長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号: 550 住吉神社の反橋(3) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 550 住吉神社の反橋(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 550 住吉神社の反橋(3)
〔画像解説〕
住吉大社反橋を、真横より写す。水面に映る橋の像がみごとにとらえられている。

目録番号: 148 大阪城外堀六番櫓(2)
〔画像解説〕
西の丸の戌亥(いぬい)、すなわち北西の隅を守る櫓。矩折れ(かねおれ=L字型)総二階造りという、珍しい構造をもっている。千貫櫓とともに、大坂城の現存古建造物のなかでは最も古いものに属する(1620年着工)。

目録番号:1226 大阪造幣局(3)
〔画像解説〕
造幣寮創業時の貨幣鋳造所は老朽化のため昭和3年に解体されたが、その玄関部は後に復元され、桜宮公会堂を経て、現在は桜宮ユースアートギャラリーとして当時の姿を伝えている。

目録番号:2858 大阪造幣局(5)    (同写真 掲載略)

目録番号:4479 大阪造幣局(6)    (同写真 掲載略)

目録番号:3229 大阪の河口の風景
〔画像解説〕
川口波止場である。大阪は慶応4年(1868)7月15日に開港した。安治川河口から約4キロ上流のところに設けられ、税関・電信も設置された。写真に写っている船は外輪船である。遠くに見える洋館は、外国人居留地の建物である。明治20年(1888)ころと思われる。

■ 確認結果

目録番号: 550「住吉神社の反橋(3)」などは、学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊35〜37頁に、「3 明治10年(1877)明治天皇畿内行幸写真」として掲載されている。同解説は次のとおり。
行幸に随行した写真師は、記していない。(27頁)

10 住吉ノ反橋
2月14日、明治天皇は住吉神社を参拝した。大阪市住吉区住吉にある住吉大社は摂津国一ノ宮で、『日本書記』によると神宮皇后が三韓出兵に神助のあった筒男三神を住吉の地に鎮祭させたのが起源という。摂津の西堺の神、また海上交通の守神として崇敬をあつめ、神階は正一位。社前の反り橋は国指定重要文化財である。着色写真。

11 大阪城
2月14日大阪へ入った明治天皇は、旧大阪城の大阪鎮台に到着、練兵場での操練、砲兵支廠等を天覧した。着色写真。

12 大阪造幣寮
2月14日夕刻、明治天皇は大阪での行在所であった造幣寮泉布観に入った。図は大阪市北区の大川(旧淀川)端にある造幣寮の全景。着色写真。

13 大坂川口ノ景
大坂市港区の安治川河口にある船着場の光景。着色写真。

長崎外の古写真考 目録番号:3011 函館港の遠景 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3011 函館港の遠景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3011 函館港の遠景
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
撮影年代は、写真中央付近から左方向にかけて市中に林があることから明治11年(1878)以前であることが分かる。この林は浄玄寺(じょうげんじ)・称名寺(しょうみょうじ)・実行寺(じつぎょうじ)が建ち並んでいるところで、明治11年に大火にあって焼失している地域である。その林の右側の白い建物は函館病院である。撮影位置は現在の船見町(ふなみちょう)と弥生町(やよいちょう)の境付近からで、撮影目的は、撮影年代とも関係してくるが、明治9年(1876)7月に明治天皇が東北巡幸後函館を訪れるが、その際のものではないかと思われる。港内をみると大型の船が碇泊しており、その船形をみると明治9年7月16日から18日まで碇泊していた明治丸と思われる。明治丸の舳先の右下の建物は天皇が上陸した税関である

目録番号: 539 山手からの函館市街
〔画像解説〕
函館山側から函館市街と函館港を望む。彩色は乱雑で、かなり色褪せてしまっており、映像は極めて不鮮明。手前に草木の緑、その先に市街地、中景に港湾、遠景に亀田半島の山並みが見える。

■ 確認結果

目録番号:3011「函館港の遠景」などは、〔撮影者:長谷川吉次郎〕と思われる。
学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊26頁に、明治9年(1876)明治天皇東奥巡幸写真として掲載されている。同解説は次のとおり。
巡幸に随行した写真師は、内田九一の弟子「長谷川吉次郎」であった。(13頁)

