長崎要塞地帯標・軍港境域標」カテゴリーアーカイブ

長崎市周辺に残る陸軍省要塞地帯(区域)標の調査結果一覧表

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長崎市周辺に残る陸軍省要塞地帯(区域)標の調査結果一覧表

佐世保市の高橋氏がまとめた資料。現在、判明している長崎市周辺に残る陸軍省要塞地帯(区域)標の調査結果一覧表。一部、未整理があるが、そのまま載せる。ズーム拡大。

佐世保市の高橋氏と長崎要塞地帯(区域)標めぐり

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佐世保市の高橋氏と長崎要塞地帯(区域)標めぐり

2012年11月8日(木)、佐世保市から高橋氏が来訪。最近、相次いで見つかった長崎要塞地帯(区域)標など4本の現地へ案内した。
詳しくは、長崎要塞地帯標の項に、以前の各記事と写真あり。

写真  1〜 2  富士見町 富士見公園
「陸軍省」「長崎要塞第三?地帯標」「第五十五号」「明治三十二年六月十日」
以前の高橋氏撮影写真が所在不明のため、撮り直しへ。

写真  3〜 5  田上3丁目 小国民資料館の庭
「陸軍省」「長崎要塞第二地帯標」「第二十三号」「明治三十二年六月十日」
高浪さん(めがねのコクラヤ前経営者)50歳のとき、北村西望先生(彫刻家)との握手写真があった。この屏風は、料亭青柳にある。

写真  6〜10  太田尾町山川河内と潮見町の旧道峠
「陸軍省」「長崎要塞区域標」「第二七号」「明治三十二年六月十日」
2012年10月22日の最も新しい発見。春日町に80円自販機があった。

写真 11〜14  中尾町 田川内公民館の裏
「陸軍省」「長崎要塞区域標」「第三十二号」「明治三十二年六月十日」
田川内公民館の古い建物を解体したとき、裏にあった。公民館は新築され、隣りの神社参道横に移設されていた。あと1本は上部欠損。「区域標」「号」との刻みはわかるが、番号は不明。

区ー特 山川河内と潮見の旧道峠  (確認 長崎要塞区域標 第二十七号)

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区ー特 山川河内と潮見の旧道峠  (確認 長崎要塞区域標 第二十七号)

2012年10月21日(日)、網場金比羅岳と不動山に登り、太田尾町山川河内へ下った。山川河内公民館前の道角に、茂木町郷土史に記録がある大正12年の道案内標石が転がっている。
次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/5429
標石が示す「矢上道」を通って潮見町上の峠へ出た。車道ができる前の街道。農道と出合った峠で、思わぬ標石をN氏が発見。

御幣を巻いていたが、外すと刻面があり、「長崎要塞区域標」「第二七号」「陸軍省」「明治三十二年六月十日」。網場金比羅岳山頂のが、「第二十八号」だから、1つ前の番号である。
峠から潮見町へ農道の下りで、網場金比羅岳を見上げる場所。太田尾町などで当時、だいぶん聞き込みをしたが、話がなかった要塞標がここで見つかった。昔の街道を歩いた甲斐があった。

最近2年、伊王島沖ノ島の遠見岳、戸町岳新戸町登山口、立山金比羅山の砲台山中腹、田上小国民資料館の庭、東長崎田川内公民館裏、そして今回と、立て続けに6本の標石が見つかっている。私たちが確認した長崎要塞地帯標の標石は、総数30本となった。

区−H 田川内公民館裏  (確認 長崎要塞区域標 第三十四号)

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区−H 田川内公民館裏  (確認 長崎要塞区域標 第三十四号)

東長崎の田川内公民館裏の敷地で、「長崎要塞区域標」が新たに見つかった。知らせてくれたのは、長崎市田中町中尾地区の松尾氏(長崎市農業委員)である。
区−I 中尾尾根の「長崎要塞区域標 第三十二号」は、同松尾氏の記憶により、平成18年1月発見したいきさつがあった。本ブログでは掲載略。研究レポートには第2集155頁に載せている。

中尾ダム大橋を渡り、中尾中央公民館前をまっすぐ進む。城戸岩の次に県営バス「公民館前」バス停がある。田川内山神社の参道と駐車場右が「田川内公民館」。大正時代建てられた公民館を取り壊し、現在、建て替えるため更地となっている。
2段となった敷地の奥角に「長崎要塞区域標」があった。先日、山神社の例祭に行った松尾氏が、車から降りたとき発見し連絡してくれた。

