長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:    3 明治天皇の肖像(1) ほか:

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:   3 明治天皇の肖像(1) ほか

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:    3 明治天皇の肖像(1)
〔画像解説〕
軍服にサーベルを腰にして、椅子に座った明治天皇。「Kaiser Mutsuhito」と記入。

目録番号: 2357 明治天皇の肖像(2)

目録番号: 3886 明治天皇の肖像(3)

目録番号: 5807 明治天皇肖像

目録番号: 6328 明治天皇の肖像(4)

■ 確認結果

データベースにある上記目録番号の明治天皇の肖像・御真影は、目録番号: 5807「明治天皇肖像」がはっきり確認できないが、すべて宮内省御用掛写真師「内田九一」の作品であろう。明治6年(1873)10月に、洋装礼服姿の天皇を皇居吹上御苑写真場において撮影している。
次HPを参照。

「ウィキペディア フリー百科事典」 内田九一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E4%B9%9D%E4%B8%80
明治2年(1869年)、東京浅草大代地で写真館「九一堂万寿」(くいちどうまんじゅ)を開業、「東都随一」の写真師として名を馳せた。明治5年(1872年)、明治天皇の西国御巡幸の際、宮内省御用掛の写真師第一号として随行し、名所旧跡の写真を数多く撮影。御巡幸出発前の明治5年(1872年)4月に束帯姿と小直衣・金巾姿の天皇を、翌年(明治6年)10月には洋装礼服姿の天皇を撮影し、後者を複製したものが「御真影」として地方官庁・学校などに下賜された。…明治8年(1875年)2月に死去。享年32。九一が撮影したネガは日下部金兵衛が引き継いだ。…

「囂庵の幕末明治の古写真」
http://www.gouann.org/new_box/meijitei_photo/meijitei_photo.html
皇居吹上御苑写真場の写真 明治六年  (6枚目の写真は、同HPから)
明治天皇紀  明治六年十月  御写真撮影
八日 午前十時御出門、吹上御苑に幸す、午後三時瀧見御茶屋に於て行厨を取らせられ、召に応じて参苑せる熾仁親王・嘉彰親王及び従四位由利公正・同佐々木高行に酒餅を賜ひ、五時三十分騎馬にて還幸あらせらる、是の日、宮城内写真場に於て、新制の軍服を著して撮影あらせらる、十日成れるを以て上る、全身・半身の二種ありて、全身の聖影は大中の二型あり、共に帽を脱して卓上に置き、剣を杖つきて椅子に凭りたまへり、

長崎外の古写真考 目録番号: 1803 名古屋城天守閣

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 1803 名古屋城天守閣

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 1803 名古屋城天守閣
〔画像解説〕
整理番号40-20と同一写真だが、こちらの方がやや暗めである。築城後、宝永7年(1710)、宝暦2年(1752)に大改修が行われた。後者の際には、天守閣の土瓦が同瓦に葺き替えられている。

目録番号:1686 名古屋城(7)
〔画像解説〕
天守閣近景。昭和20年の空襲による消失前の姿である。慶長19年の完成後、商家、神社、仏閣などが清洲城下から強制的に名古屋城近辺に移動させられた。これを世に清洲越しという。

■ 確認結果

目録番号: 1803「名古屋城天守閣」は、「整理番号40-20と同一写真だが、こちらの方がやや暗めである」とし、目録番号:1686「名古屋城(7)」と同一写真と判定している。
「撮影者:日下部金兵衛」となり、タイトルも統一の必要があろう。
日下部金兵衛作品は、ほかの写真でも同じような例が多くあり、整理してもらいたい。

長崎外の古写真考 放送大学古写真 日本残像「神戸港」

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長崎外の幕末・明治期古写真考 放送大学古写真 日本残像「神戸港」

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

放送大学古写真 日本残像「神戸港」
〔画像解説〕
神戸港の開港は明治元年(1868年)。この写真は沖合いから海岸通を捕えている。居留地の商館は居住することが条約で取り決められており、二階が住居になっていた。山の手に移り住むようになったのは明治20年代に入ってからのことである。この写真は明治10年代の撮影で、まだ山の手に洋館が建っていない。 着色 21×28cm

目録番号:5668 神戸居留地海岸通り(2)

■ 確認結果

放送大学附属図書館所蔵古写真展HP「日本残像 —写真で見る幕末、明治—」大坂・神戸の中に、「神戸港」が掲載されている。
画像解説には、「この写真は沖合いから海岸通を捕えている」とあるが、撮影した場所が「沖合い」、すなわち「船上」からなのか。居留地背景の山の稜線にも少し疑問を感じる。

この作品を反転させると、長崎大学データベースに、ベアトアルバム?からとされる目録番号:
5668「神戸居留地海岸通り(2)」など数作品が、似たような山の稜線となる。
誤って反転された作品は、和船でも見た。https://misakimichi.com/archives/2843
神戸港の同じような古写真は、次を参照。https://misakimichi.com/archives/2578

