長崎要塞地帯標・軍港境域標」カテゴリーアーカイブ

「陸軍地」の境界石柱  長崎市西町

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「陸軍地」の境界石柱  長崎市西町

本ブログを最近見はじめた onn*n*miyak**007 さんから、標石の情報コメントをもらった。
「今日(2012/1/29)、西町小学校裏手で、「陸軍地」という標識を見つけました。場所は、わかりずらいですが、西町12の表示板がありました。西町から小江原に抜ける道の手前から、左の小道に入ったところです」
標石に関心を寄せたこんな情報は嬉しい。年末には鹿児島の方が、金比羅山で陸軍要塞標を偶然見つけ、わざわざ知らせてくれた。

長崎市西町の標石は、正面のみ「陸軍地」と刻む。 15cm角、高さ44cmほど。軍の境界石柱と思われる。場所は、長崎市立西町小学校裏手というより、小学校入口前の交差点を直進。最近開通した「市道油木町西町線」を上がる。
長崎大国際交流会館の先に「合同宿舎西町住宅」があり、このビル裏手の高台小道にあるので、市道がUカーブしたところを途中まで登り、左のまっすぐな小道を50mほど下った方がわかりやすい。

10街区「松崎」宅の玄関対面。「西町12」の街区表示板は、街路灯に設置されていた。付近は現在、長崎拘置支所、白鳥公園・大アパート群などもあり、広大な谷間の平野部である。戦時中まで、軍用地として使用されたろう。何の施設だったかは、どなたかに調べてもらいたい。
あたり一帯を広く探したが、ほかに同じ境界石柱は見当らなかった。この1本だけ、原子爆弾や都市開発にのまれず、残った貴重な標石ではないだろうか。
なお、ブログを見たら私を引用し、この標石は2009年5月紹介されていた。髭親父さん。失礼しました。http://blogs.yahoo.co.jp/bikeroyaji/27173474.html

「長崎要塞地帯(区域)標」の外、陸・海軍の軍用地又は境界石柱は、長崎近郊では次の場所にも残っているのを確認している。
浜平1丁目  https://misakimichi.com/archives/232
南山手町   https://misakimichi.com/archives/96
神の島周辺  https://misakimichi.com/archives/113
野母権現山  https://misakimichi.com/archives/56

2−G 金比羅山の砲台山中腹  (確認 長崎要塞第二地帯標 第四十六号)

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2−G 金比羅山の砲台山中腹  (確認 長崎要塞第二地帯標 第四十六号)

「長崎要塞地帯略図」の2−G地点については、平成18年4月発行の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集の中、明治32年陸軍省建立「長崎要塞地帯(区域)標」の調査の149頁において、次のとおり調査結果を記していた。

2−G 銭座町か
浦上駅をはさんで、2−Eと斜め対極となる。金比羅山かと考えたが、次の風頭町からは県立東高の背後ピークしか見えない。ここは今、水道タンクや多目的広場があり、戦時中は砲台や防空壕があった。
しかし、地元の昔を知る人の話は、標石をこの金比羅山一帯で見たことはないという。かえって銭座町の変電所や中央タクシーあたりに明治砲台の赤レンガ兵舎跡があり、原爆後、農地解放で畑となって今は中央タクシーになっているらしい。位置的にその可能性は高い。

平成18年だから私は約6年前、次の標石2−H「風頭から寺町へ下る石段道路脇」(確認 第二地帯標 第三十五号)地点から見た展望から、もし金比羅山とするなら山頂や神社あたりは見えず、県立東高の背後ピークしか見えない。
今、水道配水タンクや多目的広場(戦時中、高射砲陣地があり、原爆慰霊碑が立つ。通称「砲台山」と呼ばれる)があるあたりと目星をつけ、一帯をずいぶん調査した。どうしても探し出すことができず、当時地元で聞いた人の話により、2−Gは「銭座町か」としていた。

