長崎県の石橋」カテゴリーアーカイブ

世知原中学校校庭の「若鮎橋」   佐世保市世知原町

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世知原中学校校庭の「若鮎橋」   佐世保市世知原町

佐世保市(世知原町)に残るアーチ式石橋については、本ブログ前の記事を参照。世知原中学校校庭の「若鮎橋」を次のとおり紹介していた。  https://misakimichi.com/archives/929
写真 12  若 鮎 橋  (世知原中学校グランド)
雲仙普賢岳の噴石を使用して、生徒達が組み上げた石橋。
生徒達は試作の「ぐらぐら橋」からスタートして、この150個の噴石を組み合わせた石橋を完成させた。切石で無い石橋は古里に架かる小さな石橋を思わせる素朴で懐かしい佇まいを見せていた。
架橋 平成15年12月8日  橋長 4.0m  幅員 0.8m 
(若鮎橋の説明は、HP「長崎県の石橋を訪ねて」から)

先日、2014年6月13日(金)に世知原中学校を再び訪ね、この「若鮎橋」を詳しく写してきた。その後、中学校が設置している現地説明板や架設アルバムなどは、次のとおり。
石橋を守る会の末永先生が当時、世知原中学校に赴任されており、架設にたいへん尽力された。

若 鮎 橋 (わかあゆばし)    現地説明板
架設…平成15年(2003年)12月
橋長…3.4m 橋幅…0.8m 径間…1.6m 拱矢…0.8m 石材…角閃石安山岩
学校教育に総合的な学習の時間が導入され、生徒たちは「ふるさと」をテーマに学習を始めた。その中から「私たちのふるさとにはたくさんの石橋がある。私たちも架けてみたい」という生徒の発想が生まれ、教職員と地域の方々の協力を得て架けられた。
使用した石は、雲仙普賢岳の噴石(角閃石安山岩)で、島原振興局、国立公園管理事務所のご理解・ご協力で実現した。
2005年3月20日におきた福岡沖地震の折りには、この地域は震度4で大きく揺れたが、壊れることはなく、石橋の耐震性を証明した。

なお、長崎県には都市計画課所管「長崎県美しい景観資産登録制度」がある。同石橋HPでは、世知原は中学生がせっかく造った「若鮎橋」、千々石は千々石町郷土誌にも紹介する「水道橋」が登録されていない。
建築年代は問わないので昨年11月 県へ意見したら、登録には市町の申請、審議会の審議が必要であるという。関係者すべておかしな判断であろう。
後ろの写真は、近くにある世知原町旧松浦炭鉱事務所の石造アーチ門と、山口神社の石造倉庫アーチ門。

「ミニ眼鏡橋」が48年ぶり諫早市へ里帰り  諫早市高城公園

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「ミニ眼鏡橋」が48年ぶり諫早市へ里帰り  諫早市高城公園

長崎新聞ホームページ:【県内トピックス】2012年12月20日記事は、次のとおり。
いきさつは、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3033
写真の後ろは、1957年の諫早大水害後、諫早公園に移築されている国指定重要文化財「眼鏡橋」と、本明川に架かっていた頃の場所。うなぎ割烹「北御門」近く、現在の橋が架かっている。

5分の1の「ミニ眼鏡橋」

諫早市高城町の諫早公園にある国重要文化財「眼鏡橋」の5分の1サイズの縮尺模型「ミニ眼鏡橋」が、眼鏡橋近くの高城公園に復元され19日、現地で竣工(しゅんこう)式があった。
ミニ眼鏡橋は1957年の諫早大水害後、本明川に架かっていた眼鏡橋を諫早公園に移築する際、誤差や強度などの技術的データを収集するため造られた。64年に埼玉県所沢市のユネスコ村に譲渡されたが近年、諫早市の市民団体「ミニ眼鏡橋の里帰り委員会」が里帰り運動を展開。昨年12月に同市に戻り、7月末から復元作業を続けていた。

ミニ眼鏡橋は長さ約10メートル、幅約1メートルで、請け負った県建設業協会諫早支部が精巧に復元。復元場所は眼鏡橋正面にある芝生広場の一角で、見る場所によっては”親子眼鏡橋”になる。今後は市が管理し、渡ることはできない。
竣工式では高尾茂会長は「眼鏡橋は諫早のシンボル。親子橋として地域振興に役立てていきたい」とあいさつ。宮本明雄市長も「里帰りは諫早の誇りが取り戻せた感がある。後世に受け継いでいきたい」と話した。里帰り記念として、諫早中央保育所の園児が舞を披露した。

