長崎要塞地帯標・軍港境域標」カテゴリーアーカイブ

高橋輝吉氏稿 「長崎(佐世保)要塞地帯の区域標」

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高橋輝吉氏稿 「長崎(佐世保)要塞地帯の区域標」

以下は、佐世保市高橋輝吉氏から最近、送られてきた資料。伊万里市周辺の佐世保(長崎)要塞地帯標、佐世保軍港境域標、伊万里軍港境域標などの標石について、これまでの調査結果を5編にまとめられている。
添付資料は数が多いが、私の判断で適当に掲載した。規則・軍港境域図は、「海軍制度沿革 巻15 海軍大臣官房」原書房発行からである。

5 長崎(佐世保)要塞地帯の区域標  高橋 輝吉

現佐世保市吉井町草ノ尾一帯は、元炭鉱地帯で人口も多く、山に詳しい方が多い。要塞区域標「第一一四号」「第一一八号」の2本は個人所有。「第一一九号」は、先月どうかなーと思い、行ってみましたが、ありませんでした。後でもう一度行ってみます。
「第一三〇号」は江迎の山頂に。「第一三一号」は道もないような所にあり。

「第一三五号」は岳ノ木場の個人所有。この地からは佐世保と軍港入口地帯が見えます。「第一三六号」は山ノ上の個人所有。軍港入口地帯が見えます。
「第一三七号」は北の方。「第一三八号」は西の方。「第一四〇号」は南の方で、西彼の「第一四七号」と連なる「第一五一号」「第一五二号」「第一五八号」。
(註 標石写真は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3152

「第一号」は区域標。外廻り区域標ですが、「第一号」が2本あります。佐世保では、第一地帯標が3本あります。何んで? 軍縮のためかなー。改刻の標石もあります。
「F.Z.」の標石はありません。長崎市には3本あり。

高橋輝吉氏稿 「脇野の標石石段の石を解明」

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高橋輝吉氏稿 「脇野の標石石段の石を解明」

以下は、佐世保市高橋輝吉氏から最近、送られてきた資料。伊万里市周辺の佐世保(長崎)要塞地帯標、佐世保軍港境域標、伊万里軍港境域標などの標石について、これまでの調査結果を5編にまとめられている。
添付資料は数が多いが、私の判断で適当に掲載した。規則・軍港境域図は、「海軍制度沿革 巻15 海軍大臣官房」原書房発行からである。

4 脇野の標石石段の石を解明  高橋 輝吉

伊万里市東山城町脇野の標石石段の所へは、3回くらい行った。このとき港域標「第二一号」もあり。10年前のときに、「どうしてここに」と聞きますと、多くは語らず「佐賀のG.H.Qが…」と。
多分、終戦時に、旧陸・海軍が遺した多くの標石等を撤去し集めたようである。伊万里方面に砲台地はなかった。

6年くらい前、ここを通ったら、石段は新しいコンクリートに変っていた。以前の古い標石は、角の方に集めてあった。許しを得て、号数や陸軍名を上にして、いろいろな角度から写真を撮った。
ゆっくりと話す間がなく、私が標石を見たので、20年前の標石石段を、新しいコンクリート石段に変えたのかなー。
(註 本ブログ次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/1825

松浦方面へ下る。右側山、中にも立札があったと教えてもらいましたが、現物なし。見本の書はありました。横辺田より「高法知岳」に松浦へ。草ノ尾高原に区域標「第一一六号」あり。見通しの良い所です。

高橋輝吉氏稿 「伊万里から県道で山を越え」

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高橋輝吉氏稿 「伊万里から県道で山を越え」

以下は、佐世保市高橋輝吉氏から最近、送られてきた資料。伊万里市周辺の佐世保(長崎)要塞地帯標、佐世保軍港境域標、伊万里軍港境域標などの標石について、これまでの調査結果を5編にまとめられている。
添付資料は数が多いが、私の判断で適当に掲載した。規則・軍港境域図は、「海軍制度沿革 巻15 海軍大臣官房」原書房発行からである。

3 伊万里から県道で山を越え  高橋 輝吉

佐賀や長崎の県北で「新聞に出てましたよ」。新聞を見た方から「うちの山にも、陸軍省の石があります」と。同行してみますと、伊万里市東山城町脇野の一角に、山の中に。昭和15年の第二区第二十二号。後で二十一号。明治の石は、七曲り山道を越した北松浦方面へ。

多分、山の中と思うが、山が深い。用心、用心と山を降り、七曲り下り道でどこかにと思っていた。伊万里市東山城町脇野で気付いて見たのは「みかげ」石の石段。
「オヤッ」と良く良く見ると、「陸軍省」などだ。
20年くらい前のことだった。写真を撮り、後で横辺田地方で。この近くより松浦方面へ。

6年くらい前、脇野の標石石段はどうなっているのかと思いきや、新しくコンクリート石段に成っていました。2回目の「石はどこに」?