しかし、これは当初の目星が正しく、金比羅山の砲台山中腹に「長崎要塞第二地帯標」が現存していることが、最近判明した。軍の歴史などを調べる鹿児島の小原さんという方が、登山中偶然発見し研究レポートを読んで、佐世保の高橋さんや私に知らせてくれた。
きょう標石を確認してきた。場所は立山5丁目22街区の山中。東高正門右横の車道を上がり右折、駐車できる奥の道路広場まで行き、まっすぐ金比羅神社への山道へ入る。バンクが通る道で100mほど先の道脇左上にこの標石があった。遠く逆に風頭町の標石地点が良く見える場所近くである。

この道は何回も歩いたり、バイクで通ったことがある。これまで気付かなかったのは、道脇から2mほど高い石垣の上にあり、大木の根元で雑木にさえぎられ、標石があることがわかりにくかった。戸町岳登山道入口の標石もそうだったので、最近見つかっている。
2−G地点「金比羅山の砲台山中腹」の標石刻面は4面。「陸軍省」「長崎要塞第三地帯標」「第四十六号」「明治三十二年六月十日」。
「長崎要塞第三地帯標」となっているが、上部はSMなし、「2ndZ」と改刻しているので、「長崎要塞地帯略図」からも「長崎要塞第二地帯標」である。
「長崎要塞地帯略図」は、  https://misakimichi.com/archives/54

福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」 (3)

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福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」 (3)

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の、標石探しと研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料。
福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」の発見経過。(1)(2)の記事とも参照。

高橋輝吉氏稿  大島の「FZ」標石を探せ

昭和10年2月、「蓋井島」と「蓋之島」が要塞地に成った。昭和10年10月、「大島」が要塞地に。海軍制度沿革誌に有り。日本築城史にも、下関要塞の中に「大島」の事有り。此んなに早く決まるのかと思い、軍縮の時に…
大島へ行って見た。坂口さん案内にて。私が日本築城史を読んでた事、知りません。何となく解しない事が有った。今一度と思い、船にて一廻りして見た。4本は確認し、陸より行って見た。

船は2回見です。1回目の時、砲台横草原の中に、「←蓋井島」、「←蓋之島」の石2本。写真に撮る。此れが大「ヒント」になった。
此れが「蓋井島」山口新聞の記事、「蓋之島」読売新聞の記事と成った。
https://misakimichi.com/archives/68
https://misakimichi.com/archives/300
此の間、「大島」は2年位休み。

3回目、朝日新聞さんと、大島の「軍道」探しと成る。「陸」と刻んだ石、10本位有ったかなー。「海軍水測計」を朝日新聞さん、写真に撮る。砲台所より、水測は真下に見える。
https://misakimichi.com/archives/2530 (記事は蓋井島)
4回目、朝日新聞さんと、「第三号」地へ行く。坂口さん宅にも、色々な話し有りが、標石の写真なし?
朝日新聞に最近、載ったのは、灯台下の下関要塞第一区地帯標「第五号」です。
https://misakimichi.com/archives/2875

「第五号」と「第三号」の中間位の所に、下部のみの石有り、写真のとおり。「第三号」とサイズは同じ石です。上部なしだが、「第四号」?
此れで大島の「FZ」(Fortified Zoneの略 「要塞化された所」)が解かりました。
壱岐要塞の「小呂島」は、1回行った。平島先生は退職。

福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」 (2)

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福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」 (2)

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の、標石探しと研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料。
福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」の発見経過。(1)(3)の記事とも参照。

高橋輝吉氏稿  神崎の大島灯台下は、「第五号外方100(米)以内」

流人の島、要塞の島が平和な島に。私が思うに昔は、東郷駅近くまで海だったのかなー。満潮時には、潮が上がって来てました。現在は広い、広い田園地帯です。島には農地少なく、出稼ぎの時代もあったが、今は漁の通り道なのか、多くの釣人たちです。

