長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号: 413 頭で荷物を運ぶ女たち(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 413 頭で荷物を運ぶ女たち(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 413 頭で荷物を運ぶ女たち(1)
〔画像解説〕
解説はないが、京都の大原女と思われる。街道を行く娘たちは着物の裾をたくし上げ、手甲、脚絆をつけ、首に手拭いを巻き、頭に手拭いでほっかむりをしている。前掛けをしている女性もいる。頭上の荷物は風呂敷包みである。

目録番号:4401 頭で荷物を運ぶ女たち(2)   (同写真 掲載略。撮影者:小川一真か)
〔画像解説〕
大原女姿の五人の女性が頭を手ぬぐいで覆い、その上に荷物を載せ、街道を歩いている。脚絆を巻き、草鞋姿で、腰帯の結び方から見て、かなりの距離を歩く様子のように見える。

目録番号:1892 頭に荷を乗せて運ぶ人びと
〔画像解説〕
どてら風の服に手拭いを垂らし、草鞋履きの男たちが頭に荷物をのせて一列にならんで歩いている。珍しい光景のため、撮影したのだろうか。

■ 確認結果

目録番号: 413「頭で荷物を運ぶ女たち(1)」と、目録番号:4401「頭で荷物を運ぶ女たち(2)」(同写真 掲載略)は、京都の大原女の風景であろう。
ポケットブックス | アンティーク絵葉書専門店 京都府商品一覧に「34042京都 彩色 大原美人」、キャプションに「KYOTO」とある。

後の目録番号:1892「頭に荷を乗せて運ぶ人びと」も、〔撮影者:小川一真〕であり、同じ京都の大原の風景と思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:1836 グランドホテル(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1836 グランドホテル(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1836 グランドホテル(3)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
海から海岸通りの東端を望む。中央の石壁の建物はグランドホテル旧館(居留地20番)。このホテルは写真家ベアト(Beato,Felice)ら数人が共同で所有する建物をグリーン夫人(Green,Mrs. M.E.)が賃借し、明治3年(1870)夏にオープンしたもので、6年にアメリカ人建築家ブリジェンス(Bridgens,Richard P.)の設計で改築されたのがこの建物である。22年(1889)に株式会社組織となり、翌年フランス人建築家サルダ(Sarda,Paul)の設計によって、隣接の18・19番に増築されたのが、写真の右手に写っている新館である。堀川の河口を挟んだ対岸、国旗用のポールの立っているのがイギリス海軍物置所、その向こうの桟橋をもつ敷地は太平洋郵船会社(Pacific Mail Steam Ship Company)の貯炭所である。グランド・ホテルは明治3年(1870)の創業、横浜を代表するホテルに成長するが、関東大震災で倒壊した。日下部金兵衛のカタログ番号505番の写真。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
バンド東端と山手方面を望む。グランドホテルは明治6年(1873)8月新装開業の旧館と18・19番の新館からなる。この建物は、フランス人居留地建築家サルダの設計になり、明治20年(1887)に落成した。

目録番号:4369 グランドホテル(7)
〔画像解説〕
バンド東端と山手方面を望む。18〜20番のグランド・ホテル新館・旧館から堀川を隔ててその奥にみえるのはイギリス海軍の物置所。のちに海軍病院の庭園になる。手前の人物が立っているのは、フランス波止場。

■ 確認結果

目録番号:1836「グランドホテル(3)」の、超高精細画像データベースの画像解説では、「海から海岸通りの東端を望む」と説明しているが、次の目録番号:4369「グランドホテル(7)」のとおり、突堤の「フランス波止場から」撮影している。

長崎外の古写真考 目録番号: 924 神奈川七軒町の神風楼(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 924 神奈川七軒町の神風楼(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 924 神奈川七軒町の神風楼(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
規模の大きさで有名だった妓楼である。この写真はそれを海から撮影したもので、中央が洋館、その左に日本家屋の一部が見えている。左端が名物の三層楼であろう。日本家屋は建坪1,200坪、洋館は400坪あった。明治17年(1884)高島町遊廓から移転し、洋館を外国人用、日本家屋を日本人用として妓楼経営を行っていた。高島町時代から「ナンバーナイン」の通称で知られるようになったらしい。自家発電所をもち、電飾でも名高かったが、明治29年(1996)には周囲への供給権を得て神奈川電灯会社となった。同時に永楽町にも妓楼を設けていたが、明治33年(1900)に営業を永楽町に一本化した。洋館は養生院(病院)、横浜ホテル、神脳院(精神病院)などとして利用され、日本家屋には神風閣という料亭ができたりしたが、明治44年(1911)に火災で焼失した。その際、ウィルビーというイギリス人貴族を含む2名の患者が犠牲となっている。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
写真タイトルはKANAGAWAとある。神奈川新風楼の外国人用西洋館、遊女屋である。

