長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号: 149 大阪城外堀六番櫓(3)

イメージ 1

イメージ 2

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 149 大阪城外堀六番櫓(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 149 大阪城外堀六番櫓(3)
[画像解説]
大坂城外堀に面する内側城壁と六番櫓を、現在の上町筋方面(外堀南西角)より望む。この高石垣に見られる勾配は、石材を規格化することによる新しい技法で、元和・寛永年間に登場した築城技術の特徴を示している。

■ 確認結果

目録番号: 149「大阪城外堀六番櫓(3)」と同じ作品が、「写真の中の明治・大正 −国立国会図書館所蔵写真帳からー」に掲載されている。同データは次のとおり。
したがって撮影年代は、「明治36年頃」となろう。

大阪城 その他
掲載資料 日本之勝観  刊行年 明36.9  請求記号 YDM23029
住所表記(明治期) 大阪市東区法円坂町  住所表記(現在) 大阪市中央区大阪城

長崎外の古写真考 目録番号:2591 西大谷円通橋(4)

イメージ 1

イメージ 2

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2591 西大谷円通橋(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2591 西大谷円通橋(4)
[画像解説]
西大谷円通橋を皎月池南西縁より北北東に望む。円通橋は安政3年(1865)に築造された石橋である。その形より眼鏡橋と称され、幕末から明治にかけて紅白の蓮が眺められる景勝地であった。橋上の高欄脇には蓮を眺めるモデルの男性が立っている。橋向こうに建つ茶店には人影が見える。

■ 確認結果

目録番号:2591「西大谷円通橋(4)」と同じ作品が、「写真の中の明治・大正 −国立国会図書館所蔵写真帳からー」に掲載されている。同データは次のとおり。
したがって撮影年代は、「明治33年頃」となろう。

眼鏡橋  寺社
掲載資料 日本之名勝  刊行年 明33  請求記号 YDM23032
住所表記(明治期) 京都市下京区五条通東山  住所表記(現在) 京都市東山区五条橋東

長崎外の古写真考 目録番号:2792 伊勢佐木町の劇場街(5) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2792 伊勢佐木町の劇場街(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2792 伊勢佐木町の劇場街(5)
[画像解説]
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32(1899)年の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。明治20年代の松ヶ枝町(現伊勢佐木町2丁目)界隈、勇座の前辺り。

目録番号:1667 伊勢佐木町の劇場街(1)
[画像解説]
伊勢佐木町の劇場街である。明治10年(1877)代半ば頃から芝居小屋が立ち並び、歓楽街へと発展した。

■ 確認結果

目録番号:2792「伊勢佐木町の劇場街(5)」は、次の目録番号:1667「伊勢佐木町の劇場街(1)」と同じ写真であろう。撮影者は「日下部金兵衛」か。
この項は、目録番号:2374「芝居小屋」の記事も参照。横浜の松ヶ枝町(現伊勢佐木町2丁目)にあった「勇座」と思われる。  https://misakimichi.com/archives/2468

目録番号:2792「伊勢佐木町の劇場街(5)」は、米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モースコレクション/民具編 モースの見た日本」小学館2005年刊51頁に掲載されている。同解説は次のとおり。撮影年代は、「1890年頃」となっている。
67 劇場街 ca.1890
右手の幟には、「坂東太三郎」とみえる。左手の劇場には、看板が多数掛かっているのがわかる。場所は横浜と思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:2791 伊勢佐木町の劇場街(4)

イメージ 1

イメージ 2

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2791 伊勢佐木町の劇場街(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2791 伊勢佐木町の劇場街(4)
[画像解説]
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32年(1899)の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。賑町(現伊勢佐木町3丁目)の賑座、もしくは両国座付近と思われる。

目録番号:4522 伊勢佐木町の劇場街(6)    (同写真 掲載略)

■ 確認結果

目録番号:2791「伊勢佐木町の劇場街(4)」などは、米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モースコレクション/民具編 モースの見た日本」小学館2005年刊50頁に掲載されている。
同解説は次のとおり。撮影年代は、「1890年頃」と整理されているが、「1882年にモース自身が収集したもの」と説明がある。
66 劇場街 ca.1890
横浜の弁天通りの劇場街。手前には、信州の善光寺から贈られたと思われる幟が見える。
1882年にモース自身が収集したもの。