「日露」戦いの後、軍部は重要な島々に、目を向け初めた。「壱岐」、「対馬」はもとより、「下関」一帯の島々にも。大正、昭和になってからは、大島、小呂島にも全部が要塞地となり、砲台、軍事地帯となり(宗像大社は別)、証しとして、砲台、標柱はどこに。
小さい杭柱を、何となく写真に撮った。此れが「ヒント」になった。「←蓋井島」と「←蓋之島」と、印しのある有名な石で、何かを示している。

島の中に要塞地帯を示す石が、灯台より下、海側に有った。下関要塞第一区地帯標「第五号」です。他はどこに。船で2回、右廻り、左廻りにて、「第二号」、「第三号」、「第八号」を発見。
「第一号」は、浅瀬に有ったと、船頭さんの話。島の方には、軍事の地図なし、語りのみ。島の一角、加代に、「流人の生活跡」と示す立札が有った。

福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」 (1)

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福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」 (1)

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の、標石探しと研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料。
福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」の調査について、上記のとおり朝日新聞福岡地域版2011年(平成23年)8月10日付(ズーム拡大)に掲載された。

筑前大島の牧場の中に忽然と現れる砲台跡。草原のなか展望公園として整備されている。
現在の写真は、廃墟&近代化遺産(牧場の砲台跡):響とバイクと山遊び:So-netブログの記事参照。  http://hibiki15.blog.so-net.ne.jp/2007-05-06

流人の生活跡 (大島の現地説明板から)
江戸時代の約300年間、ここ加代は福岡藩の流刑場とされた。多くの流人は、自給自足の生活で、幕末には勤皇志士も多数流されてきた。勝 四郎、月形洗蔵、日高四郎らは有名人である。昔は白砂、青松の地であった。

大島砲台  (日本築城史 下関要塞179頁)
福岡県玄海村草崎の北西6キロ、玄界灘と響灘の中間に浮ぶ周囲約13キロ(長さ4.5キロ、巾3.3キロ)の島が大島である。大島砲台は昭和10(1935)年5月着工、同11年11月竣工した。島の北岸岩瀬部落の南西約700メートル、標高120メートルの地域に、45口径15センチカノン砲4門の砲座を構築したものである。岩瀬より軍道を通じた。火砲の首線はNW10度、射界は180度で、玄界灘・響灘方面を射撃する。鉄筋コンクリート地下砲側庫を有し、99式電気式観測所は、砲台背後の独立標高132メートルの地下に構築した。電灯所は砲座の北西約200メートル、二股瀬鼻の南方、標高90メートルに設け、可搬式150センチ射光機を備えた。火薬庫・弾丸庫その他の木造付属建物を配置した。海底線は蓋井島砲台経由で下関要塞司令部と直通した。なお、壱岐要塞小呂島砲台(大島の西方36キロ)と海底線で連絡した。
本工事関係者は築城郡下関出長所長兼工事主任官工兵少佐大河原鉄之助、同じく工兵大尉友末昇、現場監督軍曹広瀬忠治、陸軍技手三上菊雄であった。

西有田の陸軍省「長崎要塞(地)区域標」

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西有田の陸軍省「長崎要塞(地)区域標」

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと、研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料である。
本文は、佐賀県西有田の陸軍省「長崎要塞(地)区域標」の記録。「第11号」が有田町歴史民俗資料館に保存されている(写真上段)が、長崎県の川棚町歴史民俗資料館にも「第11号」がある(写真中・下段)と記す。川棚町のが本物?。

高橋輝吉氏稿  西有田の陸軍省「長崎要塞(地)区域標」

古老の話しだと、有田川一帯、土手に有ったそうです。川の改修で取り外し、日陰なく石が痛んで居ります。第58号、第61号。植込みの中にて写真がよく撮れず、地元の石も見かけます。

10年位前より、波佐見→西有田一帯を何回と行く内に、有田町歴史民俗資料館で土建屋さんが持ち込んだという石を見ました。第60号は上部のみ。次の月に下部有り。
その内に「第11号」。「オヤ」っと。石の質、型、字が小さい、石の上が四角錐。刻面が「長崎要塞地区域標」と一字「地」が多い。

