長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:3989 芦ノ湖と箱根宿

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3989 芦ノ湖と箱根宿

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3989 芦ノ湖と箱根宿

■ 確認結果

目録番号:3989「芦ノ湖と箱根宿」は、〔撮影者:F.ベアト〕かも知れない。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊87頁に、「92.芦ノ湖。湖岸に箱根宿が見える」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:3948 芦ノ湖(13)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3948 芦ノ湖(13)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3948 芦ノ湖(13)
〔画像解説〕
箱根関所跡付近から見た箱根宿の眺望。芦ノ湖に臨んでいる建物は大きな藁葺き屋根の建物と一体のもので、いわゆる本陣である。本陣は江戸時代、参勤交代の折に大名等が宿泊・休憩した。背後の山は鞍掛山で、芦ノ湖の手前には、杉並木と湖を眺める職人風の人物が見られる。

■ 確認結果

目録番号:3948「芦ノ湖(13)」は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊85頁に、「89.芦ノ湖を隔てて箱根宿を望む」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:3982 庭園の風景(4) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3982 庭園の風景(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3982 庭園の風景(4)

目録番号:4071 庭園の風景(5)     (同写真 掲載略)

■ 確認結果

目録番号:3982「庭園の風景(4)」と、目録番号:4071「庭園の風景(5)」(同写真 掲載略)は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。庭園がどこかは不明。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊93頁に、「130.庭」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:1083 墓地(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1083 墓地(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1083 墓地(1)
〔画像解説〕
写真外に “”HAKASHO OR GRAVE YARD “”とある。荒れ果てた感があるが、無縁仏の墓所ででもあるのだろうか。

目録番号:1275 山手からの横浜居留地(3)
〔画像解説〕
横浜・貝殻坂からの眺め。山手へ上る坂道である。手前が元町、向こうが外国人居留地である。手前は、日本人の墓地である。F.ベアトの撮影。

■ 確認結果

目録番号:1083「墓地(1)」は、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.2 No.10 1871/10/16 に掲載された写真である。
資料は、九州大学デジタルアーカイブから。

新聞116頁の記事に「FROM the Roku−ji−zo,」とあり、手がかりとなろう。
次の目録番号:1275「山手からの横浜居留地(3)」に写る、横浜・貝殻坂の日本人墓地のような感じがするが…。「F. ベアト写真集1」21頁にも、墓地の別写真がある。

長崎外の古写真考 目録番号:1089 鶴岡八幡宮境内

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1089 鶴岡八幡宮境内

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1089 鶴岡八幡宮境内
〔画像解説〕
右手に鶴岡八幡宮の茅葺のお堂があり、その向こうの一段下がったところに鳥居が立っている。左手の奥には蓮池があり、その向こうは森になっている。

■ 確認結果

目録番号:1089「鶴岡八幡宮境内」は、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.2 No.7
1871/9/1 に掲載された写真である。
資料は、九州大学デジタルアーカイブから。

長崎外の古写真考 目録番号:1111 牡丹園(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1111 牡丹園(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1111 牡丹園(1)
〔画像解説〕
鑑賞用の牡丹の花を栽培する日覆いのある花園である。様々な色の牡丹の花の中に上半身をのぞかせて立つ2人の女性に華やぎを与えている。小川一真得意とする女性像である。

目録番号:4310 牡丹園(2)
〔画像解説〕
温室の中で咲き誇る牡丹園と見物の女性たち。温室は竹で組んだ規模の大きなもの。

■ 確認結果

目録番号:1111「牡丹園(1)」と、次の目録番号:4310「牡丹園(2)」は、東京の深川にあった「四ッ目の牡丹園」であろう。〔撮影者:小川一真〕だろうか。
石黒敬章氏編「明治・大正・昭和 東京写真大集成」新潮社2001年刊403頁に、同じ写真が掲載されている。同解説は次のとおり。

【四ッ目の牡丹園】ⅠⅠⅠ22−06
深川区本村町(現江東区毛利1丁目)にあった名高き四ッ目の牡丹園。幾種類もの牡丹が牡丹園に充ちあふれ、妍を競っていた。亀戸で藤を見て、牡丹園を訪れるのが花見の順路だった。園主の成家文蔵は植文といった方が通りがよかった。障子格子に油紙を市松模様に貼って、光の調節をしている。明治中期。〔Y〕

