長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2522 僧侶たち(3) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:2522 僧侶たち(3)
〔画像解説〕
横浜写真の一枚もの。「大聖院」における何かの法要の記念写真か。多数の仏教の僧侶全員が豪華な袈裟を着けて勢ぞろいし、信徒とおぼしき人たちがこれを取り巻いている。
目録番号:4402 僧侶たち(6) 掲載略
〔画像解説〕
作者未詳の横浜アルバムに収載された一枚。目録番号2522と同じ写真である。「大聖院」における何かの法要の記念写真か。多数の仏教の僧侶全員が豪華な袈裟を着けて勢ぞろいし、信徒とおぼしき人たちがこれを取り巻いている。
■ 確認結果
目録番号:2522「僧侶たち(3)」と、目録番号:4402「僧侶たち(6)」は同じ写真。横浜アルバムに収載。左上の幟に赤で「大聖院」とある。横浜には「大聖院」という寺は、3寺あるが、横浜市磯子区東町の「根岸山 大聖院」と思われる。「撮影地域:横浜」として良いのではないか。
HP「横浜市政レポート」2010/05/24大聖院の記事は、次のとおり。現在の寺の写真は、HP「万歩計 散策点描」から。
元禄時代の彫刻「雨乞いの龍」が現存。明治初期には根岸小学校の前身にも。
開創500年近い「大聖院」(磯子区東町6−20)
今回は、JR根岸駅の正面に見える大聖院を探訪しました。正式名称は「根岸山・大聖院・覚王寺」で、南区堀の内に今もある宝生寺の住僧が天文5年(1536)に開創、500年近い歴史のある寺院です。ちなみに、『磯子の史話』には、「室町時代のものと思われる長さ63㎝ほどの板碑(板石でつくった卒塔婆)が境内に3基あり、阿弥陀の梵字がはっきり表れていて当寺は真言宗ですが、本尊は阿弥陀如来ですから、当時の板碑。」と記され、大聖院が室町時代にあったということがわかります。
時代は下って、幕末期には大聖院には寺子屋も開設されました。その後、明治6年に根岸小学校の前身「志敬学舎」が誕生したときは大聖院の本道を借用し、児童およそ30名で授業が始められ、校舎が新築される明治13年まで続けられました。大正12年の大震災の時は、門は倒れ、本堂や庫裏は破損し、昭和9年に再建しました。
本堂の欄間には「雨乞いの龍」という極彩色の彫刻があり目を引きますが、これについてご住職の鷲尾興春師にお伺いをしたところ、「この彫刻は元禄時代に本堂にあったものを改築するときにはめ込んだもので、実際に明治の末までこの欄間を海中に浸して雨乞いの儀式をしていましたが、保存状態は良好で、ひび割れなどの破損箇所は一切ありません。また、本堂天井に描かれた躍動する『赤龍』は、日本画家を代表する奥田元宋画伯の作で、昭和56年に龍子夫人の七回忌供養に奉納されたものです。赤色の龍は、おそらく全国でも大聖院だけでしょう。」とお話しをいただきました。
境内には「お砂踏み」といって、20枚の敷石の下に、先代のご住職が四国八十八ヶ所を巡り、自ら持ち帰った砂が埋まっている小庭があり、一巡りすると「四国巡拝」をしたことになるといわれ、私も巡ってきました。大聖院では、四国八十八ヶ所の第四十七番「八坂寺」の仏様を預かっていることから、東国八十八ヶ所霊堂の第四十七番になっています。(他に、横浜観音三十三ヶ所霊場の第二十一番、横浜弘法大師二十一ヶ所霊場の第十五番となっている。)
また昨年は、能と新劇が一緒になった「朗読の夕べ」が杉田劇場との共催で開かれ、本堂に
100名以上の参加があり超満員だったとお聞きし、新しい息吹を感じました。