きょうすぐ確認に行くと、「第三十四号」である。松尾氏の話では、公民館の前はここに精米所があった。標石は移設されたようでもあり、なぜここにあるのか詳細が不明。建物が解体されて、裏にあることがやっとわかった標石である。
長崎要塞地帯略図から田川内に目星をつけ、私は以前に一帯や山間部をだいぶん探したことがあった。見つけきれなかったはずである。略図上は田川内であるので、一応「区−H」の標石として整理しておく。 

「第三十四号」は、写真のとおりの標石。後側の石垣との間は、ブロックを立てている。上面に小さな四角の加工溝がある。建物の土台石に使用された形跡がある。唐古でもその例はあった。
手前に横倒しになって折れた石柱の一部も不思議。「月十日?」「省」の刻みがあるので、これも別番号の「長崎要塞地帯標」ではないだろうか。石材と大きさが違う。更地全体を探しても、この上部の石柱かけらは見当たらなかった。
新公民館を更地に建てると、奥の標石はまたわからなくなる。車道やバス停からすぐ見えるよう、山神社参道石段左の植え込みに移設するよう要望してきた。

陸軍省標石探しの裏話  その2

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陸軍省標石探しの裏話  その2

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと、研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料である。
最近の新規発見は少なくなり、本文はこれまでの所感をまとめられている。写真は、佐世保市山ノ田水源地上方面にあったという「第十一号」と、長崎市飽の浦峠手前道の「第十六九号」

高橋 輝吉氏稿   陸軍省標石探しの裏話  その2

昭和11年頃になると、軍縮の波が。艦の大砲が陸に。標石にも改刻があった。佐世保では4本(日付は同じ)。対馬では、明治三十六年、明治四十年、大正十三年、昭和十二年とバラバラです。最近、対馬でまた3本、新しく発見されたようです。「第〇〇号」と無号1本あり。後で知らせます。

長崎は、標石がバラバラです。飽の浦峠手前のが、「第十六九号」と謎?。壱岐の要塞標石は4本廃止と、石はコンクリートと丸石交じり。まずい標石だ。軍縮か。
大分佐賀関は、1号廃止と?。F.Z.標石、620mの山の上に。下関は、要塞地帯図から見ると、広い広い要塞地帯となるので、何千個の標石の数となるのかなー。

佐世保での標石は、日付は同じ「第一号」2本有り。地域によるのかなー。3本となると何と第一地帯標でも「第十一号」3本有り。区域標も3本有り。何とも?。
要塞地帯の資料、昭和十一年の通達によると、別紙を見てください。(掲載略)
山の上に海軍省の標石が6本。昔の艦船は石炭を使用した。ただし、陸、海に標石が多い。軍道200本、入江50本。

陸軍省標石探しの裏話  その1

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陸軍省標石探しの裏話  その1

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと、研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料である。
最近の新規発見は少なくなり、本文はこれまでの所感をまとめられているようである。その2は次へ。「歴史散歩」の記事は、佐世保市広報資料と思われる。

高橋 輝吉氏稿   陸軍省標石探しの裏話  その1

佐世保市小佐世保町で、初めて陸軍省標石を発見する。みんな〇秘、〇諜、〇耳の話ばかりで、何か証拠らしき物はないかなーと思っていたとき、標石発見。
良く見ると「陸軍省」「長崎要塞第二地帯標」「第五号」で、日付は「明治三十二年七月十四日」(個人所有)。
友に話す。「イヤ、長坂町にも有るよ」と。「第一地帯標」「第三号」だった(個人所有)。このとき、第二地帯標の話もする。最初の標石を絵具で撫で、洗い流す。

標石発見のことを、市の広報課(Tさんという方)へ知らせた。「後で行きます」と。「どうでしたか」?…「そんな標石は有りません」と。彼はその後、標石を写真に撮り、〇〇に出す。
後で「日付が違います」と言うと、「イヤ…正しい」と言うので、私の写真を見せると、”シマッタ”たと思ったでしょう。役所の手口かなー。それっきり、〇〇は流さず、今日まで。
歴史散歩の2回目は、日付が「明治三十二年七月十四日」となりましたが、要塞法を「条例」、「S. M. シーレベル メーター(海抜)」の解説は、今日までそのままです。〇〇さんに言ったけれど、本人が直さないのは、時を待つしかないと。