山の田貯水池と田代川の石橋  佐世保市桜木町・田代町

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山の田貯水池と田代川の石橋  佐世保市桜木町・田代町

山の田貯水池などの「九州の近代土木遺産」国土交通省九州地方整備局ホームページによる説明は、次のとおり。
本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/1239

山の田浄水場群(やまのたじょうすいじょうぐん)
佐世保市  第一砂倉庫  所在 長崎県佐世保市
文化財等 選奨土木遺産  ランク A  管理者 佐世保市

日露戦争直後、佐世保市の海軍施設の増強に伴い、水道施設の拡張が必要となり建設された山の田貯水池(明治41年完成)が山の田浄水場の始まりである。以来、数回の拡張工事を経て、様々な施設が設けられた。存在そのものが珍しい砂倉庫や浮彫を多用し装飾的な(旧)量水池上屋、ゴシック風の第2配水池入口など、これらの構造物は明治期、大正期の建物の様式を残しており意匠的な工夫が見られる。
佐世保市の水需要を支えてきた施設群であり、貴重な遺産であることは言うまでもないが、その施設群の一部が今なお現役で活躍していることに賞賛を送りたい。

山の田自然歩道に残るアーチ式石橋(写真4)を前の記事に載せたところ、「昨日行ってきましたが、山の田自然歩道にはもう一つ、アーチ式の石橋がありますよね。途中から、別の道に入り込んだ先です。 2012/8/26(日) 午前 9:06 [ 溶岩君 ] 」とコメントがあった。
私は現地は今度が初めてで、この石橋を知らない。石橋研究の末永先生(吉井町)へ念のためお知らせした。次のとおり返信をすぐもらった。

「昨日(8月29日)、山の田自然歩道へ行ってきました。『別の道』というのはかつて貯水池ができる前の、田代町から桜木町へ通う道だと思います。5年ほど前に私が得ていた情報はおそらくこの橋のことでした。…
添付している写真(最後の画像)は、このむかしの道に架かっている橋です。(田代橋)。アーチ状にはなっていますが、基礎の石垣の形状や拱矢比、親柱(コンクリート)から判断すると、石造アーチをコンクリートで覆ったとは考えにくいです。RCアーチ橋だと判断しました。

私が以前に得た情報では、石橋はまだ上流側にあるようです。インターネットの地図を拡大すると、この田代橋の更に上流に2つほどの橋がかかっています。石橋は次の橋ではないかと思っていますが、前記したように前へ進める状況ではありません。
したがって調査は10月以降になるかと思います。ひょっとしたら私の判断の誤りもあるかと思いますので、情報を待っています」

コメントした[ 溶岩君 ]は、連絡先不明。詳細が聞き出せないので、私もきのう8月31日、「田代橋」を確認のため訪ねた。山の田自然歩道の中ほど、②の橋の手前に、「田代橋」まで歩ける分岐道があり、田代川の橋まで10分くらいだった。
地形図に示した③の場所で、コメントがあった橋に間違いないだろう。親柱に「田代橋」「大正十四年四月」とあった。ただし、残念なことにコンクリート製の「RCアーチ橋」だった(写真8,9)。

橋を渡ると、道が荒れ判然としなくなるが、道脇の要所に低い石柱が立ち、道筋を示す。山腹を左側へ進み、いったん古ショベルカーを放置した林道終点に出、先に小沢があるが、石橋はない。竹林の急斜面を登ると、下から上がってきた烏帽子岳への登山道路へ出た。田代町の民家下だった。
山の田貯水池堰堤右の場外が、「桜の里公園」。自然歩道の入口である。一万図が掲示され、これによると田代川には3つの橋(②③④)が表示されている。
「田代橋」③がわかったので、その上流の④を調べることとした。

登山道路を少し進むと、右下の谷間へ下るコンクリート舗装の道路がある(太陽商事貸物件の看板が立つ)。途中で舗装は切れ廃道となっているが、広い砂利道である。
かつて谷間に住家が3軒ほどあったためだが、倒壊している。田代川に出たが、架かっている橋はコンクリートの分厚い一枚橋(写真13)だった。付近の川はどこも全面改修されている。
田代川の現況は、以上のとおり。せっかくの情報だったが、[ 溶岩君 ]や末永先生、石橋HP贄田さんへ報告します。ご足労かけました。できたら再確認をお願いしたい。

佐世保市に残るアーチ式石橋 (4)

