流部は和田川であり、すぐ先には左富士神社が有る筈です。下段の写真は、富士と港の見える公園から田子の浦港を写したものです。左端に写っているループ陸橋の辺りが古写真右側の松林だったのではないかと思っています。本来なら正面に富士山が写っている筈ですが、ご覧の様に雲に覆われてしまいました。

田子の浦から見る富士山(晴れた写真) http://mohsho.image.coocan.jp/tagonourafuji03.html
「富士と港の見える公園」から見た午後の富士山、2008年1月25日
「山頂は左端で尖り)、宝永山が右稜線に」が確認できる。

2枚目の目録番号:1220「田子ノ浦沼川からの富士山(10)」は、1886年にA.ファサリが撮影した写真である。  http://mini1000.posterous.com/1880-gigazine
同上末尾の出典 Japon 1886 – Adolfo Farsari – a set on Flickr をクリックすると、A.ファサリによる1880年代の日本のさまざまな彩色写真を見ることができる。

長崎の古写真考 目録番号:5337 お茶の梱包(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5337 お茶の梱包(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5337 お茶の梱包(2)

■ 確認結果

目録番号:5337「お茶の梱包(2)」は、上野彦馬撮影。アルバムの作品の続きから「撮影地域:長崎」となるだろう。長崎大学附属図書館もそのように判定している。
長崎新聞HP「龍〜なが」から長崎新聞2010年12月5日記事は次のとおり。

龍馬動く 関連企画 (2010年12月5日更新)   長崎新聞
長崎遠めがね 古写真に見る町と人 長崎大付属図書館協力・46 お茶の梱包

幕末には輸出品トップ

長崎から初めてお茶が輸出されたのは、1856(安政3)年のことである。長崎の油商の家に生まれた大浦慶が、イギリスの商人オルトの注文をうけ、嬉野などから大量のお茶を集めてアメリカに輸出したのが最初である。
66(慶応2)年には、当時、長崎で最大の輸出品であった海産物を抜いて、輸出品の第1位を占めるようになった。このころから明治にかけて、大浦居留地にはグラバーやオルトなどが大規模な製茶工場を建て、何百人もの人が、乾燥や箱詰めの作業に当たっていた。
(長崎大付属図書館長・柴多一雄)

長崎外の古写真考 目録番号:5276 門司連絡桟橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5276 門司連絡桟橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5276 門司連絡桟橋
〔画像解説〕
「門司十二景」と題した絵葉書セットの1枚だが、同名のセットは多種存在する。桟橋通で、左側中央のレンガ建築が三井物産門司支店(明治43年火災後再建)、その手前が川卯旅館であるが現存していない。旅館の前のポストやガス灯、人力車が印象的である。明治末〜大正初期の撮影と推定される。

■ 確認結果

目録番号:5276「門司連絡桟橋」のタイトルは、「門司十二景」絵葉書の題どおり、「門司連絡桟橋通り」とするべきだろう。

布巻から寺岳と佐敷岳へ  平成23年3月

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布巻から寺岳と佐敷岳へ  平成23年3月

平成23年3月13日(日)快晴。布巻から寺岳(標高451.8m)と佐敷岳(標高502m)へ。3月6日が雨のため延期して実施。参加12人。みさき道歩会の例会。
三和行政センター前9時30分発—布巻—草墨神社ー寺岳11時50分着(昼食)—佐敷岳13時20分着—松尾岳—平山ー三和行政センター前15時40分着(徒歩距離約12km)

集合場所の三和行政センター前、1枚目右上に写る山が、八郎岳南の山系の寺岳・佐敷岳。あの2つの尾根を登って下る一周コース。布巻から寺岳へは、平成17年12月。佐敷岳から平山へは、平成19年2月以来となる。近くの山なのに、長く歩いていなかったので、登山道を確認する。

寺岳へは布巻のサイクリング道路に、朝霧が付けた谷コースと尾根コースの道標がある。もちろん尾根コース。寺岳中腹の草墨神社で両道は合う。神社の上は迷いやすかったが、植林内の急な尾根を直登すると、寺岳三角点へ出る。展望が良い利作岩で昼食。

寺岳12時30分発、八郎岳縦走路を50分歩いて佐敷岳へ着く。野生鹿はこの辺りに多いが、きょうは出会わなかった。佐敷岳から松尾岳へ急な尾根を、1ピッチ45分で下る。
松尾岳は平山方面から眺めると、高い山に見えないが標高297mある。急な下りがまだ続き、やっとサイクリング道路へ出た。
以前に比べると、植林が大きくなり、登山道は踏みならされ、歩きやすいコースとなっていた。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/27430588.html

長崎外の古写真考 目録番号:4760 庭園と芸奴

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4760 庭園と芸奴

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4760 庭園と芸奴

目録番号:4447 王子の茶屋(扇屋)(9)
〔画像解説〕
キャプションに扇屋とある。落語「王子の狐」はこの扇屋を宣伝するPR落語。若い娘に化けた狐に声をかけて、扇屋に連れ込み、ご馳走を食べ、狐に酒を飲ませ、寝込んでいる間にドロンして狐に勘定を払わせようとする噺。後日饅頭を持って狐に謝りに行った時、「馬の糞かもしれない」と狐が言うのが落ちである。

■ 確認結果

目録番号:4760「庭園と芸奴」は、次の目録番号:4447「王子の茶屋(扇屋)(9)」の庭園と同じ
でないだろうか。
2器の庭園灯、立木、石の配置などが似ている。護岸の川は流れをまっすぐに変えているようである。