目録番号:1844 神奈川七軒町の神風楼(2)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
七軒町にあった妓楼を海から撮影したもの。右手の日本家屋は日本人用、中央の洋館は外国人用である。総建坪1,600坪という規模の広大と自家発電による照明で知られた。右端の日本家屋の向こうにかすかに発電所の煙突が見えている。明治17年(1884)高島町遊廓から移転、同時に永楽町にも妓楼を設けたが、明治33年(1900)遊廓の反町移転を機に廃業し、営業を永楽町に一本化した。跡地の洋館は養生院(病院)、横浜ホテル、神脳院(精神病院)などとして、また日本家屋は神奈川病院、神風閣(料亭)などとして利用されたが、明治44年(1911)に火災で焼失した。洋館の左手に白い橋桁の見えているのが碧海橋で、その左手、和船の着岸しているのは、大手の酒問屋結城屋である。日下部金兵衛のカタログ番号585番の写真。

■ 確認結果

目録番号: 924「神奈川七軒町の神風楼(1)」の、超高精細画像データベースは「この写真はそれを海から撮影したもの」と画像解説しているが、次の目録番号:1844「神奈川七軒町の神風楼(2)」のとおり、船着場の対岸か、白い手すりのある橋のたもとから撮影している。

一方、目録番号:1844「神奈川七軒町の神風楼(2)」も、「七軒町にあった妓楼を海から撮影したもの」と画像解説しているので、調査中。
七軒町は、現在の横浜市神奈川区台町となっている。参考となる比較古写真や明治横浜地図が見当たらないため、地元で検証をお願いしたい。

メタデータ・データベースのタイトルは、1枚目が「神奈川の洋館」、2枚目が「神奈川の市街地(1)」となって、超高精細画像データベースと一致していない。
なお、妓楼名を「新風楼」とした目録番号もある。「新風楼」は誤りで、正しくは「神風楼」であろう。歌川国松の明治8年(1875)「横浜高嶋町神風楼之図」がある。

長崎外の古写真考 目録番号: 769 横浜の運河と山手

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 769 横浜の運河と山手

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 769 横浜の運河と山手
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
堀川は万延元年(1860)に開削され、外国人居留地と日本人市街の境界とされた。明治初期に護岸が整備されるが、この写真では地肌が露わで、河岸も整備されておらず、ボートは木の杭に吊されている。外国人居留地と定められた地域から立ち退きを迫られた横浜村住民は、丘の麓と堀川の間の細長い地域に移住し、元町が形成された。堀川の左側がその家並みである。堀川には海側から谷戸橋・前田橋・西の橋の三つの橋が架けられ、橋のたもとには関門番所が置かれて、外国人居留地への人の出入りが厳しくチェックされた。そのため、外国人居留地を含む開港場の中心部は「関内」と呼ばれた。この写真は谷戸橋からの撮影であろう。画面中央右よりの橋が前田橋。橋の左手、木柵で囲まれているのが関門番所である。橋の右手の大きな建物はキャメロン&クックの造船所で、ヨットを製造していた。もう一つ向こうの橋が西の橋である。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。横浜居留地東端橋から堀川(運河)上流を望む。左の家並みは元(本)村、橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている。右手奥に見えるのはキャメロン&クックの小造船所である。

目録番号:6208 横浜の運河と山手(2) 後日、同じ写真が登載されている。

■ 確認結果

目録番号: 769「横浜の運河と山手」は、超高精細画像データベースては、〔撮影者:未詳〕。メタデータ・データベースでは、〔撮影者:F.ベアト〕と変っているのに修正されていない。タイトルも「横浜の運河と山手(1)」となろう。

こんな例は多数の作品に見られるから、調整が必要。メタデータ・データベースの「橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている」は解説間違い。谷戸橋から撮影?しているらしいので、「谷戸橋」は写っていない。

この写真は、横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊の26頁に掲載されている。同解説は次のとおり。
22.堀川と元町
堀川の右手が外国人居留地、左手は元町。中央右手の橋は前田橋、その右手の大きな建物はキャメロン&クックの造船所。遠方に西ノ橋が見えている。(C)

