長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:4236 紅葉(秋)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4236 紅葉(秋)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4236 紅葉(秋)

目録番号:4166 王子滝野川(8)
〔画像解説〕
享保5〜6年(1720〜21)頃、この地に遊んだ八代将軍徳川吉宗は、王子権現や音無川の由来が自らの故郷である紀州にあることを知り大層喜んだ。それで飛鳥山には吉野桜を、滝野川には紅葉を植えさせ花の名所とした。以後、王子一帯は江戸市民の行楽地となったのである。明治中期。

■ 確認結果

目録番号:4236「紅葉(秋)」は、次の目録番号:4166「王子滝野川(8)」のとおり、撮影地域は東京。王子滝野川であろう。

長崎外の古写真考 目録番号:1070 洞窟の仏像

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1070 洞窟の仏像

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1070 洞窟の仏像
〔画像解説〕
写真外に “”AMISH’KIーTHE GOD IN THE CAVE “”とある。洞窟内の神(仏像)であるが、 “”AMISH’KI “”については未詳。洞窟のある小さな丘の上にも石塔が見える。小丘全体が一つの霊域なのであろう。

■ 確認結果

目録番号:1070「洞窟の仏像」は、横浜で発行された英字新聞 “The Far East “ Vol.2 No.12  1871/11/16 に「鶴間村」(現小田原市)、「小田原城」とともに掲載された写真。次号の Vol.2
No.13 1871/12/1 も「小田原の町」である(資料は九州大学デジタルアーカイブ)。
小田原の一連の掲載作品から考えると、目録番号:1070「洞窟の仏像」の写真外に記された
“AMISH’KI “も、小田原近くにあった旧「網一色村」のことと思われる。

小田原市は、1940年(昭和15年)12月20日、足柄下郡小田原町・足柄町・大窪村・早川村・酒匂村の一部(網一色・山王原地区)が合併して発足した。
山王神社境内にある「旧山王原村の図(及び網一色村)」によると、「網一色村」は酒匂川の河口地区。前は相模湾となる。現在の小田原市寿町・東町あたりとなるようであるが、市街化が進んでいるだろう。

小田原市域における古墳時代の墳墓には、久野丘陵の円墳群と大磯丘陵の麓に点在する多数の横穴墓群などが知られ、一部は市指定史跡となっている(小田原市の史跡から)。
目録番号:1070「洞窟の仏像」は、どこか特定できないが、写真の状況から網一色地区にあったこれら墳墓を利用し、仏像を安置した所と考えてよいのではないだろうか。
地図の緑丸は円墳のようだ。地元での検証をお願いしたい。 

長崎外の古写真考 目録番号:3667 川辺の旅館

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3667 川辺の旅館

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3667 川辺の旅館

目録番号: 914 塔ノ沢温泉(3)
〔画像解説〕
“塔の沢温泉の環翠樓(左)と一の湯(右)の写真である。環翠樓は元湯とも言い、公武合体の時のヒロイン皇女和宮が病気療養で逗留し、32歳で薨去したのは、この環翠樓である。 “”The Far East “”に初載。”

■ 確認結果

目録番号:3667「川辺の旅館」は、次の目録番号: 914「塔ノ沢温泉(3)」のとおり、木橋の対岸から撮影された塔ノ沢温泉(左)の旅館「環翠樓」の改築前の写真であろう。
川岸の石組みと、旅館上部の源泉らしい小屋が同じである。
目録番号: 742「岸辺の旅館」も参照。 https://misakimichi.com/archives/2363

長崎外の古写真考 目録番号:2550 神社祭礼の行列風景

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2550 神社祭礼の行列風景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2550 神社祭礼の行列風景
[画像解説]
どこかの神社か神道系の祭典と思われる。神職が馬に乗り、お伴の者がつく。神職の回りには、手綱とり、傘持ちがいる。女性の衣装から伝統的というより、何か特別な祭りとも思われる。

目録番号:3350 千人武者行列
[画像解説]
日光東照宮の百物揃千人武者行列(ひゃくものぞろえせんにんむしゃぎょうれつ)は正式には神輿渡御祭(しんよとぎょさい)という。徳川家康の神霊を静岡県の久能山から日光へ移した当時の様子を再現する祭典である。5月と10月の2度行われる。

目録番号:2120 日光東照宮表参道
[画像解説]
日光東照宮の表参道を南の中山通り側から眺めている。参道の中央に、現在は無い堀が見られる。画面の正面突き当たりが東照宮境内で、杉木立の中に石鳥居と表門(仁王門)が見える。百物揃千人行列はこの表参道を練り歩くことで知られる。画面左手に輪王寺の三仏堂がある。

