長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号: 3427 井戸水を汲む侍

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 3427 井戸水を汲む侍

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 3427 井戸水を汲む侍

■ 確認結果

データベースの目録番号: 3427「井戸水を汲む侍」は、長崎大学附属図書館HP「幕末・明治期の古写真仮想展示会」にも掲載されている。
http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/kaso/

平成7年度から平成9年度にかけて、国立大学図書館協議会の公開事業として、長崎大学附属図書館に所蔵している「古写真」の全国巡回展示会が行われた。
全国巡回展示会の展示物で、「さまざまな風俗」の中にこの作品があり、次のとおり解説している。したがって、目録番号: 3427「井戸水を汲む侍」は、〔撮影地域:横浜〕だろう。
掲載を略したが上記関連から、2・3・4枚目も「横浜」での撮影写真と思われる。

ステレオ・カードにみる幕末横浜の風俗

1枚目は裏面にフランス語で「横浜の習慣、水汲みをする奉公人、日本」と手書きされている。横浜を写した最も古い写真のなかの一枚。 (目録番号: 3427「井戸水を汲む侍」)
2枚目は裏に「日本人婦人、子供と乳母、日本」と英語印刷されている。日本人の育児をヨーロッパに伝えるもの。 (目録番号:3416「母子と乳母」)
3枚目は裏面に「日本人の武士」と英語印刷されている。 (目録番号:3417「甲冑を着けた武士(2))
4枚目は「神奈川の副領事館における西欧の婦人と日本人従者たち」とある。外国人女性はG.R.ジェンキンス医師の夫人か。 (目録番号:3426「副領事夫人と従者たち」)

長崎外の古写真考 目録番号: 1098 嵐山渡月橋(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 1098 嵐山渡月橋(1) ほか

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 1098 嵐山渡月橋(1)
〔画像解説〕 超高精細画像
京都観光名所・嵐山の前を流れる大堰川(おおいがわ)に架かるこの橋を渡月橋という。橋の歴史は古く、平安時代初期・承和年間に、弘法大師(空海)の弟子、道昌(どうしょう)僧正が現在より200メートル程上流に橋を架け、法輪寺参詣に便宜をはかったので法輪寺橋と呼ばれた。それより440年余り経って、亀山上皇が夜空の月がさながら橋を渡るような様子をみて「くまなき月の渡るに似る」と洩らしたことから「渡月橋」と呼ばれるようになった。戦乱や洪水のため、橋は何度か架け替えられたが、写真の渡月橋は、その橋脚や橋桁などが付近の山から切り出したままの丸太材でつくられている。川面には船頭を乗せた渡し船が浮かび、橋のたもとでは男がのんびりと釣り竿をたれている。大きく枝を伸ばした桜の木のところには、後年、茶店ができて客で賑わう。右手前の石橋は、現在は北方に移された琴聞橋(ことききばし)である。

目録番号:2260 嵐山渡月橋(3)
〔画像解説〕
嵐山渡月橋を北詰から南に望む。背後の山腹には法輪寺が見える。橋の欄干横から着物姿の女性がカメラの方を見つめるなど、人々が往来している様子がうかがえる。北詰の桜の木の下では男性が釣りをしている。写真の渡月橋は明治25年(1892)に水害で流失した。右前に見える石橋は琴聞橋で、後に車折神社御旅所に移築されている。玉村康三郎撮影。

■ 確認結果

目録番号: 1098「嵐山渡月橋(1)」と、目録番号:2260「嵐山渡月橋(3)」は、同じ写真であろう。
撮影者は、「小川一真」か、「玉村廉三郎」か。目録番号: 1098「嵐山渡月橋(1)」には超高精細画像があり、「小川一真」ではないのだろうか。

長崎外の古写真考 目録番号: 5417 日光街道の杉並木(27)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 5417 日光街道の杉並木(27)

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 5417 日光街道の杉並木(27)