そんなこんなしているときに、下関要塞地帯標の資料で「S.M. F.Z」が手に入る。これだなー。私はこのときまで「S.M.」は、「シークレット ミリタリー(戦略上重要な要塞化された地帯・区域)」が正しいと考えていた。佐世保に資料なし。標石探しに弾みが付きましたなー、今日まで。
下関では、「昔の大砲は役に立たない」と言ったら…大目玉。潜水艦の時代と、B29の時代になる。移動できる小型大砲と弾丸が多く有るのかなー。

陸軍省標石探しと新聞報道

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陸軍省標石探しと新聞報道

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと、研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料である。
最近の新規発見は少なくなり、本文はこれまでの所感をまとめられているようである。以下、2記事も続く。各資料や写真は、すでに以前の記事に載せているので参照。

高橋 輝吉氏稿   陸軍省標石探しと新聞報道

佐賀県伊万里市東山代町脇野で、軍事に詳しい方に2人出会った。白い板のこと、標石刻字のことを聞いてみた。前に「佐世保要塞地帯図」や「陸軍輸送港域伊万里港域要図」を見ていましたから、青螺山へ登った。「陸軍省」の伊万里港「陸軍輸送港域第二区標」「第40号」「昭和一五年六月十日」の標石発見(写真)。
これは前後があるなー。後日、第41号と第42号発見。黒岳に第38号があった。第39号はどこに。近くの山を全部登った。山を下るとき、白い物を見た。よくよく見ると、陸軍省第39号。国道上5m位の所に。山の上かと思っていたが、下の方でした。

これで良しと思い、新聞各社の伊万里3支局へ。全部笑われました。伊万里は焼物と松浦党の話でいっぱいと。私は支局の方が解からず屋と思いました。年の差かなー。海軍大臣官房の本のコピーですよと言っても気付かず、それではと佐賀新聞の支局へ行きました。
説明すると、すぐ現場へ行きましょうとなりました。2週間位しますと、佐賀新聞に大きく出ました。標石では初めてのことでした。

この後が大変でした。伊万里や有田一帯は、昭和の標石と明治の標石が交ざった所です。昭和の標石は福島と黒川方面に、明治の標石は有田川沿いに。明治の標石では、第69号、第73号、第74号を発見しました。
第73号を写真に撮っているとき、近くの盲人の方が、耳が目代わりだったのでしょう。「字が変わっていますか」と?。お宅は目が見えないのにと、質してみました。「いや、昔、兵隊さんが話しながら、仕事をしていました」と。

エーッと思い、佐世保市立図書館などでいろいろな本を探してみました。佐世保史談会の本の中に、三間十郎氏「長崎要塞地帯標石の一資料について」があり、陸軍省標石について記録していました。 ( 本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/987
終戦時、柚木村役場にあった公文書が焼かれず残っていたのです。このことは、2、3人位しか知りません(軍縮2回目位後)。長崎へ資料送ります。
伊万里港「陸軍輸送港域標」の詳細は、「https://misakimichi.com/archives/2478

陸軍省要塞地帯(区域)標と海軍省軍港境域標の調査

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陸軍省要塞地帯(区域)標と海軍省軍港境域標の調査

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと、研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料である。
本文は、主に佐世保市小佐々、冷水岳と、西海市大瀬戸、西彼方面の同標石のこれまでの調査記録をまとめられている。詳しくは、以前の記事にあるので参照。

高橋 輝吉氏稿   陸軍省要塞地帯(区域)標と海軍省軍港境域標の調査

陸軍省要塞地帯(区域)標の調査が終りに近づいた頃、海軍省の標石は?と見直してみた。海軍では、「軍港境域標」という。海軍省沿革史の本に境域地図があり、佐世保市小佐々町の最西端方面へ出かけた。老人漁夫の方と話し、「海軍省」と刻んだ石がありますかと尋ねると、入江などにあるとのことだった。
その初めとして、楠泊海岸にあった。「海軍水準 水路部」の水準点標石だった。その出先の岬みたいな所にも、御影石の15cm位角石があると島を指さす。鼻にありますと。干潮時に行く。佐世保軍港境域標「第221号」でした。

