長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:5426 日光浦見の滝(1)ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5426 日光浦見の滝(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5426 日光浦見の滝(1)   関連作品 目録番号:6683 日光浦見の滝(2)

■ 確認結果

目録番号:5426「日光浦見の滝(1)」と目録番号:6683「同(2)」の、正しい滝名は「裏見滝」であろう。データベース上には「日光裏見滝」で、同じような写真の目録番号:285(1)など8作品があり、タイトルの集合が必要。
修学旅行のための日光ガイドHPによる「裏見滝」の説明は次のとおり。現在の写真も同HPから。
裏 見 滝

奥日光三大名瀑(華厳滝・裏見滝・霧降滝)のひとつ。高さ45メートル 幅2メートル 落差19 メートルの滝。滝を裏側から見ることができたことからこう呼ばれています。滝の裏には不動明王が祀られ、お参りもできるがかなりせまい。資料が確認できなかったのですが、崩落があったと記憶しています。江戸時代にはもっと広かったのでしょう。

この不動尊は寛永元年(1624年)奥州の出羽三山から荒沢不動尊が迎えられ、天海大僧正の命により、裏見滝に安置されたといいます。そして男体山、太郎山、大真名子山への信仰登山のための修行場となっていたそうです。
駐車場から徒歩10分で滝までいけますが、木の橋を渡ったり岩場を歩いたりとハードな行程ですので、運動靴は必須です。滝裏には不動明王の像がありますが、飛沫がかかりますのでそれなりの格好をしていくと良いでしょう。また滝裏は非常にせまく足下も悪いので気をつけてください。

奥の細道で、芭蕉は次のように書いています。
廿餘丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめて入て滝の裏よりみれば、うらみの瀧と申傳え侍る也。
暫時は瀧に篭るや夏の初(げのはじめ)

長崎外の古写真考 目録番号:6705 鐘 楼

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6705 鐘 楼

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6705 鐘 楼

目録番号:4475 方広寺大鐘(2)    関連作品 目録番号:3093 同(1)、4771 同(3)
〔画像解説〕
石柱敷の上に置かれた方広寺大鐘を南西から北東に望む。男性が両手を広げて大鐘を抱きかかえ、その前に3人の子供が立つ。手前には多数の扇子の骨が干されている。大鐘は豊臣秀頼が方広寺再建に際し慶長19年(1614)の大仏開眼供養時に造営したもので、高さ4.5m、口径2.8m、厚さ28cm、重量約8.3tと言われる。右奥の二層の大仏殿は昭和48年(1973)に焼失した。

■ 確認結果

目録番号:6705「鐘楼」は、明治彩色写真アルバムの1枚。撮影地域:京都とあるが、どの寺か不明なのか説明がない。この寺は、目録番号:4475「方広寺大鐘」などにあるとおり、京都市東山区にある天台宗山門派の寺院「方広寺」であろう。
ここの鐘は重要文化財に指定されており、東大寺・知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。

目録番号:4475「方広寺大鐘」については、HP「まちかどの西洋館別館・古写真・古絵葉書展示室」の2008年5月10日記事に、同じような古写真があり、露天に置かれている事情を次のとおり説明している。
この項は、次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2293

方広寺は、豊臣秀吉によって建てられた寺院で、巨大な大仏殿と大仏、広大な境内を誇る大寺院でした。大仏殿は慶長期に失われましたが、天保期にかつての大仏の縮小版と仮殿が建てられ、それは昭和48年に焼失するまで残っていました。
この古写真は、明治初期に撮影された鶏卵紙の貴重な古写真で、中央に写る「国家安康・君臣豊楽」の有名な梵鐘がまだ鐘楼のなかに収められておらず、露天に置かれています。

