長崎外の古写真考 目録番号: 435 田子ノ浦沼川からの富士山(4)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 435 田子ノ浦沼川からの富士山(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 435 田子ノ浦沼川からの富士山(4)
〔画像解説〕
白雪の富士を背景に、沼川にかかる木製の橋に人力車、人物、老人を配している。帆柱は1本、帆は1枚の四角帆で正中にかかっており、この船は当時の荷船であるベザイ船と思われる。田子の浦に白雪の富岳は、古来より我が国で親しまれた景観である。

目録番号:4676 田子ノ浦沼川からの富士山(18)
〔画像解説〕
富士市田子ノ浦港(吉原湊)の港口から北方の富士山を遠望したもの。港の奥には小さく石水門が見えるため、明治18年以降の撮影。手前の便道に架る田子ノ浦橋の橋脚にはX字の補強があり、欄干も低いため、再建された橋と思われる。橋の上には人力車が配され、大小4艘の船が見える。

■ 確認結果

目録番号: 435「田子ノ浦沼川からの富士山(4)」は、吉原湊口に架けられていた「便道」の橋(田子ノ浦橋?)であろう。1880年代の撮影。
HP「古絵葉書に見る東海の富士」に、同じ写真の絵葉書が掲載されている。同解説は次のとおり。

「富士川より」とあるが、明らかに吉原湊。
この橋は明治4,5年に吉原湊口に架けられたものである。旧東海道は、鈴川−依田橋−吉原宿−青島−平垣−松岡−富士川渡船場というルートだったが、街道を行き来する人にとっては、鈴川−吉原湊−前田−柳島−五貫島−富士川渡船場というルートのほうが4kmも近くなるので、県はこのルートを「便道」と唱え、県道とした。しかし、その後、高波で破壊されてからは船渡しに変わり、さらに明治22年の東海道線の開通により、この便道を利用する人はいなくなり、明治24年に県道は廃された。1880年代の撮影。下の写真は橋脚の支えがついていることから、幾分年代は下りそうだ。

橋脚のX字補強は、次の目録番号:4676「田子ノ浦沼川からの富士山(18)」が解説しているが、HP「古絵葉書に見る東海の富士」に絵葉書掲載はなかった。