後日、老人の方に船を頼み、近くの入江などなどを探した。陸からも行かれるようで、後で地図を見て、1日1本のつもりで陸から探してみました。今まで10回位通ったかなー。一番多く行ったのは、神崎鼻方面。
山の老人と海の老人とは、話しの変化を見た。海の方には陸軍省要塞標の話は通用せず。海の方は干潮時でも船が繋げる所を言う。地図では干潮の図なし。何回となく、干潮時、満潮時と行ってみた。2通りあることが解かった。この一帯は亀瀬という。今までは陸の石ばかり探していたので、高い所ばかり見ていたが、海は違った。入江、干潮時になっても船が繋がれる所。船は遠浅を一番嫌う。

幸いかな、小佐々海岸の入江は、天然の港が多い。海軍はこの入江、港に目をつけた。これは日露の戦いのとき、敵艦待ち伏せ用の場所、入江かと思った。小型船ならば良い場所、入江で、良い港ばかり。この入江に、海軍省の標石が多いのが解かった次第です。
読売新聞佐世保支局が報道してくれた。針尾の方より針尾に海軍省の石ありと知らせが入り、「第128号」でした。浅子の方からも石ありと連絡あり、「第261号」明治の日付です。

これからが大変でしたね。海軍省標石探しにも変わった。耳、目の2通りの話を。特に西海市方面“用心”。西海橋の下にあると聞いても、本気にはしなかった。しかし、千綿まで海軍は水を取りに行っていた。艦船ボイラー用の必要な水です。標石は必ずあると思った。
1回目は解からず、2回目のとき四角の型石が見えたので、若しやと思い枯れ枝を取ってみると、何と海軍省の石が。青色になり横倒しとなっていたので洗い、良く見ると「第139号」でした。「明治35年11月4日」(陸自内にある石と同じ日付)。

少し元気づいたので、前に1回地元の方に連れられて行った、西彼町の白岳方面を再び探すこととした。陸軍の標石はと思い、以前、案内してくれた家に行くと、当の老人の方は亡くなられ、家族では場所がまったく解かりません。
以前、見つけたのは、陸軍の「第151号」と「第147号」。九電の送電線が見えていたのを思い出したが、25年ほどの杉山ばかりで方向がわからず、それを見つけるのに3年位かかった。(西海市寄船近くの地にも、「陸軍省 SM2ndZ 長崎要塞第二地帯標 第75号 明治32年」あり)

白岳の杉山で「第152号」を新しく発見。この石を起点として3か月後、「第151号」を再発見。「第147号」は、畠の中、段差があったのを思い出し、3回目にして再発見した。標石は石垣に埋めてありました。石の角が見えたので、この一帯には御影石なし、上より見えるのは牧草一面、段差があったので、再発見に至りました。このたび東西南北の写真を撮り安心です。
さて、大瀬戸の海軍省の石は、沿革史の地図を見ると、高帆山の西海岸にあるような気がした。大岩付近の海抜3m位、海岸近くの雑木林内にあった。海軍省「第202号」でした。七釜の町中の石垣でも発見。号なし、海軍省の石です。長崎のHさんに知らせ、案内しました。

西彼町白崎の母衣崎、四天堂公園の「第158号」は、海軍沿革史の地図により8年前位に発見。西彼町や大瀬戸町の地元の方は標石のことが解からず、再発見と別に新しい標石を、元の石の横に2本見つけた。何と申しましょうか? 2,3度電話しました。しまったと思ったでしょう。
海軍省の標石3本。「第138号」、「第202号」、「第〇〇号」(番号は消している)。陸軍省のは、「第147号」、「第152号」、「第151号」、「第158号」、「第75号」の5本発見。いろいろありましたが、「第158号」は、私が8年位前に発見したものです。

佐世保市小佐々方面の海軍省の標石は、「第207号」、「第208号」、「第211号」、「第215号」、「第216号」、「第217号」、「第218号」、「第221号」、「第236号」、「第261号」と、10本になります。
後で亀瀬方面で、陸軍省の石がありますかと尋ねると、ありますと。島へ渡り野島の林の中に、「第140号」がありました。冷水岳の下近くに、「第138号」あり。「第139号」はなし。3回位、山へ行く。陸軍要塞地図にはあり。

