長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:3961 甘酒売り(4)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3961 甘酒売り(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3961 甘酒売り(4)
〔画像解説〕
甘酒の入った釜と茶碗などが入った箱を天秤棒の前後に下げて、担いで売り歩いた。釜の下には火を入れて、甘酒が冷めないようにしてある。

■ 確認結果

目録番号:3961「甘酒売り(4)」は、〔撮影者:F.ベアト〕ではないだろうか。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊154頁に「205.甘酒売り」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:3960 傘をさす女性(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3960 傘をさす女性(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3960 傘をさす女性(2)
〔画像解説〕
女性が手に持っている傘は、蛇の目傘である。蛇の目傘は、中央の輪の部分が蛇の目に似ていることから名づけられた。女性は、手拭(てぬぐい)をあねさんかぶりにし、紋付きの着物の裾をたくし上げている。日本舞踊の一場面である。

■ 確認結果

目録番号:3960「傘をさす女性(2)」は、〔撮影者:F.ベアト〕ではないだろうか。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊162頁に「225.外出着姿の女性」として掲載されている。
同写真集1の85頁にも、同じような構図の写真「121.田舎の娘」がある。

長崎外の古写真考 目録番号:2835 大阪城(5)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2835 大阪城(5)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2835 大阪城(5)
〔画像解説〕
大手門および大手多聞櫓を望んだところ。左は千貫櫓である。千貫櫓と大手多聞櫓は現存。明治初年のころの撮影と思われる。

■ 確認結果

目録番号:2835「大阪城(5)」は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊42頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

59.大阪城
大手門付近。明治元年(1868)正月、戊辰戦争のさなか、本丸などの主な建物が焼失した後の荒涼とした姿。(D)

また、放送大学附属図書館所蔵古写真展HP「日本残像 —写真で見る幕末、明治—」大阪・神戸にも、ベアト撮影として掲載されている。

大阪城
慶応4年1月9日、城中から出火して大阪城は本丸、二の丸ほか櫓、城門の主だったものが灰燼に帰した。残されたのは大手門、多門櫓、千貫櫓、乾櫓などである。この写真は明治初年の焼け残った大手門である。ベアト写真帳に同じ写真が見られることからベアトの撮影であることが分かる。 モノクロ 21×28cm

長崎外の古写真考 目録番号:1135 大宮からの富士山(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1135 大宮からの富士山(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1135 大宮からの富士山(3)
〔画像解説〕
現静岡県富士宮市に属する大宮から望む富士山。写真中央に流れるのは、富士川水系潤井川か。左端には村民の姿も見える。大宮町は、安永年間から東海道吉原宿の臨時助郷を勤めたこともあった。

■ 確認結果

目録番号:1135「大宮からの富士山(3)」は、富士宮市大宮ではなく、富士市伝法から望んだ富士山ではないだろうか。
HP「古絵葉書に見る東海の富士」に、同じような風景の絵葉書「富士眺望 吉原郊外之富士」が掲載されている。同解説は次のとおり。

「吉原郊外の富士」となっているが、富士山の剣が峰の位置や谷筋から判断すると、旧鷹岡町に近い旧吉原町域からの撮影とおもわれる。また、富士山に対する川の角度、川幅などもあわせ考えると、伝法橋付近の撮影のようだ。
川には堰をつくり、そこから水田に水を引き込んだ。稲刈後の畑には、早速、畝が見えるので、この畑では二毛作を行っていたようだ。二件並んだ農家の右手では、農夫が二人、なにやら立ち話をしている。左手の川沿いの道には轍(わだち)をつけながら馬車がゆっくり上っていく。

長崎外の古写真考 目録番号: 167 大宮からの富士山(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 167 大宮からの富士山(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 167 大宮からの富士山(1)
〔画像解説〕
大宮(現富士宮)より見た富士山。大宮は当時戸数一千余り、富士登山の表口といわれたところである。川辺に笠をさした芸者など多くの人々が見えるのは観光地であったことを示しているのかもしれない。富士浅間神社があるので大宮の名がついたという。

目録番号:908 大宮からの富士山(2)
〔画像解説〕
画面左に見事な水車が見える。大宮は富士川水系潤井川中流左岸に位置する。近世、甲州路の要地として、大宮浅間神社を中心とした経済の中心地であった。安永年間からは東海道吉原宿の臨時助郷を勤めた。

■ 確認結果

目録番号: 167「大宮からの富士山(1)」などは、富士宮市大宮だが、「富士宮浅間神社東側あたりの神田川沿い」の風景であろう。
HP「古絵葉書に見る東海の富士」に、目録番号: 167「大宮からの富士山(1)」と同じ写真の絵葉書が掲載されている。同解説は次のとおり。