長崎外の古写真考 目録番号:4534 消防出初式

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4534 消防出初式

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4534 消防出初式

■ 確認結果

目録番号:4534「消防出初式」は、米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モースコレクション/民具編 モースの見た日本」小学館2005年刊178頁に、「413 消防出初式 Fireman‘s 
festival  ca.1890」として掲載がある。
撮影場所の解説はないが、撮影年代は「1890年頃」となっている。

消防出初式の同じような光景は、3枚目の写真とおり「モース・コレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊42頁にも掲載がある。同解説は次のとおり。
50 横浜・吉田橋上での消防出初式 ca.1890
吉田橋(1869・明治2)は関内への入口にあり、日本最初の鉄製橋である。右手の建物は横浜を代表する寄席、富竹亭(1885・明治18)。橋上では出初式が行われている。

モース・コレクションの2枚を比較すると、ともに橋上での出初式。撮影の向きを変えただけ。赤白旗、橋上の構造物、半被などは同じと思われる。したがって、目録番号:4534「消防出初式」も、横浜・吉田橋上での消防出初式 1890年頃撮影となるのではないか。

長崎外の古写真考 目録番号:6327 小石川薬園でのボードインの送別会

イメージ 1

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6327 小石川薬園でのボードインの送別会

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6327 小石川薬園でのボードインの送別会

■ 確認結果

目録番号:6327「小石川薬園でのボードインの送別会」は、長崎大学附属図書館HP「日本古写真アルバム ボードイン・コレクション」にも掲載があるが、画像解説はない。

慶應義塾大学高橋信一氏HP「舎人学校」の2008年12月1日 (月)”朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価”による解説は、次のとおり。
撮影者は「内田九一」であろう。

268 A.F.ボードイン医師の小石川園送別会

上野の寛永寺境内で明治3年8月撮影となっているが、明治政府がA.F.ボードインに3000両の慰労金を贈ったのは明治3年閏10月28日(1870年12月20日)(「太政官日誌」第1卷)(33)である。A.F.ボードインは1870年9月から11月にかけて大学東校で教鞭を取った後、オランダに帰国する。この写真は帰国直前の閏10月30日(西暦1870年12月22日)の送別会で内田九一によって撮影された。この時点で、A.J.ボードインは休暇を取って帰国していたので、彼が関係する写真ではない。大型のB3アルバムはA.F.ボードインのアルバムと推測される。

長崎外の古写真考 目録番号: 147 布引滝(2) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 147 布引滝(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 147 布引滝(2)
〔画像解説〕
生田川水源の花崗岩崖にかかる布引滝は、雌滝、鼓ヶ滝、夫婦滝、雄滝よりなる。写真の雌滝は最も下流に位置する。写真中央には、観瀑橋が見える。

目録番号:2807 布引滝(15)
〔画像解説〕
布引雌滝。「布引の滝」は生田川の上流に位置し、雄滝、夫婦滝、鼓ケ滝、雌滝の流れを総称した呼名。川を渡る回廊のような木橋と茶店がまだ設けられていないので、明治初期から中期の撮影。彩色は異なるが、目録番号4481・4682・4870と同じ写真。

目録番号:4481 布引滝(23)    掲載略

目録番号:4682 布引滝(25)    掲載略    

目録番号:4870 布引滝(27)
〔画像解説〕
布引雌滝。明治初期から中期にかけての撮影。彩色が異なるが、目録番号2807・4481・4682と同じ写真。雄滝から雌滝に続いたこの流れは、新生田川となって海に注ぐが、このあたりから下流にかけて、精米の水車場がいくつもあったという。

■ 確認結果

神戸市山手の有名な「布引滝」を写した上記目録番号の5作品。撮影者は「日下部金兵衛」や未詳となっているが、そうではないようだ。
金子隆一氏研究紀要 ”内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置”(Adobe PDF)に、「神戸 布引雄滝」の2作品がある。(東京都写真美術館などの所蔵)

明治5年(1872)、明治天皇の巡幸に随行した「内田九一」の作品である。帰路7月、神戸に寄って撮影した。天皇は滝へは出かけていない。巡幸写真が小さく、横になって掲載されていたため、これまで良く調べなかった。縦にしてわかった。