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佐世保市に残るアーチ式石橋 (4)

佐世保市(世知原町・吉井町・宇久町を除く)に残るアーチ式石橋10橋を、先に紹介していた。
https://misakimichi.com/archives/793 ほか。
その後2011年、別に2橋が見つかっているので、きのう確認してきた。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。

写 真  1〜  8  山の田自然歩道の石橋
佐世保市桜木町
橋幅:3.3m  径間:1.8m  拱矢:0.9m
環厚:要石45cm  輪石:11列
基礎H:左岸下流側80cm、上流側44cm  右岸下流側70cm、上流側44cm

東側(山の田貯水池奥)からアクセスしました。800mくらい進んだところにそれらしき場所。
上流側は一見すると桁橋ですが、中は石造アーチ橋。
内部は自然石に近い荒い加工ながら、列はきちんと整っています。
川床には敷石。すぐ下流は山の田貯水池の排水口。

写 真  9〜 16  野中町の石橋
佐世保市野中町
橋幅:2.15m  径間:1.6m  拱矢:0.8m
環厚:要石35cm  輪石:7列
基礎部H:0.49m
架設:明治38年(1905)

MR野中駅の佐世保側約60m。目印は旧国道の線路側に露出した壁石のプレート。
「明治三十八年三月竣工」
下流側から潜り込み、桁橋の奥に石造アーチ橋。奥はMR西九州線のRC橋梁。
末永さんのコメント「このような輪石の削り方が長崎県の橋にあったことに仰天。まるで京都の石橋のようだ。しかしなぜこの作り方が広がらなかったのか。少なくとも県北で見ることはできない。」
長崎縣技師 東島權次郎 設計  長崎縣屬 松本松之丞  長崎縣 工手 木村廣楠 董工
上記HPも参照。  http://5.travel-way.net/~niemon/nagasaki/sasebosi/hasi/nonaka.html

ミニ眼鏡橋:諫早に“里帰り”決定  埼玉・所沢で解体始まる 

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ミニ眼鏡橋:諫早に“里帰り”決定  埼玉・所沢で解体始まる

Yahoo! きょうのトピックスに、次のとおり毎日新聞配信記事があった。
この項は、下記のHP「長崎県の石橋を訪ねて〜眼鏡橋の故郷」の記事を参照。当時の諫早市による現地視察写真、長崎新聞記事も同HPから。
http://www.fwd-net.com/hashi/mini.htm
ミニ眼鏡橋の詳しくと寄付金送付先は、市民団体「ミニ眼鏡橋の里帰り委員会」HPを。 
http://www.geocities.jp/mini_meganebasi/

ミニ眼鏡橋:諫早に“里帰り”決定 埼玉・所沢で解体始まる /長崎
毎日新聞 11月29日(火)15時19分配信

諫早市の諫早公園にある国指定重要文化財・眼鏡橋を移築する際に作られた縮小模型の“里帰り”が正式に決まり、搬送するための解体作業が28日、埼玉県所沢市のユネスコ村(06年に営業休止)で始まった。解体は12月上旬に終わり、部材が諫早市へ送られる。移設先が決まるまで市有地に一時保管される。【柳瀬成一郎】
市民団体「ミニ眼鏡橋の里帰り委員会」によると、今年春に始めた募金が約600万円に達し解体運搬費用を賄えるようになったため、権限移譲の交渉を市に依頼。市は今月18日、所有者の西武鉄道と譲渡契約を結んだ。今後、移設先の選定や設置費用など約900万円が必要となるため、同委員会は引き続き募金を続ける。
眼鏡橋は1839年に完成。1957年の諫早大水害後、河川拡幅に伴い近くの諫早公園に移設するため、59年に解体された。その際、再び石を積み上げるためのデータを集めようと、5分の1の模型を製作。文化的価値が認められ、64年にユネスコ村に移設された。〔長崎版〕

諌早眼鏡橋の復元検証模型を呼び返そう
(HP「長崎県の石橋を訪ねて〜眼鏡橋の故郷」から)

埼玉県のユネスコ村に保存されている「復元検証模型」の里帰りについて進展がないものかと、諫早市役所に問い合わせをした際の報告をしてみたい。(09/24/2003)