地震・落雷・火災などで再建があっている。新しい鐘楼が完成して再び中へ収まっている姿が、この明治彩色写真アルバムにある目録番号:6705「鐘楼」の古写真と思われる。
鐘楼の左奥に、昭和48年に焼失した大仏の縮小版仮殿が、撮影の向きは違うが二層で同じ建物として写っている。
現在の方広寺鐘楼の写真は、ココログ”そぞろ歩き:近畿”から。鐘楼は明治期再建したものと同じであることがわかるであろう。

長崎外の古写真考 「名所一覧」277頁 1 天艸島

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長崎外の幕末・明治期古写真考 「名所一覧」277頁 1 天艸島

平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行から気付いた作品を取り上げる。

277頁 肥前之国
1 天艸島

■ 確認結果

泊天草洋
雲耶山耶呉耶越水天髣髴青一髪萬里泊舟天草洋煙横篷窓日漸没瞥見大魚波間躍太白當船明似月

あれに見えるは雲であろうか。山であろうか。それともシナ大陸の呉の地か越の地か。水と空とがあたかも青い髪の毛を張ったように一線を画して連なっている。はるばる京洛より来て、この天草洋に舟泊まりする。夕靄は静かに船の小窓をこめて太陽は次第に西の海に沈んでいく。おりしも大きな魚が突然波間に跳ねるのをみた。空には宵の明星(金星)が出て船を照らしておりまるで月のように明るい。

頼山陽は,江戸時代後期の漢学者、修史家。頼山陽が文政元年8月(1818)西遊の途次、長崎より茂木を経て、天草へ船で渡った。当時富岡の城下に開塾されていた儒者渋江龍淵をたずね来遊されたと伝えられている。その時、西海天草灘の展望を詠じたのが、この名吟である。
この詩碑は、苓洋高校近くの山陽公園に建っている。
http://www.geocities.jp/amakusa_tanken/hakuamakusanada.htm

「名所一覧」277頁の「1 天艸島」は、肥前之国に掲載されている。タイトル以外、画像解説が何もないが、上記名吟があり、熊本県天草郡苓北町富岡の陸繋島、曲崎の光景と思われる。航空写真のとおり、現在の苓北町役場左上の志岐海岸あたりから撮影できる。現在の写真は、茂木〜天草富岡フェリー船上から曲崎の先端部を以前、ほぼ同じ方向で写していた。

「富岡の砂嘴」は、志岐平野の北西部に位置する陸繋島の先にある。この陸繋島は富岡半島とも呼ばれ、その北東端部にある元袋集落から巴湾をぐるりと囲むように、「砂嘴」という鳥のくちばしに似た「かぎ型」に曲がった美しい地形をつくっている。地元では、この砂嘴の先端部を曲崎(まがりさき)と呼んでいる。

長崎外の古写真考 目録番号:1213 富士山の遠望(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1213 富士山の遠望(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1213 富士山の遠望(1)
〔画像解説〕
場所は特定できないが、富士山が正面に見える。中景は川が流れ、川岸に沿った道路に篭に乗った人物、それを先導するこうもり傘をさした男などがはっきりと見える。前景窪みの工作物は何であろうか、識別できない。

■ 確認結果

目録番号:1213 富士山の遠望(1)は、現在の静岡県富士市沼田新田あたりの光景である。中景の川と見えるのは、富士沼(浮島沼)、前景窪みの工作物は、工事中の排水路と思われる。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の218頁 駿河之国に、同じような写真が「柏原富士沼」として掲載されている。同解説は次のとおり。

⑦ 柏原富士沼  (現、富士市沼田新田あたり) 原宿と吉原宿の間、柏原の排水路あたりから北を向き、浮島沼(富士沼、須津沼とも呼ばれた)とその先の富士山を撮影。

長崎外の古写真考 目録番号:6672 成田山下奥

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6672 成田山下奥

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6672 成田山下奥

■ 確認結果

目録番号:6672「成田山下奥」の、タイトルにある「下奥」と、時計の意味がわからない。石段上に立つ建物は、千葉県成田市の大本山、成田山新勝寺の「釈迦堂」である。埼玉県川越市の別院「恵比寿天 成田山」ではない。時計の文字盤は干支のようだ。
2枚目の目録番号:1483「寺(4)」( https://misakimichi.com/archives/2367 を参照。実は成田山新勝寺「仁王門」)の背後の建物。石段左右の大杉が同じ傾きで写っている。