目録番号: 475 日光街道の杉並木(4)
〔画像解説〕
今市は日光に入る交通の要衝で、 この地で御成(日光)街道、 例幣使街道と会津西街道が合している。 これらの街道に徳川家康の三十三回忌にあたって松平正綱が寄進した杉並木がある。 杉並木中央に人を配して両側の杉並木の高さを強調している。

■ 確認結果

目録番号: 5417「日光街道の杉並木(27)」は、目録番号: 475「日光街道の杉並木(4)」と同じ写真であろう。
〔撮影者:玉村騎兵衛〕となるのではないか。写真帖のほかの作品も対比が必要。

長崎外の古写真考 目録番号: 4932 日光東照宮陽明門(40)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 4932 日光東照宮陽明門(40)

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 4932 日光東照宮陽明門(40)
〔画像解説〕
陽明門の正面を写している。日光東照宮を象徴する陽明門には、江戸時代初期の工芸・装飾技術の全てが集約されている。陽明門に施された人物、霊獣、動物、花鳥、地紋など、彫刻の数は508体。一日中眺めても飽きないため、俗に「日暮らし門」とも呼ばれる。

目録番号:1719 日光東照宮陽明門(17)
〔画像解説〕
陽明門の正面である。中央に御水尾天皇直筆の額がかかげられ、門の上層は龍、下層は唐獅子の彫刻で埋め尽くされている。左右の壁がんには随神像が置かれている。左右の袖堀とそれに連らなる回廊の彫刻彩色が美しい。

■ 確認結果

目録番号: 4932「日光東照宮陽明門(40)」は、目録番号:1719「日光東照宮陽明門(17)」と同じ写真であろう。
〔撮影者:鈴木真一〕となるのではないか。

長崎外の古写真考 目録番号: 2959 鈴川からの富士山

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 2959 鈴川からの富士山

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 2959 鈴川からの富士山
〔画像解説〕
富士市鈴川(すずかわ)の砂丘上にある地蔵堂から北方の富士山を遠望したもの。境内には地蔵が並び、茅葺きのお堂の一部が見える。お堂の前には4人は、作業内容が不自然で明らかにモデルである。隙間からは東海道線の線路とその先に河合橋(かわいばし)が見える。線路が存在するため、明治22年以降の撮影である。

■ 確認結果

目録番号: 2959「鈴川からの富士山」は、画像解説どおり「富士市鈴川(すずかわ)の砂丘上にある地蔵堂から北方の富士山を遠望したもの」だろう。
富士市HPの富士市立博物館収蔵品紹介[富士山古写真]の中に、同じ写真が掲載され、同解説は次のとおり。  http://museum.city.fuji.shizuoka.jp/index.php?id=16

鈴川からの富士・富士川からの富士山遠望
鈴川からの富士 明治20年代のもの。鈴川は、現在の静岡県富士市南部の海岸沿いの集落です。現在も同地に祀られる地蔵堂の境内とみられ、六地蔵は今ものこっています。
富士川からの富士山遠望 江戸幕府の政策により、富士川には橋が架けられず、船で人々や荷物を渡していましたが、明治に入って宿場の制度などが解体し、渡船も廃されて橋が架けられました。

この項は、目録番号:4099「東海道と富士山」の本ブログ記事も参照。
https://misakimichi.com/archives/2686

長崎外の古写真考 目録番号: 4434 人力車に乗る女性(10)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 4434 人力車に乗る女性(10)

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 4434 人力車に乗る女性(10)
〔画像解説〕
和服姿で傘をさして座った女性の左脇から和服の女性が人力車に乗ろうとしている。車夫は梶棒を地面につけ片膝立てながら乗っている様子を見ている。向鉢巻、法被、股引足は地下足袋であろうか。背景に木立があり路上での撮影ではなかろうか。

目録番号:4430 野外での宴会
〔画像解説〕
横浜アルバムのなかの一枚。英語で「野外での大娯楽」と解説されている。野外での宴会で、女が踊り、男は酒を注がれ、左の女性は三味線の替わりに箒を持っているのは演出であろう。