21 函館港
北海道函館市は、近世から松前三湊の一つとされ、日米和親条約により安政2年(1855)開港、明治2年(1869)の函館戦争の舞台となった。北海道の玄関口として栄える。明治天皇一行は、7月16〜18日函館に滞在し、五稜郭等に臨幸した。図は、函館山からの市中を俯瞰したもの。

長崎外の古写真考 目録番号:1199 天神橋と八軒家

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1199 天神橋と八軒家

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1199 天神橋と八軒家
〔画像解説〕
天満橋八軒家は、淀川を上下し、京・伏見と大阪を結ぶ三十石舟の船着き場であった。橋の南詰めに八軒の家があったことからこの名が残ったという。

■ 確認結果

目録番号:1199「天神橋と八軒家」は、〔撮影者:内田九一〕と思われる。
学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊5頁に、明治5年(1872)明治天皇大阪・中国・西国巡幸写真として掲載されている。同解説は次のとおり。
巡幸に随行した写真師は、内田九一等である。(1頁)

5 大阪天神橋
大阪市北区天神橋筋と東区を結び大川と堂島川・土佐堀川の分岐点に架かる橋で、現在市道天神橋天王寺線が通ずる。明治天皇の臨幸コースとは関係ないが、6月6日前後の中之島側からの撮影とみられ、同一写真は東京国立博物館・霞会館にも保存されている。着色写真。

長崎外の古写真考 目録番号:な し ベアト撮影「母と子」 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し ベアト撮影「母と子」 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:な し ベアト撮影「母と子」 ほか

■ 確認結果

石黒敬章氏著「幕末・明治のおもしろ写真」平凡社2004年初版第4刷77頁の写真と解説は次のとおり。

上野彦馬の不思議発掘
〔写真7〕いたけない子を背負う女性。ベアトのアルバムにあるからベアト撮影だが、背景が上野彦馬の家であるよう気がしてならない。この女性も、『甦る幕末』280頁掲載の女性に似ている。ベアトが彦馬の写場を訪れた際、この写真も撮ったということは考えられる。

私もこの女性は気になっていた。横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」及び「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊に再三、登場する。
『甦る幕末』280頁掲載の上野彦馬撮影女性か、また上野写場かは別として、ベアト撮影の6作品の女性は、着物の色合いなどから同一人のようにも見える。

第1集 162頁  226.母と子   
第2集  40頁   70.官吏の妻女
64頁   89.踊り子
76頁  105.駕籠
81頁  115.母と子
88頁  124.化粧

写真集『甦る幕末』朝日新聞社1987年第1刷273頁及び280頁の作品も、参考のため掲げる。上野彦馬撮影とは、どの写真の女性のことだろうか。
長崎大学データベースに目録番号がある作品があるので、本ブログの次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/2754
https://misakimichi.com/archives/2756

長崎外の古写真考 目録番号: 381 東京の町並み(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 381 東京の町並み(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 381 東京の町並み(1)
〔画像解説〕
川向うに 「江口商店」 の看板が見える。 手前の洋風の建物には目印が見えない。

■ 確認結果

目録番号: 381「東京の町並み(1)」は、東京の「新橋」である。橋向こうは金春通りの花街。客待ちの人力車が並ぶ。撮影年代は、明治15年前後のよう。
長崎大学データベースで、以前は「超高精細画像」を見ると、詳しい画像解説があった。それがどうした事情か、最近のシステムでは「ボードインコレクション」以外、全部省かれ困っている。

石黒敬章氏著「続 幕末・明治のおもしろ写真」平凡社1998年初版第1刷142〜147頁によると、著者が次のとおり撮影場所を比定し、「新橋」と発見された経過が記されている。

「新橋」である根拠
①橋に擬宝珠があること。
②光線の具合が合っていること。
③橋向こうの建物が似ていること。
④帝国ホテルの場所(距離と角度)が合っていること。
⑤時計塔は小林時計店本店だったこと。

長崎外の古写真考 目録番号:6751 お神輿(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6751 お神輿(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6751 お神輿(3)

■ 確認結果

目録番号:6751「お神輿(3)」は、ファサリ商会発売。〔撮影地:横浜〕ではないだろうか。
石黒敬章氏著「幕末・明治のおもしろ写真」平凡社2004年初版第4刷100頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