高橋輝吉氏稿 「開戦1年前の伊万里湾」

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高橋輝吉氏稿 「開戦1年前の伊万里湾」

以下は、佐世保市高橋輝吉氏から最近、送られてきた資料。伊万里市周辺の佐世保(長崎)要塞地帯標、佐世保軍港境域標、伊万里軍港境域標などの標石について、これまでの調査結果を5編にまとめられている。
添付資料は数が多いが、私の判断で適当に掲載した。規則・軍港境域図は、「海軍制度沿革 巻15 海軍大臣官房」原書房発行からである。

2 開戦1年前の伊万里湾  高橋 輝吉

伊万里湾が佐世保軍港から外れて何10年。開戦1年前の昭和15年、陸軍の波が起こった。前々より所望していたのか。伊万里市郷土研究会「烏ん枕」参照。新兵科、陸軍輸送部隊の暁部隊。一〇四艇造りの川南造船も伊万里にあった。
伊万里湾一帯の土地の証しとして、陸軍省は標石100本を建てた。現在、残っているのは、佐賀県側15本、長崎県側10本。この内、第二区の第一号は青島の海の中。第一区の第一号は、星鹿の山中。

星鹿には陸軍兵舎あり、黒島にも兵舎あり。星鹿では古老の話だと、4年生上の生徒は中くらいの石、煉瓦は高等科、近くの大人は大きな資材を運んだそうです。城山には海軍の潜水艦用聴音機が。石を運んだ道にも、「海」と刻む16〜133号の海軍境界石あり。多くの標石で城山を取り巻いている。展望台より見えるのは、元寇の島か、向島の第七号か、逃の浦の防塁か、血田の陸軍省第一区第二号か。

青島の岩礁地帯に、コンクリートの石柱ありと島の話。もしやと思い、行ってみた。双眼鏡で見ると、岸より130mの所。陸軍省陸軍省第二区第一号と、昭和15年6月10日の陸軍輸送港域第二区標だった。

高橋輝吉氏稿 「伊万里市東山城(脇野)の旧陸軍省標石」

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高橋輝吉氏稿 「伊万里市東山城(脇野)の旧陸軍省標石」

以下は、佐世保市高橋輝吉氏から最近、送られてきた資料。伊万里市周辺の佐世保(長崎)要塞地帯標、佐世保軍港境域標、伊万里軍港境域標などの標石について、これまでの調査結果を5編にまとめられている。
添付資料は数が多いが、私の判断で適当に掲載した。規則・軍港境域図は、「海軍制度沿革 巻15 海軍大臣官房」原書房発行からである。

1 伊万里市東山城(脇野)の旧陸軍省標石  高橋 輝吉

伊万里市東山城(脇野)で、標石等に詳しい方に会った。いろいろ話のある中に、白板のこと、標石地図等、畑地内にあった石(第74号)など。
第73号を撮っていますと、近くの目の悪い方が「字が変ってますか」と。「お宅は目が見えないのに、何んで…」「イヤ、兵隊さんが話していましたから」。
アッと思い、佐世保市立図書館へ。佐世保史談会の郷土誌の中に、柚木村の終戦後の資料があった。陸軍省標石について、「これだ」と思った。佐世保=長崎=。これから大変なことになるかなと思い、脇野方面に10回くらい行ったかなー。
この地方が、明治の石と昭和15年の石とが合わさなり、合点できました。明治の石は山間部に、昭和の石は海岸部に多い。次の「開戦1年前の伊万里湾」を見てください。

2−特 竿浦町大山祇神社北上の尾根  (確認 長崎要塞第二地帯標 第十二号)

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2−特 竿浦町大山祇神社北上の尾根  (確認 長崎要塞第二地帯標 第十二号)

長崎要塞第二地帯標「第十一号」を、2013年5月25日、地元の落矢八郎氏がジョギングの途中、竿浦町大山祇神社入口の100mほど手前、サイクリング道路山手側の赤道で発見し、私がきょう現地確認したことは、前の記事とした。

サイクリング道路から注意すると、石段登り口すぐ上に「第十一号」標石が見える。深堀城山の「第八号」と結ぶ落矢ダム尾根の要塞標が「第十三号」だから、ここに「第十一号」が現存するなら、次の「第十二号」もあるはずと思い調査した。

この赤道は、登って行くと、「第十三号」のある落矢ダム尾根と合する。見込みどおり、その途中の尾根道に「第十二号」標石が立っているのを見つけた。大山祇神社の北側上となるあたりの尾根道である。「第十一号」から約20分登る。「第十三号」とのちょうど中間くらいの地点。
「長崎要塞第二地帯標」「第十二号」である。16cm角、高さ70cmくらいの標石。

竿浦町大山祇神社奥の橋を渡り、落矢ダム尾根に出て八郎岳へ登ったことは数回あるが、この「第十二号」が立つ尾根道は、はじめて歩いた。八郎岳鹿の最たる生息域。けもの道に入り込まないよう。「第十一号」「第十二号」の現存が判明したから、深堀城山側の「第九号」「第十号」の調査は、これからしたい。

2−特 竿浦町大山祇神社近く  (確認 長崎要塞第二地帯標 第十一号)