「釈迦堂」は国の重要文化財。大本堂左手の広場に建つ入母屋造の仏堂で、1858年(安政5年)建立の旧本堂。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の234頁 下総之国に、同じ写真が「不動石坂並びに時計」として掲載されている。同解説は次のとおり。

⑧ 不動石坂並びに時計  仁王門をくぐり抜けた地点から旧本堂(現在の釈迦堂、国指定の重要文化財)を望んだものと思われる。現在時計は設置されていないが、階段両脇の狛犬や石段脇の樹木は変わっていない。

巻頭の貴重写真拡大編93頁にも掲載され、詳しい解説は次のとおり。昭和39年(1964)、大本堂を建設するため、写真に写っている釈迦堂は、現在の大本堂の左手に移築されたのである。
現在の写真は、solmare.com 成田山新勝寺の写真素材から。

不動石坂並びに時計  

表参道を過ぎ、現在の第一信徒会館前から門を入ると成田山境内になる。参道の右側に土産物店が軒を並べる広場を堂庭といい、客殿の光輪閣を左に見ながら、石段を登り仁王門(国指定重要文化財)をくぐる。その先の仁王池の橋を渡ると、急な石段が目の前に迫ってくる。写真は石段越しに、当時の本堂(現、釈迦堂。国指定重要文化財)を望んだものである。

石段の手前には、時計様のものが見えているが、現況では見あたらない。石段両脇の斜面は、当時よりも樹木が繁茂し、石造物も増えているが、景観上、当時と最も異なっているのは、大本堂が石段越しに見えている点である。昭和39年(1964)、大本堂を建設するため、写真に写っている本堂は、現在の大本堂の左手に移築され、その跡地に現在の大本堂が建設されたためである。前本堂は、安政5年(1858)の建立で、板壁の五百羅漢など、見事な浮き彫り彫刻が見られる。

長崎外の古写真考 目録番号:6149 鎌倉鶴岡八幡宮(?)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6149 鎌倉鶴岡八幡宮(?)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6149 鎌倉鶴岡八幡宮(?)

■ 確認結果

目録番号:6149「鎌倉鶴岡八幡宮(?)」は、タイトルに(?)があるが、「鎌倉鶴岡八幡宮」に間違いない。手前の橋は「太鼓橋」である。今は通行禁止にして、左横に朱橋ができている。
同じような光景で写した古写真が、2枚目のとおり「日本名勝百景 Archive – 明治をゆく(古写真)」に「相州鶴岡八幡(鶴岡八幡宮)」として掲載されている。
現在の写真は、「建物・オブジェ写真素材026 鶴岡八幡宮の石橋(鎌倉)」と「神奈川県HP かながわの橋100選 太鼓橋(鎌倉市)」から。

長崎外の古写真考 目録番号:4631 渓谷(4) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4631 渓谷(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4631 渓谷(4)        関連作品 目録番号:4604 渓谷(1)

目録番号: 618 保津川(4)

■ 確認結果

渓谷の流れの中に立つかなり大きな岩である。目録番号:4631「渓谷(4)」は、撮影地域:未詳だが、同じ写真の目録番号: 618 では、「保津川(4)」となっている。
「保津川」とあったので、以前に画像を探したが、保津川でこのような岩は見当たらなかった。
前の記事は、 https://misakimichi.com/archives/2298

平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の221頁 甲斐之国に、同じような写真が「岩殿山横身延山」として掲載されている。同解説は次のとおり。