珍しい横浜写真
〔写真7〕子供神輿。バックに低い丘が写っているので横浜だろうか。旭日旗を持っているのでもう明治も後半だ。ファサリ商会発売。

長崎外の古写真考 目録番号:4221 笑う女性 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4221 笑う女性 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4221 笑う女性
〔画像解説〕
両腕を首の後ろで組んで、くつろいだポーズをとる丸髷の女性で、黒繻子(くろしゅす)の襟をつけた大柄な縦縞の普段着を着ている。ただ綸子(りんす)文様の帯は不釣合である。

目録番号:5604 笑う日傘の女性

■ 確認結果

目録番号:4221「笑う女性」と、目録番号:5604「笑う日傘の女性」のモデルは同一人であろう。
名前は「笑子(えみこ)ちゃん」。笑う写真を日本人に根づかせることに寄与した最大の功労者。(筆者が勝手に命名。いつまでも名無し有名人では困るから)と、次の資料がある。

石黒敬章氏著「幕末・明治のおもしろ写真」平凡社2004年初版第4刷16,21頁の女性とそのポーズ。目録番号の写真とほとんど似ている。同解説は次のとおり。
笑う写真のルーツを探る
〔写真13〜23〕絵はがきになった「笑子ちゃん」。この女性の笑って絵はがきは40〜50種ありそうだ。コロタイプ印刷、手彩色。発行は明治38〜45年頃だが、撮影は明治25〜35年であろう。明治35年発行の横浜写真のアルバムに同じ写真が含まれているので、明治35年以前であることは確実。

A.ファサリは、明治23年(1890)イタリアに帰国した。写真館は共同出資者や日本人写真家の手で経営が続けられたが、著者がこのA.ファサリ?の作品に、本文でもふれられていないのは、何かあるのだろうか。
年表風に整理した18頁に、○明治20〜35年 横浜写真に笑う「笑子ちゃん」登場。とは記している。

長崎外の古写真考 目録番号:3422 イギリス公使館庭のガワーと武士達

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3422 イギリス公使館庭のガワーと武士達

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3422 イギリス公使館庭のガワーと武士達

■ 確認結果

目録番号:3422「イギリス公使館庭のガワーと武士達」は、安政6年(1859)、イギリス公使館が置かれた東禅寺(現東京都港区)の庭で、ロシエが撮影した写真である。横浜開港記念館所蔵。
横浜開港記念館編「F.ベアト写真集 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊98頁の「解説編」の中に、資料写真「4.東禅寺の庭の護衛兵 安政6年(1859)、ロシエ撮影。当館蔵」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号: 632 奈良の野仏 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 632 奈良の野仏 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 632 奈良の野仏  (2014年5月28日追記)
[画像解説]
詳細不明。高さ5m程度と思われる石仏の傍らに、着物姿で髷を結った人物が佇んでいる。

目録番号:2409 石仏(2)

■ 確認結果

目録番号: 632「奈良の野仏」と、目録番号:2409「石仏(2)」は、東京の「千住小塚原の延命地蔵尊」である。
石黒敬章氏編「明治・大正・昭和 東京写真大集成」新潮社2001年刊の414頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

〔千住小塚原の延命地蔵尊〕 ⅠⅠⅠ23−38
小塚原(現荒川区南千住5丁目)には鈴ヶ森と並ぶ江戸の処刑場があった。日本橋本町にあった浅草刑場が次第に郊外に移され、小塚原へ落ち着いたのである。寛保元年(1741)に建てられた延命地蔵尊と、元禄11年(1698)に建立の南無妙法蓮華経とお題目の刻まれた石碑が痛々しく写っている。明治5年頃のキャビネ大。

長崎外の古写真考 目録番号:3219 下関(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3219 下関(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3219 下関(3)

目録番号:1191 下関(2)
〔画像解説〕
関門海峡と赤間神宮。内田九一の撮影による。赤間神宮は壇の浦で果てた幼帝安徳天皇を祀る。安徳天皇と平家一門への回向として5月3日には「先帝祭」が行われる。

■ 確認結果

目録番号:3219「下関(3)」は、次の目録番号:1191「下関(2)」のとおり、下関の赤間関「亀山八幡宮」で、〔撮影者:内田九一〕であろう。
金子隆一氏論文HP”内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置”69頁に、「図20 赤間関 亀山八幡宮」として掲載されている。
明治天皇が下関を訪れたのは、明治5年(1872)6月。随行した内田九一が撮影した写真である。東京都写真美術館蔵。