■里帰り問題の現状について

市当局としては上記の写真のように、諫早眼鏡橋の復元検証模型が移築可能かどうかの判断ができる土木部の幹部職員を現地に派遣して状態を詳しく調査した。
調査の結果は、加工した石材の状況は良く、解体・運搬・復元に耐えうる状態と判断した。しかし模型自体は移築に耐えうるとしても、現在の所有者であるユネスコ村への交渉は全くの白紙状態であるし、市の事業として実施する場合の移転費用の積算や事業計画の立案などはこれからとの事。

執務中に丁寧に対応していただいた土木部の幹部職員の方にも先輩諸氏の素晴らしい仕事の遺産を、何とかしたいという気持ちが現れていた。
しかし税金を投入しての事業であれば、おいそれと安易な話ができないのは当然のことだ。ここで新聞記事でも有ったように、市民の間からの要望がなければ事業計画を進めることはできないだろう。いま私達に何が出来るか?まずはそこから始めなければいけないと思う。

■06/08/2003の掲載内容の要旨

長崎新聞を開いたら「模型古里へ戻そう」の記事が目に入った。当サイトの「諫早眼鏡橋」でも紹介している、埼玉県所沢市ユネスコ村のミニ諌早眼鏡橋の記事だった。(06/08/2003)

新聞記事には簡単にしか触れていないが、この模型は移築復元の唯一の成功例といわれる諌早眼鏡橋移築の技術的な諸問題の解決のために造られたもの。
この橋は模型とはいえ、10mの大きさであるとともに、出来栄えの素晴らしさから文化財に準ずる扱いをする為に、ユネスコ村に移築保存されていた。今ごろになって返して欲しいとは、ちょっと申し訳ない気もするが、諌早に帰ってこれれば、こんなに嬉しいことは無い。なんとか実現に協力できないものだろうか?

「四釜橋」と「旧国道の橋」上流でアーチ式石橋が見つかる  西彼杵郡長与町岡郷

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「四釜橋」と「旧国道の橋」上流でアーチ式石橋が見つかる  西彼杵郡長与町岡郷

長与町岡郷前田河内は、長与総合公園奥の集落。国道207号の旧道も長崎バスが通る。「前田河内」バス停から少し道を下ると「四釜橋」があり、新橋の脇にアーチ式石橋が残る。
上流は以前に調べたつもりだったが、きょう、縄文時代遺跡「前田河内洞穴」探索のため、この南谷間へ入った。洞穴はかなり上で、帰りは琴の尾岳遊歩道(車道)へ上がり、舟津へ下って、前田河内溜池へ戻った。

前田河内バス停から入った集落の奥の道で、この橋を見つけた。(写真 1〜 5)
だだっ広いコンクリートの道が斜めに川をまたぐ。「四釜橋」の上流150mほどの場所。内部を覗くと中央に小さなアーチ式石橋が残っていた。橋幅1.5m、径間1.44m、拱矢0.8m位。

次に「岡」バス停近くまで進む。「旧国道の現役の橋」がある。アーチ式石橋でまだ旧国道現役として活躍中。付近の地図を見ると、この川上流にも石橋がありそうなので、探してみた。わずか
100mも行かない上流に、アーチ式石橋が残っているのを見つけた。(写真 6〜10)
こちらも里道の小さな橋で、橋幅1.9m、径間1.1m、拱矢0.85m位。

場所は地図のとおり。歩いて良く調べないと気付かない。この一帯に残るアーチ式石橋は、これで5橋となった。「おこ川」は、上流の橋以外に見当たらない。
以前から見つかっていた3橋は、次を参照。https://misakimichi.com/archives/628

長与町には、このほか中尾城公園に移設されている「百合野橋」、川平道路長与インター入口の「洗濯工房」裏の川に壊れたアーチ式石橋が残る。

「ガーデニング ワールドカップ 2010ナガサキ」 石原氏のアーチ式石橋?作品

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「ガーデニング ワールドカップ 2010ナガサキ」 石原氏のアーチ式石橋?作品

ハウステンボスで「ガーデニング ワールドカップ 2010ナガサキ」が、10月9日から17日まで開催中(展示は31日まで)である。“花と緑で世界平和を!”の呼びかけに、世界のトップガーデナーたちが、国内で初めて長崎・ハウステンボスに集まった。
世界中で最も権威ある英国チェルシーフワラーショーを始め、世界各国のフラワーショーイベントのメダリスト達が、母国の名誉と威信を賭け、最高峰のガーデニング技術を競い合う緑の祭典。