長崎外の古写真考 目録番号:5014 隅田川の運搬船

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5014 隅田川の運搬船

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5014 隅田川の運搬船
〔画像解説〕
日本橋の橋の上より、船荷で賑う日本橋川の西を望む。快晴ならばこの角度で富士山が望めた筈である。左岸は西河岸で、右奥に垣間見える橋は西橋である。水運から陸運に移行していく時代であるが、まだ運河が荷物の運送には欠かせなかった頃である。明治37年(1904)発行の
『Japan』というブックケース入りステレオ写真。

■ 確認結果

目録番号:5014「隅田川の運搬船」は、〔撮影者:ハーバード・ポンディング〕ではないだろうか。
石黒敬章氏編「明治・大正・昭和 東京写真大集成」新潮社2001年刊171頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

【日本橋】ⅠⅠ01−04
日本橋より船荷で賑わう運河の西を望む。アメリカのアンダーウッド&アンダーウッド社が明治
37年に発行した、『ジャパン』というブック・ケース入りステレオ写真の1枚。撮影はイギリス生まれのハーバード・ポンディングである。立体写真は明治の末期に世界的なブームがあった。快晴ならばこの角度で富士山が望める筈だ。〔J〕

長崎外の古写真考 目録番号:1487 岩の浸食

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1487 岩の浸食

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1487 岩の浸食
〔画像解説〕
珍しい岩の侵食の記録なのか、あるいは道路新設工事の写真なのか判然としない。非常に目立つ電柱とそこから伸びる電線が、近代化日本の象徴として写し取られたのかもしれない。

■ 確認結果

目録番号:1487「岩の浸食」は、岩手県二戸郡一戸町の国指定天然記念物「浪打峠の交叉層」であろう。
学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊24頁に、明治9年(1876)明治天皇東奥巡幸写真「17 末ノ松山(一名浪打峠)」として掲載されている。同解説は次のとおり。
巡幸に随行した写真師は、故内田九一の弟子の「長谷川吉次郎」である。(13頁)

17 末ノ松山(一名浪打峠)
7月10日明治天皇は陸羽街道の浪打峠を越えた。浪打峠は交差した砂目層が顕著で貝化石を含む粗粒砂岩層が露出するため名があり、歌枕の末の松山とも称される。

文化庁などの「文化遺産オンライン」による同文化財の説明は次のとおり。
浪打峠の交叉層 ナミウチトウゲノコウサソウ
天然記念物 地質鉱物 / 岩手県   岩手県二戸郡一戸町一戸字大越田、大道沢地内
浪打峠は、古歌で有名な末の松山とも呼ばれ、その昔一戸から福岡へぬける奥州街道となっていた場所です。交叉層とは、現在では一般的に「偽層」(クロスラミナ)と呼ばれています。クロスラミナは、もとも地層が斜めに交叉する小規模な層の事で、流動している水、または空気の中ですななどが堆積する際に生じるものと言われており、特に末の松山のクロスラミナは、その規模が大きく、しかも外見が美しい事から国の指定となっています。層は荒い砂岩で、なかにはホタテ貝などの化石の砕屑物が層になって点在しており、美しい縞模様となっています。
この浪打峠の地層は、末の松山層と呼ばれ、今から700万年前のものと言われています。

現在の写真は、HP「ウチノメ屋敷 レンズの目」風景の表情から。

長崎外の古写真考 目録番号:6206 横浜弁天社(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6206 横浜弁天社(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6206 横浜弁天社(3)

■ 確認結果

目録番号:6206「横浜弁天社(3)」は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2−外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊28頁に、「26.洲干弁天社境内 左手奥が社殿」として、掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:4049 托鉢の尼僧

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4049 托鉢の尼僧

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4049 托鉢の尼僧
〔画像解説〕
スティルフリード=アンダーセン製作のアルバムの一枚。子供の托鉢僧。左の子供は胸に路銀と思われる袋をぶらさげ、右の子供も野宿できるように厚着である。

■ 確認結果

目録番号:4049「托鉢の尼僧」は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2−外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊69頁に、「99.托鉢の尼僧」として、掲載されている。
同写真集1の161頁にも、「222.托鉢する尼僧」として掲載されている。