日下部金兵衛の撮影。富士宮浅間神社東側あたりの神田川沿いらしい。右手から左手方向へ登っていく道が、大宮登山道のようだ。清らかで豊かな川の流れ、美しい村、そして雄大な富士がやさしく優しく包み込む中を、村の子供たちが遊んでいる。もし、子供たちが写っていなかったら、この写真の良さは半減していただろう。
富士山に抱かれた山麓の人々の暮らしの原風景が、ここにある。

長崎外の古写真考 目録番号: 435 田子ノ浦沼川からの富士山(4)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 435 田子ノ浦沼川からの富士山(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 435 田子ノ浦沼川からの富士山(4)
〔画像解説〕
白雪の富士を背景に、沼川にかかる木製の橋に人力車、人物、老人を配している。帆柱は1本、帆は1枚の四角帆で正中にかかっており、この船は当時の荷船であるベザイ船と思われる。田子の浦に白雪の富岳は、古来より我が国で親しまれた景観である。

目録番号:4676 田子ノ浦沼川からの富士山(18)
〔画像解説〕
富士市田子ノ浦港(吉原湊)の港口から北方の富士山を遠望したもの。港の奥には小さく石水門が見えるため、明治18年以降の撮影。手前の便道に架る田子ノ浦橋の橋脚にはX字の補強があり、欄干も低いため、再建された橋と思われる。橋の上には人力車が配され、大小4艘の船が見える。

■ 確認結果

目録番号: 435「田子ノ浦沼川からの富士山(4)」は、吉原湊口に架けられていた「便道」の橋(田子ノ浦橋?)であろう。1880年代の撮影。
HP「古絵葉書に見る東海の富士」に、同じ写真の絵葉書が掲載されている。同解説は次のとおり。

「富士川より」とあるが、明らかに吉原湊。
この橋は明治4,5年に吉原湊口に架けられたものである。旧東海道は、鈴川−依田橋−吉原宿−青島−平垣−松岡−富士川渡船場というルートだったが、街道を行き来する人にとっては、鈴川−吉原湊−前田−柳島−五貫島−富士川渡船場というルートのほうが4kmも近くなるので、県はこのルートを「便道」と唱え、県道とした。しかし、その後、高波で破壊されてからは船渡しに変わり、さらに明治22年の東海道線の開通により、この便道を利用する人はいなくなり、明治24年に県道は廃された。1880年代の撮影。下の写真は橋脚の支えがついていることから、幾分年代は下りそうだ。

橋脚のX字補強は、次の目録番号:4676「田子ノ浦沼川からの富士山(18)」が解説しているが、HP「古絵葉書に見る東海の富士」に絵葉書掲載はなかった。

長崎外の古写真考 目録番号:4206 茶畑からの富士山(2) (再掲)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4206 茶畑からの富士山(2) (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4206 茶畑からの富士山(2)
〔画像解説〕
富士市鈴川(すずかわ)あたりの砂丘上にある茶畑から北方の富士山を遠望したもの。茅葺きの民家の先で丘陵は終わり、その先には東海道に面した鈴川の町屋(元吉原宿:もとよしわらしゅく)の瓦葺屋根が見える。瓦葺の屋根の先には、浮島ヶ原(うきしまがはら)が広がる。茶園には茶摘みをする4人の女性が見える。

■ 確認結果

目録番号:4206「茶畑からの富士山(2)」は、画像解説どおり間違いないようである。
本ブログの次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2688
HP「古絵葉書に見る東海の富士」に、同じ写真の絵葉書が掲載されている。同解説は次のとおり。

「大宮より富士遠望」となっているが、宝永噴火口のようす、浮島が原のようすなどから柏原附近からの撮影。明治20年測図 同35年修正版図には、鈴川駅東南に茶畑の記号があり、この地で小規模な茶畑が営まれていた様子がうかがえる。
オリジナルはA.ファサーリ撮影。

長崎外の古写真考 目録番号:4046 茶器を持つ娘

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4046 茶器を持つ娘

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4046 茶器を持つ娘
〔画像解説〕
前掛けをした茶を出す若い女性。大工さんや左官さんなど職人の雇いごとをした時、このような姿の人が茶を運んでくる。まだ若いので行儀見習いの女性かもしれない。

■ 確認結果

目録番号:4046「茶器を持つ娘」は、〔撮影者:ベアト〕であろう。横浜開港資料館蔵。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊117頁に掲載されている。
〔解説編〕横浜写真小史再論の同頁による解説は次のとおり。