■ 確認結果

目録番号:2550「神社祭礼の行列風景」は、2枚目の目録番号:3350「千人武者行列」が同じような光景と場所を写しており、日光東照宮の「百物揃千人武者行列」と思われる。
土手・電柱・溝など比較。

撮影場所は、3枚目の目録番号:2120「日光東照宮表参道」のとおり、東照宮表参道より一の鳥居を望んでいるようである。この石鳥居の前に10段の石段があり千人桝形と呼ばれる。武士以外の百姓町人はこの石段までしか参拝できなかった。
中央の溝とゆるやかな段差は埋めたてられて、現在はないそうだ。

長崎外の古写真考 目録番号:3100 鶴岡八幡宮(7) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3100 鶴岡八幡宮(7) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3100 鶴岡八幡宮(7)
〔画像解説〕
鶴岡八幡宮には幕末までこのような塔が存在したが、当宮のものはこけら葺か檜皮葺(ひわだぶき)で屋根の勾配はもっと強く、高欄(こうらん)もない。足廻りも違っており、この写真は八幡宮の建物ではない。写真家集「スチルフリート」所収。撮影年代未詳。

目録番号: 541 摩耶山天上寺(1)
〔画像解説〕
摩耶夫人を祀った弘法大師ゆかりの天上寺は、別名摩耶寺とも呼ばれ、同寺が位置する摩耶山の名もそこから起こったものである。写真は同寺境内の堂。

■ 確認結果

目録番号:3100「鶴岡八幡宮(7)」は、タイトル「鶴岡八幡宮」としながら、画像解説では「この写真は八幡宮の建物ではない」と判定している。
目録番号: 541「摩耶山天上寺(1)」と同じ古写真が、ブログ「絵はがきワールド」に掲載されていた。1〜2枚目は寺名の説明がないが、この「摩耶山天上寺」と、立地や木立など全体的な感じは最も合う。

「摂津摩耶山忉利天上寺多宝塔」は、サイト「がらくた置場」by s_minaga に詳しい研究がある。同解説は次のとおり。 http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_mayasan.htm
昭和30年頃:摂津摩耶山多宝塔14:下図拡大図「摩耶山 MT.MAYA 総天然色八枚組」も同サイトから。目録番号:3100「鶴岡八幡宮(7)」の撮影者は、「日下部金兵衛」が考えられるから、同寺を訪ねた作品を参考に載せる。

摩耶山中腹にあり、仏母摩耶山忉利天上寺と号する。寺伝では大化2年(646)、孝徳天皇の勅願により、法道仙人が開創したという。その後、弘法大師が唐から摩耶婦人像を持ち帰り、天上寺に奉安したとも伝える。現在は高野山真言宗。
昭和51年(1976)多宝塔をはじめ伽藍を全焼。賽銭泥棒の失火という。

この項は、目録番号:2032「神社の境内(2)」の次も参照。
https://misakimichi.com/archives/2225
この多宝塔は大津市「石山寺」と推定したが、神戸市灘区「摩耶山天上寺」の可能性もある。

長崎外の古写真考 目録番号:2374 芝居小屋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2374 芝居小屋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2374 芝居小屋

目録番号:2792 伊勢佐木町の劇場街(5)
[画像解説]
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32(1899)年の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。明治20年代の松ヶ枝町(現伊勢佐木町2丁目)界隈、勇座の前辺り。

目録番号:4187 伊勢佐木町通り(2)
[画像解説]
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32(1899)年の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。左にみえる建物は松ヶ枝町(現伊勢佐木町2丁目)の勇座か。

■ 確認結果

目録番号:2374「芝居小屋」の作品は、建物の造りと角地に位置するため、次の目録番号:2792「伊勢佐木町の劇場街(5)」と目録番号:4187「伊勢佐木町通り(2)」にあるとおり、横浜の松ヶ枝町(現伊勢佐木町2丁目)にあった「勇座」と思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:2231 遊 郭(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2231 遊 郭(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2231 遊 郭(1)

目録番号:1845 高島町新風楼(1)
[画像解説]
横浜の遊郭、新風楼の建物と女性達を撮影した写真である。

目録番号:2742 高島町新風楼(3)
[画像解説]
明治5年(1872)以来高島町にあった新風楼は、同15年(1882)を限りに真金町・永楽町への移転が決定すると、神奈川七軒町にも進出、外国人専門の妓楼を開設した。規模の広大さと自家発電による照明で知られ、関東大震災まで存続した。