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2−特 竿浦町大山祇神社近く  (確認 長崎要塞第二地帯標 第十一号)

長崎要塞地帯略図には、第二地帯標として深堀城山に「第八号」、落矢ダム尾根に「第十三号」が示され、現存を確認している。
これを結ぶ線上の竿浦町山中で、新たに「第十一号」と「第十二号」が見つかった。

「第十一号」については、八郎岳と落矢の地名から名をとった地元の落矢八郎氏HP「とはち通信」第17号を参照。2013年5月25日、同氏が「新たな発見(号外)」として、ジョギングの途中、発見したことを掲載していた。
http://www016.upp.so-net.ne.jp/tohachirou/newpage2.htm

発見場所の説明と地図が、はっきりしない。ジョギングとは、サイクリング道路を走っていて、竿浦町大山祇神社入口付近で、見つけたようである。
きょう、現地確認した。場所は大山祇神社入口の100mほど手前。サイクリング道路は左へ向かい山手側の赤道に、注意すると石段登り口すぐ上にこの標石が見える。

「長崎要塞第二地帯標」「第十一号」である。16cm角、高さ60cmくらいの標石。私はこれまで草住町一帯を探したことはあったが、竿浦町一帯は未済だった。
さて、「第十一号」が現存するなら、次は「第十二号」だろう。この赤道は、登って行くと、「第十三号」のある落矢ダム尾根と合する。見込みどおり、その途中の尾根道に「第十二号」が立っていた。これは次の記事へ。深堀城山側の「第九号」「第十号」の調査はこれからしたい。

嬉野の元海軍病院跡と、韓国の釜山加徳島の標石

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嬉野の元海軍病院跡と、韓国の釜山加徳島の標石

佐世保市の高橋氏から送られてきた資料。嬉野の元海軍病院跡とは、現在の「独立行政法人 国立病院機構嬉野医療センター」。山の中で見つけた「海軍用地」の標石と、「底栗車之塔」(実験動物慰霊塔)の現地写真はなかった。
釜山加徳島 日本軍砲陣地跡の標石資料は、次のHPと「日本築城史」から抜すいしている。
http://cgjbusan.web.fc2.com/shiseki/Busan/Gadeok/image.html

高橋輝吉氏稿 「嬉野の元海軍病院跡と、韓国の釜山加徳島の標石」

嬉野の元海軍病院跡。山の中に「海軍用地」の標石があると見て、探し廻りました。用地石15cm角を13本発見しました。中に何とも解せない「底栗車之塔」(裏面 昭和十九年七月)もありました。呉海軍病院の場合を調べると呉にも残り、「底栗車(テリシャ)」とは、梵語で畜生という意味。「実験動物慰霊塔」のようです。

インターネットで調べているうちに、戦前の韓国での日本軍軍事のことが出てきました。「日本築城史」にもないようなことです。韓国での旧日本軍の史料「軍事」が、いろいろありますね。参考までに送ります。釜山一帯には、多くの砲台跡の史料があると思いました。韓国のインターネットを調べたいです。

2−L 深堀城山山頂  (確認 長崎要塞第三?地帯標 第八号)

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2−L 深堀城山山頂  (確認 長崎要塞第三?地帯標 第八号)

深堀城山は、山頂を囲むように円形の石垣城塁が築かれ、中心に八幡神社が祀られている。すぐ近くに三角点標高350mとともに「陸軍省」の標石のあることは人に知られ、「長崎県の山歩き」にも記録されている。
標石「長崎要塞第二地帯標」「第八号」である。
高橋氏は先年、登路を間違え苦労されたが、城山山頂へ登り標石を確認されていた。深堀村と土井首村の村境にあり、略図の地点に間違いない。

この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/214
以上は2007年8月16日の記事であるが、 深堀城山山頂には、この「長崎要塞第二地帯標 第八号」とは別に、50mほど離れた広場にあと1本、同じような要塞標が残っていることがわかった。

先日2月24日(日)、景観まちづくりトーク&ウォーク「俵石城の縄張り構造と深堀氏」の際、配られた講演資料「俵石城縄張り図」(村田修三氏作図 *畝状竪堀群は未調査)に、この標石が表示されている。
これまで存在を知らなかったので、おかしいなと思いながら、深堀城山へ着いてから山頂広場を調べた。確かに50mほど離れて、あと1本があったのである。

標石は、写真のとおり。刻面は「長崎要塞第三地帯標」と違うが、ここは本来「第二地帯標」が立つ区域。「第八号」だから、同じ標石と見てよい。
なぜ2本残ったか。要塞法はしばしば改正があり、標石の転用・改刻も多く、真相は不明。

佐世保市周辺に残る陸軍省要塞地帯(区域)標の調査結果一覧表

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佐世保市周辺に残る陸軍省要塞地帯(区域)標の調査結果一覧表

佐世保市の高橋氏がまとめた資料。現在、判明している佐世保市周辺に残る陸軍省要塞地帯(区域)標の調査結果一覧表。一部、未整理があるが、そのまま載せる。ズーム拡大。