此れより4年位後に、長崎のHさんから川棚町歴史民俗資料館に石有りと。早速、行って見ました。「長崎要塞区域標」「第11号」「明治三十二年七月十四日」でした。何でやな…。弘法岳(387m)近くに有ったそうです。資料館の方は無関心。

私は昔の有田川を良く知りません。ただ、上流に「三領石」が有るのは知って居りました。雨水が有田川・早岐川・波佐見川に分かれる水の境石です。

東京都小笠原諸島の陸軍省「父島要塞第二地帯標」

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東京都小笠原諸島の陸軍省「父島要塞第二地帯標」

これも佐世保市住まい、陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと研究をされている高橋輝吉氏から寄せられた資料である。高橋氏は佐世保のみならず、全国へも出かけ、これら標石の調査をされ、数多くの標石を見つけられている。
本文は、東京都小笠原諸島の陸軍省「「父島要塞第二地帯標」の記録である。2007年(平成
19年)頃、地元に依頼し調査されたよう。以前に写真はもらっていた。高橋氏が当時、わざわざ父島まで出かけたかと思っていたが、そうではなかった。

高橋輝吉氏稿  東京都小笠原諸島の陸軍省「父島要塞第二地帯標」

東京都小笠原諸島の「父島」は、軍事本などによりますと、グアム・サイパン・硫黄島など南方方面に行く艦隊の基地でした。要塞地帯標の標石が必ず有ると思い、父島の郷土史家の方へ電話により問い合せると、「そんな標石は有りません」と初めは疑ったようでした。
「本などによりますと、父島には陸・海軍が艦持ちにて、多くの兵科が父島を要塞化しています。港の見える所などに標石は有ります…」。こちらからいろいろな資料を送り、やっと解かってもらえました。

世界遺産のことが有ったのかなー。戦いが長くなれば第二の硫黄島?になった島。1ヶ月位しますと、小笠原国立公園父島「中山峠」の写真と書類が送られてきました。先方は、何分不慣れなため、標石の近接写真がありませんでしたが、「S.M」と「昭和十六年一月十日」は読めます。
もう4年ほど前の話です、父島の方からの書類をどこにしまったたかわからず、やっと2、3日前見つけました。参考のため写真・資料を送ります。 

3−特 戸町岳新戸町登山口 (確認 長崎要塞第三地帯標 第二十五号)

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3−特 戸町岳新戸町登山口 (確認 長崎要塞第三地帯標 第二十五号)

長崎市立戸町中学校裏交差点から、円成寺新戸町霊苑を通り、車道終点の一軒家横から戸町岳への登山道に入る。標石は山道を100mほど進んだ左手にある。上部が欠け石の後ろにあり、登りのときはよほど注意しないと、標石とは気付かない。きょうも行きがけ素通りした。
登山道下は現在、新戸町4丁目の大型団地222区画「ウェリスパーク南長崎」が部分完成して分譲中。団地の「新戸町配水槽」建物のちょうど上の場所のフェンス反対側に、標石はある。団地内の道路からも登山口へ出られる。

私はこの登山道を、幾度となく通った。草つきにも隠れていたのだろう。まったくこれまで気付かなかった。下りのときも団地開発の方へ目が向きがちだった。
標石は2009年3月1日、会の例会「土井首から熊ヶ岳・戸町岳へ」のとき、戸町岳からの下りで、後ろを歩いていた宮さんらが見つけ写真も撮影していた。その話をきょう、初めて聞いた。現地をきょう宮さんと訪ね、標石を確認してきた。