■ 確認結果

目録番号:2231「遊 郭(1)」は、建物の造りから次に掲げた目録番号:1845「高島町新風楼(1)」と、目録番号:2742「高島町新風楼(3)」のとおり、横浜の高島町にあった遊郭「神風楼」であろう。
遊郭名は、「新風楼」は誤りで、正しくは「神風楼」であろう。山口県立山口博物館の所蔵資料に「横浜高嶋町神風楼之図」がある。
「新風楼」と解説文に出てくる作品は、他に数点見られる。

なお、2枚目の目録番号:1845「高島町新風楼(1)」は、同じ写真が米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モース・コレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊173頁に「269 横浜・遊郭神風楼 ca.1900 神奈川」として掲載がある。
撮影年代は「1900年頃」となっている。

長崎外の古写真考 目録番号:1064 横浜中国寺拝殿

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1064 横浜中国寺拝殿

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1064 横浜中国寺拝殿
[画像解説]
横浜にある中国寺の拝殿である。 “”The Far East “”の明治4年(1871)8月2日号の写真として掲載されている。キャプションは、「中国寺の内部、横浜」となっている。

■ 確認結果

目録番号:1064「横浜中国寺拝殿」は、現在の横浜市中区山下町140番地、「横浜中華街 關帝廟」の、初代關帝廟内部の写真である。
「横浜中華街 關帝廟」HPは、歴史の項に同じような写真を掲載し、次のとおり解説している。

初代關帝廟
ファー・イースト The Far East Vol.II,No.VIII,1871年9月16日号 横浜開港資料館所蔵 五姓田の絵とほぼ同じアングルで撮影された写真。「同善堂」は關帝廟を運営する中華会館の母体となった組織と考えられる。

長崎外の古写真考 目録番号:4237 雪(冬) (1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4237 雪(冬)(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4237 雪(冬)(1)     同作品 目録番号:6729 雪(冬)(2)

目録番号: 938 横浜本村の薬師堂(1)
[画像解説]
横浜元町増徳院の薬師堂である。

目録番号:4184 横浜本村の薬師堂(2)
[画像解説]
山手の山裾に位置する元町は、開港場建設に際して旧横浜村の住民が移住して生まれた町。町を貫く通り(現元町通り)の突き当たりには、この増徳院が位置していた。写真は、本堂脇の薬師堂。その後薬師堂は、移転を経て現在も堀川端に建つ。

■ 確認結果

目録番号:4237「雪(冬)(1)」(目録番号:6729「雪(冬)(2)」は同作品 掲載略)は、「撮影地域:横浜」だが、場所は不明なのか、画像解説がない。
この作品は、次の目録番号: 938「横浜本村の薬師堂(1)」と、目録番号:4184「横浜本村の薬師堂(2)」のとおり、横浜元町にあった増徳院薬師堂前の雪景色であろう。

建物は建て替わっているようだが、石垣、石段、石灯篭、立木、煉瓦塀などとその配置を比較してほしい。古写真の薬師堂の場所は、現在の横浜市中区元町1丁目13番地。元町プラザが建っている。震災後、増徳院や薬師堂はどうなったか、「よこはま歴史ぶろぐ」に次のとおり記事と写真がある。

増徳院(薬師堂)

元町1丁目13番地、現在の元町プラザの場所にあった寺院。古くから町の人たちの信仰の中心的存在だった。震災後、1928年(昭和3年)に南区平楽103に再建し、戦災を経てそのほとんどが平楽へ移転した。現在元町にあるのは、1972年(昭和47年)に再建された薬師堂のみ。大同年間(9世紀初頭)の創立といわれていますが、記録は残っていない。
ペリー艦隊のミシシッピ号の船員の葬式が行われたときは、葬儀の列は街中を太鼓の音に合わせて行進し、住民達は家や店から出てきて、見物したとされる。そのとき埋葬された場所は増徳院の境内の丘で、現在の外国人墓地の一部で最も古いエリアとなる。

長崎外の古写真考 目録番号:6741 会 食

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6741 会 食

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6741 会 食

■ 確認結果

目録番号:6741「会食」で特徴的なのは、大広間に「?雨香雲」の大きな額が掲げられている。
群馬県渋川市の伊香保温泉に「香雲館」という立派な旅館がある。平成6年に新館に建て替えられているが、文久年間に「香雲館 塚越屋七兵衛の宿」として創業した由緒ある旅館。高橋是清や竹久夢二と親交があったらしい。

目録番号:6741「会食」の作品は、「?雨香雲」の額から見ると、伊香保温泉のこの宿「香雲館」だった可能性が考えられる(旅館には未確認)。
なお、この作品は、明治彩色写真アルバム(2) の1枚。同アルバムから近い番号、目録番号:
6747に「伊香保温泉(6)」があるので、参考のため掲げる。