見つけているのは、「第130号」、「第131号」、「第135号」(個人所有)、「第136号」(個人所有。3つに割れているため友人宅へ)、「第137号」、「第138号」、次の「第139号」はなし。「第140号」は野島にありとなります。
臼の浦に海軍火薬庫あり。「海軍用地」の石が2本。うち1本は確認せず。用心しょう。

2−特 小国民資料館の庭  (確認 長崎要塞第二地帯標 第二十三号 移設)

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2−特 小国民資料館の庭  (確認 長崎要塞第二地帯標 第二十三号 移設)

「長崎要塞地帯標」を金比羅山の砲台山中腹の登山道で見つけた、戦争史を研究する鹿児島の小原さんから、貴重な情報をまた電話によりもらった。
3月10日、長崎市田上3丁目の「小国民資料館」を訪れた際、同館の庭に「長崎要塞地帯標」が展示されていると言う。“少国民”とは、先の大戦中に子供達のことを呼んでいた言葉。
田上交差点からすぐ左の3丁目の道路に入る。橋から急坂を登って行った奥の方の宅地に資料館はある。

「小国民資料館」は、戦争を語るまちの資料館。高浪藤夫さん(めがねのコクラヤ店前経営者)が自宅別棟に、1940〜47年頃大戦時代の生活を語るものを展示している。
45年3月、福岡県朝倉郡立石村(当時)にあった立石国民学校の児童35人が空襲で死んだ。隣りの国民学校の6年生だった高浪さんは。衝撃を受けた。
資料館の開設は、この子らの慰霊もあるが、悲惨な戦争を忘れさせまいとする高浪さんの執念がみなぎる。資料館の詳しくは、
http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2000/kikaku/siryou/siryou1.html

私も訪れ、庭に展示している「長崎要塞地帯標」を確認した。「長崎要塞第二地帯標」「第二十三号」と刻む。建物の建築業者が持ち込んでくれた標石で、女神?あたりの山中に横倒しになっていたというが、詳細不明。
第二地帯は、神の島の要塞から約4kmの円線。星取墓地公園道脇のが、長崎要塞第二地帯標「第二十七号」だから、私には上小島合戦場あたりに立っていた標石と思われる。そうすると私の地図の仮No.「2−I」の可能性がある。
脇にもう1本。背が低い「陸軍」と刻む標石は、五島から持ち込まれたらしいが、陸軍施設か軍道の境界石柱だろう。

後ろの写真は、「小国民資料館」の展示物あらまし。清水昆や北村西望の実筆書画もあった。
所在地は、〒851−0251 長崎市田上3丁目17番47号。電095・823・3220。見学は手紙か、急ぐ場合は電話による予約が必要。無料。

崎戸島特設見張所聴音所と海軍用地などの標石

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崎戸島特設見張所聴音所と海軍用地などの標石

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の、標石探しと研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料。
2012年1〜2月、西海市崎戸島の特設見張所聴音所と海軍用地などの標石を探した記録。

高橋輝吉氏稿  崎戸島特設見張所聴音所と海軍用地などの標石

西海市崎戸町に旧海軍の標石があると、長崎の知人(注 onnanomiyako2007 さんの情報により私が高橋氏へ知らせた)からはがきが届いた。前々より一度は行ってみたいと思っていた島だった。いろいろ調べているうちに、崎戸島の西端に、旧日本海軍の「特設見張所聴音所」があるとのこと。ホテル咲都のその先の先に「特設見張所聴音所」あり、大きな建物でした。

当時は○秘地帯で、声にもならなかったと思う。例の如く調べて廻った。有りましたぞ。「海軍用地」などの標石と「三角点」(コンクリート)。「特設見張所聴音所」の建物は大きく2階建て。窓が大きいのも気になる。雨天も看視したのかなー。

左横に展望台あり。見るは前方海上。廻り窓が多い。大正13年3月潜水艦事故。45名の顔が思い浮かび、叫んでみたかった。
見つけた標石は、「海軍用地」(号なしの1本)、「第三十二号」、「第三十四号」、「三角点」(コンクリート)の4本。この高い山が「耳」の役目をしたのかなー。

(崎戸島特設見張所聴音所の現地説明板)

この施設は、旧日本海軍佐世保鎮守府の特設見張所の中の聴音所として昭和13年(1938年)に建設され、終戦までの7年間、海底のスクリュー音等をキャッチするための施設でした。
二度とあのような悲惨な戦争の起こることのないよう、後世に残すため保存しています。
崎 戸 町