2点のうち左の「図54 神戸 布引雄滝」は、目録番号で見当たらない。右の「図55 神戸 布引雄滝」が、上記目録番号の5作品と同じ写真だろう。雄滝?雌滝?
最近、「図52 神戸ヨリ布引ヘ至ル途上」の目録番号: 146「久形橋」について、コメントがあり作品を調べていて、巡幸写真の一緒とわかった。
目録番号: 146「久形橋」は、 https://misakimichi.com/archives/2272

長崎外の古写真考 目録番号: 303 松島(1) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 303 松島(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 303 松島(1)
〔画像解説〕
日本三景の一、松島。湾内には波の浸食を受けた様々な形の島が浮かぶ。八百八島と称されるが実際には210数島。写真では、頂に松を載せた角錐形の美しい島が三つ、ちょうど三角形の頂点に立つ形で並んでいる。

目録番号:4459 松島(16)
〔画像解説〕
隣接の鳴瀬町の野蒜海岸にある小岩峰で不老山と呼ばれているが、漂砂の堆積と隆起傾向にある地盤変動により、現在は島の全てが完全に陸地化しており、松林の中にある状況である。背後は海水浴場と宮戸島の山並みである。

■ 確認結果

目録番号: 303「松島(1)」は、次の目録番号:4459「松島(16)」の画像解説どおり、宮城県桃生郡鳴瀬町(2005.4.1合併により東松島市となる)の野蒜海岸にある「不老山」である。
ポケットブックス | アンティーク絵葉書専門店 宮城県商品一覧にも、「93645宮城 松島 不老山」として同じような景色の写真がある。

長崎外の古写真考 目録番号:5067 鉄製外柵と宮廷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5067 鉄製外柵と宮廷

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5067 鉄製外柵と宮廷

■ 確認結果

目録番号:5067「鉄製外柵と宮廷」は、外国ではない。東京都港区元赤坂にある「旧東宮御所」(現在の「迎賓館赤坂離宮」。明治以降の建築物では、国宝第1号)である。
ポケットブックス | アンティーク絵葉書専門店 東京都商品一覧に「4454東京 東宮御所」をはじめ6点がある。次の他店の絵葉書も見る。

現在の写真は、ブログ「テニスとランとデジカメと」2010年6月の記事から。記事は次のとおり。
ベルサイユ宮殿を彷彿とさせる赤坂迎賓館
迎賓館は、かつて紀州徳川家の江戸中屋敷があった広大な敷地の一部に、明治42年(1909)に東宮御所(後に赤坂離宮となる。)として建設されたもので、当時日本の一流建築家や美術工芸家が総力を挙げて建設した日本における唯一のネオ・バロック様式の洋風建築物である。
戦後、わが国が国際社会へ復帰し、国際関係が緊密化してゆくなかで外国の賓客を迎えることが多くなったため、「旧赤坂離宮」を改修して迎賓館とすることになった。

なお、「東宮御所」の作品は「写真の中の明治・大正 ー国立国会図書館所蔵写真帳からー」にも、次のデータにより掲載されている。
掲載資料 東京府名勝図絵  刊行年 明45.5  請求記号 YDM24135
住所表記(明治期) 赤坂区元赤坂町  住所表記(現在) 港区元赤坂
江戸期(末期) 紀州徳川藩邸  現在(平成19年1月現在) 迎賓館

長崎外の古写真考 目録番号:6772 猿橋(2)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6772 猿橋(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6772 猿橋(2)

目録番号:4279 猿橋
〔画像解説〕
山梨県大月市猿橋町に所在する桂川に架けられた猿橋である。猿橋は「木曽の桟(かけはし)」「周防の錦帯橋」とともに日本三奇橋と呼ばれ、昭和7年(1932)に国名勝に指定された。猿橋は橋脚を用いない「ひじ木けた式橋」である。写真は桂川の上流部から猿橋を望み撮影されたものであり、橋の上に多数の人物が写っているが、撮影時期等は不明である。

■ 確認結果

目録番号:6772「猿橋(2)」は、次の目録番号:4279「猿橋」と同じ写真である。〔撮影者:A.ファサリ〕であろう。
HP「広重再考」から安藤広重作 「甲陽猿橋の図」と現在の「猿橋」(猿橋-水路-国道20号)。

(2016年2月10日 追 記)
「猿橋」の現在の写真を末尾に2枚追加。ギャメロンさんのブログぶら〜り日記から。