⑦ 撮影場所不明  原題は意味不明。

手がかりとなるが、解説のとおり原題は意味不明で、撮影場所不明。身延山ではないようだ。
ポケットブックス | アンティーク絵葉書専門店 群馬県商品一覧に「118449群馬 川原湯温泉 弁天橋」ほかがあり、中央の岩がやや似ている。地元で検証をお願いしたい。

長崎外の古写真考 目録番号:4625 屋敷門前の断髪の男性

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4625 屋敷門前の断髪の男性

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4625 屋敷門前の断髪の男性

■ 確認結果

目録番号:4625「屋敷門前の断髪の男性」は、撮影地域:未詳とあるが、現在地と同じ東京都霞ヶ関にあり、旧外務省として接収された「福岡藩黒田家上屋敷」である。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の122頁 武蔵国東京に、同じような写真が「旧外務省同玄関」として掲載されている。同解説は次のとおり。

① 表霞ヶ関旧外務省  外務省は明治3年(1870)12月11日、福岡藩黒田家上屋敷を接収して木挽町から霞ヶ関に移った。現在の外務省と同じ場所。

② 同玄関  これは①の写真に写る門を入った所からの撮影。1873年1月16日発行の『ファー・イースト』に、同じ時に撮影されたほぼ同じ写真が載っている。

長崎外の古写真考 目録番号:2428 峠より富士山を見る

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2428 峠より富士山を見る

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2428 峠より富士山を見る

■ 確認結果

目録番号:2428「峠より富士山を見る」は、撮影地域:未詳とあるが、「乙女峠」である。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の225頁 相模之国に同じ写真が「ヲトメ峠」として掲載されている。同解説は次のとおり。

④ 乙女峠  仙石原から御殿場へ抜ける乙女峠の風景。明治45年(1912)長尾峠越えの特2号国道が開削されるまでは、唯一の道筋であり、富士を望む絶景地として知られていた。

ウィキペディア フリー百科事典による説明は次のとおり。

乙女峠(おとめ とうげ)

静岡県御殿場市と神奈川県箱根町の境に位置する箱根外輪山にある、峠の名称である。標高1,105m。古来、富士山の眺望に優れた景勝地として知られ、富士見三峠(ふじみ みつとうげ)の一つに数えられる(他の二つは、御坂峠と薩埵峠)。

長崎外の古写真考 目録番号:1496 寺(5)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1496 寺(5)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1496 寺(5)
〔画像解説〕
正面奥に本堂らしい建物が見えるが、道の左右は何であろうか。木組みの仮小屋のような物や石塔などがあり、雑然としている。父親と娘らしい人物が本堂の方へ歩いている。

■ 確認結果

目録番号:1496「寺(5)」は、撮影地域:未詳とあるが、東京都墨田区両国2丁目にある「両国回向院」である。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の157頁 本所区部に同じような写真が「向両国回向院」として掲載されている。同解説は次のとおり。

① 向両国回向院  国豊山無縁寺と号す。明暦3年(1657)の大火で没した10万7千余人を葬るために建立された寺。その後、安政2年(1855)の大震災での死者や、関東大震災(1923年)の死者など、無縁の人が葬られるようになった。

ウィキペディア フリー百科事典による説明は次のとおり。現在の写真は回向院HPから。

両国回向院

東京都墨田区両国二丁目にある寺。山号は諸宗山。正称は諸宗山(一時期、国豊山と称す)無縁寺回向院。寺院の山門には諸宗山回向院とある。本所(ほんじょ)回向院とも。
振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれる明暦の大火(1657年(明暦3年))の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、ペットの墓も多数ある。

著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉など。 参拝客のために両国橋が架けられた。
1781年(天明元年)以降には、境内で勧進相撲が興行された。これが今日の大相撲の起源となり、1909年(明治42年)旧両国国技館が建てられるに至った。国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。1936年(昭和11年)1月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。
江戸三十三箇所観音霊場の第4番札所である。