標石の刻面は、「陸軍省」「長崎要塞第三地帯標」「第二十五号」「明治三十ニ年六月十日」。
なぜ「第三地帯標」なのだろう。「長崎要塞地帯略図」に合わないような地点で、「2−特 大崎林道鹿尾町尾根」の標石と同じ。鹿尾町のは「長崎要塞第三地帯標」「第十八号」、改刻部分は「2ndZ」とある。
ここ新戸町のも、上部が欠けわからないが、同じような改刻標石で「2ndZ」とあったのではないだろうか。「第二地帯標」と思われるが、上部は欠けているのは細工をしたような感じもする。
要塞法は数次の改正があった。区域の変更、標石の改刻・転用などがあったりして、頭が混乱している。

長崎要塞第二地帯標 香焼調査は見当たらず

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長崎要塞第二地帯標 香焼調査は見当たらず

わが家から見える伊王島大橋。左の高い山は、大橋を渡った沖ノ島の「遠見岳」。山頂「遠見所」跡で4月1日、「長崎要塞第二地帯標 第十四号」が見つかったことにより、香焼側の尾ノ上海岸竹崎鼻の山(54mピーク)、安保の香焼新トンネル上の山(92mピーク)も、念のため調査。
「長崎要塞地帯略図」により、4年前、栗ノ浦地区や、深堀赤土から香焼にかけての海岸は調査済みであったが、地帯標の標石は発見できなかった。

きょう4月7日、宮さんを同行。2つのピークを調査する。尾ノ上海岸竹崎鼻の山(54mピーク)は、山頂に平らな広場があったが、標石類は何もなかった。
安保の香焼新トンネル上の山(92mピーク)へすぐ移動。恵里団地上の栗ノ浦との里道峠の所から尾根伝いで行く。基準点のようなものは、かなり離れた高台にあった。途中、炭鉱の試掘のような場所があっただけ、こちらも標石類は何もなかった。

きょうの成果は、車に戻る直前、宮さんが「戸町岳の新戸町登山口で、要塞地帯標を見た」と話す。それも2年前の会の例会、戸町岳下りのとき。おやおや、その標石は私はまったく知らない。「新発見だ!」とすぐ新戸町登山口へ向かった。(これは次の記事へ)
佐世保市の高橋さんが、きょう沖ノ島「遠見岳」の標石調査に来てるはずだが、連絡が取れない。高橋さんにとっては残念なこととなった。

宮さんの調査同行記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/27574300.html

2−特 沖ノ島の遠見岳 (確認 長崎要塞第二地帯標 第十四号)

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2−特 沖ノ島の遠見岳 (確認 長崎要塞第二地帯標 第十四号)

陸軍省「長崎要塞第二地帯標」が、新たに思いがけない場所で見つかった。開通した伊王島大橋を伊王島側へ渡り、すぐ左手に登る沖ノ島の遠見岳(標高149.1m)。大橋から山頂まで歩いて25分ほどかかる。寛永20年(1643)、沖を航行する船を監視するため設けられた沖之島遠見番所の、山頂は「遠見所」跡だった。

4月1日、伊王島大橋をこの山から撮影に行き、要塞地帯標の標石を発見。「長崎要塞地帯略図」にない地点で、これまでの調査の盲点だった。
刻面は「陸軍省」「S.M.2d.Z. 長崎要塞第二地帯標」「明治三十二年六月十日」、埋没してわからなかった番号は、きょう掘って確認すると、「第十四号」だろう。
この標石としては珍しい上部に方角を示す「十」。四等三角点と方角は合致する。

「長崎要塞地帯略図」により伊王島灯台広場に残る標石は、第三地帯の「区域標」として私は整理していたが、良く写真を見ると刻面は、「長崎要塞第二地帯標」「第十五号」。
今回見つかった沖ノ島の遠見岳山頂のは、「第十四号」だから、その前の続き番号となる。伊王島として一体をなす島の端と端2本のみで、標石は島内には他にないだろうと思われる。

「長崎要塞地帯略図」どおりといかない、今回調査の標石だった。第二地帯は、要塞の「第一地帯から外方約4km内の区域」。線引きが海面の場合、海面に続く次の島や陸地の目立つ地点にこのような設置をしたことが考えられ、今後の参考となりうる。