六甲の山並みを写しているが、最も高い山は、「高取山」(標高328m)と思われる。
「明治二年兵庫津細見全圖 1868」など見る限り、撮影場所は神戸港の「沖合い」からではなく、反転していたら東方の神戸港に築かれた突堤あたりから、反転していなかったら西方の「和田岬」方面から、停泊する船と居留地を撮影できた作品ではないだろうか。
背景の山の稜線がポイントとなるから、地元の検証をお願いしたい。 

長崎外の古写真考 目録番号: 5680 池を取り巻く家並み

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 5680 池を取り巻く家並み

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 5680 池を取り巻く家並み

■ 確認結果

目録番号: 5680「池を取り巻く家並み」は、「撮影地域:京都」となっているが、奈良の「猿沢池」と思われる。
放送大学附属図書館所蔵古写真展HP「日本残像 —写真で見る幕末、明治—」の、「奈良二十景(その一)」の中に、撮影年代は違うが同じような「猿沢池」の風景が掲載されている。

「猿沢池」は、本ブログ次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2224

長崎外の古写真考 目録番号: 5694 海岸(岩場に松)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 5694 海岸(岩場に松)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 5694 海岸(岩場に松)

■ 確認結果

目録番号: 5694「海岸(岩場に松)」は、写りが悪くこれまで気付かなかったが、海岸高台に白い木造灯台が立つ。
放送大学附属図書館所蔵古写真展HP「日本残像 —写真で見る幕末、明治—」に、同じ古写真が掲載され、同解説は次のとおり。
http://lib.ouj.ac.jp/koshashin/anoritodai.html

日本ところどころ  安乗崎灯台
伊勢志摩国立公園、的矢湾の安乗崎にある灯台。1868年8月横浜にやってきたR. H. プラントンは9年間の滞在の間に30もの灯台を建設し、「日本の灯台の父」と呼ばれる。この灯台もその一つ。彼は鉄道建設にも詳しく、官営鉄道の敷設を勧告した鉄道の恩人でもある。 着色 21×28cm

初代の安乗崎(あのりさき)灯台は、1873年に建てられた日本最古の洋式木造灯台。東京都江東区・お台場にある「船の科学館」に復元、屋外展示され、今も光を灯している。
現在の安乗崎灯台写真は、伊勢志摩国立公園「横山ビジターセンター」(三重県志摩市阿児町)HPの旬の自然情報2007年9月記事から。

長崎外の古写真考 目録番号: 3943 皇居吹上御苑(4) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 3943 皇居吹上御苑(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 3943 皇居吹上御苑(4)
〔画像解説〕
かつては江戸城の西の備えとして大名屋敷があったが、明暦の大火(1657)以後庭園化された。庭園内には木石の配置まで人工の妙を尽くしていた。滝は中央大池の南岸と瀧見御茶屋の近くに2ヶ所あったらしい。本写真は樹木が生い茂っているので瀧見御茶屋近くの滝ではないかと推察される。明治10年代か。

目録番号: 5709 皇居吹上御苑(5)

■ 確認結果

目録番号: 3943「皇居吹上御苑(4)」と、目録番号: 5709「皇居吹上御苑(5)」は、同じ庭園を写している。目録番号: 3943「皇居吹上御苑(4)」には、「本写真は樹木が生い茂っているので瀧見御茶屋近くの滝ではないかと推察される」と画像解説している。
撮影者・撮影年代はさておき、皇居吹上御苑内庭園の推察した撮影場所は正しいのだろう。

HP「囂庵の幕末明治の古写真」の次の記事に、この古写真を調査した撮影場所の考察があり、「キャプションが正しいとしてと(?)強調しておく」と述べている。
http://www.gouann.org/new_box/fukiage/fukiage.html

●吹上御苑の古写真について

内田九一が明治天皇の肖像写真を撮影したことは有名である。撮影は明治五年と六年の二度にわたって行われるが、撮影の場所は何れも現在の吹上御苑内の写場である。ここで撮られた肖像写真については様々な方々が書籍・論文で発表なされているのでここでは述べない。…
今回庵主がレポートするのは、明治天皇肖像写真の「写場についての謎解き」である。
内田九一が庭先でひれ伏しているとされる写真がある。初見は分からないが、それにはたいてい、「吹上御苑瀧見茶屋」のキャプションが附いている。そして「畏まるは写真師内田九一」とある。

