長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3934 峠の小径 369
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:3934 峠の小径 369
目録番号:3150 中山道の松並木(1)
〔画像解説〕
中山道が五街道のNo2として開設されたのは、慶長7年(1602)である。その際街道の並木として松もしくは杉が植えられた。中山道では安中(群馬県)の杉並木が有名だが、第二次大戦後車の排気ガスでその多くが枯死した。ところが中山道の笠取峠では旧中山道に平行して国道142号のバイパスが建設されて、公害から松並木を守っている。茶屋の前に停まっている人力車は、馬車が通れるように改修された街道であることを示している。
■ 確認結果
目録番号:3934「峠の小径 369」は、タイトルに「369」とある。付された数字の意味がわからない。スチルフリード撮影。アルバムの連番号か。「東海道」と確かに考えられるのだが、同じ松並木の写真が見当たらないから、以下は余計な想像をする。
奈良県「伊勢本街道」の国道369号ではないようだし、旧街道で有名な場所を探す。
広重の浮世絵「木曽街道六十九次の御嵩」に描かれた「十本木立場」。「謡坂一里塚」が江戸日本橋から94里目(約369km)にあたる。
データベースには、目録番号:3150「中山道の松並木(1)」の作品もある。数字からいうと、現在の岐阜県可児郡御嵩町「中山道謡坂(物見峠)」あたりが推測される。
現在の写真は、HP「中山道中遊歩録 街道の行く先へ」から。同説明は次のとおり。
物見峠越え ②
物見峠から先は謡(うとう)坂の下り。案内板に坂の名の由来が書かれていたのでそのまま引用する。『この辺りの上り坂がとても急なため、旅人たちが自ら歌を唄い苦しさを紛らわしたことから、「うたうさか」と呼ばれていたのが次第に転じ、「うとうざか=謡坂」になったのだともいわれています。』
しかし、江戸方からは鼻歌交じりに歩く軽快な下り坂。逆にここを上ってくる旅人には重宝されたのであろう唄清水や一呑の清水、地蔵の清水の名水が今も水脈を残している。十本木立場跡や石畳など、中山道の風情を色濃く残す。
「中山道」では、タイトルに付された数字「369」を考慮しないと、最後の写真どおり長野県立科町「中山道笠取峠」の可能性もあろう。現在の写真はHP「日本隅々の旅 全国観光名所巡り&グルメ日記」から。同説明は次のとおり。
笠取峠の松並木 (長野県立科町芦田)
旅人が上り坂で暑さと疲れのあまり、いつの間にか笠を取っていることから笠取峠と呼ばれるようになったと言われる。1604年、江戸幕府は街道の改修、一里塚の設置とともに街道筋に松や杉を植えて並木を作らせた。笠取峠の松並木は小諸藩が幕府から下付された数百本のアカマツを近隣の村人とともに、峠道約1.6キロにわたって植樹し、その後も補植を行い保護・管理を続けてきた。歌川広重の「木曾街道六十九次」芦田宿に描かれている中山道の名所である。
(追 記 平成23年3月20日)
なお、目録番号:3150「中山道の松並木(1)」は、東海道の保土ヶ谷と戸塚の間「信濃坂」とする解説が見つかったので、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2620