10月10日(日)妻らが見学に行き、写してきたのは、大会を招致した長崎在住ガーデナー石原和幸氏の作品「緑の詩 Song of Peace」。入賞は逸したが、アーチ式石橋?を造られていたので、写真を紹介する。
ベストインショーに輝いたイギリスのアンディ・スタージョン氏の作品「手を差し伸べて Reaching Out」は、最後の写真である。

東彼杵町に残るアーチ式石橋「通山橋」  川内郷で見つかる

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東彼杵町に残るアーチ式石橋「通山橋」  三根郷で見つかる

東彼杵郡東彼杵町に残るアーチ式石橋は、すでに玉簾橋・花房橋・大音琴橋の3橋を次に載せている。  https://misakimichi.com/archives/685
川内郷にも「通山(とうりやま)橋」が残っているのが新しくわかった。場所は所在地図のとおり。
国道34号線が東彼杵IC前を過ぎ、嬉野方面へ俵坂峠を越えるため向かう。坂の登りにかかるまだ手前で長崎自動車道のガード下をくぐる。この左方の谷間である。

きのう虚空蔵山の巨木調査に行くため、この道を通った。広域林道の岩屋登山口に出るには近道となる。長崎自動車道のガード下からでなく、国道の手前から彼杵川の上流川内川沿いに左の旧道へ入った。ガード下からの道とすぐ合流する地点に支流が流れ、新橋「通山第二橋」が架かり、アーチ式石橋がその脇に残っていた。

石橋は幅員5.0m、長さ5.5m、橋高2mほど。第一橋の名の橋は近くの川になく、この石橋を第一橋として考えて、新橋の第二橋は命名されたのではないだろうか。従って石橋の名は「通山橋」としておく。なお、川内川の近辺は他に石橋は見当たらない。先の支流の上流部、家前の溝に小さな桁石橋2つを見ただけである。

その後、HP「長崎県の石橋を訪ねて」の安元様が調べてくれた。同HPによる説明は次のとおり。明治以降の橋と思われるが、昔の虚空蔵山愛宕神社の参道道となるので、長崎自動車道のガード下、彼杵川向いにある一の鳥居と、国道入口にある登山口の案内柱の写真を追加する。

第 208 番   通 山 橋      長崎県東彼杵郡東彼杵町川内郷

虚空蔵神社の一の鳥居からの参道にあたる道に架かる橋だが、見た限りでは明治以降の橋としか見えない。長さ5.5m 幅員5.0m 径間4.7m
現在は直ぐ上流に通山第二橋が架かっていているが、いまでもしっかりとした現役の橋だ。まだ、こんな石橋が眠っていたとは、まだまだ未確認の石橋が有るようで楽しみが増えた。(10/19/2009)

この石橋から国道34号線を越えて彼杵川の向こうには長崎街道に沿って虚空蔵山愛宕神社の一の鳥居が建っている。この鳥居は案内に寄れば、公共工事の為に多少場所が変わっているとはいえ、延宝5(1,677)年に大村藩主の武運長久を祈願して建立されたものだという。ここから改めて通山橋に向かってみよう。

高速長崎道の高架と国道34号線を越える。登山道の案内にしたがって少し上れば、現在の道路に架かる通山第二橋の左手に通山橋が見える。手前のアスパラハウスの御主人に聞いても「子供の時から架かっとる」と言われるばかり。おいおい役場にでも行って調べてみよう。
環厚0.35m・拱失1.6m・拱失比2.7(やや扁平の石橋)

五島氏庭園心字が池と明星院の桁石橋  五島市池田町・吉田町 

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五島氏庭園心字が池と明星院の桁石橋  五島市池田町・吉田町

石田城跡五島氏庭園心字が池と明星院の桁石橋。五島高校第2校門内のアーチ式石橋「石田城本丸眼鏡橋」や国道沿い堀端前「蹴出門」の桁石橋は、すでに以前紹介している。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。風景・史跡の項も参照。
「石田城跡五島氏庭園」は、 https://misakimichi.com/archives/2050
「明星院」は、 https://misakimichi.com/archives/2033

写真  1〜  8  第 k-052 番 心字が池の石橋  五島市池田町石田城内五島氏邸

安政5(1858)年に庭園が造られたとあるので、その時の架橋であろう。蹴出門の石橋を渡って石垣に沿って場内に入り左手に門構えが見える。三十代盛成公の隠殿として城内に築かれた石田邸。この邸内に心字が池と呼ばれる林泉式の庭園が有名。この庭園は安政5年、京都の僧善章が金閣寺の丸池を模して造られたと言う。(08/07/2008)