ところが、明治十年代に測量された地図によると、瀧見茶屋の前庭は池の端まで数十メートルの距離がある。その様子は長崎大学附属図書館蔵の着色された「吹上園」のロングショットの写真で確認できる。さらに、同館蔵のもう一枚の「吹上園」というキャプションの着色写真も、瀧見茶屋前の庭園をロングショットでとらえている。これらの写真によって瀧見茶屋の前方は、廣い芝庭の平地があり、その先に、鬱蒼とした樹木に囲まれた瀧のある池水庭園の様子が見て取れる。「図説・明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京 決定版 (歴史群像シリーズ):絶版 」

庵主は、この二枚の「吹上園」写真と地図のおかげで、瀧見茶屋付近の状況を容易に知ることができたわけだ。むろん長崎大学附属図書館蔵の写真のキャプションが正しいとしてと強調しておく。

長崎外の古写真考 目録番号:4834 芦ノ湖畔

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4834 芦ノ湖畔

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4834 芦ノ湖畔
〔画像解説〕
芦ノ湖畔ではなく、大正3年(1914)8月に開園した強羅公園の噴水池から見た光景である。小田原電気鉄道(現在の箱根登山鉄道)によって強羅の開発の中心事業として造営されたもので、一色七五郎のデザインによる日本最初のフランス式整形庭園として知られる。林の背後に見える山は早雲山である。

■ 確認結果

目録番号:4834「芦ノ湖畔」は、画像解説どおり、芦ノ湖畔ではなく、大正3年(1914)8月に開園した「強羅公園」の噴水池から見た光景であろう。
現在の写真は、ブログ知人”ギャメロンさんのぶら〜り日記” 2012/3/10(土)記事「箱根の強羅公園」に、同じような写真があった。

長崎外の古写真考 目録番号: 912 海岸の風景(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 912 海岸の風景(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 912 海岸の風景(1)
〔画像解説〕
場所未詳の海岸の漁村。干潮の海岸に漁船と思われる和船が10艘近く置かれ、中央には砂浜で人が写されている。漁村のほとんどの屋根が藁葺きで、僅かに瓦屋根が混じっている。横浜の近くと思われる

■ 確認結果

目録番号: 912「海岸の風景(1)」は、2010/3/2 記事を参照。次のとおり記していた。
https://misakimichi.com/archives/2252

目録番号: 912「海岸の風景(1)」は、かなり大きな漁村の港で、背後に高い山が写っている。
横浜で発刊された英字新聞「ザ・ファー・イースト」の掲載写真とわかった。九州大学デジタルアーカイブを見ていたら、同じ写真が Vol.2 No.6 1871/8/16 にあった。「指宿付近からの開門岳」と説明している。

新聞掲載写真の下には、「ODOMIWARRA-NEAR  CAPE  CHICHAKOFF」の解説英文がある。「NEAR CAPE」は「近く 岬」だろうか。「ODOMIWARRA」「CHICHAKOFF」がわからない。
「指宿付近からの開門岳」では、手前に池田湖があると景色は似るが、海岸とすると指宿の浜あたりとなり、開門岳から遠くなる。参考のため指宿からの写真を、鹿児島県総合観光サイトから載せた。九州大学に撮影場所の見解があれば、教えていただきたい。

長崎大学のデータベース上では、「横浜の近くと思われる」と解説し、イースト写真との説明はない。しかし最近になって、長崎大学古写真研究会編「古写真研究 第1号」長崎大学附属図書館平成6年発行61頁に、当時、岡林助教授らの次の研究があることを見つけた。

第2表 長崎大学附属図書館が所蔵する「The Far East」の写真目録の中
通し番号  26  (掲載)年月日  1871.8.16  
欧  名  ODOMIWARRA-NEAR  CAPE  CHICHAKOFF
和  名  大泊村ーチチャコフ岬付近
整理番号  19−28
タイトル  海岸の風景〔不詳〕

海岸の風景〔不詳〕としているのが、この目録番号: 912「海岸の風景(1)」の作品である。和名「大泊村ーチチャコフ岬付近」とは、さてどこなのだろうか。
HPで調べると、「風景のなかの歴史①: 生きてりゃいいさ」の記事に次があった。英公使館の通訳官、アーネスト・サトウとともに英極東艦隊の外輪船、アーガスに乗り込み、薩英戦争をすべて目撃した英公使館の医官、ウィリアム・ウィリスの記録のようだ。

業を煮やした英国はニール代理公使に極東艦隊を鹿児島に派遣し、直接、薩摩藩と交渉し、英国側の要求を実現するように命じた。キューパー提督の指揮のもと、艦隊は翌1863(文久3)年8月6日、横浜を出港し、鹿児島へ向かった。燃料を節約するために主に帆走に頼り、横浜から約1000キロを航海し、大隅半島の先端、佐多岬(英国はチチャコフ岬と呼んだ)沖に到着したのは5日後の8月11日午後だった。キューパー提督が率い、ニール英国代理公使などが乗艦する旗艦ユーリアラス、それにパール、パーシューズ、アーガス、コケット、レースホース、ハヴォックの計7隻による当時の大艦隊である。艦隊が佐多岬を回り、山川港を通過して鹿児島湾に入ると、大隅・薩摩半島各地から一斉に烽火が上がり、号砲も放たれた。…

