福 江  石田城跡・五島氏庭園・五島高校  五島市池田町

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福 江  石田城跡・五島氏庭園・五島高校  五島市池田町

五島市観光協会「五島市観光情報サイト 五島」史跡・名勝などによる説明は次のとおり。

写真  1〜  3    石田城(福江城)跡    種 別 県指定史跡
指定年月日 昭和41年9月30日 所在地 五島市池田町1番1号 管理責任者 五島典昭
寛政年間から文化、文政、天保、弘化へと続く幕末、ロシア、アメリカ、イギリスの黒船が来航し、鎖国政策をとっていた日本に開国を迫る。文化5年(1808)イギリス軍艦が長崎港に侵入、オランダ人を拉致し、当時の長崎奉行が責任を取って切腹するという、いわゆるフェートン号事件もあった。幕府は嘉永2年(1849)7月、五島藩に「城を築き海岸防衛を厳重にせよ」との築城許可を与え、ここに五島氏の半世紀にわたる築城への願望が成就した。15年の歳月、工費2万両を使って、文久3年(1863)石田陣屋の跡に福江城が完成した。石田という地名にちなみ石田城ともいわれる。
城郭は、東西160間(約291m)、周囲740間(約1346m)、野面積みで堅牢な石垣を持ち、城郭の三方を海に囲まれ、日本民族、日本国を守るという使命を持った海城である。
現在、本丸跡には五島高校、三の丸には福江文化会館、五島観光歴史資料館、市立図書館、五島家始祖家盛公らを祀る城山神社がある。

写真  4〜 15    石田城五島氏庭園    種 別 国指定名勝
指定年月日 平成3年11月16日  所在地 五島市池田町1番7号  所有者 五島典昭
嘉永2年(1849)8月、幕府の命令により福江城(石田城)の築城が始まった。完成間近となった安政5年(1858)30代盛成公は家督を子息盛徳公に譲り、藩校「育英館」を北の丸小松原(現福江裁判所一帯)に移し、その跡に隠殿と庭園を造った。
心の字をかたどった池にちなみ、心字が池庭園ともいわれる。この庭園の作庭者は、京都の浄土宗の僧、全正であり、彼は、和歌、茶事、囲碁、作庭に堪能で、五島藩の御庭方を命ぜられていた。庭園は、平成元年から同3年まで奈良国立文化財研究所が池の水を抜き、浚渫して調査を進めてきた。
その結果、江戸時代以来の伝統的日本庭園の地方伝播を示す好例であり、溶岩や南方系植物など地方の特色ある風土が加味された貴重な庭園である。また、作庭時期が明確で、建物も一体となって保存されていること、保存例の少ない城郭内の庭園で、庭園文化史上高い価値があるとして、平成3年、国の名勝に指定された。
「五島氏庭園のクスノキ」は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2037

写真 16〜 19    長崎県立五島高等学校 (学校HPから)
躍進〜夢を紡ぐ城跡(まなびや)〜 明治33年(1900)に五島中学校として開校し,平成12年(2000)に創立100周年を迎えた。普通科と衛生看護学科の2学科を設置。生徒総数632名,教職員数66名(平成21年4月現在)。
五島高校は福江城(石田城)の城跡にある。したがって校門は福江城の門ということになる。第1校門は外堀から入る門になり,国道に面している。第2校門は内堀を渡る前に入る門になり,この第2校門の内側が五島高校の主な敷地になる。五島高校の生徒は毎日この2つの門をくぐって登校している。

写真は第2校門内のモニュメントと石田城本丸眼鏡橋。五島ただ1つのアーチ式石橋。嘉永6年(1857)架設。長さ8.6m、幅員約4.7m。