■ 確認結果

目録番号: 4434「人力車に乗る女性(10)」と、目録番号:4430「野外での宴会」は、撮影場所が同じで、人力車に乗る2人の女性も同一人だろう。
目録番号: 4434「人力車に乗る女性(10)」も、横浜アルバム中の作品と思われる。撮影場所は、横浜山手公園か野毛山公園ではないだろうか。
「背景に木立があり路上での撮影ではなかろうか」と断るまでもなく、目録番号:4430 は「野外」での宴会(大娯楽)である。

長崎外の古写真考 目録番号: 3928 蓑笠の農夫たち(4) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 3928 蓑笠の農夫たち(4) ほか

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 3928 蓑笠の農夫たち(4)
〔画像解説〕
バッチョ笠にモッコ棒(担げ棒)を持った工事作業員と思われる。モッコ棒は二人一組で大きな石などを運ぶ道具。藁蓑の下に印袢纒を着ているのは、作業組の人(と)思われる。

目録番号:4082 もっこを持つ蓑笠姿の農夫たち(1)
〔画像解説〕
全員が饅頭笠を被り、工事現場の組の印袢纒を着て、その上から雨具の藁蓑を着けている姿は工夫と思われる出立ちである。手には石などを運ぶもっこ棒を持つのは工事のためである。

■ 確認結果

目録番号: 3928「蓑笠の農夫たち(4)」と、目録番号:4082「もっこを持つ蓑笠姿の農夫たち(1)」は同じ写真である。
スチルフリードアルバム(1)と(3)からの作品であるが、タイトルをあえて別にした理由がわからない。同アルバムのほかの作品についても調べ、タイトルは統一してもらいたい。

長崎外の古写真考 目録番号: 3602 玉沢稲荷神社前で記念撮影する家族 ほか

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 長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 3602 玉沢稲荷神社前で記念撮影する家族 ほか

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 3602 玉沢稲荷神社前で記念撮影する家族
〔画像解説〕
茨城県旭村の玉沢稲荷神社前の石段下で、家族4人が並んで記念撮影をする。同社は、陸奥の安倍氏の反乱を平定した源頼義・義家の父子が、康平6年(1063)に鎌倉権太夫景道に命じ、父子が平定に向かう際に戦勝祈願したこの地に立ち寄らせ、清水の湧き出る所を玉沢稲荷大明神として祀ったとの伝説に由来する。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。

目録番号:3551 神事を執行する神官
〔画像解説〕
稲荷社の鳥居の外側から神事を執行する神主たちの様子を撮影する。立烏帽子に狩衣・指貫(さしぬき)を着用した初老の神官達が相互に向き合い、神事を執り行っている。稲荷社前には入母屋の拝殿が架設され、薦(こも)の上に高案(こうあん)が置かれ、さらにその上に三方が置かれて、供え物がなされる。場所は不明である。

■ 確認結果

目録番号: 3602「玉沢稲荷神社前で記念撮影する家族」は、画像解説とおりとすると、撮影地域は「京都」でなく、〔撮影地域:茨城〕が正しい。神社は現在の茨城県鉾田市にある。
目録番号:3551「神事を執行する神官」も、同「玉澤稲荷神社」の可能性がある。

茨城県鉾田市HPによる神社の説明は、次のとおり。
玉澤稲荷神社
冷水海岸は、鹿島灘を一望できる砂浜の美しい海岸で、玉沢稲荷神社の森とあわせて「茨城の自然100選」に選ばれました。玉沢稲荷神社は、源頼義が奥州追討の際にこの地で霊験を被ったとする伝承をもつ神社で、社殿は市の指定文化財となっています。境内には、樹齢800年とされるスダジイやタブノキの大木があり、周囲は森閑とした雰囲気が漂っています。

長崎外の古写真考 目録番号: 3316 桂川(3) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 3316 桂川(3) ほか