この資料から「ODOMIWARRA-NEAR CAPE CHICHAKOFF」は、目録和名どおりとすると、「チチャコフ岬」は大隈半島先端の「佐多岬」。「大泊村」は佐多岬手前、現在の南大隈町大泊港とわかった。横浜近くはあまり考えられない。イースト写真は掲載が1871.8.16だから、ウィリアム・ウィリス記録時のものではないだろう。

撮影場所を「大泊港」とすると、ブログ「大隈半島 時の風 太郎が行く」により、大泊港背後に似たような姿の山の写真があった。古写真どおり撮影できる場所があるかもしれない。
薩摩半島の「開門岳」とすると、「指宿」温泉あたりからでは遠すぎる。近い「山川港」あたりも考えられる。山とともに砂浜の漁村の解明も必要だろう。
現地調査できないので、長崎大学側または地元で検証をお願いしたい。

長崎外の古写真考 目録番号:1770 神戸港全景(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1770 神戸港全景(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1770 神戸港全景(1)
[画像解説]
諏訪山からみた神戸全景である。左中央の六角屋根の建物は明治15年に建設された、県議会議事堂である。明治中期の写真である。

[画像解説  超高精細画像]
写真を縦(南北)に走る道路は、諏訪神社の参道に至るので諏訪筋と呼ばれていた。諏訪筋の右手(西側)には、庭園を造成中の小寺泰次郎(こでらやすじろう)の屋敷(現在の相楽園[そうらくえん])があり、その向こうの何棟かの大きな建物は、明治10年(1877)に校名を改称してここに校舎を新築した神戸師範学校。諏訪筋左側の畑の南側一画は、現在は兵庫県公社館、県庁の第2・第3号館があるあたりで、東西の道路に面した左右対称の建物は、明治11年に新設された附属小学校の校舎であろう。その向こうの白く着色された建物は、明治20年(1887)に落成した兵庫県警察本部庁舎。その南側に兵庫県庁舎がある。その向こうの南北に2棟対称に建つ建物群は、同17年(1884)に竣工した神戸小学校の校舎である。左手には八角形の県会議事堂(明治15年[1882]完成)が見える。この地域は、現在も兵庫県行政の中枢部にあたる。明治中期の撮影であろう。

目録番号:2823 神戸市街の遠景(2)
[画像解説]
諏訪山から神戸港を望む。明治中期。彩色は施されていないが目録番号4480と同じ写真。中央の、東西の道路に面した左右対称の建物は、明治11年新設の (神戸師範学校) 附属小学校の校舎、その向こうには、明治20年 (1887) に落成した兵庫県警察本部庁舎や兵庫県庁舎がある。南北の道路を隔てて、附属小学校の右手には師範学校。

目録番号:4480 神戸港全景(2)
[画像解説]
諏訪山から神戸港を望む。明治中期。現中央区の風景。彩色が施してあるが、目録番号2823と同じ写真。左寄りに八角形の県会議事堂 (明治15年(1882)完成) 、その向こう (南) に外国航路の船舶を繋留する鉄桟橋 (明治17年竣工) が見える。南北の道路の右手に、庭園を造成中の小寺邸 (現在の相楽園(そうらくえん)) 。

■ 確認結果

目録番号:1770「神戸港全景(1)」など3作品は、同じ写真。神戸港の船舶位置や神戸市街の建物などが同じ作品が、「写真の中の明治・大正 −国立国会図書館所蔵写真帳からー」に掲載されている。同データは次のとおり。
したがって撮影年代は、「明治33年頃」となろう。

神戸港  交通
掲載資料 地理写真帖 内国之部 第2帙  刊行年 明33.6  請求記号 YDM202552
住所表記(明治期) 神戸市  住所表記(現在) 神戸市

長崎外の古写真考 目録番号:2848 天神橋(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2848 天神橋(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2848 天神橋(2)
[画像解説]
天神橋は天満橋・難波橋とともに「浪華三大橋」と呼ばれたが、最長を誇ったのが天神橋である。明治18年(1885)の淀川大洪水で落橋し、明治21年(1888)に鉄橋となった。

■ 確認結果

目録番号:2848「天神橋(2)」と同じ作品が、「写真の中の明治・大正 −国立国会図書館所蔵写真帳からー」に掲載されている。同データは次のとおり。
したがって撮影年代は、「明治33年頃」となろう。

天神橋  交通
掲載資料 日本之名勝  刊行年 明33  請求記号 YDM23032
住所表記(明治期) 大阪市北区/東区  住所表記(現在) 大阪市北区/中央区