(ベアトの写真の魅力)
…人物を写した写真にも工夫がこらされている。図版34は娘が茶器を持って立っているだけだが、被写体を塀に対して斜めに立たせ、シメントリーが陥りやすい単調な印象を避けている。塀に差す影によって画面に立体感が生まれている。

長崎外の古写真考 目録番号: 656 函館海岸 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 656 函館海岸 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 656 函館海岸
〔画像解説〕
入り江になった波静かな海岸。函館山の東端、立待岬付近かと思われるが、正確な場所は不明(鞍掛岩?)。前景中央に人物が一人配され、その背後、ほとんど波のない海面に屹立する巨岩がいくつか。遠景には対岸の山の稜線が見える。

目録番号:2423 小樽の海岸風景
〔画像解説〕
『小樽市史』第1巻(昭和33(1958)年刊)所収の同写真には「立岩附近のアイヌ 明治七年頃」というキャプションが付けられている。

■ 確認結果

目録番号: 656「函館海岸」は、次の目録番号:2423「小樽の海岸風景」のとおり、小樽市堺町の海岸にあった「立岩」である。
本ブログの次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2362

目録番号: 656「函館海岸」などは、学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊62頁に、「6 明治14年明治天皇北海道・出羽巡幸写真」として掲載されている。同解説は次のとおり。
61頁には、「写真撮影は、随行の大蔵省印刷局写真師によることが『明治天皇紀』にみえる。ここでは、巡幸とは直接関係ないが、明治30年以前と推定できる北海道のアイヌ写真6枚を加えた」とあるが、6枚は別頁にありこの写真は巡幸写真?と思われる。

1 小樽堺立岩ノ景
近世オタルナイと呼ばれた小樽には、明治5年(1872)札幌の建設に伴って手宮に埠頭が建設され、さらに明治13年には小樽ー札幌間に鉄道が開通して、北海道の中核都市札幌の玄関として発展した。本図は小樽市堺町の海岸にあった立岩の景観。

長崎外の古写真考 目録番号:6645 金沢城(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6645 金沢城(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6645 金沢城(1)

目録番号:3465 琵琶湖唐崎の松(7)
〔画像解説〕
また、「近江八景」の1つ、「唐崎の夜雨(からさきのやう)」で有名な、通称「唐崎の松」。写真は2代目の松にあたり、東西72メートル、南北86メートル、高さ10メートルある巨松で、横に伸びた枝は湖上にまで突き出し、数多くの添え木や石垣で、その枝を支えている。この松は大正10年(1921)に枯死し、現在では3代目の松を同地で見ることが出来る。

目録番号: 741 海岸の民家
〔画像解説〕
大きな石の連なる海岸。岸辺からすぐ山が立ち上がっているのであろう。山から引いた水が樋から勢いよく流出し、その下で男がその水を浴びている。単なる水浴びなのか、別に意味があるのか不明である。

■ 確認結果

目録番号:6645「金沢城(1)」などは、学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊49〜57頁に、「4 明治11年(1878)明治天皇北陸・東海両道巡幸写真」として掲載されている。同解説は次のとおり。
この巡幸には、当初写真師長谷川吉次郎が随行の予定であったが、出発以前に吉次郎発病のため、代理に古賀焼・山際長太郎の2名が随行した。(43頁)

9 金沢旧城三之丸
戒厳態勢の下に10月2日午後に金沢入りした天皇は、4日旧金沢城内にある金沢屯営歩兵第七連隊に行幸した。本図は、石川門内の金沢城三之丸東側から西南のニ之丸方向を撮影したもので、右から河北門・ニの丸菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門が写っている。これらの建物群は明治14年(1881)1月10日の火災で全焼した。

12 唐崎松
滋賀県大津市下阪本町所在。唐崎は平安時代に七瀬の祓所の一つとされ、そこに生える唐崎松は「唐崎の一つ松」とされ近江八景のうち「唐崎夜雨」として著名。

21 熱海山之湯滝
静岡県熱海市の中央部にある熱海温泉は、奈良時代から万病に効く霊湯として知られ、近世には将軍家をはじめ、東海道を往来する諸大名や江戸の町人まで湯治に利用した。2枚の写真は、海岸の温泉宿から流出する筧の湯を浴びる男性を撮影したもので、明治天皇の巡幸路とは無関係だが、台紙の状況等から明治5年(1872)巡幸時に撮影したもので、明治8年に没した写真師内田九一の撮影と推定できる。

目録番号: 741「海岸の民家」は、本ブログの次の記事も参照。
https://misakimichi.com/archives/2366