長崎外の古写真考 目録番号: 766 横浜山手からの運河

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 766 横浜山手からの運河

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 766 横浜山手からの運河
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
6枚組の360度パノラマ写真の左2枚分。ほぼ中央の西の橋の先の分流点で中村川は堀川(画面右手前)と派大岡川(画面右上方)に分かれる。眼下の家並みは元町、堀川の対岸は造成中の外国人居留地。派大岡川に沿って松が植えられているのは吉田新田の汐除堤、その向こうに遊水池の一ッ目沼が見えている。満潮時には堤の水門を閉じて海水の流入を防ぎ、干潮時に沼の水を放流するようになっていた。沼はまた漁業にも活用されていた。遠方は太田丘陵である。左手の地肌も露わな崖は居留地造成のための土取場であろう。その右手にその名と不釣り合いな「大神宮」の小さな祠が見えている。派大岡川の堀川間の土地は手前が横浜新田、向こうが太田屋新田。横浜新田にはすでに土が入れられ、家屋が建ち始めているが、太田屋新田はまだ沼地の状態である。その造成は明治に入ってからのことになる。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
ベアトによる1865年10月の書き込み。横浜の山手から居留地の裏の吉田新田を望む。左の丘には外国人と編み笠および半裸の日本人がみえる。橋は西ノ橋、中央の家並みは元町になる。

■ 確認結果

目録番号: 766「横浜山手からの運河」は、横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊の〔解説編 横浜写真小史〕174頁には、「5.パーカーの「新しい横浜の全景」と推測される写真」として掲載されている。

撮影者は、イギリスの写真家「パーカー」か。メタデータ・データベースの撮影者は、「F.ベアト」となっている。さてどちらだろうか。

長崎外の古写真考 目録番号:5941 港川神社

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5941 港川神社

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5941 港川神社

目録番号:4601 湊川神社(4)
〔画像解説〕
湊川(みなとがわ)神社 (現中央区) は、JR神戸駅の北約200mのところにあり、建武3年(延元元年、1336)湊川の戦で足利軍に敗れ、この地で自刃した楠木正成(くすのきまさしげ)を祀る。手前の建物は拝殿、奥は本社。撮影は明治初期から中期だろう。境内には元禄5年 (1692)に 徳川光圀 (みつくに) が建てた石碑などが現存。

■ 確認結果

目録番号:5941「港川神社」は、絵葉書に「神戸官幣大社港川神社」とあるが、次の目録番号:
4601「湊川神社(4)」のとおり、「湊川神社」が正しい。

長崎外の古写真考 目録番号:4891 蓑笠姿の農夫

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4891 蓑笠姿の農夫

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4891 蓑笠姿の農夫
〔画像解説〕
バッチョ笠に藁蓑を着た男性が、鍬を持つ。素足であるところから農作業中の姿と思われる。鍬は唐鍬であり、畑仕事用のものである。

目録番号: 95 農夫(1)
〔画像解説〕
傘に蓑をつけ、鍬を手にした農夫。「95 FARMER」と焼き付け。

■ 確認結果

目録番号:4891「蓑笠姿の農夫」は、次の目録番号: 95「農夫(1)」と同じ写真である。〔撮影者:日下部金兵衛〕であろう。

長崎外の古写真考 目録番号:4897 僧侶たち(7)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4897 僧侶たち(7)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4897 僧侶たち(7)
〔画像解説〕
横浜写真の一枚もの。英語のペン書きで「僧侶—仏教徒」と題されている二人の若い僧侶のスタディオ写真。撮影者は後ろの書割から明治初年のスティルフリードではないかと推測される。

■ 確認結果

目録番号:4897「僧侶たち(7)」は、画像解説中に「撮影者は後ろの書割から明治初年のスティルフリードではないかと推測される」とあるが、〔撮影者:F.ベアト〕ではないだろうか。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊68頁に「96.僧侶」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:4079 脈をとる医者(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4079 脈をとる医者(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4079 脈をとる医者(3)
〔画像解説〕
女性患者の脈をとる坊主頭の医者。医者の傍には往診用の薬箱と引き出し。女性の傍には髪をくずさないための高枕が置かれ、ここにピントが合っている。セットされたスタジオで撮られた外国人向けの彩色写真と思われる。

■ 確認結果

目録番号:4079「脈をとる医者(3)」は、〔撮影者:F.ベアト〕ではないだろうか。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊154頁に「204.患者の脈をとる医者」として掲載されている。
同写真集2の64頁にも、同じ写真「92.医師と患者」がある。

長崎外の古写真考 目録番号:4053 町医者

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4053 町医者

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4053 町医者
〔画像解説〕
姿は、髭をはやして髷を結い、羽織を着て高下駄を履いている。隅あて金具の堅牢な下げ箱を持つ人物は、箱に「御口中一切」と記されているところから町医者と思われる。

■ 確認結果

目録番号:4053「町医者」は、〔撮影者:F.ベアト〕ではないだろうか。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊65頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

83.街頭の歯医者
箱に記された文字は「元町壱丁目 御口中一切 石井倉之進」か。(G3) 今田見信『開国歯科医人伝』(医歯薬出版1973年)参照。