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 3316 桂川(3)
〔画像解説〕
保津川渓谷上流を下流より望む。山腹の地形から旧京鶴鉄道朝日トンネル西口下の渓谷から北西を向いて撮影されたと推察される。谷間から牛松山が姿を見せる。右の南側山腹に鉄道の軌道が見えないので、写真は京鶴鉄道の嵯峨・園部間が開通する明治32年(1899)8月以前に撮影されたと想像される。玉村康三郎撮影。

目録番号: 1307 保津川(7)

■ 確認結果

目録番号: 3316「桂川(3)」と、目録番号: 1307「保津川(7)」は、同じ写真であろう。撮影者は「玉村廉三郎」か、「玉村騎兵衛」のどちらか要調査。
タイトルも「保津川」の方に統一が必要ではないか。「桂川」と条件を指定して探しても、目録番号: 1307「保津川(7)」の作品は表れない。

長崎外の古写真考 目録番号: 5808 明治天皇妃肖像(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 5808 明治天皇妃肖像(1) ほか

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 5808 明治天皇妃肖像(1)

目録番号: 5810 明治天皇・同皇后・皇太后肖像

目録番号: 5855 明治天皇及び同皇后肖像

目録番号: 6329 明治天皇妃肖像(2)

■ 確認結果

データベースにある上記目録番号の明治天皇及び同皇后などの肖像・御真影は、目録番号:
5855「明治天皇及び同皇后肖像」がはっきり確認できないが、すべて宮内省御用掛写真師「内田九一」の作品であろう。
明治6年(1873)10月8日に、洋装礼服姿の天皇を、同14日に和装の皇后を、皇居吹上御苑写真場において撮影している。明治5年(1872)8月5日撮影は?
次HPを参照。

「ウィキペディア フリー百科事典」 内田九一
http://ja.wikipedia.org/wiki/ 「内田九一」で検索
明治2年(1869年)、東京浅草大代地で写真館「九一堂万寿」(くいちどうまんじゅ)を開業、「東都随一」の写真師として名を馳せた。明治5年(1872年)、明治天皇の西国御巡幸の際、宮内省御用掛の写真師第一号として随行し、名所旧跡の写真を数多く撮影。御巡幸出発前の明治5年(1872年)4月に束帯姿と小直衣・金巾姿の天皇を、翌年(明治6年)10月には洋装礼服姿の天皇を撮影し、後者を複製したものが「御真影」として地方官庁・学校などに下賜された。…明治8年(1875年)2月に死去。享年32。九一が撮影したネガは日下部金兵衛が引き継いだ。…

「囂庵の幕末明治の古写真」
http://www.gouann.org/new_box/meijitei_photo/meijitei_photo.html
皇居吹上御苑写真場の写真 明治五年
明治天皇紀 明治五年八月五日  天皇皇后の御写真撮影  皇太后の御写真撮影
曩(さき)に*1 天皇・皇后、寫眞師内田九一を召して各々御撮影あり、
皇居吹上御苑写真場の写真 明治六年
明治天皇紀  明治六年十月  御写真撮影
八日 午前十時御出門、吹上御苑に幸す、午後三時瀧見御茶屋に於て行厨を取らせられ、召に応じて参苑せる熾仁親王・嘉彰親王及び従四位由利公正・同佐々木高行に酒餅を賜ひ、五時三十分騎馬にて還幸あらせらる、是の日、宮城内写真場に於て、新制の軍服を著して撮影あらせらる、十日成れるを以て上る、全身・半身の二種ありて、全身の聖影は大中の二型あり、共に帽を脱して卓上に置き、剣を杖つきて椅子に凭りたまへり、
明治天皇紀  明治六年十月  皇后御写真撮影   (4枚目の写真は、同HPから)
十四日 皇后、午前十時御出門、吹上御苑に行啓あり、先づ梅御茶屋に御少憩、尋いで写真場に入りたまひ、和装にて撮影あらせらる、紅葉御茶屋にて御晝餐を取らせらるゝ後苑内を御遊歩、午後五時二十分還啓す、