忍び通路を見てから庭園に向う。大きな楠木には諫早の者は驚かないが、大谷渡やビロウ等が茂る庭園は趣が違う。正面左手に見えるのが一番上の写真の石橋。なんでも盛成公が亀が好きとかで亀の形を模したという築島。左手の石橋が尾に成って右手の上を向いた石が頭のようだ。
反時計回りに庭園を廻る。さっそく小さな橋を渡って左手には一番上の築島の対を成す築島がある。ここのも同様の石橋が架かっている。
母屋の対岸に見えていた石塔は、朝鮮の役の際に第二十代当主純玄公が加藤清正と共に戦った際に持ち帰ったと記されているが、純玄公は文禄の役に小西勢の一番隊に兵700名で参戦し陣中で疱瘡に罹り亡くなって酒樽に浸されて帰国したはずである。この時に持ち帰ったとしても持ち帰ったのは陣中で第二十一代当主となった玄雅公であったはず。
もしくは慶長の役の出陣の時であったかもしれない。どちらにしても私の見る限り韓国で見かける五重の塔に酷似していることは確かだ。
もう少し進むと池の排水を行う水路にも橋と言うか暗渠がある。まぁこれも石橋と言えるかもしれない。その先では最初に紹介した築島に到着する。

写真  9〜 14  第 k-051 番 明星院の石橋  五島市吉田町

文化7年(1810)3月架橋とある。
弘法大師空海が唐での修業の後、福江島に立ち寄り大宝寺や此処、明星院の開基に関わった事は有名だが、この明星院に石橋が架かっていることは案外紹介されていない。
境内の案内板には「泮池(ばんち)、池の中央に橋をかけ池を半分にした形式で中国の造園思想から生まれ日本では平安鎌倉時代の庭園形式で橋を渡れば、そこは仏の世界を現している」と書かれ、橋の架橋に関しては「奉寄進、御倉奉行、杉 東蔵、大浜清蔵、築瀬友八、二十一世大恩代、文化七年庚午三月」と記されていた。(07/31/2008)

旧街道宿場「波佐見宿」の水路と石造橋  東彼杵郡波佐見町

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旧街道宿場「波佐見宿」の水路と石造橋  東彼杵郡波佐見町

波佐見町折敷瀬郷の”飛瀬の水路橋”については、前項において昨年の河川改修工事によって煉瓦造アーチの1橋が壊され、新たに下流に石造アーチの1橋が見つかったことを載せた。
ところで、この水路である。川棚川(以下「波佐見川」とする)の川岸平野を縦横に這い、2つの橋の水路が続いているのか、取り入れ口がどこなのか、すぐには確認できなかった。
2つの水路橋の下の小川は、延宝6年(1678)築造とされる飛瀬上・中・下の各堤からの流れであろう。水路はこの上を橋により渡っている。
高度を考えると、近くに今ある本流の井堰から引いたものでないようだ。上流の「横枕橋」よりまだ上のようであり、横の谷間の支流からとも考えられる。

新しく見つかった水路橋の下流側は簡単である。水路は波佐見川沿いに護岸の上を約600m流れ、県道1号線の鹿山橋へ出た。清酒「六十餘洲」の今里酒造前である。酒造用水かと思ったが、そうでもない。
県道及び同工場下をくぐり、波佐見中生徒会の手づくり説明板のとおり、往昔から街道宿場「波佐見宿」の町並みを網羅した大事な水路となっていた。

波佐見地方は、県下でも溜池の多い地域として知られている。治水工事や新田開発は、藩政時代になって頂点に達した。大村郷村記によると「内海の宿の辺、古戦場にて往昔は萱池ヶ原とて曠々たる野原」であった。
領主の積極的な奨励と、農民の経営規模を拡げようとする努力によって、井出の普請、波佐見川の本流、支流からの用水路、溜池の築堤、補修ができていった。それにつれて新田が開発され、村の石高は増加したのである。
いま見られる波佐見平野の美田は、溜池、井出の築造年から文化−文政期(1804−1829)に完成したことが知られるそうである。

水路や水路橋の手がかりに調べた波佐見町「波佐見町史(上巻)」昭和55年第二版360〜374頁の記述は、上記のとおり。「大村史談」にも掲載は見当たらないようである。
旧街道宿場の重要な水となった水路と水路橋について、地元の関係者が解明を進めてもらえないだろうか。
波佐見の中心街や鹿山神社周辺で見た主な石造橋なども写した。旧「わたや」久保田邸の庭園池の橋は見事であった。